Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法による過去の清算と戦後民主主義(1)

2024-03-03 | 旅行
 刑法による過去の清算と戦後民主主義
 一 過去の清算という言葉
 二 継承されるドイツの精神的遺産
 三 愛国と憂国なき民主主義
 四 『ローゼンブルクの記録』による過去の清算?

 一 過去の清算という言葉
 1過去の清算の意味するもの
 戦後ドイツの歴史学や法律学などの領域において、ナチの不法を総括する営為を表す用語として「過去の清算」または「過去の克服」という言葉が用いられてきた。この言葉がいつ頃から使われるようになったのかは知らないが、1959年秋にキリスト教徒・ユダヤ教徒共同作業協力委員会が主催したテオドール・アドルノの講演の表題にそれを見ることができる1)。ドイツの敗戦から15年、連邦共和国の建国から10年を経た時期に「過去の清算」という言葉はどのような意味において理解されたのか。それは今日においても問われるべき問題である。
 アドルノによれば、過去の清算という言葉には、本来的には次のような意味が込められていたという。すなわち、ナチの過去の不法と不正を自己の問題として正面から受け止め、その省察を踏まえて過去の魅力を断ち切りつつ、それを自己の思想と行動の批判的指針にすることを意味した。したがって、過去は現在の自己を批判的に見つめ、その言動の問題を映し出す鏡である。過去は過ぎ去ることなく現に在る。過去の清算、過去の克服という言葉は、そのような意味において用いられた。否、そのように用いられるはずであった。しかし、実際には、その言葉には、過去を断ち切りたい、それと区切りをつけたい、できることなら記憶から消したいという願望が込められて用いられたと、アドルノは言う。それは、過去に正面から向き合わない、それを自己の課題として受け止めない、自己を思想的に批判せず、それを行動の指針としない態度である。もちろん、過去が問題にされることはある。しかし、そのような場合でも、過去は国家や社会が取り組むべき課題として語られるだけであって、自己に問われた問題ではない。つまり、他人の問題として扱われている。連邦共和国の建国から10年ほどしか経過していない時期において、すでに戦後のドイツ社会はこのような雰囲気に包まれ始めたという。「すべてを赦し忘れるべきである」という被害者にこそ相応しい言葉が、不正の加害者の一派によって語られているという。
 戦前のナチの過去を自己と無関係に語る者が、はたして戦後社会の主体になりうるであろうか。アドルノは問題を一人称で投げかける2)。


 2「水晶の夜」の名称とホロコーストの犠牲者数
 ユダヤ人に対する迫害、財産強奪、国外追放、強制収容所への移送と大量殺人という一連の非人間的な犯罪過程の起点として、後に「水晶の夜」と命名された事件がある。それは個人的なユダヤ人差別から国家機関による「最終的解決」へと向かう転換点であった。1938年11月9日の夜から10日にかけて行われたこの事件は、ユダヤ人が経営する商店の破壊、窓ガラスの破片の散乱、真夜中に街頭に引きずり出されるユダヤの人々への暴力主義的破壊活動を指す。真夜中の暴力事件であったことから「水晶の夜」と呼ばれたのであるが、この言葉から連想されるのは、壊された窓ガラスの破片が街灯に照らされ、まるで水晶のように光り輝く光景である。しかも、夜の闇がその煌めきを際立たせている。人々は連れ去られ、闇夜に消えていく。目に映るのは「水晶」の美しい輝きだけで、夜の闇に消えた人々の姿が思い浮かべられることはない。「水晶の夜」という名称は、非情な歴史の事実を指し示しながらも、同時にその本質を空洞化させる作用を備えている。「水晶」という芸術的な善意が、人々を無意識のうちに非人道的な過去を現実から遠ざけ、それを忘れさせている3)。
