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yuuutunna toki no nikki

藤沢周平(1927-1997)「小さな橋で」(1976年):おれ、およしと「でき」た!落ちが付いて、笑ってしまう!

2024-02-27 14:37:50 | 日記
※藤沢周平(1927-1997)「小さな橋で」(1976年、49歳)『日本文学100年の名作、第7巻、1974-1983』新潮社、2015年、所収
(1)広次は10歳。姉のおりょうが16歳。おりょうは毎日、米屋に働きに行く。おりょうは米屋の手代の重吉という男と「できている」とのうわさだ。
(2)母親のおまきが、おりょうに言った。「重吉は女房がいて子供がいるんだよ。つきあっていたらいずれろくなことにならないんだからね。おまえ、だまされてんだよ。あの男に。」
(3)おりょうはある日、「米屋に行く」と朝出かけて、米屋に行かず重吉と駆け落ちした。重吉は米屋の金を持ち逃げした。
(3)-2  広次の父親の民蔵も、4年前に突然姿を消した。
(4)母親のおまきは、父親の民蔵が、出奔して以後、夜の勤めに出ていた。今や娘のおりょうも駆け落ちし、それ以来、店も休みがちになった。母親は家で酔って、姿を消した父親を愚痴り、おりょうを罵り、「あたしほど不幸せな女はいない」と愚痴った。そして広次に「お前だけが頼りだからね」と言った。

(4)-2 広次は、4年前に父が渡っていった町はずれの「小さな橋」の近くにいた。その時、その橋を渡って逃げる男を広次は見た。それは間違いなく父親の民蔵だった。民蔵は匕首を持った男たち3人に追われていた。
(4)-3 民蔵は3人の男たちからうまく逃げた。やがて広次の前に姿を現し言った。「金だ。遠州屋さんに渡してくれろ、とおっかにいいな」と広次に布に包んでひもで縛ったものを渡した。「おれはすぐ江戸を出る。もう二度と江戸に戻れない。みんなで元気に暮らせ」

(5)母親のおまきがすすり泣いて、広次に言った。「おっかさんも、少し疲れたんだよ」「もとはといえば、おとっつぁんが悪いんだよ」「おとっつぁんは、遠州屋という問屋さんで、番頭をしてたんだよ」「それが博奕に手を出して、お店の金を遣っちまってね」。父親の民蔵は、旅で働いて、そのお金を返すと主人に誓い江戸から姿を消した。
(5)-2 おまきは、2人の子供を育てることもさることながら、遠州屋に申しわけがなくて、実入りの多い飲み屋の酌婦に身を落とし、少しずつ遠州屋に金を入れていたのだ。

(5)-3  広次は、家に帰って、母親に金を渡さなければならない。だが広次は「小さな橋」にしゃがんで家に帰らなかった。そこに、一つ年下で仲がいいおよしが突然現れた。およしが言った。「広ちゃんが橋にいるんだけれど、呼びに行っても帰らないって。あんたが行ったら帰るかもしれないから、言ってくれっておばちゃんに頼まれたの。おばちゃん、そう言いながら泣いていたわよ」。広次はうつむいて、手で顔を覆った。するとおよしが腕を一杯にのばして、広次をかばように抱いた。「広ちゃんは、おとっつぁんがいないから、かわいそう」そう言うと、およしも泣いた。二人は身体をくっつけ合って、橋の上にしゃがんだまま、しばらく無言で丸い月を見つめた。ようやくおよしが身じろいで言った。「帰る?」「うん」と広次は答えた。
(5)-4 でも広次はもう少しそのままでいたいような気がしていた。浴衣を通して、およしの身体のあたたかみが伝わってくる。髪の匂いがし、握り合った手は少し湿って。くすぐったいような感触を伝えてくる。そうしていると安心でき、そのくせ心が落ちつきなく弾むようだった。突然に、広次は理解した。――おれ、およしと「でき」た。

《感想》おれ、およしと「でき」た。落ちが付いて、笑ってしまう。
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富岡多恵子(1935-2023)「動物の葬禮」(1975年):母ヨネと娘サヨ子はかつて「ひとり親と子供から成る世帯」だった!今、ともに金がない母ヨネも、成人した娘サヨ子も生きていくのに必死だ !

