Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

相楽9条の会設立10周年記念講演(2014年12月07日)

2014-12-07 | 旅行
             相楽9条の会設立10周年記念集会

 「集団的自衛権」の行使は戦争参加への道

                               立命館大学 本田稔

(1)日本国憲法の基本原則
・3つの基本原則(恒久平和・主権在民・基本的人権)

 基本原則の柱としての恒久平和

・明治憲法から現行憲法へ――国の基本的なあり方が根本的に変化した

 戦後日本の基本的なかたち――国家の基本として恒久平和の理念が位置づけられた

 戦後の政治・経済・労働・教育――国の基本的なあり方=平和の理念をめぐる争いの歴史

・安倍政権による集団的自衛権行使の容認――憲法の平和の理念をぶち壊すもの

 急がれる憲法9条に基づく平和外交戦略の確立――東アジアの近隣諸国の外交関係の改善


(2)憲法9条をめぐる分岐点
・1946年 憲法制定当時の東アジア情勢――中華民国の要請とアメリカの対ソ連戦略

・ソ連・中国・北朝鮮らの伸張とアジアにおける米ソ冷戦構造の激化

 アメリカを中心とした連合国の対アジア戦略の転換――日本を反ソ・反共の砦として利用

・憲法9条と再軍備と矛盾――憲法の法的価値体系と安保・自衛隊法の法的価値体系の併存

 法的価値体系の矛盾――政治・経済・労働・教育のひずみの根源

 矛盾とひずみの構造の解消――政治運動、労働運動、社会運動、市民運動の広がりと発展


(3)日本とドイツの社会史の比較
・比較の対象としてのドイツ

 第二次世界大戦の敗戦国――戦前の同盟国としての日本とドイツ

 ポーランド侵略と他民族排外主義――台湾・朝鮮の植民地化と中国への侵略

 戦後の経済復興と先進資本主義――

 「ナチス」の過去の克服

・第二次世界大戦後のドイツの再軍備

 46年(日本)と48年(ドイツ)の時差――冷戦前の日本国憲法と冷戦後のドイツ基本法

・ワイマールからナチスへ――ドイツにおける軍国主義の復活とファシズムの台頭の背景

 第一次世界大戦後のドイツの社会状況――敗戦後の原風景――経済的荒廃と精神的虚脱

 国の基本的なあり方の変化――ドイツ皇帝の亡命――精神的権威と支柱の喪失

 西洋型の合理的制度の流入――共和制、議会制、政党制、自由主義・民主主義、国際協調主義

 新生ドイツを超えられない旧態依然としたドイツ――重荷としての土着の歴史・文化・伝統

 ヴェルサイユ体制――戦後賠償責任、軍備縮小、武器輸出禁止――戦後復興の障壁
 敗戦→国際連盟による管理→軍備縮小と武器輸出禁止→軍事予算の制限・国内市場の縮小→
 装備単価の高騰と規模の縮小化・弱体化→軍事的劣勢→敗戦国の固定化→不名誉感の蔓延

 ドイツの「失われた名誉」の奪還――社会思潮における歴史認識の転換
 批判的理念の喪失と現状への無批判的追随――「歴史の修正」ではなく「神話・観念の歴史化」
 自画自賛の風潮――科学技術水準、発明・特許、文学・文化、歴史・伝統、スポーツなど

・ナチスによるワイマール共和国憲法の否定と立法権・行政権・司法権の全権掌握

 国のあり方を自己点検できない政治=ブレーキのない暴走自動車

 ナチスから学ぶべきもの?――「麻生発言」の意味

 「ワイマール憲法をぶっ壊す」はずが、それを棚上げにした実質改憲(1933年全権委任法)

 ワイマール憲法の価値体系とそれを否定するナチスの法的価値体系の併存

 悪法製造マシーンとしての全権委任法――議会の形骸化――憲法違反の法制度の大量生産

 経済復興の障壁の撤廃と飛躍的発展の鍵としての軍需産業
 国際連盟からの脱退・賠償の放棄、再軍備と軍事費増額、財界における軍事資本の台頭

 アメリカ金融資本(ユダヤ系?)との全面対決――暴走から破滅へ

(4)平和と戦争をめぐる争点
・安倍内閣の正体 対米従属の枠内における対等化の傾向?(外交評論家・孫崎享氏による分析)
         アメリカ・オバマ政権の対ウクライナ政策・対中国政策のゆらぎ

