Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

藤原保信『自由主義の再検討』ノート(13)

2020-12-30 | 日記
 藤原保信(ふじわら やすのぶ)『自由主義の再検討』(岩波新書・1993年)ノート

 第Ⅲ章 自由主義のどこに問題があるか

 3自由主義の陥穽(2)
 自由主義の経済的側面は、資本主義的市場経済であり、その政治的側面は、普通選挙制度、政党政治、議会性民主主義です。商品交換の市場において、労働力を含む様々な商品が交換されます。良い商品は高嶺で取り引きされ、粗悪な商品は市場から淘汰されます。市場から淘汰された商品であっても、それを改良することによって、良い商品に仕上げ、再び市場に参入すれば、必ずや取り引きされるであろう、と述べたのは、アダム・スミスでした。資本主義的市場経済には、自動調整機能が備わっているので、その機能に合わせて商品開発・製造・販売をすれば、適正な価格で交換される。それは人間の能力や技能も同じであり、労働者の労働力も、スキルアップを続ければ、労働市場において取り引きされ、失業などもなくなっていく。アダム・スミスが考えた市場経済とは、そのように自己啓発する労働者を念頭に置いていたようです。スミスが活動していた18世紀後半のイギリスの資本主義を前提にする限り、そのように言うこともできたのかもしれません。
 19世紀に入ると様相が異なってきます。ベンタムの時代には、資本家間の競争が激化し、労働者の賃金の引き下げ、労働条件の低下が強められ、労働者の窮乏化と失業が大きな社会問題となります。また、そこから犯罪の問題へと発展していきます。資本主義経済は、利潤の追求、私有財産の増大、富の蓄積を目的とし、それは功利主義という価値観によって推進されています。しかし、その過程において、どうしても失業者や犯罪者などの社会的弱者が発生します。資本主義経済は、一方では私有財産を増大させ、富を蓄積している人々を生み出しながら、他方では経済的な貧困と社会的な不幸へと落ち込んでいく人々をも生み出しています。ベンタムは、このような人々のために救貧院という施設を整備し、彼らをそこに住まわせて管理し、また労働習慣を身につけれるよう監督するための社会政策を打ち出しました。その管理方法は、いわゆるパノプチコンと呼ばれる方法であり、人間管理の機能性を重視したものでした。ベンタムの説いた「最大多数の最大幸福」は、このような一部の人々の貧困と不幸の上に成り立っていたと言っても過言ではありません。
 資本主義社会の矛盾を解決することなしには、このような資本主義の惨状を解決し、苦しめられた人々を救済することはできないと、社会主義の思想は訴えましたが、その実践はこれまで述べてきましたように、人間疎外と搾取・収奪の新たな問題を生み出しました。ソ連や東ヨーロッパにおける社会主義の実践が失敗に終わったからとはいえ、また中国共産党や朝鮮労働党が社会主義のなのもとに非人間的な管理・支配の政治を行い、社会主義に対する期待を幻想に変えているからとはいえ、勝利したのは自由主義、資本主義であると喜んではいられません。自由主義が生み出している様々な問題は、社会主義の実践がどのような結果に終わろうとも、解決していかなければなりません。したがって、自由主義のどこに問題があったのか、その落とし穴はどこにあったのかについて、引き続き考えなければなりません。
 前回では、藤原さんは、資本主義の経済課程に対する政治の介入の仕方、その矛盾を回避するための規制の方向を再検討することを提起しました。これまで国家・政府、議会は、資本主義の危機に対して、その経済過程に介入し、その矛盾を回避するために様々な規制を講じてきましたが、その規制の方向性は、様々なものがありえましたが、普通選挙制度と政党政治に基づいて市民の意見を集約した結果、自由主義の価値観である物質主義、功利主義に基づいたもの、資本主義経済の救済を目指すものだったと思います。それは、多数決原理に基づいて運営される議会制民主主義の制度から見て、やむを得ないものというか、正しいものだったといえます。政府による経済過程への介入にあたって、資本主義経済の救済という視点よりも、資本主義的搾取によって苦しんでいる労働者の救済という視点が重視されるべきです。弱肉強食の非モラルではなく、弱者救済のモラルの視点を取ることが重要です。したがって、自由主義の価値観にある物質主義や功利主義の批判と再検討が課題になってくるように思います。そして、それは多数決原理に基づく議会制民主主義を超えて、多数決によって変更されない原理による民主主義の基礎固めを模索する課題でもあります。