2024-02-26 14:18:21 | 日記
※富岡多恵子(1935-2023)「動物の葬禮」(1975年、40歳)『日本文学100年の名作、第7巻、1974-1983』新潮社、2015年、所収
(1)
指圧師の林田ヨネは55-56歳で一人住まいだ。ヨネの一人娘サヨ子は中学を出るとすぐ、勝手に近くの喫茶店につとめ、化粧品の宣伝ガールをつとめるなどした。その後、ヨネの2間の長屋から出て行って、どこに住んでいるかわからない。今、20歳そこそこのサヨ子は、時たまヨネの家に帰ってくるが、モノをもらうためか、金をせびるためだった。サヨ子は背の高い男「キリン」と暮らしている。「サヨ子は水商売をしているだろう」とヨネは思った。ヨネは指圧を行う先の支店長のおくさんや工場主のおくさんから色々ものを「もらう」のが好きだ。
(2)
ある日、サヨ子が久しぶりにヨネの家に、自動車で帰ってきた。「お母ちゃん、キリンつれてきた」。「蒲団敷いて、蒲団を!」「お母ちゃん、キリンを運ぶから手伝うて」とサヨ子が言った。ところがキリン(サヨ子の夫25歳)はすでに死んでいた。病没(胃がん)で死亡証明書があった。「お通夜と葬式ここでさしてもらうわ」とサヨ子が言った。
(3)
サヨ子は「このひとは、親も兄弟も、親戚もいてへんのよ」と言った。その翌日、サヨ子は「さあ、キリンのカタキ討ちや」と出かけて行った。ヨネは「葬式には金が要る」と心配した。サヨ子が花、葬式屋、仕出し屋、酒などの用意をした。キリンの母親はキリンが小さい頃、キリンを捨てて再婚して金持ちぶってる。サヨ子は知らんぷりするキリンの母親から「香典」と言って金を出させた。またサヨ子はキリンの親分の社長からも「金」をださせた。
(4)
サヨ子が「キリンのカタキ討ち」でえた「金」で「キリンの葬式」つまり「動物の葬礼」は無事、終わった。
(5)
ヨネは再び指圧師の仕事に出た。サヨ子はキリンの関係の「安キャバレー」はやめ、ヨネの家に引っ越してきた。ヨネは支店長の奥さんから、嫁に行くことになった娘の「古い靴3足や古い洋服数着」をもらって来た。ヨネは娘のサヨ子が勝手に越してきたことにいら立った。さらにサヨ子は支店長の娘の「靴・洋服」を勝手に自分のものにしようと風呂敷に包み、ヨネに届かないよう高々と持ち上げた。
(5)-2
サヨ子は母親におどけ、じゃれていたのかもしれなかった。だがヨネはそれに気づかず、サヨ子を引きずり倒した。そのとき、サヨ子は母ヨネに向かって「なにするのん!危ないやないの!欲ボケ!」と叫んだ。「なにが欲ボケや、あんたこそ、ひとのもの黙ってとって、ドロボーやないか!」とヨネは言った。二人は掴み合いになった。

《感想1》ともに金がない母ヨネも、成人した娘サヨ子も生きていくのに必死だ。

《感想2》母ヨネと娘サヨ子は「ひとり親と子供から成る世帯」だった。次いで母ヨネの「単独世帯」と娘サヨ子とキリンの「夫婦のみの世帯」となった。今や「母親と成人である子供から成る世帯」になった。

Cf. 1960年代以降は、国がモデルとする「標準世帯」(夫・会社員、妻・専業主婦、子供2人)が急激に増えた。
Cf. この小説が発表された1975年は、「標準世帯」が最多だった時代に属す。やがて「標準世帯」は減少していき、2010年には最も多い世帯は「単身世帯」となった。
Cf. 2015年「国勢調査」の世帯類型によると、「単独世帯」34.6%、「夫婦のみの世帯」20.1%、「夫婦と子供から成る世帯」26.9%、「ひとり親と子供から成る世帯」8.9%等々である。
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映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022、アメリカ):映画のテーマは、私たちの「人生」、「運命」、「可能性」!カンフーとマルチバース(多元宇宙)を描き熱中できる!