・経済復興の基礎としての憲法9条――戦争経済・戦争産業から平和経済・平和産業への転換

 経済発展の「障壁」としての憲法9条?――平和経済から戦争経済への再転換?
 武器輸出三原則の撤廃と防衛装備移転三原則の決定
 集団的自衛権行使と離島防衛、アジア諸国との緊張関係――防衛費の増額
 国内市場・国外市場の拡大→装備単価の低下と規模の拡大・強化→経済の軍事化

・軍国主義の社会的心理――自民党の「日本を取り戻す」
 「戦後レジーム」(日本=戦犯国)からの脱却→「積極的平和主義の日本」へ

 日本の「名誉」と「誇り」の回復――「現実の歴史」の修正による「観念的な日本」への逃避

 15年戦争の歴史の修正――「東京裁判史観」の批判と植民地政策・侵略の相対化
               日本軍慰安婦問題や戦時徴用問題の否定

 憎悪表現に表された外国人排外主義――社会病理として潜伏している日本的自己中心主義
 「名誉と誇りを傷つけられた」ことに対する怒りと軽蔑、そして焦りと苛立ち

 社会的・経済的弱者への攻撃と強者への憧れ(迎合)――軍国主義(経済の軍事化)の温床

・社会的・経済的・政治的弱者の防壁としての憲法9条
 憲法の平和的・民主的諸条項を擁護するために

 海外で戦争をする国にしないために、若者を戦場に送らないために

 平和と諸民族の友好の絆、社会的連帯と国際的外交のために

 健全な経済、文化・教育の発展のために

 労働運動・社会運動・住民運動の結束を強化するために

(講演要旨)
 ご紹介いただきました本田と申します。本日は、相楽9条の会の設立10周年記念の集会でお話させていただけることを光栄に存じております。日頃から憲法の問題を考え、行動しておられる皆さんのために、少しでもお役に立てれば幸いです。私は、大学で20年ほど法律学の教育と研究に携わってきましたので、今日はそのような立場からお話させていただきます。

 法律学の教育において最も重要なことは、国の基本を定めた憲法の基本原則をしっかり学び、それに沿った法律の解釈と適用を進めていくことです。日本の憲法は非常に立派な内容のものですが、そのもとで制定された法律のなかには、憲法違反の疑いのあるものや、また憲法違反とはいえないまでも、解釈・適用が必ずしも憲法の基本原則に沿っていないものもあります。従って、法律学の教育と研究の意義がは、憲法を中心に据えて、問題のある法律や問題のある法解釈を批判的に検討し、憲法の基本原則を実現するところにあります。憲法の基本原則は、平和、国民主権、基本的人権を内容としています。戦前の日本は、自分の経済的な勢力圏を広げるために、他国に対して武力でもって攻撃をしかけ、そこを支配しました。そのために、国民が自由に政治に参加することを禁じ、反対意見に対して厳しい弾圧を加えました。国民の主権と人権を踏みにじる政治は、他国を武力で侵略する戦争の延長線上に行なわれました。憲法の平和・主権・人権という3つの基本原則は、それぞれが重要な意味を持っていますが、その中心は平和の原則です。私は、憲法の平和の原則は絶対的に揺るがすことのできない原則だと思います。

 かつては、主権は天皇にあり、国民はそのしもべのような存在でした。明治憲法は基本的人権に関する規定を設けていましたが、それは形だけであり、いつでも制限ができる非常に弱いものでした。しかし、今の憲法はちがいます。主権は国民にあり、その人権もしっかりと定められています。とはいえ、その主権も人権も例外的に制限されることがあります。選挙権や被選挙権のような国民の主権は、年齢などを理由に例外的に制限されることが認められています。基本的人権もまた、犯罪などを行なったことを理由に刑罰として自由を制限することが認められています。しかし、平和の原則は、何かを理由にして制限することが許されるものではありません。そのような意味において平和は絶対的なものだといえます。安倍政権は、武器の輸出や集団的自衛権の行使を進めることによって、憲法の平和の原則をいっそう危機にさらそうとしています。これは憲法の絶対的な原則に対する正面からの攻撃にほかなりません。平和憲法を守り発展させるか、それともそれを否定する道を突き進んでいくのかが、今問われています。世界中いたるところで、様々な緊張と紛争が激しさを増しています。東アジアも例外ではありません。このような状況のなかで、憲法の基本原則にしっかりと軸足を定めて、問題を平和的に解決していくのか、それとも軍備の増強をはかり、緊張関係のなかで問題を押さえ込んでいくのかが問われています。