1自由主義の価値観
 功利主義の価値観とは、人々の経験的な日常意識に基づいていると、藤原さんは言います。何に価値を求めるか、また何が価値あるものなのかについて考えると、そこには神の教えや、観念的な指針のようなものが入ってくることがありますが、功利主義は、自由主義の経済、資本主義経済を支える価値観であり、そのような神学的な原理や形而上学的な原理とは無関係です。政治思想家のC・テイラーによれば、近代人の自我の特徴の1つに「日常生活の肯定」というものがあるそうです。日常生活を大事にする、そのために行動するということです。功利主義は、そのような近代的な人間の思想と行動を端的に表現する思想です。前近代的で封建的な因習や宗教的な教えに拘束されることなく、また一部の地域でしか通用しない慣習や伝統にこだわることなく、個人の自由をそのようなものから解放し、日常生活の安定と維持を求めることろに功利主義の考えが端的に表れています。
 人間は、快楽と幸福を追求し、不快と不幸を避ける、そして築き上げた日常生活を肯定的に捉え、その安定と維持を求めます。それは、「今がよければ、それでよい」というような単純で即物的なものではなく、現在から将来へと渡って、より良い状態であることを求めるような考え方でしょう。その総和が、「最大多数の最大幸福」と呼ばれるものです。それに様々な問題が付随することはあっても、そのような考えを根本的に否定する人はいないでしょう。しかし、そのような功利主義に止まってはいられないと、藤原さんは考えているようです。


2功利主義批判の論理
 資本主義経済の矛盾、物質主義・功利主義の弊害が、最も集中的に現れているのは、高度に発達した資本主義国、とりわけアメリカやヨーロッパ諸国、そして日本でしょう。これらの国々において、資本主義経済批判やその思想的基礎にある物質主義・功利主義に対して厳しい批判が向けられてきました。ただし、それらの国において社会主義の思想が拡大されることはなく、また社会主義運動が前進することはありませんでした。このような事情を踏まえながら、藤原さんは、その中でも1970年代のアメリカにおける功利主義批判を考察しています。
 1970年代は、戦後のアメリカの自由主義・民主主義・資本主義が根底から疑われ、批判にさらされた時代でした。アメリカは、第2次世界大戦で勝利し、強大な経済力と軍事力を背景にして、多くの国の政治・経済に介入してきました。それは現在においても同じですが、1950年代以降、黒人差別撤廃運動、公民権運動、女性差別撤廃運動、ウーマンリブ運動、ベトナム反戦運動、学生運動などの様々な社会的要求が集中的かつ集約的にあらわれました。伝統的なアメリカ的な自由主義・民主主義に批判が向けられたのが、1970年代でした。藤原さんは、その当時からアメリカにおける自由主義批判・功利主義批判に関心を持っていたようですが、社会主義が崩壊した後に、それを改めて検討しています。ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックなどの政治哲学、その後のマイケル・サンデルなどのコミュニタリズム(共同体主義)の政治哲学を研究し、ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックなどの理論特徴を概観し、それを次のように総括しています。それは、その後のサンデルなどの共同体主義の政治哲学の意義を理解する上で重要です。


3ロールズ、ドゥオーキン、ノズィック
 藤原さんは、ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックの学説を総括して、次のように言います。
 ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックのこのような功利主義批判は、それなりに説得力をもっている。にもかかわらず、かれらは功利主義にかわって新しい別の価値観を提示し、それによって自由主義を基礎づけようとするわけではない。むしろ究極的な価値の選択を各人に委ねながら、もっはら富、権力、地位、等々社会的価値の配分の基準を問うのである。この点で重要なのは、かれらに共通する善(the good)と正(the just)ないし権利(right)との区別である。