2024-02-22 16:31:40 | 日記
★原題「Everything Everywhere All at once」とは、マルチバース(多元宇宙)においては「あらゆること」(Everything)が「あらゆるところ」(Everywhere)で「同時に」(All at once)起きるということだ。
★映画の舞台設定・主な登場人物は以下の通り。
☆エヴリン:コインランドリーを経営する中国系アメリカ女性。問題多く大変な日常。コインランドリーの経営が厳しい。マルチバース(多元宇宙)の他のバース(ユニバース、宇宙)では、様々なバージョンのエヴリンが存在する。
☆ウェイモンド:エヴリンの夫。エヴリンとは過去、駆け落ちして結婚した。善良で優しい人物。しかし今や、「結婚は間違いだった」とエヴリンに離婚を申し出る。妻エヴリンから見ると夫ウェイモンドは、優しいだけで頼りにならない。ところがIRS(国税庁)を訪れた際に、ウェイモンドに「別の宇宙の夫」(アルファ・ウェイモンド)が乗り移り、以後、マルチバースでの戦いでエヴリンを導く。
☆エヴリンとウェイモンドの娘ジョイ:ガールフレンド(白人のベッキー)をパートナーとして持つ。それを認めたくない母親エヴリン。娘ジョイと母親エヴリンの関係は破綻寸前だ。エヴリンと対立するジョイは、他のユニバースにおいて、マルチバース(多元宇宙)全体への脅威となる悪の女王ジョブ・トゥパキとして行動する。
☆頑固な祖父ゴンゴン:エヴリンの厳しい父親。高齢により車椅子で移動する。
☆ディアドラ:IRS(国税庁)の監察官。不正を見抜くことが評価され、いくつも表彰されている。エヴリン一家は国税庁(IRS)に出向き監察官ディアドラに税務申告するが、ディアドラの監察は厳しい。

★人生の様々の「可能性」がマルチバース(多元宇宙:多くの並行宇宙からなる宇宙)において象徴される。
★生活に追われるごく普通の中年女性エヴリン。経営するコインランドリーは経営が綱渡りだ。娘ジョイは刺青を入れ、同性でしかも白人のガールフレンドと付き合い、エヴリンはそれが気に入らない。娘ジョイは母親エヴリンと対立する。
☆アルファ・バースのアルファ・ウェイモンドは、理想的で決断力・行動力のがあり、このバース(宇宙)における夫ウェイモンドのもつ「可能性」を象徴する。
☆ある日、突如として夫に乗り移った「別の宇宙アルファ・バースから来た」というアルファ・ウェイモンド!アルファ・ウェイモンドは、全宇宙の命運を妻エヴリンに託す。混乱するエヴリンに、「倒せるのは君だけだ」と驚きの使命を背負わせる。そんな「別の宇宙の夫」(アルファ・ウェイモンド)に言われるがまま、ワケも分からずマルチバース(多元宇宙)に飛び込んだエヴリン。彼女は、カンフーの達人の「別の宇宙のエヴリン」が乗り移り、カンフーマスターばりの身体能力を手に入れ、全人類の命運をかけた戦いに身を投じる。エヴリンは、マルチバースの脅威ジョブ・トゥパキ(「並行宇宙」の娘ジョイ)と戦う。
☆エヴリンは様々のバース(ユニバース)で、様々のエヴリン(「並行宇宙」の諸エヴリン)として存在する。カンフーの達人、中国歌劇の歌手、女優、シェフ、ハンバーガーの売り子、指先がソーセージのようにぶらぶらした世界の住人等々。

★マルチバース(多元宇宙)全体つまり全宇宙にカオスをもたらす強大な悪が、ジョブ・トゥパキだ。ジョブ・トゥパキは母親エヴリンに反抗する娘ジョイを象徴する「並行宇宙」の存在だ。カンフーの達人エヴリンがジョブ・トゥパキ(娘ジョイ)と死闘を繰り広げる。
☆マルチバース(多元宇宙)には、国税庁(IRS)の監察官ディアドラの悪鬼(「並行宇宙」のディアドラ)も出没し、カンフーの達人の「別の宇宙のエヴリン」とジョブ・トゥパキとの戦いを妨害する。
☆マルチバース(多元宇宙)において、カンフーの達人の「別の宇宙のエヴリン」はついに国税庁(IRS)の監察官ディアドラの悪鬼を倒す。
☆さらにカンフーの達人の「別の宇宙のエヴリン」は、反抗する娘ジョイを象徴する強大な悪鬼ジョブ・トゥパキ(=別の宇宙のジョイ)と戦い、全宇宙の破壊を阻止する。

