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「生きることの意味を問う哲学」戸谷洋志・森岡正博(『現代思想』2019/11所収):ベネターの反出生主義とヨナスの出生主義!「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある!

2021-06-22 21:33:36 | 日記
※『現代思想』2019/11「特集 反出生主義を考える《生まれてこないほうが良かった》という思想」(8-19頁)    
※戸谷洋志(トヤヒロシ)(1988-):ハンス・ヨナスの哲学研究等。
※森岡正博(1958-):「人生の意味」の哲学的探究、「生命の哲学」の提唱等。

(1)ベネターの反出生主義(生まれてこないほうが良かった)とヨナスの出生主義(生まれて来ることは意味がある)!
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(邦訳2017年)、は、分析哲学的に論理ゲームとして「誕生害悪論」を展開する。ベネターが反出生主義であるのに対し、ハンス・ヨナス(1903-1993)は出生主義(生まれて来ることは意味がある)の立場に立つ。(10頁)
Cf. David Benatar (1966-), Better Never to Have Been: The Harm of Coming Into Existence (2006)

(2)ハンナ・アーレントの出生主義:「出生」とは「新しい活動を始めること」だ!
ユダヤ系のハンナ・アーレント(1906-1975)『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism, 1951)は出生主義の立場だ。「出生」とは「新しい活動を始めること」、「既存の秩序に対し違うものを打ち立てる能力」の条件である。ハンナ・アーレントは、出生を肯定することで政治的な公共性を作り出し、それによって全体主義を克服する可能性を見る。全体主義は人間の繁殖を管理する。(10頁)
(3)ヨナスは「人類の存続への責任」を訴え出生主義の立場をとる!
ユダヤ系のハンス・ヨナス(1903-1993)は出生主義の立場だ。人類の存続のためには、新しい世界を作り上げていくことのできる多様な人間が生まれてこなければならない。そうした可能性を開き続けることが未来世代への責任だ。ヨナスは「人類の存続への責任」を訴え出生主義の立場をとる。(ヨナスはアーレントの考え方に影響を受けている。)(10頁)

(4)反出生主義のベネター:「生まれてこないほうが良い」ことを「論証できる」?!
反出生主義のベネターは、「意識のある存在は生まれてこないほうが良い」ことを「論証できる」という。
《感想》「良い」か「良くない」かは価値判断だから、「選択」するのであって、「論証」と無縁だ。ベネターは「良い」か「良くない」かを「論証できる」と言うことはできない。できるのは世界の構造を論理的に分析することだけだ。(11頁)
(4)-2 ヨナスの出生主義:「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れることを実存的に「選択」する!
「良い」か「良くない」かを「論証できる」とするベネターと異なり、ヨナスは「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れるか拒否するか、実存的に「選択」するのだと言う。ヨナス自身は「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れ、従う。これがヨナスの出生主義だ。(11頁)

(5)ベネターの反出生主義は「分析哲学の知的なゲーム」であって、「実存的な自分の問題」でない!
ベネターは反出生主義を主張するにあたり、それを「分析哲学の知的なゲーム」としてとらえている。知的なパズル解きだ。だから「生まれてこないほうが良かった」という問題を「実存的な自分の問題」としてとらえている人には、ベネターの著作は答えを与えない。(10-12頁)
(5)-2「良かった」or「良くない」という価値判断、つまり実存的な選択の問題は、「論理的」に証明できない!ベネターへの疑問!
ベネターは「人生の中に痛みがほんの一滴でもあれば、いくら快があっても、生まれてこないほうが良かった」と主張する。(Cf. これについてはショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』の中で言いつくしている!)ベネターはこれを「論理的」に証明できると言う。(12頁)
《感想》だが「良かった」or「良くない」という価値判断は、「実存的な選択」の問題であるから、「論理的」に証明できない。