 3人の政治哲学者の思想に対する総括的な批判が短い文章でまとめられているため、非常に抽象的で分かりにくいですが、明らかなのは自由主義の基本原理である功利主義それ自体に対する批判が欠如しているという点に批判が向けられています。そして、究極的な価値が何であり、何を選択するかを個人や市民社会に任せにしてしまっていて、やはり国家は依然としてその外側に立っているという点、さらには社会的富を獲得し蓄積したり、政治的・経済的に重要な地位に就いたり、そのための機会とチャンスを各自に平等に与え、あとは各自の自由にまかせている点に批判が向けられています。この点をもう少し詳しく見ていきます。
 藤原さんは、3人の政治哲学者に共通しているのは何かというと、善(the good)と正(the just)ないし権利(right)とが区別されていることです。藤原さんは、これらを区別することに問題があるとい考えているようです。おそらく、正や権利が善から区別されるなら、ある権利を行使した結果、出来上がったものや得られたものが、権利の善くない行使によって出来上がったもの、得られたものであり、それは善くない権利だ、その正邪の判断もまた、善から切り離されているので、正であれ邪であれ、善くない判断になってしまうと考えているからだと思われます。つまり、善から切り離された正や権利は、悪的正・悪的権利に転化しうる危険性があることを示唆しています。正や権利を善的正・善的権利にすべきだと、藤原さんは考えているのではないでしょうか。
 まず、善とは何でしょうか。藤原さんは、善とは、個人の生の究極目的にかかわり、「いかに生きるべきか」という問いに対する解答として与えられるものであると言います。価値判断の基準として善と悪があります。悪を斥けて、善を行うのが、人間の人生にとって価値のある振る舞い方であり、個人の人生の内容のある生き方であるという考えがあります。
 では、正や権利とは何でしょうか。正とは、富、権力、地位といった個人の生の外的条件に関わり、社会的価値の配分に関わります。
 善は、人間の人生の内容、生き方に関わる価値であり、正は、人間の人生の条件に関わる問題です。善は人生の意味に関わり、正は人生の外的条件に関わります。外的条件がなければ、どれだけ善い人生を追求しても、上手くいくとは限りません。ただし、何が善であるのかは、必ずしも明らかではありません。そうすると、ある人にとって善の生き方を追求するための外的条件も異なってきます。3人の政治哲学者は、何が善であるかという問いは、個人に委ねられ、それに対して答えるのは個人であるといいます。つまり、善は人間の人生の内容を決定する問題であり、それは個人が決定する問題で、答えは人それぞれにあるということです。これに対して、正や権利は、富、権力、地位に関わり、その有無と配分の程度は、人間の人生の外的な条件になるので、それは人それぞれの善なる人生を追求するための社会制度の問題に関わってくるということです。
 ロールズによれば、人は社会において、一定の階層に所属し、一定の地位についています。その社会で所得を得て、富を有しています。人それぞれに資質や能力があり、善に対する観念も様々で、将来の人生設計も多様です。善の問題は各個人に委ねられ、人それぞれ置かれた社会的状況が異なるので、善の問題は各人で様々な答えがありますが、正の問題はその外的条件なので公平でなければなりません。人々には基本的自由を実現する権利が平等に与えられ、職務や地位を得るための公正な機会が均等に保障されていなければならなず、社会的・経済的な不平等が存在するならば、恵まれない人に最大限の配慮がなされるべきであると主張します。
 ドゥオーキンによれば、機会の平等・均等ではなく、福祉の平等・資源の平等が重視されます。福祉の平等とは、各人の幸福や成功を同じ方法で計算しつつ、市民の福祉をできるだけ平等になるようにするということです。資源の平等とは、財や機会、その他の資源を平等に配分することを意味します。障害者と健常者がいた場合、資源を均等に配分すると、それは両者にとって、とりわけ障害者にとって資源の平等を意味しません。障害者が健常者と同じように機会を教授し、能力を発揮できるようにするためには、より多くの資源を配分することが必要であり、それが資源の平等を意味します。
 ロールズは機会の平等、ドゥオーキンは資源の平等によって、功利主義のもたらす弊害を抑えようとします。これに対して、ノズィックは、2人の政治哲学者のような福祉国家的な政策に対して反対します。彼は、ロックが論じた自然状態を前提にしながら、古典的な自然法論を再評価します。近代の人間には自由と平等があり、それが最大限に実現できるようにするために国家は存在するという考えです。個人間に最終的に格差が生じても、それがいなに不平等であろうとも、それが正義であるいという考えに行き着きます。それは、いわゆる新自由主義(リバータリアニズム)の基本であるといえます。
