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「2000年代 戦争と格差社会」(その9):「9・11とイラク戦争」岡田利規『三月の5日間』、宮沢章夫『ディラン・・』、伊藤計劃『虐殺器官』、中原昌也『花束・・』(2001)!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-30 17:00:12 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(57)「9・11とイラク戦争」:「戦争の気配を感じる作品」岡田利規『三月の5日間』(2007)、宮沢章夫『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(2011)!
I  2000年代の「戦争小説」の第2のタイプは、「9・11やイラク戦争」を直接的、間接的に描いた小説だ。(201頁)
Cf. 「戦争小説」の第1のタイプは「戦時下の国」を描いた小説だ。(195頁)

I-2  「戦争の気配」を感じる作品として岡田利規(トシキ)(チェルフィッチュ主宰)(1973-)『三月の5日間』(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収、2007、34歳)(戯曲)がある。舞台は「ブッシュがイラクに宣告した『タイムアウト』が刻一刻と近づいてくるのを、待ち構えるよりほかなく待っている最中」の2003年3月。(※イラク戦争の開始は2003年3月20日。)渋谷でピースウォークと題した反戦デモが行われている。「彼」と「彼女」は渋谷のラブホテルに5日間しけこむ。2人は戦争の報道を拒否するかのように、テレビをつけず、携帯電話の電源も切り、時計も見ない。そのあと「あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争」と思い描く。(198-199頁)
《書評1》「とらえどころのない日本の現在状況を、巧みにあぶり出す手腕」が、第49回岸田國士戯曲賞受賞時に注目された。
《書評2》イラク戦争の開戦を背景に、3月の5日間の渋谷での出来事が、口語体で代行的に語られる。登場人物はすべて、聞いた話や事後的な話として出来事を語り、そこにあるはずの当事者性や責任が奇妙な形で回避される。「9.11」以降の日本的な空気感を絶妙な言語感覚で捉えた傑作。
《書評3》話の内容は男女間のささいな日常を、「本人不在」で私達に伝えようとするために、その仕草や語り方がちぐはぐになってしまい、「話を、概要を掴むためにその演劇の中に入らざるを得ない」というものだろうか。

I-3 宮沢章夫(1956-)『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(2011、55歳)は、新宿を舞台に2001年9月1日から11日までの10日間を描く。(※2011/09/11アメリカ同時多発テロ事件。)舞台は新宿。9月1日は歌舞伎町の雑居ビルで44名の死者を出す火災(実際の事件)があった日。主人公・内田はその日の明け方、泥酔して帰って来たのだが、周囲は彼が放火したのではないかと疑う。彼も自分が信じられなくなる。10日後、半睡状態の中で内田はニュースを目にする。「二つの巨大なビル/煙が上がっている/ニュースキャスターらしき男が叫んでいる」。(199頁)
《書評1》2001年9.1の歌舞伎町ビル火災から「9.11」までの10日間の「時代の空気」と「ある個人の物語」を重ねて描く。「時代と個人の関連」とともに、「時代と無関係に自身を保つ回路」の重要性を提示する。
《書評2》1995年の「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」、2001年の「歌舞伎町ビル火災」と「9・11」。痛ましい事件の連続に、「世界をしかとはつかみきれない」、「事の次第をもはや私たちはどんなに努めても捉えきれない」という諦めにも似た思い!しかし「その諦念の中に安住することは危険だ」という思いもまたかみしめたい。

(57)-2 「テロと戦争」のど真ん中に斬り込んだ異色の戦争小説:伊藤計劃『虐殺器官』(2007)! 
I-4  上記2作品が「戦争の気配」を感じる作品だとしたら、伊藤計劃(ケイカク)(1974-2009)『虐殺器官』(2007、33歳)は「テロと戦争」のど真ん中に斬り込んだ異色の戦争小説だ。(199頁)
I-4-2  「ぼく」(クラヴィウス・シェパード)は、アメリカ情報軍の暗殺部隊の大尉。「ぼくは殺し屋だ」と彼は認識している。「9・11」以来、アメリカは「何かと理由をつけていつでも戦争がはじめられる国」になった。かくて彼はある人物(ジョン・ポール)の暗殺を命じられる。「虐殺器官」は脳内の器官で、それが暴走すれば虐殺が可能になる。やがて「ぼく」は気づく。「虐殺器官」は誰にも装備されている。(199-200頁)