 現行憲法は、いうまでもなく、1945年8月15日をきっかけにして生まれたものです。戦争が終わり、平和を求める世界の世論に後押しされながら、また戦争に対する国民の反省からスタートしたものです。その当時の日本と東アジアの情勢は、一方で日本に平和憲法を誕生させるプラスの要因になりましたが、他方でそれを骨抜きにするマイナスの要因もありました。憲法制定当時の世界は、1945年6月から10月にかけて制定された国際連合の憲章にも表されたように、国際の平和と安全を維持することを求めていました。とくに、国連の常任理事国のなかでも、1931年から15年のあいだ日本の侵略を受け続けてきた中華民国は、東アジアにおいて平和を確立するためには、日本の再軍備を禁止し、非武装の憲法を制定する必要があることを求めていました。GHQの憲法草案などを見る限り、アメリカが中華民国の要請を支持していたことがわかりますが、ソ連との対抗関係や中国共産党の影響の拡大などもあったために、日本の憲法は制定直後から、アメリカから強い改憲の要請にさらされることになります。みなさんもご存知のように、日本は1951年にサンフランシスコ条約を批准し、正式に独立国として国連に加盟しますが、それと引き換えにアメリカとのあいだで安全保障条約を結び、連合国の占領軍が引き続き日本に駐留しはじめます。憲法9条の平和の原則が侵害され、アメリカの軍事的なアジア戦略の拠点として日本が利用され始めたのです。中国や北朝鮮における革命の動きに対抗するためです。一方で憲法にもとづく平和と民主主義の法制度がありながら、他方で安保条約・自衛隊法などの戦争と法制度が併存するというのは、矛盾にほかなりません。平和憲法の実現と発展を阻害するマイナスの要因であり、その後の政治や経済、労働や教育などの社会の全分野にゆがみをもたらした元凶です。戦後の労働運動や教育運動において、つねに平和がテーマになり、安保条約をめぐる議論が叩かれたのは、日本の法制度・社会制度の内部に平和を否定する要因がアメリカと日本政府によって持ち込まれたからです。

 第二次世界大戦で敗北し、連合国によって管理されたドイツにおいては、日本とは状況が異なります。ドイツは何かと引き合いに出される国ですし、私自身もドイツの法律学を学んでいます。昨年9月までの1年間、ドイツの金融都市のフランクフルトの大学で勉強してきました。研究や教育のあらゆる面において、ナチスが第二次世界大戦において行なったこと、その責任の問題が今でも問われ続けています。そして、戦後には経済的な復興をなしとげ、ヨーロッパで第1にの経済大国になったこと、またナチスの過去を反省する作業を継続して行っていることなどが、テレビのドキュメンタリー番組などで放送されています。しかし、日本と同じような過去を背負っているドイツの戦後は、1948年に東西に分裂してスタートし、米ソの冷戦状態のなかで始まります。西側のドイツの基本法では、侵略戦争の禁止は明記されていますが、自衛のための戦争や軍隊の設立は認められています。日本国憲法が制定された1946年と若干の時差があったために、ドイツの戦後は非常に緊張に満ちた、憂鬱なものになったと思います。私が読んできたドイツの多くの書物や論文に、晴れ晴れとしたものが少なかったのは、このような理由があったからだと思います。ドイツが引き合いに出されるのは、戦後の問題だけではありません。1930年代に軍国主義とファシズムの体制を築き、戦争に突入した共通点があるので、この二つの国を重ね合わせて考えることがよくあります。私は、今日の話のなかで、1920年代から30年代のドイツと現代の日本を重ね合わせて考えてみたいと思います。

 1914年に第一次世界大戦が始まりました。今から100年前のことです。この戦争は、1918年にドイツが休戦協定を申し出ることによって終わりました。ドイツでは1919年にワイマール共和国が誕生します。そして、1933年にはヒトラーのナチス党が政権を掌握することで、15年ほどの短い歴史を終えます。ヒトラーが行なった政治がどのようなものであったかということについて、細かくお話する必要はないと思いますが、ヒトラーが政治の実権を握る前のドイツの政治はどのようなものだったかはあまり知られていません。ワイマール共和国の時代のドイツとはどのようなものだったのでしょうか。1933年から1945年まで続いたナチスのドイツが軍国主義とファシズムの病気におかされた社会であったと見るならば、その前の1918年から1933年までのワイマール共和国時代のドイツは病気になる前の社会であり、また1945年以降の戦後のドイツも健康が回復された社会のように見えてきますが、軍国主義とファシズムの病気にかかったのは、健康を害するようなことをしていたからであり、また病気が回復しても後遺症に悩まされるものです。ドイツはワイマール共和国時代において、どのような健康を害することを行なっていたのかを考えてみたいと思います。

