Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

望田幸男先生と歴史を嗅ぎ分ける嗅覚

2024-03-03 | 旅行
 望田幸男先生と歴史を嗅ぎ分ける嗅覚
 健康な身体が一夜にして重篤な病気に罹り、長い闘病生活の末に元どおりの健康体を取り戻すといったことがあるだろうか。病気に罹る前に身体はすでに抵抗力を失い、また病状は回復したものの、その後は何らかの後遺症に悩まされるものなのではないか。20世紀初頭に登場した自由主義的・民主主義的な立憲国家体制が1933年1月30日に独裁者の不法体制に替えられ、その後12年間の暗黒時代を経て、1945年5月8日以降、自由と民主を取り戻し、民族友好と国際協調の陣営に仲間入りするといったことがあるだろうか。独裁者の毒牙にかかる前に国家機構と社会体制はすでに形骸化し、対立物へと転化し、また独裁制が崩壊した後も、権威主義的な過去の亡霊に悩まされ続けるのではないか。
 2016年、ハイコ・マース独法相(当時)は、歴史学者と法律家による独立した調査研究機関を組織し、戦後司法省の人事政策と法政策におけるナチ人脈の連続性について研究を委託した。歴史家のM・ゲルテンマーカーと刑法家のC・ザッファーリンクは、その研究結果を『ローゼンブルクの記録』としてまとめた。1950年代の官僚法曹の8割ほどが元ナチ党員・親衛隊員によって占められていた。彼らが法による過去の克服を陰に陽に妨害した。法と正義の道標であるはずの連邦司法省が不法と不正の限りを尽くした旧支配層の巣窟になっていた。本書を読み進めていけば、ナチの官僚法曹と連邦司法省の人的連続性のリアルな実態が明らかにできる。ナチ時代の得体の知れないイデオロギーと運動に柔軟に同調できた者であれば、戦後の自由と民主の単調なリズムに合わせて踊ることなど難しいことではなかったことが理解できる。
 『ローゼンブルクの記録』で取り沙汰されている2人のナチの官僚法曹を紹介する。1人はエドゥアルト・ドレーアー博士である。1907年、ドレースデン近郊に生まれ、1933年に法曹資格を取得すると同時にナチ党に入党した。その後は併合されたオーストリアのインスブルック特別裁判所に配属され、自転車窃盗などの軽微な犯罪に死刑を求刑する戦慄の検察官として活躍した。彼が執筆した刑法注釈書の法改正史の叙述は非常に詳細であり、その正確性は今でも評価が高い。70歳の古稀には多くの研究者・実務家から論稿が寄せられ、祝賀論文集が献呈された。もう1人はヨーゼフ・シャフホイトレ博士である。1904年、フライブルクに生まれ、法曹資格と学位取得後に帝国司法省に入省し、刑事法部会に配属され、主として刑法改正作業に従事した。刑法の論理的・体系的思考に優れ、その精緻な能力において右に出る者はいなかったという。彼もまた時代の波に乗り、党機関に入党を申請したが、その品性に大きな欠陥があったため、総統官房は何度も申請を却下せざるをえなかった。敵に回すと手強い相手は、見方に着けると扱いに困る厄介な人格でもあった。この2人の法曹が1968年5月に連邦議会に秩序違反法施行法案を提案し、通過させた。彼らはその法案に人種憎悪によるユダヤ人迫害や強制収容所の運営に職務ゆえに忠実に協力した者の刑を減軽する条項を忍び込ませた。被疑者・被告人の自由・平等を保障する刑法学説を指向するこの法案の真の目的は、協力者の公訴時効を1960年5月8日にすでに完成済みとすることにあった。ドレーアーとシャフホイトレが職務上の協力者を自称していたことは言うまでもない。
 このような歴史の過去を望田幸男ならばどのように論評したであろうか。対極の政治的立場にありながら、互角の政治的嗅覚を持つ歴史家ならば、どのように言い当てたであろうか。彼が残した言葉を手がかりにしながら、刑法の理論史を跡付けてみようと思う。
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