《書評1》近未来を舞台に戦争を考える「哲学SF」。「戦争の是非」、「世界の不公平」。ストーリーは大きなスケールの「闇」を追いながらも、主人公個人の「良心」、「罪と罰」を中心に据え、「罪を背負う選択を、みずから意識すること」が人間の負うべき「自由」だと語られる。
《書評2》軍人として命じられれば誰でも殺す。そこに罪悪感はなく、後悔もない。世界で多発する「虐殺」を止めるため、一人の男(ジョン・ポール)を暗殺する計画を立てる。・・・・世界から戦争・虐殺はなくならない。それらを生み出しているのは紛れもなく一人一人の人間(=「虐殺器官」)なのだ。
《書評3》「9・11のテロ事件」以降、過度に情報統制された近未来社会を描くSFなのだが、その脅威がいつ実現してもおかしくないと思うほどリアル。 人間に元来備わった「虐殺器官」。危険すぎる概念だが、世界中で起こる「虐殺」にひとつの解を得たと思ってしまうほどだ。
《書評4》各地の「虐殺」の影に垣間見える謎の男、ジョン・ポール。彼は発見した人間の言語に潜む「虐殺の文法」を用いて、各地の「虐殺」をコーディネートしていく。

I-4-3  この続編が伊藤計劃『ハーモニー』(2008、34歳)だ。(200頁)
《書評1》「Watch Me」というデバイスを身体に埋め込み、病気を完全に克服することに成功する一方で、各個人の行動もすべて監視、管理されている世界。それを徹底し、ついに「個人の意識や意志すらないことこそが世界に『ハーモニー』をもたらす」として、そこに向かおうとする。
《書評2》「完成されたユートピア」は「ディストピア」にもなりうる。現代社会において、不摂生を予防するため「健康を管理する」ことは是とされるけれど、徹底すればこの本のような世界となる。
《書評3》この世界に人間がなじめず死んでいくのなら、「人間」をやめたほうがいい、というより、「意識」であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない「意識」であることを、この「身体」の隅々まで徹底して駆逐し、骨の髄まで「社会的な存在」に変化したほうがいい。「わたし」が「わたし」であることを捨てたほうがいい。「わたし」とか「意識」とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、「ハーモニー」を目指したこの社会に、本物の「ハーモニー」が訪れる。
《書評4》衝撃だった。世界が行き着く先の「ユートピア」。すなわちWatchMeとメディケアで体を徹底管理する「生命至上主義社会」、「優しさと慈愛」が実現した世界では、プライバシーもない。「プライバシー」は「卑猥」な言葉とされる。「健康で温かい社会」はどこか不自由で息苦しい。「ユートピア」の到達点(=「ハーモニー」)は「意識の喪失」だ。

I-4-4  伊藤計劃が2009年に夭折したこともあり、両作品は「伝説的なSF小説」として語り継がれる。だが『虐殺器官』(2007)は、日本の「戦争小説」として、戦争の本質に斬り込んだ作品として外すことができない。(200頁)

(57)-3 「9・11」米国多発テロをまるで予告しているかのような光景:中原昌也『あらゆる場所に花束が・・・・・・』(2001)!
I-5 偶発的な「戦争小説」の例としては、支離滅裂、意味不明と評された中原昌也(マサヤ)(1970-)『あらゆる場所に花束が・・・・・・』(2001、31歳)が、意外と予言的な作品だった。(200頁)
I-5-2  中原昌也は「進化しすぎて袋小路のドツボにハマったポストモダン」みたいな作家(斎藤美奈子氏評)だが、『あらゆる場所に花束が・・・・・・』は全編これ暴力のイメージに溢れ、最後は落ちてきた「白い熱気球」が引き起こした「救急車やパトカーが何台も駆けつけるほどの惨事」で幕を閉じる。(200頁)
I-5-3  この小説の出版が2001年6月で、同年「9・11」米国同時多発テロをまるで予告しているかのようだった。(201頁)(Cf. 『中原昌也の作業日誌』2008について、高橋源一郎が「グチと泣き言ばかり」と述べている。)

