※『現代思想』2019/11「特集 反出生主義を考える《生まれてこないほうが良かった》という思想」(8-19頁)
※戸谷洋志(トヤヒロシ)(1988-):ハンス・ヨナスの哲学研究等。
※森岡正博(1958-):「人生の意味」の哲学的探究、「生命の哲学」の提唱等。
(1)ベネターの反出生主義(生まれてこないほうが良かった)とヨナスの出生主義(生まれて来ることは意味がある)!
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(邦訳2017年)、は、分析哲学的に論理ゲームとして「誕生害悪論」を展開する。ベネターが反出生主義であるのに対し、ハンス・ヨナス(1903-1993)は出生主義(生まれて来ることは意味がある)の立場に立つ。(10頁)
Cf. David Benatar (1966-), Better Never to Have Been: The Harm of Coming Into Existence (2006)
(2)ハンナ・アーレントの出生主義:「出生」とは「新しい活動を始めること」だ!
ユダヤ系のハンナ・アーレント(1906-1975)『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism, 1951)は出生主義の立場だ。「出生」とは「新しい活動を始めること」、「既存の秩序に対し違うものを打ち立てる能力」の条件である。ハンナ・アーレントは、出生を肯定することで政治的な公共性を作り出し、それによって全体主義を克服する可能性を見る。全体主義は人間の繁殖を管理する。(10頁)
(3)ヨナスは「人類の存続への責任」を訴え出生主義の立場をとる!
ユダヤ系のハンス・ヨナス(1903-1993)は出生主義の立場だ。人類の存続のためには、新しい世界を作り上げていくことのできる多様な人間が生まれてこなければならない。そうした可能性を開き続けることが未来世代への責任だ。ヨナスは「人類の存続への責任」を訴え出生主義の立場をとる。(ヨナスはアーレントの考え方に影響を受けている。)(10頁)
(4)反出生主義のベネター:「生まれてこないほうが良い」ことを「論証できる」?!
反出生主義のベネターは、「意識のある存在は生まれてこないほうが良い」ことを「論証できる」という。
《感想》「良い」か「良くない」かは価値判断だから、「選択」するのであって、「論証」と無縁だ。ベネターは「良い」か「良くない」かを「論証できる」と言うことはできない。できるのは世界の構造を論理的に分析することだけだ。(11頁)
(4)-2 ヨナスの出生主義:「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れることを実存的に「選択」する!
「良い」か「良くない」かを「論証できる」とするベネターと異なり、ヨナスは「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れるか拒否するか、実存的に「選択」するのだと言う。ヨナス自身は「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れ、従う。これがヨナスの出生主義だ。(11頁)
(5)ベネターの反出生主義は「分析哲学の知的なゲーム」であって、「実存的な自分の問題」でない!
ベネターは反出生主義を主張するにあたり、それを「分析哲学の知的なゲーム」としてとらえている。知的なパズル解きだ。だから「生まれてこないほうが良かった」という問題を「実存的な自分の問題」としてとらえている人には、ベネターの著作は答えを与えない。(10-12頁)
(5)-2「良かった」or「良くない」という価値判断、つまり実存的な選択の問題は、「論理的」に証明できない!ベネターへの疑問!
ベネターは「人生の中に痛みがほんの一滴でもあれば、いくら快があっても、生まれてこないほうが良かった」と主張する。(Cf. これについてはショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』の中で言いつくしている!)ベネターはこれを「論理的」に証明できると言う。(12頁)
《感想》だが「良かった」or「良くない」という価値判断は、「実存的な選択」の問題であるから、「論理的」に証明できない。
(6)どうしてわれわれは子どもを生んでいいのだろうか?「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある!(ベネターが提起した問題!)
だがベネターは「われわれはいったいどういう理由で新たな人間の命をこの世に生み出していいと言えるのか」、「どうしてわれわれは子どもを生んでいいのだろうか」という問いを、重要な問いとして提出した点で、重要だ。「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある。」12-13頁)
(7)レヴィナスの出生主義:「繁殖性」!