 アウシュヴィッツ、トレブリンカ、テレージエンシュタットなどの強制収容所において殺害された犠牲者は600万人ではなく、多く見積もっても500万人足らずであるという主張があるという。過去の罪の重さを犠牲者の規模と人数に基づいて正確に把握する議論のように見えるが、実のところ強制労働と死亡の因果関係、犠牲者の数の算定基準、その計算方法の争いでしかない。しかも、少なめに計上された加害者数でさえ、1945年2月のドレスデンの大空襲による被害者数を引き合いに出して、ホロコーストの犠牲者数を割り引き、相殺できるかのような主張も見られる。いずれも、負うべき過去の責任を回避したい、また少しでも軽減したいという心境の表れである。
 歴史学の用語は、ナチの過去と接点を持てなくなっている。数量計算の方法は、殺された人々を数として把握するだけで、その怒りと哀しみの実相に迫れなくなっている。アドルノは、ホロコーストの過去に具体的かつ直接的に向き合う必要性を強調する。


 3「罪コンプレックス」の複合的構造
 1945年までにドイツ人が体験した現実は、一方向的で単線的な事象であった。清算されるべき過去は、加害という始発点から被害という終着点へと結ばれる不法な一方向的な事象であった。それにもかかわらず、その事象に加害者を取り巻く諸関係が結びつけられ、それが複線的で複合的・立体的な構造物に置き換えられている。その際、「罪コンプレックス」という精神病医学の専門用語が活用され、清算されるべき歴史的事実が意識の複合的連合という病的・心的な症状にすり替えられている。つまり、客観的・外的な歴史的事実が主観的・内的な病的症状として位置づけられ、贖罪と弁明の複合的意識ともいえる精神的事象が作り上げられている。例えば、精神科医と患者の次のような会話が想像される。「あなたは、自身が過去に行ったことを悔い、今でも背負い、清算・克服しなければならないと考えていますね。それは罪悪感の一種であり、その一部には精神的な病によるものがあるようです。それは何らかの外的要因によるものとは限りません。精神分析が名付けた『心因性』によるものかもしれません。薬学の専門家が十数年来の研究の末、非常に効く薬を開発したので、それを処方しておきましょう。それを飲んで、少し休養をとってください。じきに楽になるでしょう。ではお大事に」。
 ドイツ人が1933年から1945年までに体験した第三帝国の現実、自身もまた直接または間接的に関与した過去は、一度は彼らに重くのしかかり、彼らを精神的に苦しめた。そこには贖罪の意識と良心の悔悟があった。しかし、ほどなくして何とか治療し、乗り越えられる疾病になったようである。過去と向き合う思想的・精神的営為、それを克服する作業は、精神医学のおかげで、寛解期が訪れるまで痛みを堪える「闘病生活」にたとえられた。ドイツ人が背負う現実の罪が、心の問題、その一部は心因性の妄想に過ぎないのだと説明された。しかも、痛みを堪える薬まで用意された。過去と向き合う苦悩を緩和する薬として作用したのは、例えば、「ドイツの精神的遺産」や「誇り高きドイツ人の名誉」である。ドイツ人の歴史的体験には、ユダヤ人の迫害という心を痛める事実があるにはあるが、同時にそれ以外の、またそれ以上に重要な事実もある。ドイツ過去の清算は、ドイツとドイツ人の名誉の回復につながるが、それを背負い続けることによって逆にドイツの精神的遺産や名誉を損なうようなことがあってははならないというのである4)。
 ドイツの名誉という鎮痛剤が、過去の苦しみを和らげる。アドルノはこのようなドイツ人の精神的態度を「白痴的言行」と憤りを込めて糾弾する。


  二 継承されるドイツの精神的遺産
 ヨーロッパにおける戦争が終わり、ナチの崩壊から15年、ドイツ連邦共和国の建国から10年が経った。物質的・物理的な意味での戦争は終結したが、それを思想的・精神的に清算し克服する課題は十分には取り組まれなかった。終戦は戦後をもたらしたが、それだけでは戦後は始まらなかった。戦後の過程は、戦前の過去を清算し、克服する作業であるはずであったが、それに粘り強く取り組むことはなかった。その意味において、歴史の時間は戦争の終結によってリセットされず、戦後の手前で停止したままであった5)。そこから一歩踏み出すためには、過去を清算する強靱な精神力が必要であったが、アドルノが批判した戦後ドイツ人の態度からは、そのような精神力は望めなかった。ドイツの不名誉な過去の清算を阻んだのは、ドイツの精神的遺産とその名誉であった。