《書評1》又吉直樹のオススメ本。第14回(2001年) 三島由紀夫賞。作者はミュージシャン。描くのは無意味な暴力と性衝動ばかり。なぜ、これが受賞したのか理解ができない。論評も「文章がとにかく幼稚」「内容が愚劣」とある。一部「文壇へのカンフル剤」と賞賛。文章もストーリーもカオス。
《書評2》絶句。唖然。たくさんの暴力、たくさんの死。カルトというかホラーというか。カオスすぎて、「読書をした」という気分には到底なれない。オススメしてくれた又吉さんには申し訳ないが、良さがさっぱりわからなかった。
《書評3》「筋書のある小説の破壊or挑発」というわけでなく本当は、著者は「ただただ何も言いたくないだけ」なんじゃないかと思った。
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「2000年代 戦争と格差社会」(その8):「戦時下のもうひとつの日本」三崎亜記『となり町戦争』、吉村萬壱『バースト・ゾーン』、前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-28 19:39:28 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(56)「戦時下にある、もうひとつの日本」:三崎亜記『となり町戦争』(2005)(a)いつの間にか始まっていた戦争、(b)知らず知らずに巻き込まれる市民、(c)非常時にあっても状況がつかめぬ主人公!
H  2000年代のもう一つのトレンドは「戦争」だった。Cf. 2000年代のトレンドの「殺人」(or「テロ」)については既述。(195頁) 
H-2  陣野俊史(トシフミ)(1961-)『戦争へ、文学へ――「その後」の戦争小説論』(2011、50歳)は「イラクへ空爆が開始された2003年3月以後、主として若い小説家を中心に戦争小説が数多く書かれた。こんなことは日本の文学史の中で嘗てなかったのではないか」と述べる。(195頁)
H-2-2  映像で見た9・11のショック(2001)、陸自が派遣されたイラク戦争(2003)。「戦争」は作家にいわば「燃料」を与えた。(195頁)

H-3 「戦争小説」の第1のタイプは「戦時下の国」を描いた小説だ。(195頁)
Cf  これに対し「戦争小説」の第2のタイプは「9・11やイラク戦争」を直接的、間接的に描いた小説だ。(後述。)(198頁)
H-3-2  三崎亜記(ミサキアキ)(1970-)『となり町戦争』(2005、35歳)は日本に似たある国が舞台だ。主人公の「僕」(北原修路)ある日、町の広報誌に「となり町との戦争のお知らせ」の記事が載り、戦死者数が書かれているのを見つける。やがて「僕」に「戦時特別偵察業務従事者の任命」の通知が届き、「町役場総務課となり町戦争係」の香西(コウサイ)瑞希という女性と偽装結婚し、不可解のまま「偵察役」になる。(196頁)
H-3-3 「戦争が畢竟、お役所仕事であること」をこの小説はやんわり伝える。(a)いつの間にか始まっていた戦争、(b)知らず知らずに巻き込まれる市民、(c)非常時にあっても状況がつかめぬ主人公。(196頁)(※これらはまるで「2022/02/24ウクライナ侵攻を開始したロシア」の一般市民・兵士の状況だ!)

《書評1》「戦争って一体なんなの?」というところがファジーなままで、「挿入されているラブストーリー」も、本編と馴染まずパッチワークじみていると感じる。
《書評2》「となり町との戦争」でも、変わらない日常が続き「戦争って本当に始まってるのか?」と思っていると、翌月の広報誌で「人の動き」として転出入、出生、死亡(うち戦死者12人)と小さく記載される。まるで下水道工事と同じ扱いで、事務的に行政の一環として戦争が進められる。
《書評3》突然のとなり町との戦争。公共事業としての戦争。大まじめで、戦死者もいる。でも、だれがどこでなぜ戦争をしているのかさっぱりわからない。パラレルワールドの出来事のよう。結局わからないまま終わったが、この首を傾げるような不可解さ。

(56)-2 国は「テロリン」たちによる大規模・長期の破壊活動とサイバーテロと戦っている:吉村萬壱(マンイチ)『バースト・ゾーン――爆裂地区』(2005)!
H-4  吉村萬壱(マンイチ)(1961-)『バースト・ゾーン――爆裂地区』(2005、44歳)も架空の国が舞台だ。道路で子供たちが「テロリンだ!」「やっちまえ!」と叫び、テロリン役の子を追いかける遊びをしている。「テロリン」とは「テロリスト」のことだ。国は「テロリン」たちによる大規模・長期の破壊活動とサイバーテロと戦っている。不安と恐怖に陥った人々は、無実の市民を「テロリン」として血祭りにあげ、愛国心に燃える人々が志願兵となって大陸に渡る。しかし「テロリン」の正体は誰も知らない。(196-197頁)

