Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』を読む

2017-01-26 | 旅行



(0)鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』の問いかけ
 鶴見俊輔さんは、その著書『戦後日本の大衆文化史』のなかで、漫画を例に挙げて戦後の日本文化の特徴を論じています。戦争が終わり、戦後が始まる時期に大衆文化としての漫画、その担い手である漫画家は何を目指し、どこへ向かおうとしていたのでしょうか。戦争の廃墟に立ちながら、未来を見つめていた人々は、戦後の漫画に何を求めたのでしょうか。戦争の廃墟のなかから起き上がれないまま立ちつくした人々は、戦後の漫画に何を求めたのでしょうか。鶴見さんは、そのような問題について様々な角度から検討しています。

(1)戦後をめぐる全体的流れと局所的部分
 鶴見さんが日本の大衆文化史を論じるときのキーワードは「戦後」です。戦後の意味は、「戦前」の捉え方によって決まってきます。『戦後日本の大衆文化史』の前編である『戦時期日本の精神史』は、1930年から1945年までに行なわれた戦争、中国をはじめとするアジア諸国、さらには欧米諸国に対して行なった「15年戦争」をテーマにしながら、日本の政治・思想・歴史などを精神史としてまとめています。したがって、鶴見さんの「戦後」観は、戦争の状態が終結し、それを克服していく思想の過程に即しています。ただし、それは歴史と社会の全体的な動き、大きな流れでしかありません。なぜ「しかありません」というのかというと、局的な動き、小さな流れに十分に目を向ける作業はそれとは別に行なわなければならないからです。鶴見さんは、一方で戦前から戦後への歴史の展開過程を全体的な動き、大きな流れとして捉えながら、他方でそれだけでは見えてこない局所的な動き、小さな流れにも目を向けます。大衆文化としての漫画にも、全体的な大きな流れと局所的な小さな流れがあることが分かります。したがって、ここに鶴見さんの歴史観、文化史観の特徴があります。

(2)戦前から戦後の分岐点に立つ漫画文化
 戦後は、戦争から平和への転換のスタート地点です。それは戦争の終結から始まりますが、平和が訪れたことを意味するわけではありません。平和に向かう歴史が始まった、平和への模索が始まったということです。漫画もまた、戦後の始まりに歩調を合わせて歩み始めます。戦後の始まりを端的に表すならば、戦争から平和へ、抑圧から自由へ、神話から科学への時代の変化であると言うことができるでしょう。明治維新以来の発展を遂げてきた日本資本主義の展開は、他国への資本と商品の移転と資源の確保という帝国主義的な形態を、しかもアジア諸国への軍事的な進出・侵攻・侵略という形態をとり、最終的には世界大戦へと進んでいきました。そのために国内においては思想と人権の抑圧の体制が築かれ、それを正当化するために、日本の伝統・文化や歴史、様々な神話が持ち出されました。漫画も、そのためのプロパガンダとして利用されました。多くの国民は、天皇の赤子としての自覚のもとに戦争を戦い、そして敗北しました。敗戦は、戦争・抑圧・神話の終焉をもたらし、平和・自由・科学の理想を育みました。このようにして、戦後の漫画は、このような時代の変化の風を受けて歩み始めました。

(3)未来を展望する漫画の可能性と限界性
 戦後漫画の発展方向を全体として指し示した代表格として、手塚治虫の名を挙げることができます。その代表的作品「鉄腕アトム」は、空想科学漫画の代名詞といっても過言ではありません。主人公アトムが地球の人々を守るために悪と闘います。正義のヒーローがであり、「心優しい科学の子」です。ただし、「アトム」という名前からも明らかなように、原子力と関係があること、その応用により誕生した可能性があることをうかがわせます。米国のスリーマイル、旧ソ連のチェルノブイリ、そして日本のフクシマと巨大な原発事故を三度経験した現代人から見れば、原子力の応用は当時は可能であると信じられていても、今日的には問題であたっといわなければなりません。しかし、当時それが信じて疑われなかったのは、戦後の時期に科学主義的な認識が広く普及していたからでしょう。それは戦前の神話の世界から解放された人々が科学に信頼を寄せたことの表れでもありました。戦争が終わり、平和が訪れた社会の雰囲気のなかで、夢が実現する、理想が現実になるというロマンを漫画においても追求できると多くの人々は信じていました。手塚治虫の影響を受けて漫画家を目指した藤子不二雄の「ドラえもん」などは、未来社会からやってきたネコ型ロボットがポケットから様々な道具を自由自在に取り出します。それは、子ども向けのファンタジーの名作です。その意味でも、そこには手塚の科学主義の影響が確認できます。