 第一次世界大戦後のドイツの敗戦後の風景は、戦後の日本と同じで、経済的荒廃と精神的虚脱という言葉がぴったりとあてはまります。1918年にドイツの皇帝は、敗戦とともにオランダに亡命します。精神的権威を失ったドイツは、新しい憲法、ワイマール憲法の制定作業に入ります。皇帝のいない王国は、否応なしに共和国になっていきます。国の基本的なあり方が、180度変わり始めます。共和制、議会制、政党制などのイギリスやフランス流の社会制度が取り入れられます。イデオロギーや思想の世界においても、自由主義・民主主義、合理主義が流行し始めます。国際連盟の国際協調主義のもとで敗戦国ドイツは管理されます。このような新しく生まれ変わったドイツを、多くのドイツ人は歓迎したでしょうか。新しいものに馴染めない、土着の歴史・文化・伝統があったのではないでしょうか。戦後の日本がスタートした社会状況も、この時代のドイツと似ているような気がします。

 ドイツは、第一次世界大戦が終わったのをきっかけに、イギリスやフランスなどとベルサイユ条約を結びます。この条約は、戦争の処理を内容としたものでした。それは、戦後のドイツの経済復興を妨げるものでした。賠償責任と軍備縮小・武器輸出禁止がまさにそれにあたります。軍備が縮小され、武器輸出が禁止されたために、かつての軍需産業は先細りました。軍事予算は削減され、その国内市場は縮小しました。敗戦国に許された軍事力はもろいもので、社会的には不名誉な感情が漂ったのではないかと思います。しかし、その分だけ民需が活発になり、市民経済が復興しましたが、国民が働いて収めた税金の一部は賠償にあてられ、国民には還元されません。やるせない気持ちが漂ったのではないかと思います。そのような社会的な気分感情のなかで、ドイツの「失われた名誉」を取り戻す動きが出てきます。ドイツは、科学・技術において優れた成果を出してきた国であり、ゲーテやシラーなどの優れた文学作品、ベートベンやシューベルトなどの音楽などは、世界のあこがれの的である。このような誇り高い歴史のあるドイツにとって、数年前の戦争に負けたことなど小さな出来事でしかない。そういった感情が社会のなかにただよったのではないかとおもいます。失われた名誉を回復し、ドイツ民族の誇りを取り戻す歴史的な使命を担って登場したのが、ヒトラー率いるナチス党でした。彼らは、軍国主義とファシズムを主張して登場したのではありません。国際連盟の国際協調主義、インターナショナリズムに対抗して、国家主義、ナショナリズムを主張しました。イギリス、フランスなどの資本主義がボロ儲けしているのを批判して、社会主義を唱えました。誇りあるドイツ人であることを声高に叫びました。金融資本のように働かずに巨額の富を手にしている者たちを批判して、労働者の代表であることを宣言しました。ナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党といいますが、彼らは第一次世界大戦後のドイツ人のぽっかり空いた心の隙間にたくみに入り込んだといえます。そして、ワイマール憲法はヴェルサイユ体制が押し付けた憲法だ、押し付け憲法だと批判し、古き良き時代のドイツを取り戻すことをスローガンに掲げて、またたくまに勢力を拡大していきます。1933年には、ヒトラーが首相に就任し、ワイマール共和国憲法を否定し、立法権・行政権・司法権の全ての国家権力を掌握します。ここから、国のあり方を自己点検できない政治が始まります。それは、ブレーキのない暴走自動車と同じ運命をたどります。