《書評1》これまで読んだディストピア作品の中でダントツに酷く、なんら救いがない。だからこそ戦争に従事したり、武力により治安が脅かされた状況はこんな風ではないかと思わせる。「追い詰められた人間が出す毒のような汚さ」を嫌と言うほど見せつける。灰色と血の色に染まった小説。
《書評2》テロが横行し無政府状態に近い世界(第1章)。テロの本拠地を叩くべく志願兵として大陸に渡る登場人物たちを描く(第2章)。そしてその後を描く(第3章)。人間の醜さをこれでもかというほど見せつけられ、吐き気すら憶えるが、過去の戦争で南方に従軍した人は同じような地獄をみていたと思う。 決して後味の良い話ではないが、いろいろ考えさせられた。
《書評3》異国のテロリストを殲滅せんと、戦闘員となった市井の人々が奏でるSFテイストの群像劇。登場人物たちは品性下劣で、誰もが持つ根源的ないやらしさを突きつけてくる。人は、欲望のままに行動し、他者を蹂躙しても生き残っていく。

H-4-2  なお吉村萬壱(マンイチ)は『ハリガネムシ』(2003、42歳)で芥川賞を受賞した。(196頁)
《書評1》凄惨。読んでいて「倫理もへったくれもない」と思った。だけど誰しも何かしら「闇」みたいなのを抱えていて、きっかけ次第でひょっこり出て来る時ってあるのかもと思いゾッとした。
《書評2》高校で「倫理」を教える慎一のところに、1度しか面識のなかった風俗嬢サチコから連絡が入り、そこから「どうしようもなくキツい話」、グロいシーンと暴力的なシーンが展開していく。全然共感できずに終わってしまった。
《書評3》「ハリガネムシ」はカマキリに寄生する線状の生き物。ハリガネムシに寄生されると、ハリガネムシの意思で行動するらしい。この物語の場合は、主人公の高校教師にサチコが入り込んでしまったということか。楽しい話でなかった。
《書評4》この小説の中でハリガネムシは、人間の中に巣食う醜さ、欲望、暴力といったマイナスなものを暗示している。人間の残酷な本質。
《書評5》倫理教師の中岡とソープ嬢サチコの話。吉村氏は「汚くて、読んでるだけで鼻をつまみたくなるような話」が上手いが、今回は「汚物」よりも「暴力的な描写」が多かった。

(56)-3 「戦争に直面した人々」のリアルな姿:前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』(2006)!
H-5  前田司郎(1977-)『恋愛の解体と北区の滅亡』(2006、29歳)の舞台は「2年前に宇宙人が飛来した世界」。宇宙人が今日、記者会見し、「今日で地球が終わるかもしれない」状況だ。そんな日の「僕」のたわいもない1日が描かれる。(ア)新宿のコンビニでガタイをいい男に順番を抜かされた屈辱感、(イ)それが殺意に発展し書店でナイフの本を立ち読み、だが(ウ)隣にエロ本が並んでいたことから無料風俗案内所に出向く、(エ)気づけばSMクラブで女王様に対面している・・・・。(197頁)
H-5-2  そのときテレビが伝える。「宇宙人による北区への報復攻撃が開始だれました!」そして「僕」は叫ぶ。「うわー、すっげー、これ日本だよ」。(197頁)
H-5-3  ここに描かれているのは荒唐無稽な話でない。それは「戦争に直面した人々」のリアルな姿だ。(斎藤美奈子氏評。)(197頁)

《書評1》宇宙人が地球に攻撃をしかけるかもしれないという夜に、たいした目的も持たずにそこかしこと街をぶらついているダメ男のお話。北区が滅亡するかもという事態に大した危機感も感じず、コンビニ、本屋、風俗といったありきたりな日常を消費する主人公。その希薄なリアリティーや起伏のない生活感が何とも現代的でおもしろい。
《書評2》演劇集団「五反田団」主催、前田司郎の小説。宇宙人が侵略しつつある世界という異常なシチュエーションにありながら、ほとんどそれと関係なく特別な行動も起こさず脳内独り言によって進んでいく日常との対比。その両者がまったく批判的にではなく、ただ横置きされているという前衛さが不気味。