ショーペンハウアーを非常に大きな例外として、近現代の哲学者は、出生主義であり「子どもの誕生」を無条件に肯定的にとらえ、「希望の象徴」として語ってきた。例えばエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は『全体性と無限』で「私」が「繁殖性」によって無限の時間を生きうると述べる。(13頁)
(7)-2 クィア(Queer)理論エーデルマン:生殖を前提としない社会!
これに対してクィア(Queer)理論(※異性愛の規範性に対して異議を唱える理論)のリー・エーデルマンは「生殖を前提としない社会」のあり方を模索する。
(8)「生まれてこないほうが良かった」という「反出生主義」の思想は「暴力性」をはらむ!
「生まれてこないほうが良かった」という「反出生主義」の思想は「暴力性」をはらんでいる。私が生まれたことによって喜びや幸せを感じた人たち(Ex. 両親)がいる。「生まれてこないほうが良かった」は「誰にとって良いのか」を考えねばならない。(13-14頁)
(9)「反出生主義」に対抗する方法は「自殺」でない!「誕生肯定」にいたるにはどうすればよいかを問うべきだ!
「反出生主義」(生まれてこないほうが良かった)に対しては、「じゃ自殺すればいいじゃないか」という主張がなされる。だが「反出生主義」と「自殺」は根本的に異なる。「自殺」は遂行可能だが、「生まれてこないこと」は遂行不可能だ。「すでに生まれてきてしまっている」ことを前提に「誕生肯定」にいたるにはどうすればいいかという問いこそ、反出生主義に対抗する方法だ。(14-15頁)
(10)ヨナスの出生主義の「暴力性」!
出生主義も「暴力性」をはらむ。ヨナスの出生主義は「人類はまず存続しなければならない」、そのために「人間が生まれてこなければならない」と主張する。したがって「生まれてきた子供にとって良いかどうか」は問題でない。これは極めて暴力的だ。(15頁)
(10)-2 アーレントの出生主義の「暴力性」!
アーレントの出生主義は、「政治的な公共性を維持するために新しいものが生まれてこなければならない」、したがって「ある種のコミュニティを維持するために子どもを生む」という発想だ。彼女は「世界が良くなる」ことを求めており、「生まれてくる者にとって生まれてくることが良いかどうか」を考慮しない。(15頁)
(10)-3 ニーチェ:「人類をいかに発展させるか」が、出生の価値を決定する!
ニーチェにおいても、「人類をいかに発展させるか」が、出生の価値を決定する。「生まれてくる者自身にとって生まれてくることが良いかどうか」は考慮していない。(Cf. ショーペンハウアーやベネターにとって苦痛は害悪だ。しかしニーチェにとって苦痛は単なる害悪でない。なぜなら苦痛を経験することで、既存の価値観を相対化し、そこから新しい価値観を提示できるようになるからだ。)(15-16頁)
(11)森岡正博は「誕生肯定の思想」を構想する!
近現代のいわゆる出生主義とは異なり、「生まれてくる者にとって生まれて来ることが良い」と言えるような思想、つまり「誕生肯定の思想」を森岡正博は構想する。(16頁)
(11)-2 ヨナスのある種の「全体主義」を相対化しうるベネターの反出生主義!
ヨナスの「全体主義」、つまり「個人の出生を人類全体のために必要とする」というようなある種の「全体主義」!これに対して、ベネターの反出生主義、つまり「なぜわれわれが子どもを生んでいいのか」という問いは、ヨナスの出生全体主義的なものを相対化しうる。(16頁)
(11)-3 ショーペンハウアーと仏陀:出生主義と反出生主義の二項対立を超える道の可能性!
ショーペンハウアーは、自殺は「生への執着」がもたらしたとして否定する。ただし彼は「生へのあきらめ」としての餓死は許す。ショーペンハウアーは仏陀の思想を継承している。仏陀の最期は餓死による自殺と言ってよい。かくて仏陀は輪廻(生)から解脱する(出生の否定=反出生主義)は、出生することによって可能となると述べる。(出生主義!)ここから出生主義と反出生主義の二項対立を超える道が構想されうる。(16-17頁)
(11)-4 ニーチェ:倫理的な意味での反出生主義が、美的な意味では出生主義となる!