 しかし、アドルノが批判したドイツ人の態度は、戦後から15年を待たずとも、連邦共和国の建国時に確認できそうである。それは、戦後の自由主義・民主主義に抗い、残留しようとする戦前のファシズム的傾向ではない。自由主義・民主主義の陣営にいながら、ドイツの過去を自己の問題として引き受けようとしない態度である。あるいは、ドイツの過去の問題をドイツ以外の文化圏から語ろうとする第三者的な態度である。つまり、過去の問題をドイツという一人称で語ろうとしない態度である。1949年のゲーテ生誕200周年の記念祭においてトーマス・マンが行った講演にそのような態度が見え隠れする6)。


 1ゲーテと民主主義
 トーマス・マンは、占領状態が終わり、ドイツの東西分裂が決定的になった1949年、西のフランクフルトと東のワイマールのゲーテ記念祭で「ゲーテと民主主義」という表題の講演を行った。ナチが支配した12年間にドイツ人が異民族に犯した罪が、ニュルンベルクで裁かれ、ドイツとドイツ人の過去の清算が始まった。それは戦後ドイツの新たな歴史を踏み出すための起点であった。ナチの権威主義と独裁を克服して、自由と平等を取り戻すことが求められた。これほどまでに民主主義が求められたことがなかった時に、マンはそれをゲーテの名と結び付けて語った。ナチがヨーロッパの諸民族に及ぼした罪科が、フリードリヒのプロイセン王国からビスマルクのドイツ帝国を経てヒトラーの第三帝国へと流れるドイツ近代史の結末であったかのごとく語られた時期に、あのような流れに決して飲み込まれるはずのないドイツが想い起こされた。あの12年間の非道に交わることのないドイツの普遍的な精神の支流に遡ることが説かれた。その支流こそゲーテであった。それ以前からもゲーテについて語ってきたマンは、あらためてゲーテが民主主義の本流に流れ交わる支流であると論じた7)。
 マンは講演の冒頭、自身が行ってきたこれまでの仕事を振り返り、ゲーテについて論じてきたことを「誇りに思っていない」と告白した。ゲーテを魅惑的な人物と論じ、その作品の文学的価値を高く評価した自身の仕事を誇れないと言った。それはなぜか。それは「ドイツ人のドイツ的なものへの没入」でしかなかったからである。アメリカにおいて英語で出版されたマンの論文集『三〇年間のエッセイ』(Essays of Three Decades, 1947)に対してアメリカの批評家たちが軽蔑の念を込めて論評したことに表れているように、ドイツ人は母国語と母国語で書かれたものだけに関心を持ち、それだけに打ち込んできた。この田舎者的気質のために、ドイツ人はドイツ的なものしか視野に入らず、世界を広く見渡すことができなかった。マンはこのようにゲーテを内向きに論じてきたことを恥じて、謙虚に自己を振り返ったのである。そのうえで、ドイツ人は内に向けられてきた視野を外へと広げ、田舎から世界へと出ていかなければならない。外の世界を感じ取り、諸外国のものを認識し、讃嘆し、それを受容・消化する方法を学び取らねばならず、またそれができるはずである。戦後のドイツとドイツ人にはそれが求められていると述べた。では、それはいかにすれば可能か。
 マンは、文化的に閉塞的なドイツを世界に向けて解放するための方途を、これまで内向きに論じてきたゲーテに見出し、今度はそれを外へと向けて論じた。ゲーテは、78歳の時に詩人のヨハン・ペーター・エッカーマンに宛てた手紙の中で、「われわれドイツ人は、自分自身の環境という狭い圏内から外に目を向けないでいると、固陋な自惚れに陥りがちである。だから私は好んで他の諸国民のもとを見回すし、また誰にでもそうするように忠告している。今日では国民文学はあまり意味を持たない。世界文学の時代が来ているのだ。