(56)-4 「戦時下」ないしは「戦争前夜」の空気を描いた小説:星野智幸『ファンタジスタ』(2003)、伊坂幸太郎『魔王』(2005)!
H-6  一見、いずれも戦争小説に見えないが、明らかに「戦時下」ないしは「戦争前夜」の空気を描いた小説がある。政治的熱狂と権力者の暴走。ナショナリズムの高揚。9・11後のアメリカや日本を連想させる。(198頁)
H-6-2  星野智幸(1965-)『ファンタジスタ』(2003、38歳)は、首相公選制が敷かれた「もうひとつの日本」で、「かつてプロのサッカー選手だった首相候補」に人々が熱狂する危うさを描く。(197-198頁)
《書評1》カリスマ政治家がアジアを「各民族の共存共栄みたいなAリーグの理念」で覆ってしまおうとする。この作品で描かれているのは「ファシズムの空気」だ。
《書評2》階層化が進んだ社会。現代社会を覆う閉塞感。作品は、リアリティーがあるようなないような、幻想的であるようなないような〈ホシノワールド〉。
《書評3》中国の経済力が支配的な「架空の日本」の話。二人が、明日の首相選挙をどうするか饒舌に語り続ける。饒舌の煙幕で覆い、難しい言葉をちりばめ、何らかの意味ある思想が潜んでいるような気にさせる。

H-6-3  伊坂幸太郎(1971-)『魔王』(2005、34歳)は、「カリスマ的な人気を誇る野党政治家」の危険を察知した主人公が、「特殊な能力」(※腹話術のように他人の口から言葉を発することができる能力とある程度の確率なら必ず勝てる能力を持った兄弟)を武器に「流れ」を変えようとする姿を描く。(198頁)
《書評1》色々考えさせられる。(ア)大衆心理or群集心理(流れに身を任せ、何も考えない群衆)、(イ)声が大きいとそれが正しいように聞こえる、(ウ)何か事件があると目をそらさせるように他の事件が起きる、(エ)マスコミの情報統制、(オ)情報操作、(カ)偏った情報。しっかり意思を持って立っていないと流される。
《書評2》この本を通して「考えて生きる」ことの重要さを知る。でも「世間の出来事より身近の物事を優先する行為」は生きていく上で仕方ないにも納得。考えたとして、それが正しい方向かわからないけれど考える行為が大事。
《書評3》ファシズムや巨悪と戦う話。伊坂幸太郎は「巨悪と戦う少数派」を描くのが好きだ。ただ犬養も魅力的に描いていて、物語として楽しめる。
《書評4》一政治家が熱狂的な支持を集め国のトップになり、憲法改正の議論を巻き起こす。大衆かムードに流されるなか、「流されまい」と必死に抵抗する兄弟。

(56)-5 架空の戦争の全体像を俯瞰的に描く:村上龍『半島を出よ』(2005)!
H-7  村上龍(1952-)『半島を出よ』(2005、53歳)は、「架空の戦争」の全体像を俯瞰的に描く。(198頁)
《書評1》経済政策に失敗し日本が世界から孤立する。財政破綻した日本に対し「内部からの反米」を生み出すため、北朝鮮が福岡博多を占領する。危機が迫っても強く抵抗することなく「死んだ目」で受け容れてしまう日本人。作者の「ありえそう」と思わせる説得力がすごい。舞台は2011年の日本。
《書評2》「間抜けで何も決められない日本人」(有事であっても政治家、官僚の無責任さ、ドタバタしてるのに何も進んでない他人事感)に、「抜け目なく逞しく優れた北朝鮮人」って感じの話が続く。 村上龍は北朝鮮を礼賛するつもりで本作を書いているのかな?日本政府の狼狽、危機管理の欠落など日本側のドタバタに対して、シミュレーション通り侵攻する北朝鮮側!
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「2000年代 戦争と格差社会」(その7):「心に銃を持った若者」中村文則『銃』、阿部和重『ニッポニアニッポン』、平野啓一郎『決壊』、重松清『疾走』、吉田修一『悪人』!(斎藤『同時代』5)