 藤原さんは、ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックの功利主義批判を概観しながら、このような批判がはたして功利主義にかわって新しい別の価値観を提示しうるか、それによって自由主義を再検討できるのかと問題提起しています。もちろん、その答えは、否定的です。藤原さんは、彼らの功利主義批判は、究極的な価値の選択を各人に委ね、もっはら富、権力、地位、等々社会的価値の配分の基準を問うにとどまっていると指摘しています。各人に委ねられている究極的な価値の選択とは何でしょうか。それは、善です。いかに生きるか。生きることの意味とは何か。さらに、悪を斥け、善に生きる。その生き方とは、どのような生き方か。これは、個々人の究極的な価値観、人生観、世界観の問題であり、正の問題、社会制度の問題とは無関係だというのです。藤原さんは、この問題を新自由主義との関係においてさらに検討しています。


4リバータリアニズム批判
 3人の政治哲学者の見解は、それぞれ異なる方向を向いています。ロールズは、社会的富や権力に対して人々がアプローチする機会が均等であることが正義だと考えます。ドゥオーキンは、福祉と資源の配分の実質的な平等が正義であると考えます。そして、ノズィックはいかなる福祉政策的な配慮は不要であり、いわばロックのように自然状態における自由で平等な人間を想定した自由主義を唱えます。このように3者3様の見解が主張されているにもかかわらず、彼らの理論は自由主義の理論として共通していたと、藤原さんは指摘します。その理論傾向は、ノズィックの理論、新自由主義に現れているといいます。
 新自由主義とは、個人の自由に至高の価値を置く思想です。ノズィックは、言います。人間は、①自分の労働の結果として、物を獲得し、加工し、生産し、それを取得している以上、それは彼の物である。そして、②それを他の人と自由・平等・独立した関係において交換している以上、③その交換の結果として得られたものもまた、彼のものである。物の移転、交換の過程が自由・平等でなかったならば、所有の移転は事後的に訂正することもできる。このような交換が正しい交換である。彼は、得られたものに対して絶対的な権利を持つ。所有の原初的な取得、所有の移転、所有における不正義の是正の原則が成り立っている場合、それは正、正義である。このような正義が実現している以上、その結果がたとえ不平等であっても、善くなくても、正当化される。ノズィック委は、このように述べます。ノズィックの言葉は非常に冷酷に響きますが、新自由主義の基本思想を的確に表しています。しかも、それは善から正を切り離したロールズやドゥオーキンの場合にも共通しているというのが藤原さんの見立てです。
 ノズィックは、次のような事例を立てて考えています。
 ある優秀なバスケットボールの選手が、あるチームと契約した結果、1枚25セントの入場券が前年比で100万枚多く得れたとします。それによって新たに25万ドル(2500万円)の収入が得られ、その選手はこの25万ドルを獲得しました。どこかに不正があるのでしょうか。1枚25セントの入場券を購入したバスケットボール・チームのファンは、自己の意思に基づいて、任意にそれを購入しています。しかも、その結果として、25万ドルの増収になりました。彼・彼女の個々人の財産は、25セント減少していますが、それは自己決定に基づく結果であって、その減少に対しては自己が責任を負わなければなりません。しかも、その購入過程・交換過程において、第三者の利益を損なってはいません。したがって、その交換は正当であり、その結果得られた25万ドルの増収は正当な結果です。そのバスケットボール選手が、25万ドル全額を収入として得る契約がチームとの間で成立しているならば、彼がそれを取得することに不正はありません。ノズィックは、このように述べているそうです。
 この例は、プロバスケットボール界の話です。アメリカでは、バスケットボールが盛んです。日本と同様にプロ野球も盛んですが、バスケットボール熱は想像を超えるほどです。一攫千金を夢見て、多くの若者が一流の選手になるため努力しています。この事例の選手のような超一流選手は、その中から生まれます。そして、それはプロバスケットボール界に限られません。すべての社会領域において、同じことが当て嵌まります。富であれ、権力であれ、社会的名声であれ、それを得ようとする個人の野心を刺激し、競争を促進することによって、社会は活性化します。選手を発見し、育てる市場において厳しい競争が予想されますが、そのような市場を通じて社会は成長するのです。しかし、競争が厳しければ、市場から淘汰されていく人々が増えるだけです。