 第二次安倍内閣が誕生した直後に、憲法の改正、とくに改正の要件を定めた96条の改正が議論されたと思いますが、そのとき副首相の麻生太郎さんが、ナチスから学ぶべきものがあるというような発言をして、物議をかもしていました。私が知る限り、ヒトラーはワイマール憲法は20世紀最初のリベラルな憲法であり、国家の権力をしばる自由主義的な憲法であると認識していたのではないかと思います。ワイマール憲法は、ドイツの土着の思想や理念から生まれたものではなく、ベルサイユ条約の体制のもとで押しつけられたものなので、廃止しなければならないと考えていたはずです。憲法のなかにあるのは敗戦国ドイツであって、誇り高いドイツは失われたままであると訴えていたと思います。だから、ヒトラーは憲法を敵視し、それをぶっ壊そうとしたのです。しかし、実際には「ワイマール憲法をぶっ壊す」ことをせずに、それを棚上げにして、実質改憲をしたんです。どういうことかといいますと、ワイマール憲法を改正したり、廃止したりするためには、議会の3分の2の賛成が必要ですが、ナチスは1933年3月の総選挙で過半数を占める大勝利を収めましたが、それだけでは足りませんでした。議会には社会民主党や共産党などの反対勢力もいましたので、ワイマール憲法を改正することはできない状況にありました。そこでヒトラーがとったのは、全権委任法と呼ばれる法律を制定するという手段でした。これは、一般の法律と同じように議会の過半数の賛成で足りるので、ナチスが単独で制定できる法律です。ヒトラーは、この法律のなかに、ワイマール憲法を否定する法律の制定権限を首相や行政府に与えるとする条項を盛り込みました。もし憲法そのものを改正しようと思えば、国民の世論を喚起し、改正案を提案し、麻生さんの言葉をかりていえば、「わー、わー」と大騒ぎをし、喧騒のなかで行うことになりますが、ヒトラーが行なったのは、憲法改正ではなく、憲法否定法を制定するということだけでした。それは、こっそりと行なわれたといえます。麻生さんは、ナチスの手口を学んだらどうかと言っていましたが、しっかり学んでいたと思います。安倍内閣が憲法改正案を国民に提示して正面から改憲を断行しようと思えば、国民の関心を喚起しなければならなかったでしょうし、国内外のマスコミも注目したでしょうから、「わー、わー」と行わざるをえなかったでしょう。そうすれば、正面から国民の反対世論にあい、断念せざるを得ないリスクがあったと思います。麻生さんは、阿部さんに、そんなに「わー、わー」とやらずに、静かに、こっそりとやればよいのだとアドバイスしたんだと思います。つまり、正面から憲法改正をせずに、こっそりと集団的自衛権の行使を閣議決定すれば十分だということです。ナチスでさえ、全権委任法を議会に提案したのに、安倍内閣はそれを「閣議」で行なったのです。憲法9条を骨抜きにするこの手法は、ナチスでさえ使わなかった手口です。ワイマール憲法とそれを否定する法律が併存することによって、その後のドイツでは憲法違反の悪法が議会で審議されることなく制定されていきます。1933年、国際連盟から脱退し、第一次世界大戦の賠償責任を放棄し、再軍備と軍事費増額の方針を打ち出します。財界における軍事資本が台頭し始めます。そして、ヒトラーの暴走内閣は、破滅へと突き進んでいきます。