(4)戦後日本の実存主義と漫画への影響
 このように戦後の漫画は、戦前を克服するために様々な価値を指針にして展開していきました。しかし、それは全体的な動き、大きな流れとしてです。それを見ているだけでは、それに付随する細かな部分は見えてきません。時代の変化や社会の流れは大きな潮流を形成しますが、そこから動かずにじっと留まっているもの、そこから取り残されていくものを同時に生み出します。留まっているというより前へと進めない、取り残されているというより付いてけいけない、という方が的確かもしれません。それを見極める必要があります。というのは、それは戦後直後の鶴見さんの実感でもあったからです。1922年生まれの鶴見さんは、10代半ばのときに渡米し、米国の大学に入学し哲学を学び始めます。しかし、1941年に日米が戦争を始めたために、敵性国家の留学生ということで、捕虜収容所に入れられ、最終的には捕虜交換船に乗せられ、日本に追い返され、敗戦を迎えます。日本政府と政治家が対米戦争を始めたために、青春と学ぶ機会を奪われてしまいました。しかし、戦争を推進した政治家・大人たちは、戦後になると、平和な時代がようやく訪れたとか、今こそ自由を謳歌できるとか、日本は科学立国を目指さなければならないなどと言い始めたのです。よくもそんなことを言えたものだ、開いた口がふさがらないと、鶴見さんは激怒しました。鶴見さんは、このような政治家や大人たちに対して底知れぬ怒りと不信を抱きます。彼はその感情を「戦後日本の実存主義」と呼びます。それは、科学や法則によって社会や人間の在り方を認識するのではなく、自分自身の体によって社会や人間の在り方を実感する考えであるといってもいいでしょう。戦争を推進して国民の生活をないがしろにした大人たちは、今度は平和を鼓舞して、国民を誘導しようとしているが、もう騙されない、もうその手には乗らない。若い鶴見さんの視線は、非常ににヒリツティックに世の中を見つめます。それは、社会を批判する厳しい視線でもあります。

(5)局所的部分から見える大衆文化の意義
 その時代に、鶴見さんと同じ方向を見ている漫画がありました。鶴見さんは、その例として白土三平や水木しげるなどの漫画家の名前を挙げていますが、鶴見さんの実存主義と通底している漫画家として「つげ義春」が重要であると指摘しています。つげの漫画は不思議な魅力を持っています。つげは1937年生まれで、小学校を卒業後すぐに働き始めます。性格的に恥ずかしがり屋で、人と接するのが大の苦手です。人と接しなくても続けられる仕事として、彼は「漫画家」になることを決意しました。つげは、漫画を通して何を描こうとしたのでしょうか。鶴見さんは、つげは漫画にのなかに、彼自身が自己の不確かな生存のヘソの緒に達しようと「もがいている姿」を見出しています。そのような「もがいている姿」は、戦後の価値観も、またそれを基盤に物事を考えている文化人も日本国民に示さなかったことです。つげは、自分が今ここにいる根拠を自分自身の能力の限りを尽くして探るための努力を作品を通じて行ないました。その結果、つげの作品は、少数ながらも、情熱的なファンによって魅力ある漫画として読まれるようになりました。その魅力は、社会の状況、また社会に存在する自分の状況を科学的に認識し、その変化・発展を法則的に予見するといった科学主義的な立場とは対極にあるものです。外部的に認識される科学性や法則性にようなもので自分の確かさを認識することなどできない。いかに自分が不確かな存在であるか、その生存の根拠である「へその緒」がどこにあるのかを認識することの方が、自分の状況の認識として納得がいくということです。それは非科学的で非合理的な認識です。しかし、あえて言うならば、非科学・非合理のどこが問題だというのでしょうか。科学的で合理的な視点が時代や社会の歴史的な発展・変化について全体的にしか捉えることしかできなかった以上、そこからこぼれ落ちるものを捉える方法として、非科学・非合理な方法にもひとつの可能性があるのではないでしょうか。つげの漫画、また鶴見さんの実存主義的な実感は、それを逆説的に告発しているように思います。

(6)鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』から学ぶもの
 戦後日本の大衆文化史には、このように「漫画」を題材にしただけでも、様々な人間の喜怒哀楽を考察することができます。漫才、寄席、テレビ番組、広告、流行歌など様々な大衆文化のなかにも、私たちがまだ考えてこなかった問題があります。鶴見俊輔さんはそれを考えることを私たちに問うているのではないでしょうか。