2022-04-26 20:27:55 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(55)「心に銃を持った若者たちが暴走する」:中村文則(フミノリ)『銃』(2003)心の中に「銃」を持ってしまった者の悲劇!
G  中村文則(フミノリ)(1977-)『銃』(2003、26歳)は、退屈な大学生活を送っていた「私」が拳銃を拾ったところから話が始まる。「私」の意識は銃から離れられなくなり、外に銃を向けるようになる。心の中に「銃」を持ってしまった若者の悲劇。(191頁)
《書評1》「銃を所持する」という非日常感が、思春期の退屈・憂鬱を暴走させてしまう話。 銃のメリットは、ナイフと違って「殺す時の人間の感触を味わわずに済むこと」としておきながら、最後は銃で存分にそれを味わうところに主人公の闇の深さを感じる。
《書評2》「銃を所有するアメリカ市民」として、読後感は複雑。「市民が銃を持つことが違法である日本」では、銃を持つと、いきなり力強い気持ちになる。ところで米国では、なぜこれほど多くの「平和を愛する人々」が最終的に銃を所有することを選択するのか?「殺したくないが、殺されたくない」という「自己防衛」だ。
《書評3》犯罪をするまでの心理描写がリアルで実体験のようだ。拳銃を手にしたことで、「主人公の内なる凶暴性」がその姿を現し狂っていく姿は、「私が拳銃に使われている」という文そのものだ。

G-2  Cf.  中村文則『土の中の子供』(2005、28歳)(芥川賞受賞)もまた、緊迫した雰囲気を持つ。(191頁)
《書評1》暗い、ひたすらに暗い。虐待描写がきつい。危険な状態に陥ると分かっていて、わざわざその状況を作ってしまう主人公。それは子供の頃に受けた壮絶な虐待のせいなのか、それとも恐怖や痛みが快感になってしまっているのか。
《書評2》引き取られた遠い親戚の家から日常的な虐待を受け、山中の土の中に埋められるが、そこから這い出る幼い私。「集団自殺するネズミの様に日本中の若者がダメになっていったら素敵」と語る白湯子。「恐怖」に感情が乱され続け、「恐怖」が身体に血肉のように染み付き、自ら「恐怖」を求めるほど病に蝕まれた幼い私。だが今や私は「恐怖を克服するために恐怖を作り出し、それを乗り越えようとした」と自己分析する。 

(55)-2 「ネット上の情報で育まれた妄想」にかられる戯画化されたテロリスト:阿部和重『ニッポニアニッポン』(2001)!
G-3  阿部和重(1968-)『ニッポニアニッポン』(2001、33歳)は10代のテロリストを出現させる。主人公の鴇谷春生(トウヤハルオ)は17歳の高校生。彼が心を奪われたのは、鴇(トキ)だった。(自分の名前に「鴇」が含まれるため。)「日本産のトキの復活のため、中国産のトキを繁殖させるのはおかしい、トキは放すか殺すかだ」と考えた彼は、トキの情報をネットで集めまくり、18歳になると佐渡のトキ保護センターに乗り込む。(192頁)
G-3-2  春生(ハルオ)は妄想にかられる戯画化されたテロリストであり、妄想はネット上の情報で育まれた。(192頁)
《書評1》妄想からの暴走と破滅。恋慕する同級生へのストーカー行為により、地元に居られなくなった鴇谷春生。高校中退し、東京で知人の菓子店に勤務するもすぐに欠勤し退職。大検を受ける言いながら、自身の名字にある鴇にのめり込む。人間の都合で絶滅危惧種となった鴇を繁殖させる国の事業に憤慨し、トキ保護センターに乗り込む
《書評2》引きこもりの少年ハルオが、佐渡で保護されているトキ(鳥)を殺しに行く。ハルオの性格が暗いので読んでいると陰鬱な気分になる。野生絶滅したにも関わらず「ニッポニアニッポン」という学名ゆえに中国から持ち込まれ無理やり繁殖させられているトキと、自分自身を重ねる。

(55)-3 「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語:平野啓一郎『決壊』(2008)!
G-4  平野啓一郎(1975-)『決壊』(2008、33歳)は「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語だ。(192頁)
G-4-2 舞台は2002年、小泉訪朝、9・11後のアメリカが遠景をなす。一方で、兄・澤野崇(タカシ)は東大出のエリート公務員、弟・澤野良介(リョウスケ)は平凡な会社員。弟の良介はブログ(日記サイト)を持つ。他方で、中2生・北崎友哉は「孤独な殺人者の夢想」という妄想だらけの日記を公開している。そして事件が起きる。弟・良介が残酷に殺害され、犯行声明文が発表され、兄・崇が容疑者として浮上する。(192頁)
G-4-3  やがて「悪魔」を名乗る人物が先導する何件もの事件が起きる。(192-193頁)