(6)どうしてわれわれは子どもを生んでいいのだろうか?「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある!(ベネターが提起した問題!)
だがベネターは「われわれはいったいどういう理由で新たな人間の命をこの世に生み出していいと言えるのか」、「どうしてわれわれは子どもを生んでいいのだろうか」という問いを、重要な問いとして提出した点で、重要だ。「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある。」12-13頁)

(7)レヴィナスの出生主義:「繁殖性」!
ショーペンハウアーを非常に大きな例外として、近現代の哲学者は、出生主義であり「子どもの誕生」を無条件に肯定的にとらえ、「希望の象徴」として語ってきた。例えばエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は『全体性と無限』で「私」が「繁殖性」によって無限の時間を生きうると述べる。(13頁)
(7)-2 クィア(Queer)理論エーデルマン:生殖を前提としない社会!
これに対してクィア(Queer)理論(※異性愛の規範性に対して異議を唱える理論)のリー・エーデルマンは「生殖を前提としない社会」のあり方を模索する。

(8)「生まれてこないほうが良かった」という「反出生主義」の思想は「暴力性」をはらむ!
「生まれてこないほうが良かった」という「反出生主義」の思想は「暴力性」をはらんでいる。私が生まれたことによって喜びや幸せを感じた人たち(Ex. 両親)がいる。「生まれてこないほうが良かった」は「誰にとって良いのか」を考えねばならない。(13-14頁)
(9)「反出生主義」に対抗する方法は「自殺」でない!「誕生肯定」にいたるにはどうすればよいかを問うべきだ!
「反出生主義」(生まれてこないほうが良かった)に対しては、「じゃ自殺すればいいじゃないか」という主張がなされる。だが「反出生主義」と「自殺」は根本的に異なる。「自殺」は遂行可能だが、「生まれてこないこと」は遂行不可能だ。「すでに生まれてきてしまっている」ことを前提に「誕生肯定」にいたるにはどうすればいいかという問いこそ、反出生主義に対抗する方法だ。(14-15頁)

(10)ヨナスの出生主義の「暴力性」!
出生主義も「暴力性」をはらむ。ヨナスの出生主義は「人類はまず存続しなければならない」、そのために「人間が生まれてこなければならない」と主張する。したがって「生まれてきた子供にとって良いかどうか」は問題でない。これは極めて暴力的だ。(15頁)
(10)-2 アーレントの出生主義の「暴力性」!
アーレントの出生主義は、「政治的な公共性を維持するために新しいものが生まれてこなければならない」、したがって「ある種のコミュニティを維持するために子どもを生む」という発想だ。彼女は「世界が良くなる」ことを求めており、「生まれてくる者にとって生まれてくることが良いかどうか」を考慮しない。(15頁)
(10)-3 ニーチェ:「人類をいかに発展させるか」が、出生の価値を決定する!
ニーチェにおいても、「人類をいかに発展させるか」が、出生の価値を決定する。「生まれてくる者自身にとって生まれてくることが良いかどうか」は考慮していない。(Cf. ショーペンハウアーやベネターにとって苦痛は害悪だ。しかしニーチェにとって苦痛は単なる害悪でない。なぜなら苦痛を経験することで、既存の価値観を相対化し、そこから新しい価値観を提示できるようになるからだ。)(15-16頁)