今やこの時代を促進するように、各人は努めなければならない」と記したが、マンはその箇所を引きながら、「ゲーテに倣うということ、ゲーテに与することは、決してドイツ的田舎者気質ということにはなりません」と、ゲーテが世界に視野を向け、世界文学に関心を寄せていたこと、それゆえゲーテを論ずることは必ずしも田舎者的気質に陥ることにはならないことを指摘した。しかも、「私がドイツについて多くのことを書き、外国についてはほとんど何も書かなかったとしても、もともと私はドイツ的なものの中に常に世界を求め、ヨーロッパを求めていたのであって、それが見出せないと不満だったと言ってよいのです」と、ゲーテを論じていたとき、すでに田舎者的気質を脱していたかのように自己を描いて見せた。そして、マン自身が師と仰いだショーペンハウアー、ニーチェ、ヴァーグナーの名前を挙げた後、何よりもゲーテがドイツという狭い圏内から広い圏外に目を向けたがゆえに、彼らにはドイツを超えるヨーロッパ的特徴が備わっていたこと、それが決して偶然ではないことを強調した。そして、マンが彼らのドイツ語で書かれたものの中にヨーロッパ的ドイツを見出したことは必然的であり、それが自身の願望と欲求の目標を形成していたことを改めて振り返って見せた。マンは、ゲーテについて内向きに論じていた時、すでに自己がドイツから世界とヨーロッパへと向かっていくことを欲していたというのである。そして、このヨーロッパへと向かうドイツこそ「共に生きていくことができるドイツ」、「世界に恐怖ではなく共感を呼び起こすドイツ」、「民主主義的」ドイツであることを高唱して、ゲーテをヨーロッパ的、さらにはアメリカ的な民主主義に結び付けたのである。
 マンは、戦後の経済的・精神的復興に着手したばかりのドイツの人々を前にして、戦後ドイツの民主主義とその再建を論じた。再建の指針は、ナチスが蹂躙した20世紀初頭のワイマール・ドイツの民主主義ではなく、ゲーテが19世紀に仰いだヨーロッパの、さらにはアメリカの民主主義であった。マンは、民主主義がナチスによって蹂躙される直前に歴史の針を戻して、そこを起点に民主主義を取り戻し、それを指針にして強靱なドイツの民主主義を確立するというのではなかった。マンは、19世紀に戻って、ゲーテが指向した民主主義、ドイツからヨーロッパを経てアメリカへと遍歴した民主主義を戦後ドイツの民主主義の基礎に据えたのである。


 2ゲーテとアメリカン・デモクラシー
 マンは、かつては自ら「非政治的人間」を名乗り、ロマン主義的ドイツ人であることを理由にヨーロッパ的民主主義に反発していた。第一次世界大戦をヨーロッパ文明に対するドイツ文化の闘いとして捉え、保守的で好戦的な民族主義の立場からドイツ国民の覚醒を求めていた。それゆえ、第一次世界大戦後に成立したワイマール共和国とその自由主義・民主主義の政体から距離を置いていた。
 しかし、1922年6月の極右過激派による外相ヴァルター・ラーテナウの暗殺を契機に、共和国の側に立ち、それに敵対する右派的、ロマン的、ゲルマン的な言動を批判した。市民と青年を共和国と民主主義の側に獲得するために、講演「ドイツ共和国について」の中で「共和国万歳!」と叫んだ。この態度変更がその時点において非政治的なロマン主義からの変節、裏切り、転向と非難されようとも、その後の経過を踏まえてみるならば、それはドイツ全体の政治的変化、またマン自身が亡命生活の中で形成した新たな立場の萌芽であったと言える。しかし、共和国と民主主義はドイツのロマン主義と無関係ではなく、むしろそれに関連づけることができると考えられた。マンにとって、共和政はロマン主義に達しうるものであり、「ロマン派の詩人ノヴァーリスの批評的散文の世界が、若々しいエネルギーに満ちたアメリカン・デモクラシーの詩人ホイットマンの世界に意外なほど重なり合うもの」であったがゆえに、民主主義は帝政より優れたものであるというのである。ラテン語で「新開墾地」を意味するドイツ・ロマン派のノヴァーリスの詩の世界が、「古き良きドイツ」を回顧的に夢想するにとどまらず、新天地アメリカの自由詩人ワルター・ホイットマンへとつながり、その地の自由と民主の世界をも展望できる。