市場から淘汰された人々は、その結果を受け入れなければなりません。それが正義です。ノズィックが述べたように、所有の原初的な取得、所有の移転、所有における不正義の是正の原則が成り立っていることが正、正義であり、このような正義が実現している以上、出てきた結果がたとえ不平等であっても、善くなくても、正当化されるからです。もちろん、それは弱肉強食の社会を正当化する理論です。強者の利益の側に立って、弱者の不利益には関心を示さない理論でもあります。しかも、プロバスケットボール選手を目指すための機会が人々に均等に保障され、そのための社会的資源(道具の使用や練習場の確保)が平等に保障されているならば、ロールズもドゥオーキンも、ノズィックの見解と一致するのではないでしょうか。3者3様の見解が主張されているように見えても、彼らの理論は自由主義の理論として共通しているという藤原さんの指摘は、このような結論に向けられているようです。
 では、藤原さんは、この事例についてどのように見ているのでしょうか。
 藤原さんは、ノズィックの理論が妥当するためには、いくつかの前提条件が必要であると言います。それは「出発点における平等」です。出発点とは、人間の能力や資質は、個々において様々なであり、それは必ずしも一致していないし、一致しない場合のほうが多い。背の高い人、足の速いひと、腕力の強い人、遠近感覚に優れている人、このような人であれば、まずはプロバスケットボールの選手を目指すことができるでしょう。そうでない人は、その市場から排除されます。しかも、プロバスケット選手の育成市場に参入できても、選手になるまでの過程において様々な偶然も働きます。それは、その人が自ら作り出した事から生じた偶然もあれば、そうでない偶然もあるでしょう。チームを盛り上げるために国際色豊かしようと、チームが諸外国から選手を呼び寄せたとします。出場選手のうち半分はアメリカ人で、残りの半分は外国人、しかもアフリカ系、アジア系にすると決定したとします。その結果、アメリカ人は選手になる機会を奪われる可能性が出て来ます。つまり、市場が出した結果は、本人の責任ではない要素によって、偶然の要素によって左右されるところがあるのです。ロックは、自然状態を前提にし、自由で平等で、かつ独立した個人を想定しながら、市場経済における私有財産と富の蓄積を正当化しました。ノズィックは、その理論的枠組を引き継いでいます。しかし、人間は自由で平等で独立しているとはいえ、常に一定の歴史的な状況の中に存在し、その人間を取り巻いている社会関係も、その歴史的な状況によって規定されています。
 ホッブスやロックが、人間は自由であると説いたのは、人間が前近代的で封建的な社会関係、とりわけ身分制度によってがんじがらめにされていたことに対する批判からです。人間は平等であると説いたのも、人間が身分制の階層構造のどこかに位置づけられ、そのために自由な社会活動・経済活動ができなかったことに対する批判からでした。人間は独立していると説いたのは、言うまでもなく、前近代の封建社会においては、人間は宗教的権威と国王・君主によって従属させられ、虐げられてきたからです。このような封建主義社会に対する批判の文脈で見たとき、ホッブスやロックの自然法論は革命的な性格を持っていたといえますが、だからといって、彼らの自然法論によって、実在している人間が自由で平等で独立した存在になったわけではありません。しかも、市場経済の進展とともに、人間を取り巻く歴史的な関係は、資本と生産手段を持つ人々(資本家)とそれを持っていない者(労働者)に二分し、市場における競争が持つ者に有利に作用する関係へと変わっていきました。それでも、なおもノズィックが新自由主義の理論を主張するならば、それはロックの自然法論を再評価するにとどまらず、現代社会の不正と不平等を新自由主義の正義論によって覆い隠し、それを正当化するだけです。藤原さんは、このように指摘します。しかも、それはロールズやドゥオーキンに対する批判にもつながっていきます。彼らの理論は、正義や権利を論じていますが、善を語りません。善なき正義は、つねに不正へと転化する危険性がります。新自由主義は、そのような問題をはらんだ理論だといわなければなりません、
 しかも、この新自由主義の思想は、一国内における市場経済の矛盾と弊害を正当化しているだけでなく、国際関係における国家間の経済格差や機会の不均等・不平等を自由競争や自由防衛の名のもとに正当化しています。資本主義は、国内外において、公正の名のもとにおいて、かつてない利潤の争奪戦を行っています。このような動きに歯止めをかけるために何ができるか。何をすべきか。それが問われています。