(11)森岡正博は「誕生肯定の思想」を構想する!
近現代のいわゆる出生主義とは異なり、「生まれてくる者にとって生まれて来ることが良い」と言えるような思想、つまり「誕生肯定の思想」を森岡正博は構想する。(16頁)
(11)-2 ヨナスのある種の「全体主義」を相対化しうるベネターの反出生主義!
ヨナスの「全体主義」、つまり「個人の出生を人類全体のために必要とする」というようなある種の「全体主義」!これに対して、ベネターの反出生主義、つまり「なぜわれわれが子どもを生んでいいのか」という問いは、ヨナスの出生全体主義的なものを相対化しうる。(16頁)
(11)-3 ショーペンハウアーと仏陀:出生主義と反出生主義の二項対立を超える道の可能性!
ショーペンハウアーは、自殺は「生への執着」がもたらしたとして否定する。ただし彼は「生へのあきらめ」としての餓死は許す。ショーペンハウアーは仏陀の思想を継承している。仏陀の最期は餓死による自殺と言ってよい。かくて仏陀は輪廻(生)から解脱する(出生の否定=反出生主義)は、出生することによって可能となると述べる。(出生主義!)ここから出生主義と反出生主義の二項対立を超える道が構想されうる。(16-17頁)
(11)-4 ニーチェ:倫理的な意味での反出生主義が、美的な意味では出生主義となる!
ニーチェは『悲劇の誕生』は、苦痛に満ちた生を神格化する「アポロン的芸術」に対し、その神格化を破壊する「デュオニソス的芸術」が生まれ、両者の一体化として「悲劇」が生まれたとする。「生まれてこないほうが良かった」(反出生主義)という苦悩によって、芸術や文化が育まれる。ここには倫理的な意味で「生まれてこないほうが良かった」(反出生主義)としても、美的な意味では「生まれきたほうが良かった」(出生主義)とされるロジックがある。(17頁)
(11)-5 ジャック・デリダにおける出生主義と反出生主義!
ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』は、「生まれてきて良かった」と思える者(出生主義)が、「生まれてこなければ良かった」と思う者(反出生主義)と関係を持ちつつ社会を作り上げていかねばならないと言う。ここには出生主義と反出生主義の二項対立の構図を崩す道がありうる。(以上、戸谷洋志。)ここにはしかしある種の全体主義がある。「生まれてこなければ良かった」と思う者(反出生主義)を、「生まれてきて良かった」と思える者(出生主義)が、社会の安定・存続のための駒とみなしている。(以上、森岡正博。)(17-18頁)
(11)-6 「誕生肯定の哲学」:「絶滅の運命」のなかでも「より良く生きる」とは、つまり「どう肯定的に絶滅するか」への答えとは、「愛」(共感)の「永遠のイデア」を生き抜くことだ!
「誕生肯定の哲学」(森岡正博)は、「人類が全体として絶滅する可能性」を肯定的に確保し、「どう肯定的に絶滅するか」を考えるべきだと言う。つまり「絶滅の運命のなかでより良く生きるとは何なのか」を考えるべきだと言う。(18-19頁)
《感想》「絶滅の運命」のなかでも「より良く生きる」とは、つまり「どう肯定的に絶滅するか」との問いへの答えとは、「愛」(共感)の「永遠のイデア」を生き抜くことだと思う。(評者の私見。)(18-19頁)
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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(84)-5 百田氏の誤り⑤:GHQやマッカーサーの意図を百田氏は曲解している!新憲法作成は「ソ連の介入」を阻止するためだった!

2021-06-21 11:38:24 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)  

(84)-5 百田氏の誤り⑤:GHQやマッカーサーの意図を百田氏は曲解している!新憲法作成は「ソ連の介入」を阻止するためであった! (327頁)
C-6 百田氏は「GHQはこの憲法草案を強引に日本側に押しつけた。内閣は大いに動揺したが、草案を吞まなければ天皇の戦争責任追及に及ぶであろうことは誰もが容易に推測できた」(百田412頁)と述べる。
C-6-2  これはGHQやマッカーサーの意図を曲解している。新憲法作成は「ソ連の介入」を阻止するためであった。
(ア)ソ連は、日本を軍政下に置いてドイツのような「分割占領」を企画していた。(※東西ドイツのように日本を分裂国家とする!日本の東半分をソ連の衛星国家にする!)
(イ)ソ連は、極東におけるアメリカの優越権を認める代わりに、東ヨーロッパ・バルカンにおけるソ連の優越権を認めさせた。
(ウ)かくてアメリカは「ソ連を含む連合国が直接統治しなくても日本は自ら民主化できる」という形式で、アメリカ主導の間接統治を行う必要があった。
(エ)「ポツダム宣言の要求に合致し、連合国を納得させる憲法」を日本政府が作らなければ、「ソ連の介入」を許すことにもなりかねない。新憲法作成は単に「天皇の戦争責任」だけに及ぶ問題ではなかった。
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アイリアノス『ギリシア奇談集』:「芸術に関するテーバイの法」(画家・彫刻家への罰金)!「恩義を忘れなかった人々」(青銅で黄金)!