その意味においてドイツ・ロマン主義は、内向的ではなく、アメリカ的民主主義をも指向し得る外向的なものなのである。マンはこのようにロマン主義とアメリカ的民主主義を結びつけて、ワイマール共和国はそのような民主主義を継承すべきであると訴えたのである。生まれたばかりのドイツ共和国は、通貨危機に見舞われ、庶民の生活は逼迫し始めていた。そのような中では、民主主義、共和主義と声高に叫ぶだけでは説得力がなかったのであろう。マンは、ノヴァーリスのドイツ・ロマン主義とホイットマンの近代自由主義の詩の世界に共に通ずるものがあり、ワイマール共和国の民主主義がアメリカン・デモクラシーを指向しうると論ずることによって、思想的に国粋主義に捕われた当時のドイツ市民や新しい政体に馴染めずにいた青年を民主主義の側に獲得しようとしたのであろう8)。
 ただし、国粋主義者にとって関心事は、常にドイツである。ドイツの新しい政体とその基礎にある思想がドイツ的であることが重要なのである。したがって、民主主義と共和主義は、その後ドイツの土に戻り、そこに根を張ってドイツ的に開花すべきものであった。しかし、マンの場合そうはならなかった。またそれは、ゲーテの場合と同じであった。いずれもすでにドイツから離れ、新天地アメリカを目指していた。

1)  Theodor W. Adorno, Was bedeutet: Aufarbeitung der Vergangenheit, in: Eingriffe Neun kritische Modelle, 1962, edition suhrkamp 10 26.-32. Tausend 1966, S. 125 ff.(Th. W. アドルノ〔大久保健治訳〕『批判的モデル集Ⅰ ― 介入』〔法政大学出版局、1971年〕157頁以下)。
2)ナチの不法を追及した検事長フリッツ・バウアーを紹介したものとして、Ronen Steinke, Fritz Bauer oder Auschwitz vor Gericht, 3. Auflage, 2016.ローネン・シュタインケ(本田稔訳)『フリッツ・バウアー ― アイヒマンを追いつめた検事長』(アルファベータブックス、2017年)参照。
 本書を原作に制作された映画「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも恐れた男」(ラース・クラウメ監督)が日本で上映された当時、詩人の柴田三吉はそれを次のように評論した。「ドイツ社会は現在も自らの手でナチスの戦争犯罪の告発を続けている。だがそれはたやすくなされたわけではない。良識ある市民、被害者たちが忘却という壁を打ち破り、事実の風化を防いできた結果だ。本作は実在した検事長を軸に、戦争犯罪追及の扉が開かれるまでのたたかいを描いている」。検事長とはフリッツ・バウアーのことである。彼はアルゼンチンに潜伏するアイヒマンをドイツの裁判所で裁くことを求めたが、それはドイツとイスラエルの「政治的決着」で実現しなかった。しかし、「彼の不屈の行動によって、その後の戦犯追及も大きな進展を見せたのだった。戦争の真実に目をつぶることは国の信義と尊厳を失うことだという信念を貫」いた。バウアーは、「国の信義と尊厳」の守るために一人の人間として闘った。また、戦後世代の若者にも闘う勇気を持つよう呼びかけた。柴田はこのような人間フリッツ・バウアーを高く評価する。そして、「これを鏡とするなら、日本が行った戦後処理はどのような姿として映るだろう。信義と尊厳を失うことなく国としての責任を全うしてきたろうか。私たちはその答えを、現在に至ってもアジア諸国との和解を果たせていない政治に見ている」と続ける(傍点は引用者による)。戦争の真実に目をつぶることは、国の信義と尊厳を失うことである。ドイツにおいてその回復に努めたのは、良識ある市民と被害者(バウアーもその一人)であった。ドイツの戦後処理は、等身大の市民が責任主体となって勝ち取った成果であった。しかし、柴田は日本の戦後処理を「日本が行った戦後処理」と書き表し、「国としての責任を全うしてきただろうか」と、戦後処理の責任を「国」に問う。