★だが「別の宇宙のエヴリン」と悪鬼ジョブ・トゥパキ(=別の宇宙のジョイ)との戦いは、この世界(バース)における、母親エヴリンと娘ジョイの和解にいたることによって、中断する。
☆また妻エヴリンと夫ウェイモンドはこの世界(バース)において、離婚を取りやめる。というのは「優しいだけで頼りにならない」と思っていた夫ウェイモンドには、アルファ・ウェイモンドのように、理想的で決断力・行動力のある夫ウェイモンドという「可能性」があることに、妻エヴリンが気づいたからだ。
☆エヴリン一家が国税庁(IRS)に出向き監察官ディアドラに税務申告する件については、夫ウェイモンドの機転によって、無事乗り切ることができた。
★かくて、ハッピーエンド!

★映画は、カンフーとマルチバース(多元宇宙)を描き熱中できるが、ヒューマンドラマとして終わる。
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叢小榕『老荘思想の心理学』第8章34「主僕の夢――物極まれば必ず反(カエ)る」(『列子』周穆王):道家は①「《夢》と《現実》は同じ重みをもつ」、また②「苦楽は相互に交代する」と考える!

2024-02-22 14:23:09 | 日記
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第8章「夢と現とはどんな関係にあるか」
(34)主僕の夢――物極まれば必ず反(カエ)る(『列子』周穆王)
周の尹氏(インシ)は大いに蓄財にいそしみ、下僕たちをこき使った。その中に年老いた下僕がいて、昼は疲れ果て、夜は昏々と眠った。しかし夜な夜な夢の中で、彼は国王となり豪華な宮殿で楽しいことこの上なかった。ある人が昼、老僕の苦労を慰めると、老僕が答えて言った。「人生は百年、昼と夜は半分ずつ。わしは、昼間は下僕として働きひどくつらいが、夜は人君となり楽しいことはこの上ない。何の怨みがありましょう。」他方、尹氏は身を栄えさせるに十分な地位、有り余るほどの財産あるのに、夜な夜な、夢の中で人の下僕となりひどくつらい思いをした。尹氏はこれに悩み、友人に相談した。友人が言った。「苦と楽とは循環するので、昼間の暮らしが恵まれているあなたが夜に下僕となる夢を見て苦しむのだ。昼、目が覚めても、夜、夢を見ても、ともにいつも楽であるように望むのは不可能だ。」(『列子』周穆王)

★①道家は「夢」と「現実」はいずれも主観的な体験であり、同じ重みをもつと考える。(Ex. 32「胡蝶の夢」。)昼の「暮らし」(「現実」)も、夜の「夢」も同じ重みを持つ。
★また②道家は、世に悪いことばかりが起こり続けることもなければ。常に好いことに恵まれ続けることもないと考える。(Ex. 29「塞翁が馬」。)物事は絶頂に達すれば必ず逆転し、苦楽は相互に交代する。すなわち「物極まれば必ず反(カエ)る。」
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叢小榕『老荘思想の心理学』第8章33「現実の鹿と夢の鹿――幻想を共有すれば『現実』になる」(『列子』周穆王):《現実》の「鹿」は自分と他者の「幻想」(《夢》)が共有され《現実》となった!

2024-02-21 12:58:27 | 日記
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第8章「夢と現とはどんな関係にあるか」
(33)現実の鹿と夢の鹿――幻想を共有すれば「現実」になる(『列子』周穆王)
★鄭(テイ)の薪取りの男が「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )。⇒出来事Aは薪取りの男にとって《現実》!
☆薪取りの男はしかし隠し場所を忘れたので、ついに「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は夢と思うようになった。
⇒出来事Aは薪取りの男にとって《夢》!
☆薪取りの男は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )という夢について「ぶつぶつと呟いて歩いていた」。
⇒出来事Aは薪取りの男にとって《夢》だが(ただし《夢》と自分に言いきかせただけ)、他方で「ぶつぶつと呟いて歩いていた」のは薪取りの男にとって《現実》!