2021-06-20 15:18:06 | 日記
※アイリアノス(200A.D.頃)『ギリシア奇談集』(第1~14巻)岩波文庫

第4巻(04)「芸術に関するテーバイの法」:へたくそな画家・彫刻家への罰金!
テーバイには、画家・彫刻家に、「実物以上に勝れた作品」を制作することを義務づけた法律がある。「実物よりも劣った似姿」を刻んだり描いたりした者には、法律で罰金1000ドラクメが課せられる。
《感想》当時、1ドラクメで「2日暮らせた」という。1000ドラクメは2000日分の生活費だ。画家・彫刻家はこのような罰金があって大変だ。肖像画や彫刻は、今で言えば、「お見合い写真」のようなものだったのだろう。あるいは法律で罰金を課すことによって、画家・彫刻家の技量を保障しようとした。( 国家試験の代わりだ!)

第4巻(05)「恩義を忘れなかった人々」:「緋色の外套」と「祖国サモス島の支配者」!
ダレイオス(1世)が私人であった頃に、シュロソンから「緋色の外套」を貰った。ダレイオスがペルシア王(位前522-前486)となった後、シュロソンはダレイオスの力で「祖国サモス島の支配者」にしてもらった。(シュロソンは兄王によってサモス島から逐われていた。)「青銅で黄金」のたぐいだ。
《感想》「青銅で黄金」とは、「青銅の武具」(牛9頭の値打ち)を「黄金の武具」(牛100頭の値打ち)と交換すること。「海老で鯛を釣る」と同趣の諺だ。
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『白川前日銀総裁が英議会で証言、金融緩和「超長期化」の末路』(『週刊ダイヤモンド』2021/6/19号):「超金融緩和策」がコロナ終息後もずるずると続くと、「ゾンビ企業」が生き続ける!

2021-06-20 13:54:44 | 日記
(1)《インフレ率を押し上げようとした日本銀行》は、完全に失敗した!
米財務長官でハーバード大学のローレンス・サマーズ教授は2019年8月の論文で「インフレ率を押し上げようとした日本銀行の広範囲の努力は完全な失敗となった」と述べた。だが実は、米国の多くの高名な経済学者たちはかつて、日本経済の低迷の原因は不十分な金融緩和策による低インフレ率にあると、日本銀行を激しく批判した。今やサマーズ教授は「金融政策によりインフレ率をいつも定めることは、中央銀行にできない」と誤りを認めた。
《感想1》「米国の多くの高名な経済学者たち」は単に誤りを認めればいい。(気楽なものだ!)日本経済は日銀の超金融緩和の結果、企業のゾンビ化が進みつつある。(後述)

(2)「超金融緩和策」の結果責任を負うべきは黒田日銀総裁と安倍首相だ!
黒田東彦(ハルヒコ)日銀総裁は2013年、「超金融緩和策」を実施。大胆な緩和策を行えば「2年程度でインフレ率2%の目標は達成可能だ」と信じていた。(『ドキュメント日銀漂流』西野智彦著)そして「アベノミクス」推進のため、安倍晋三首相(当時)が、黒田東彦(ハルヒコ)を日銀総裁に選んだ。
《感想2》日銀の「超金融緩和策」の結果責任を負うべきは黒田東彦日銀総裁と安倍晋三首相(当時)だ。