そして、その答えを「現在に至ってもアジア諸国との和解を果たせていない政治」に見ている。その政治とは、国のアジア外交である。つまり、柴田の論理によると、戦後処理の責任主体は国であり、「現在に至ってもアジア諸国との和解を果たせていない政治」を見れば分かるように、国はアジア外交を通じてその責任を果たしてこなかったことが問題視されている。ここには一人称で闘った等身大の市民は責任主体から除外されている。柴田がナチスの過去の克服のために闘った良識ある市民としてバウアーを高く評価するのであれば、日本の国家としての信義と尊厳を守るべき責任主体は、私たちの社会、そして私たち自身であると考えるべきである。バウアーのような法律家を生み出せなかった私たちの社会の責任を認識すべきである。そして、その程度の社会しか作れなかった(たとえ良識があっても)市民と自身の責任を痛感すべきである。アドルノが行ったように、問題は一人称で問われるべきである(柴田三吉「人生懸けホロコースト告発」しんぶん赤旗2017年1月6日)。
3)Adorno, a.a.O., S. 126 f.(大久保訳・159頁以下)。
4)Adorno, a.a.O., S. 128 f.(大久保訳・161頁以下)。
5)Helmut Ortner, Keine Stunde Null - Warum NS-Juristen in Deutschland straffrei ausgingen - und fast alle damit einverstanden waren.(ヘルムート・オルトナー〔本田稔訳〕「時間はリセットされなかった ― ドイツでナチの法律家が罪を問われないまま出発でき、多くの人々がそれに理解を示した理由」龍谷法学第51巻第1号〔2018年〕787頁以下)。Die Stunde Nullという言葉は、「零時刻」と訳され、一般に古い「無」の状態から新しい「有」が始まる起点を指す。ドイツの歴史学や法史学においては、戦前が終わり、戦後が始まる時点を指す言葉として用いられている。ナチの全体主義が支配した戦争と異民族排外主義の時代から、民主主義に支えられた平和と国際協調主義の時代へと向かう歴史の時計がリセットされた時点である。オルトナーは、法律による過去の清算とナチ残党の公職からの追放が徹底されなかったことを史実に基づいて検証した結果、戦前から戦後にかけての歴史の時計はリセットされなかったと結論づける。
 文芸批評家の加藤典洋は、『敗戦後論』(講談社、1997年)において、太宰治が平和と民主主義などの戦後の新時代の価値を戦後の知識人が無批判に受容した姿を見て、「一種のあほらしい感じ」を受けたことを紹介している。多くの知識人は、戦前から戦後への歴史の転換が自然の川のように流れ、それに身を任せることに歴史の必然性を実感しているが、彼らは戦前にその価値の意義について一言も述べず、それどころか否定しさえしたことを指摘して、太宰は「それ(戦後の価値 ― 引用者注)は自分の取り分ではない」ことを認めるべきであると批判した。したがって、太宰の場合、戦前が終わり、水門が開いても、水は戦後に向かって流れ始めない。水の流れを堰き止めていた戦前の水門を開ける作業は、敗戦という歴史的事実とは別の次元にあるというのである。この加藤の着想の刑法学に与えた影響に関しては、本田稔「刑法史認識の対象と方法について」浅田和成・上田寛・松宮孝明・本田稔・金尚均編『自由と安全の刑事法学 生田勝義先生古稀祝賀論文集』(法律文化社、2014年)193頁以下で論じた。
6)トーマス・マン「ゲーテと民主主義」(トーマス・マン〔青木順三訳〕『ドイツとドイツ人』〔岩波書店、1990年〕153頁以下)。
7)マン講演について、三島憲一『戦後ドイツ ― その知的歴史』(岩波書店、1991年)19頁以下、小塩節『トーマス・マンとドイツの時代』(中央公論社、1992年)195頁以下参照。
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