ニーチェは『悲劇の誕生』は、苦痛に満ちた生を神格化する「アポロン的芸術」に対し、その神格化を破壊する「デュオニソス的芸術」が生まれ、両者の一体化として「悲劇」が生まれたとする。「生まれてこないほうが良かった」(反出生主義)という苦悩によって、芸術や文化が育まれる。ここには倫理的な意味で「生まれてこないほうが良かった」(反出生主義)としても、美的な意味では「生まれきたほうが良かった」(出生主義)とされるロジックがある。(17頁)
(11)-5 ジャック・デリダにおける出生主義と反出生主義!
ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』は、「生まれてきて良かった」と思える者(出生主義)が、「生まれてこなければ良かった」と思う者(反出生主義)と関係を持ちつつ社会を作り上げていかねばならないと言う。ここには出生主義と反出生主義の二項対立の構図を崩す道がありうる。(以上、戸谷洋志。)ここにはしかしある種の全体主義がある。「生まれてこなければ良かった」と思う者(反出生主義)を、「生まれてきて良かった」と思える者(出生主義)が、社会の安定・存続のための駒とみなしている。(以上、森岡正博。)(17-18頁)
(11)-6 「誕生肯定の哲学」:「絶滅の運命」のなかでも「より良く生きる」とは、つまり「どう肯定的に絶滅するか」への答えとは、「愛」(共感)の「永遠のイデア」を生き抜くことだ!
「誕生肯定の哲学」(森岡正博)は、「人類が全体として絶滅する可能性」を肯定的に確保し、「どう肯定的に絶滅するか」を考えるべきだと言う。つまり「絶滅の運命のなかでより良く生きるとは何なのか」を考えるべきだと言う。(18-19頁)
《感想》「絶滅の運命」のなかでも「より良く生きる」とは、つまり「どう肯定的に絶滅するか」との問いへの答えとは、「愛」(共感)の「永遠のイデア」を生き抜くことだと思う。(評者の私見。)(18-19頁)
※戸谷洋志(トヤヒロシ)(1988-):ハンス・ヨナスの哲学研究等。
※森岡正博(1958-):「人生の意味」の哲学的探究、「生命の哲学」の提唱等。
(1)ベネターの反出生主義(生まれてこないほうが良かった)とヨナスの出生主義(生まれて来ることは意味がある)!
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(邦訳2017年)、は、分析哲学的に論理ゲームとして「誕生害悪論」を展開する。ベネターが反出生主義であるのに対し、ハンス・ヨナス(1903-1993)は出生主義(生まれて来ることは意味がある)の立場に立つ。(10頁)
Cf. David Benatar (1966-), Better Never to Have Been: The Harm of Coming Into Existence (2006)
(2)ハンナ・アーレントの出生主義:「出生」とは「新しい活動を始めること」だ!
ユダヤ系のハンナ・アーレント(1906-1975)『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism, 1951)は出生主義の立場だ。「出生」とは「新しい活動を始めること」、「既存の秩序に対し違うものを打ち立てる能力」の条件である。ハンナ・アーレントは、出生を肯定することで政治的な公共性を作り出し、それによって全体主義を克服する可能性を見る。全体主義は人間の繁殖を管理する。(10頁)
(3)ヨナスは「人類の存続への責任」を訴え出生主義の立場をとる!
ユダヤ系のハンス・ヨナス(1903-1993)は出生主義の立場だ。人類の存続のためには、新しい世界を作り上げていくことのできる多様な人間が生まれてこなければならない。そうした可能性を開き続けることが未来世代への責任だ。ヨナスは「人類の存続への責任」を訴え出生主義の立場をとる。(ヨナスはアーレントの考え方に影響を受けている。)(10頁)
(4)反出生主義のベネター:「生まれてこないほうが良い」ことを「論証できる」?!