(3)黒田日銀総裁は、米国の経済理論に追随し、日本にきちんと目を向けない!
だが黒田氏が信じた経済理論は、日本の構造的要因を知らない(上述したような)当時の米国の経済学者らが構築したものだ。(ア)インフレ率伸び悩みの主因は日本の賃金の伸びが不十分だった点にある。(日本には賃上げより雇用の維持を強く重視する労使慣行がある。Cf. 非正規雇用4割、正規でもリストラあり。)また(イ)世界最速の日本の高齢化・生産年齢人口減少に伴う需要の縮小もインフレ率を上昇させない。(米国の生産年齢人口は今後も増加する。)
《感想3》愚かな日銀総裁。米国の経済理論に追随し、日本にきちんと目を向けない「洋学紳士」だ。Cf. 中江兆民『三酔人経綸問答』(サンスイジンケイリンモンドウ)1887年。洋学紳士(紳士君)、東洋豪傑(豪傑君)、南海先生が議論する。

(4)政府・日銀が「インフレ率をあげる」と言えば「自分の賃金や年金が増えていく」と予想できないので、多くの消費者は生活防衛的になり節約に傾く!
(ウ)日本では「自分の賃金や年金が増えていく」と予想する楽観的な人は少ない。そういった状況下で、政府・日銀が「インフレ率をあげる」(年率2%で上昇すれば30年後、物価は81%上昇)と強調すれば、人々は「自分の生涯の実質賃金は目減りする」と不安が募る。多くの消費者は生活防衛的になり節約に傾く。
《感想4》「インフレを起こす」つまり「物価を上げる」などと政府・日銀が言うのは、生活者の敵だ。賃金も上がらず(Ex. 非正規雇用4割、正規でもリストラあり)、年金が増えていかない状況で、物価が上がれば誰もが困る。

(5)アベノミクスは、国民の生活(実質民間最終消費支出)を、改善しなかった!
2019年(コロナ危機前)までアベノミクス下の7年間で実質民間最終消費支出は、累計でたった0.8%しか伸びなかった。その前の2012年までの7年間は、世界金融恐慌(2008リーマンショック~)、東日本大震災(2011)、ユーロ危機(2010ギリシア危機~)と危機の連続だったのに、実質民間最終消費支出は累計で3.5%伸びた。
《感想5》超金融緩和を「第1の矢」と呼んだアベノミクスは、国民の生活(実質民間最終消費支出)を、改善しなかった。何もしなければ、むしろ実質民間最終消費支出は拡大したはずだ。「インフレを起こす」・「物価を上げる」などと政府(アベノミクス)・日銀が言うので、人々が心配し消費にカネを回せなくなった。しかもそもそも賃金も上がらなかった。(Ex. 非正規雇用4割、Ex. 正規でもリストラあり!)

(6)「超金融緩和」は政府にとって大変居心地が良い:(a)利払い費を気にせず財政拡張、(b)超低金利で円高回避、(c)超低金利(債券価格の上昇)による株価上昇!
政府・与党はやがて「インフレ目標の実現を目指すことは得策でない」と察知する。(2018年安倍首相が日銀総裁に再任した黒田氏に「2%にこだわることはない」と伝えた。)だが、それはまた「間違っても出口なんて考えるなというメッセージ」でもあった。超金融緩和は政府にとって大変居心地が良い。国債の発行金利がゼロ%近辺あるいはマイナスであれば、(a)利払い費を気にせず財政拡張を(当面)行える。また (b)超低金利で円高回避が可能。さらに(c)超低金利(債券価格の上昇)は株価上昇をもたらす。
《感想6》政府・与党・日銀は「超金融緩和」(2013年~)を続ける。そして「コロナ危機」(2020年~)が発生し、超金融緩和・財政拡張が世界各国で採用された。

(7)「超金融緩和策」がコロナ終息後もずるずると続くと、「ゾンビ企業」が生き続ける!
だが、超緩和策がコロナ終息後もずるずると続くと、いったい何が起きるのか?中央銀行の「アグレッシブな緩和」(超金融緩和)で「クレジットスプレッド」(証券などの発行体の信用力に基づく利回り差)が圧縮され、本来は資金を適切に配分するクレジット市場の機能が低下する。《生産性の向上につながらない投資》の比率が高くなり、いわゆる「ゾンビ企業」が生き続ける。超金融緩和の「長期化」は、経済の新陳代謝を低下させ、一国の経済の生産性を低下させる。
《感想7》「クレジット市場」が「資金を適切に配分」し、経済の新陳代謝を促進し、経済の生産性を向上させるためには、超金融緩和は終了させなければならない。Cf. 日本の「失われた30年」!