 私は、安倍内閣が1920年代から30年代のドイツと同じような動きを見せているのではないかと感じています。安倍内閣の政治の基本は、対米従属であることは確かですが、その枠内において一定の対等化を図ろうとする動きがあるように思います。外交評論家の孫崎享さんは、戦後日本の歴代内閣や外務省のなかに、根っからの対米従属派とそこから離脱しようとする対米独立派の二つの流れがあると分析していますが、安倍晋三さんは、対米独立派なのではないかと思われる節がいくつかあります。戦後の日本経済は、憲法9条にもとで、戦争経済・戦争産業から平和経済・平和産業へと転換をはかり、戦争や軍需産業がなくても、高い経済発展を遂げれることを証明しましたが、今の政府や財界は、アメリカ・オバマ政権の対ウクライナ政策・対中国政策に見られるような弱体化の傾向を補完するために、軍需産業をテコ入れしようとしているです。今年4月に安倍内閣は武器輸出三原則を撤廃し、防衛装備移転三原則の定める閣議決定を行いました。尖閣諸島などの離島を防衛するための装備を強化することも推進しています。北朝鮮をはじめとするアジア諸国との緊張関係のなかで、日本の防衛の必要性に疑問をさしはさむ余地はなくなっています。災害や復興などにおいて、自衛隊員の活躍ぶりは高く賞賛されています。そのような分野も含めて防衛費を増額させることは当たり前のことになっています。軍需産業の国内市場は活気付き、三菱重工などの市場は海外においても拡大しはじめています。装備のコストは削減され、単価は低下し、総じて軍備の規模は拡大・強化されています。集団的自衛権行使の容認の閣議決定は、それに拍車をかけています。経済の軍事化が進行しています。
 このような情勢を支える社会的な心理は、1920年代のドイツと同じです。自民党の「日本を取り戻す」というスローガンは、それを端的に表していると私は見ています。ナチスがヴェルサイユ体制から離脱したように、安倍晋三さんはサンフランシスコ体制、戦後レジームから脱却しようとしています。ナチスがドイツの名誉を回復しようとしたのと同じように、日本も戦犯国からの脱却し、積極的平和主義を唱えています。敗戦国という汚名を振り払って、日本の「名誉」と「誇り」を、強い日本を復活させようとしています。過去の歴史を修正し、靖国派と呼ばれる国会議員たちは、「観念的な日本」へと逃避を始めています。15年戦争の歴史の修正、「東京裁判史観」の批判と植民地政策・侵略の相対化、日本軍慰安婦問題や戦時徴用問題の否定などは、アメリカから批判されながらも続けられていますが、それは総じて対米従属の枠内において、アメリカと対等になろうとする軍事的な独占資本の要求ではないかと思います。「名誉と誇りを傷つけられた」ことに対する怒りと軽蔑、そして焦りと苛立ちは、過激なヘイトスピーチなどに表されていますが、普通の日本人の意識のなかに潜伏している素朴な名誉感情のほうが怖いと私は思います。ヘイトスピーチの集団行動を行っている在特会のメンバーのなかには、アルバイトや派遣業などで働いている若者が目立ちます。そのような彼らの社会的エネルギーが、労働環境を整備する方向ではなく、社会的・経済的弱者へ攻撃を向ける方向へと動員されています。弱いものイジメと、強者への憧れこそ、軍国主義と経済の軍事化の温床です。今の日本は、1930年代のドイツと似ています。ということは、それと同じ運命を日本もたどることになります。これを防ぐために、あたらしい平和運動の戦略を考えるときだと思います。あらためて憲法9条の意義をあらためて確認する必要があります。さしあたり5つの意義を確認することができるでしょう。

 第1は、憲法の基本原則を社会のなかで活かすためには、憲法の平和の理念が必要不可欠であるということです。憲法9条は、第二次世界大戦後に米ソの対立が顕在化する前に成立したものです。その意味では、戦争が終わって、平和こそが重要であるという多くの人々の素朴で切実な理念を純粋に表現したものだといえます。この意味をあらためて理解し、普及することが必要です。

 第2は、集団的自衛権の行使を容認することによって、この憲法9条が破壊され、その先に何があるのかを解き明かしていくことをです。集団的自衛権の行使という名のもとに、多くの若者が戦争に駆り出されていく危険性があります。それが一人一人の人生にどのようなマイナスの影響を与えるかについて訴えていくことが必要です。中東で勢力を拡大しつつある「イスラム国」に対して軍事的な対応に協力する国が増えています。日本でも、「イスラム国」に参加しようとした学生について報道されていましたが、恐ろしいほど想像力が欠如しています。人生をリセットするために戦争を利用しようとする若者が増えてくるのではないかと心配です。

 第3は、東アジアの近隣諸国との友好関係を発展させるために、日本が率先して平和のシグナルを送ることです。中国や韓国の経済状況は、専門家の話によると、今後ますます深刻化していくようです。北朝鮮はいうまでもありません。おそらく、その国においても、平和とは反対の方向において、社会の閉塞的な状況を打開しようとする動きが出てくることが予想されます。東アジアにおける政治の流れを平和の方向で舵取りをするために、日本が憲法9条にもとづいてイニシアチブを発揮することが求められています。

 第4は、健全な経済、文化、教育は、憲法9条にもとづいてこそ可能であるということです。戦争は意味のない空虚な興奮をもたらすだけです。経済・文化・人間を否定し、破壊するだけです。そこからは何も生まれないことを様々な角度から解き明かすことが必要です。

 そして、第5は、労働運動・社会運動・住民運動の結束を強化するために、憲法9条が軸になること、社会のあらゆる場面で憲法9条の意義を解き明かし、それを社会運動の絆にしていくことです。原発の危険性を訴え、自然エネルギーへの転換を図る運動、国民の知る権利を守り、特定秘密法の運用をやめさせる運動、様々な運動を推進するエネルギーの根幹に憲法9条を位置づけること、自由や平等、平和と民主主義の最大公約数として憲法の平和の理念を位置づけることが必要だと思います。9条の会の運動は、まさに全国でそれを担って進められています。運動の輪がさらに大きくなることを期待しています。これで私の話を終わらせていただきます。

 ご清聴ありがとうございました。