反出生主義のベネターは、「意識のある存在は生まれてこないほうが良い」ことを「論証できる」という。
《感想》「良い」か「良くない」かは価値判断だから、「選択」するのであって、「論証」と無縁だ。ベネターは「良い」か「良くない」かを「論証できる」と言うことはできない。できるのは世界の構造を論理的に分析することだけだ。(11頁)
(4)-2 ヨナスの出生主義:「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れることを実存的に「選択」する!
「良い」か「良くない」かを「論証できる」とするベネターと異なり、ヨナスは「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れるか拒否するか、実存的に「選択」するのだと言う。ヨナス自身は「出生しなければならない」という「命法(命令)」を受け入れ、従う。これがヨナスの出生主義だ。(11頁)
(5)ベネターの反出生主義は「分析哲学の知的なゲーム」であって、「実存的な自分の問題」でない!
ベネターは反出生主義を主張するにあたり、それを「分析哲学の知的なゲーム」としてとらえている。知的なパズル解きだ。だから「生まれてこないほうが良かった」という問題を「実存的な自分の問題」としてとらえている人には、ベネターの著作は答えを与えない。(10-12頁)
(5)-2「良かった」or「良くない」という価値判断、つまり実存的な選択の問題は、「論理的」に証明できない!ベネターへの疑問!
ベネターは「人生の中に痛みがほんの一滴でもあれば、いくら快があっても、生まれてこないほうが良かった」と主張する。(Cf. これについてはショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』の中で言いつくしている!)ベネターはこれを「論理的」に証明できると言う。(12頁)
《感想》だが「良かった」or「良くない」という価値判断は、「実存的な選択」の問題であるから、「論理的」に証明できない。
(6)どうしてわれわれは子どもを生んでいいのだろうか?「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある!(ベネターが提起した問題!)
だがベネターは「われわれはいったいどういう理由で新たな人間の命をこの世に生み出していいと言えるのか」、「どうしてわれわれは子どもを生んでいいのだろうか」という問いを、重要な問いとして提出した点で、重要だ。「出生」はつねに「出生させる側」の暴力としてある。」12-13頁)
(7)レヴィナスの出生主義:「繁殖性」!
ショーペンハウアーを非常に大きな例外として、近現代の哲学者は、出生主義であり「子どもの誕生」を無条件に肯定的にとらえ、「希望の象徴」として語ってきた。例えばエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は『全体性と無限』で「私」が「繁殖性」によって無限の時間を生きうると述べる。(13頁)
(7)-2 クィア(Queer)理論エーデルマン:生殖を前提としない社会!
これに対してクィア(Queer)理論(※異性愛の規範性に対して異議を唱える理論)のリー・エーデルマンは「生殖を前提としない社会」のあり方を模索する。
(8)「生まれてこないほうが良かった」という「反出生主義」の思想は「暴力性」をはらむ!
「生まれてこないほうが良かった」という「反出生主義」の思想は「暴力性」をはらんでいる。私が生まれたことによって喜びや幸せを感じた人たち(Ex. 両親)がいる。「生まれてこないほうが良かった」は「誰にとって良いのか」を考えねばならない。(13-14頁)
(9)「反出生主義」に対抗する方法は「自殺」でない!「誕生肯定」にいたるにはどうすればよいかを問うべきだ!
「反出生主義」(生まれてこないほうが良かった)に対しては、「じゃ自殺すればいいじゃないか」という主張がなされる。だが「反出生主義」と「自殺」は根本的に異なる。「自殺」は遂行可能だが、「生まれてこないこと」は遂行不可能だ。「すでに生まれてきてしまっている」ことを前提に「誕生肯定」にいたるにはどうすればいいかという問いこそ、反出生主義に対抗する方法だ。(14-15頁)
(10)ヨナスの出生主義の「暴力性」!
出生主義も「暴力性」をはらむ。ヨナスの出生主義は「人類はまず存続しなければならない」、そのために「人間が生まれてこなければならない」と主張する。したがって「生まれてきた子供にとって良いかどうか」は問題でない。これは極めて暴力的だ。(15頁)
(10)-2 アーレントの出生主義の「暴力性」!