(8)超低金利や財政支出に長期間依存すると、生産性の低い企業が増え、それらを支えるために金融緩和や財政支援策がさらに必要になる:日本の悪循環!「失われた30年」!
コロナ危機下で多くの先進国が金融緩和と財政拡張策を大規模に実施した。それによって主要13カ国の企業倒産件数は、過去の景気後退とは正反対に、減少している。超低金利や財政支出に長期間依存すると、生産性の低い企業が増え、それらを支えるために金融緩和や財政支援策がさらに必要になる。特に日本は金融緩和を30年以上実施してきたため、既に悪循環が生じている。日本の悪循環が他国で増えないためには、金融・財政政策の正常化(超金融緩和の終了)が、アフターコロナ期の世界的な課題となるだろう。
《感想8》日本企業は、超低金利や財政支出に長期間依存し生産性が落ちている。「失われた30年」!2009 年以降、日本は香港、台湾.よりも 1 人当たり所得水準が低い。かつては世界の15%を占めていたGDP(1989年15.3%)も30年間で6%(2018年5.9%)へと縮小した。
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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(84)-4 百田氏の誤り④:憲法は「国家」のあり方(国家権力の行使の仕方)のルールを定め、国民の幸福追求権(基本的人権)を守る!

2021-06-19 12:53:31 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)  

(84)-4 百田氏の誤り④:百田氏は「民主主義」という「普遍的な原理」を否定する点で誤りだ!憲法は「国家」のあり方(国家権力の行使の仕方)のルールを定め、国民の幸福追求権(基本的人権)を守る! (327頁)
C-5 百田氏は「本来、憲法というものは、その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観を含む多くの価値観が色濃く反映されたものであって然るべきだ。ところが日本国憲法には、第一条に『天皇』のことが書かれている以外、日本らしさを感じさせる条文はほぼない」(百田411頁)と述べる。
C-5-2 百田氏の憲法のとらえ方は、「憲法に対する一般的な考え方」と異なり、誤っている。「一般的な考え方」では「憲法とはそもそも司法・行政・立法を制限し、『普遍的な原理』を説くものだ」。(327頁)
《感想1》憲法は「国家」(国家権力)にむけられた法規範で、「国家」のあり方(国家権力の行使の仕方)のルールを定めたものだ。(Cf. 「憲政の常道」!)憲法は、そのようにして国民の幸福追求権(基本的人権)を守る。国民の幸福追求権(基本的人権)こそ至上であるとすること(つまり民主主義)は、「普遍的な原理」だ。
《感想2》ところが「国民の幸福追求権(基本的人権)こそ至上である」という考え方(民主主義)が「普遍的な原理」でない、つまり日本に当てはまらないと、百田氏は考える。百田氏が言う「その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観を含む多くの価値観が色濃く反映された」憲法は、「国民の幸福追求権(基本的人権)こそ至上である」という考え方(民主主義)を否定する。これは民主主義という「普遍的な原理」を否定するもので、誤りだ。

C-5-3  日本国憲法に「日本らしさ」がないとの百田氏の主張はこのように一方で、民主主義という「普遍的な原理」を否定する点で誤りだ。だが、他方でそれとは別に、百田氏の主張には、もう一つ誤りがある。すなわち日本国憲法に「日本らしさ」がないと百田氏は言うが、実は「大日本帝国憲法にしても、ドイツやフランス、ベルギーの君主権(Cf. 天皇大権)の強い憲法を手本にしたもので、『日本らしさ』はなかった」。(327頁)
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