★通りすがりの男が、薪取りの男の「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )という夢の話を聞いて、隠し場所を見つけ出し鹿を手に入れた。
⇒「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A)は薪取りの男にとっては《夢》だが、通りすがりの男にとっては《現実》だ!
☆かくて通りすがりの男は、「薪取りの男は正夢(※現実と等価の夢;夢=現実)を見たのだ」と思った。
⇒ただし「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A)は薪取りの男にとって《夢》である!(薪取りの男は自分の「夢」が「正夢」とは認識していない!)他方、出来事Aは通りすがりの男にとって《現実》だ!

★ところが通りすがりの男の妻が言った。「お前さん(通りすがりの男)のほうが、『薪取りの男が鹿を手に入れた』つまり『鹿を仕留め、空堀に隠した』(出来事A)という《夢》を見たのではありませんか。薪取りの男など《現実》にはいやしないでしょう。」
⇒つまり妻は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A)は、通りすがりの男(夫)にとって《夢》だという!
☆ さらに妻が言う。「でも今、《現実》に鹿を手に入れたのだから、お前さん(夫)が見た《夢》は正夢(※現実と等価の夢;夢=現実)でしょう。」

☆夫(通りすがりの男)が言った。「おれはもう(《現実》において)鹿を手に入れたのだから、あいつ(薪取りの男)が《夢》を見たとか、おれ(通りすがりの男)が《夢》を見たとか、そんなことはどうでもよいではないか。」

★さて家に帰った薪取りの男は失くしてしまった鹿をあきらめなかった。
⇒「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は薪取りの男にとって始めは《現実》であり、後に《夢》とされた。《現実》であれ《夢》であれ「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は生じている。
☆その夜、薪取りの男は、「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )の《夢》をほんとうに見た。
⇒《現実》に起きた「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )が《夢》として想起された!

☆ さらにその夜、薪取りの男は、「通りすがりの男」が鹿を手にいれたという《夢》も見た。
⇒薪取りの男は、「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は夢だったと思い「ぶつぶつと呟いて歩いていた」時、「通りすがりの男」と出会った。そのことは覚えていて、その《現実》が想起され薪取りの男は、「通りすがりの男」の《夢》を見たのだ。しかし薪取りの男は、通りすがりの男が「鹿を手にいれた」ことについては《現実》として何も知らない。通りすがりの男が「鹿を手にいれた」という《夢》を見たことは、薪取りの男が《正夢》(※現実と等価の夢;夢=現実)を見たということだ。

★ 夜が明けると薪取りの男は、見た《夢》(正夢)にしたがって、通りすがりの男を(《現実》において)探し当てた。そして「薪取りの男」は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )のは自分なのだから、「鹿」を返してほしいと「通りすがりの男」に申し入れた。しかし、言い争いとなった。そこで薪取りの男は裁判官に訴え出た。

★裁判官は薪取りの男に言った。①あなたは初め、《現実》に鹿を手に入れたのに、つまり「鹿を仕留め、空堀に隠した」という(出来事A )が《現実》に生じたのに、②勝手に《夢》の中の出来事とした。
☆また③《夢》(※ただし《正夢》)の中で鹿の所在が分かったのに、かってにこれを《現実》(真実のこと)としている。
☆一方、④あなたの相手の男(通りすがりの男)は《現実》に鹿を手に入れた。⑤通りすがりの男の妻は、そもそも「薪取りの男」(「鹿を仕留め、空堀に隠した」男)などいないという。⑤-2 つまり通りすがりの男(夫)が、「薪取りの男が初め、《現実》に鹿を手に入れたのに、勝手に《夢》の中の出来事とした」ということを薪取りの男のつぶやきから知ったということが、そもそも《夢》だったのだと妻は言う。その全体が《夢》だが、ただし《正夢》だったと言う。
★裁判官は、「ここに確かに(《現実》に)鹿があるのだから、半分ずつ分けるとしたらどうだろう」と言った。

★このことを言上された鄭の君(主君)は「ああ裁判官もまた《夢》のなかで人に鹿を分け与えようとしているのではないだろうか」と言った。
☆鄭の君から、たずねられて宰相が答えた。「夢か夢でないか、つまり現実か夢かの区別は、誰もできません。ひとます裁判官の言うことを信じられるのがよろしいでしょう。」