アーレントの出生主義は、「政治的な公共性を維持するために新しいものが生まれてこなければならない」、したがって「ある種のコミュニティを維持するために子どもを生む」という発想だ。彼女は「世界が良くなる」ことを求めており、「生まれてくる者にとって生まれてくることが良いかどうか」を考慮しない。(15頁)
(10)-3 ニーチェ:「人類をいかに発展させるか」が、出生の価値を決定する!
ニーチェにおいても、「人類をいかに発展させるか」が、出生の価値を決定する。「生まれてくる者自身にとって生まれてくることが良いかどうか」は考慮していない。(Cf. ショーペンハウアーやベネターにとって苦痛は害悪だ。しかしニーチェにとって苦痛は単なる害悪でない。なぜなら苦痛を経験することで、既存の価値観を相対化し、そこから新しい価値観を提示できるようになるからだ。)(15-16頁)
(11)森岡正博は「誕生肯定の思想」を構想する!
近現代のいわゆる出生主義とは異なり、「生まれてくる者にとって生まれて来ることが良い」と言えるような思想、つまり「誕生肯定の思想」を森岡正博は構想する。(16頁)
(11)-2 ヨナスのある種の「全体主義」を相対化しうるベネターの反出生主義!
ヨナスの「全体主義」、つまり「個人の出生を人類全体のために必要とする」というようなある種の「全体主義」!これに対して、ベネターの反出生主義、つまり「なぜわれわれが子どもを生んでいいのか」という問いは、ヨナスの出生全体主義的なものを相対化しうる。(16頁)
(11)-3 ショーペンハウアーと仏陀:出生主義と反出生主義の二項対立を超える道の可能性!
ショーペンハウアーは、自殺は「生への執着」がもたらしたとして否定する。ただし彼は「生へのあきらめ」としての餓死は許す。ショーペンハウアーは仏陀の思想を継承している。仏陀の最期は餓死による自殺と言ってよい。かくて仏陀は輪廻(生)から解脱する(出生の否定=反出生主義)は、出生することによって可能となると述べる。(出生主義!)ここから出生主義と反出生主義の二項対立を超える道が構想されうる。(16-17頁)
(11)-4 ニーチェ:倫理的な意味での反出生主義が、美的な意味では出生主義となる!
ニーチェは『悲劇の誕生』は、苦痛に満ちた生を神格化する「アポロン的芸術」に対し、その神格化を破壊する「デュオニソス的芸術」が生まれ、両者の一体化として「悲劇」が生まれたとする。「生まれてこないほうが良かった」(反出生主義)という苦悩によって、芸術や文化が育まれる。ここには倫理的な意味で「生まれてこないほうが良かった」(反出生主義)としても、美的な意味では「生まれきたほうが良かった」(出生主義)とされるロジックがある。(17頁)
(11)-5 ジャック・デリダにおける出生主義と反出生主義!
ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』は、「生まれてきて良かった」と思える者(出生主義)が、「生まれてこなければ良かった」と思う者(反出生主義)と関係を持ちつつ社会を作り上げていかねばならないと言う。ここには出生主義と反出生主義の二項対立の構図を崩す道がありうる。(以上、戸谷洋志。)ここにはしかしある種の全体主義がある。「生まれてこなければ良かった」と思う者(反出生主義)を、「生まれてきて良かった」と思える者(出生主義)が、社会の安定・存続のための駒とみなしている。(以上、森岡正博。)(17-18頁)
(11)-6 「誕生肯定の哲学」:「絶滅の運命」のなかでも「より良く生きる」とは、つまり「どう肯定的に絶滅するか」への答えとは、「愛」(共感)の「永遠のイデア」を生き抜くことだ!
「誕生肯定の哲学」(森岡正博)は、「人類が全体として絶滅する可能性」を肯定的に確保し、「どう肯定的に絶滅するか」を考えるべきだと言う。つまり「絶滅の運命のなかでより良く生きるとは何なのか」を考えるべきだと言う。(18-19頁)
《感想》「絶滅の運命」のなかでも「より良く生きる」とは、つまり「どう肯定的に絶滅するか」との問いへの答えとは、「愛」(共感)の「永遠のイデア」を生き抜くことだと思う。(評者の私見。)(18-19頁)