《感想1》この今ある《現実》は、一場の《夢》かもしれない。「Row, row, row your boat, gently down the stream. Merrily, merrily, merrily, merrily, life is but a dream.」(ボートを漕ごう、穏やかに流れを下ろう。陽気に、陽気に、陽気に、人生は夢にすぎないのだから。)かくも《現実》と《夢》は区別できない。《現実》は《夢》、あるいは《幻》or《幻想》かもしれない。

《感想2》だが《現実》は恐るべき《幻》(《幻想》)だ。「いじめ」、「児童虐待」、「低賃金」、「貧困」、「暴力」、「拷問」、「密告」、「裏切り」、「弱肉強食」、「金のない惨めさ」、「ボスの傲慢」、「不正」、「不公正」、「飢餓」、「ジェノサイド」、「戦争」、「侮辱」、「悪意」、「憎悪」、「不条理な差別」、「生まれ・家柄・社会的地位・経済力など親ガチャの不公平」、「老病死」の苦労、「絶望」、「自殺」等々、「この世」(《現実》すなわち「生」)はそれ自身、苦だ。(Cf. 仏教で「四苦」は「生」老病死だ!)なんという恐ろしい《現実》、すなわち恐ろしい《幻》。
《感想3》「陽気に、陽気に、陽気に」生きられる《現実》or《幻》であることを願う。

(33)-2 今ある《現実》の「鹿」は、自分と他者のそれぞれの「幻想」(《夢》)が、共有されることによって、公的な体験つまり《現実》となった!
★《現実》において鹿を隠した場所を忘れた「薪取りの男」。一度は、男は鹿をしとめたことを《夢》の中の出来事と考えた。
☆ところが鹿を横取りした男(「通りすがりの男」)という他者の登場により、「薪取りの男」は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )が《夢》でなく《現実》と思い直した。

★一方、「通りすがりの男」(鹿を横取りした男)は、「薪取りの男」が《夢》のなかで鹿を手に入れたと考えていた。
☆ところが「通りすがりの男」が、「薪取りの男」の《夢》の話を聞いてその通りに捜すと、《現実》に隠し場所を見つけ出し鹿を手に入れた。(かくて「通りすがりの男」は、「薪取りの男」は《正夢》つまり《現実と等価の夢》を見たのだと思った。)

★ところが「通りすがりの男」(鹿を横取りした男)の妻が言った。「お前さんのほうが、『薪取りの男が鹿を手に入れた』(出来事A)という《夢》を見たのではありませんか。薪取りの男など《現実》にはいやしないでしょう。」
☆ さらに妻が言った。「でも今、お前さん(夫)が《現実》に鹿を手に入れたのだから、お前さんが見た《夢》は《正夢》でしょう。」

★「通りすがりの男」(鹿を横取りした男)には、「薪取りの男」が《夢》を見たのか、それとも自分(「通りすがりの男」)が「薪取りの男」についての《夢》を見たのか、答えられなかった。
⇒なお、こうした思考そして出来事の全ては《現実》のうちで生じている

★さて今、《現実》のうちに裁判官、「薪取りの男」、「通りすがりの男」、「鹿」が存在する。
☆だが(かつて)「鹿」は「薪取りの男」の《夢》(《正夢》)の中に存在した。
☆また「通りすがりの男」の妻の言によれば、(かつて)「鹿」は「通りすがりの男」の《夢》(《正夢》)の中に存在した。

☆今ある《現実》の「鹿」は、「薪取りの男」・「通りすがりの男」それぞれの《正夢》(《夢》)の中の「鹿」でもある。つまり今ある《現実》の「鹿」は、一方で「薪取りの男」の《正夢》(《夢》)の「鹿」であり、他方で「通りすがりの男」の《正夢》(《夢》)の「鹿」でもある。
☆-2 今ある《現実》の「鹿」は、一方で自分(「薪取りの男」)の「幻想」(《夢》)であり、他方で他者(「通りすがりの男」)の「幻想」(《夢》)である。

☆ では自分と他者との間にどうすれば折り合いをつけられるのか。自分の「幻想」(《夢》)と他者の「幻想」(《夢》)が共有されればよい。共有によって、自分と他者のそれぞれの「幻想」(《夢》)は、私的な体験から公的な体験となり、ひとまず「現実」となる。今ある《現実》の「鹿」は、このようにして自分と他者のそれぞれの「幻想」(《夢》=《正夢》)が、共有されることによって、公的な体験つまり《現実》となった。
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