《書評1》罪は「遺伝」と「環境」からもたらされる。平野氏は述べる。「圧倒的に多様な個体が、それぞれに、ありとあらゆる環境の中に投げ込まれる。そうした中で、一個の犯罪が起こったとして、当人の責任なんて、どこにあるんだい?殺された人間は、せいぜいのところ、環境汚染か、システム・クラッシュの被害の産物程度にしかみなされないよ。犯罪者なんて存在しない。」
《書評2》三島由紀夫『美しい星』で、「人類滅亡」を望む宇宙人と「人類救済」を願う宇宙人の間で激論が交わされる。この本で「悪魔」と「北崎少年」の間で交わされる会話もどこかそんな三島の意識みたいなものを感じた。
《書評3》猟奇的なバラバラ殺人事件。狂気と悪意と噂を増幅させていくインターネット。理知的ながらもあまり感情を吐露しないため、周りからどこか厭まわれて、冤罪すらかけられそうになる「崇」。あまりにも陰鬱な作品。
《書評4》ネット社会に潜む「社会に対する憎悪」や「理不尽な正義感」が交錯しながら物語が展開。「真犯人、篠原勇治(悪魔)」と「悪魔の囁きに導かれた中学生、北崎友哉」。
《書評5》「救いのない物語」だ。被害者(良介)は何の関係もないのに残忍な殺され方をした挙げ句、家族も自殺したり病んだりする…。「崇」のような聡明な人や、「良介」のようなもがき苦しみながらも前に進もうとする人が、いきなり理不尽なやり方で人生を奪われるって、やりきれない。「酒鬼薔薇」に憧れるような若い人がこれ読めばいいと思う。
《書評6》意外な所から判明する真犯人と黒幕。犯行を写したDVDで語られる「遺伝と環境が人間を選り分ける。現代社会のファシズムを破壊する」とのメッセージ。「崇」はそれに共感を覚え「自分が弟を殺した共犯者」だと考え、絶望し自殺する。匿名性の高いネットの怖さ、大衆の迎合性、親子、夫婦、兄弟等家族の弱さ等現代社会の持つ問題点を指摘する。秀作。
《書評7》「悪魔」と称する男がカラオケボックスで中学生の北崎友哉をそそのかす。「悪魔」は「純化された殺意」として、つまり「まったく無私の匿名の観念」として殺人を奨励し、「殺人者は存在せず、ただ、殺意だけが黙々と、まるでシステム障害のように止める術なく殺人を繰り返す」世の中を希求する。北崎少年は「悪魔」の指示通りに動く。「悪魔」すなわち篠原勇治を生んだのは悲惨な生い立ちだ。(「荒んだ家庭環境のせいで悪魔的人間になった」という短絡性あり。)
《書評7-2》だが真の首謀者は沢野崇だと思わせる余地もある。Ex. バラバラ殺人事件のニュースを「瞳に異様な耀きを灯しながら画面に見入っている」崇の反応。Ex. 崇の口から放たれる意味深長なモノローグ。「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった」(5章)。Ex. 「あいつが死んだのは、単なる偶然じゃない! 適当に選ばれたなんて、俺はこの期に及んで、自分を庇い立ててる! 分かってるんだって、それは! 俺にも責任がある!」と6章で崇が言う。Ex.、崇と篠原が国会図書館で接触していた可能性が8章で示唆される。

(55)-4 閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさ:重松清『疾走』(2003)!
G-5 重松清(1963-)は『ナイフ』(1997、34歳)、『エイジ』(2000、37歳)など、1990年代からさまざまな家族や少年少女を描いてきた。(193頁)
★重松清(1963-)『ナイフ』(1997)
《書評1》いじめられながら誰にも助けを求めることができない「被害者」、被害者の近くにいながら「止められない者」、「見て見ぬふりをする者」、「被害者の家族」・・・・と、様々な人々の心理が描かれ、どの人物にも感情移入できてしまい、しんどい。
《書評2》「学校での理不尽ないじめと闘う子ども」や、「現実から逃げてしまう弱い自分と闘う親」など、共通しているテーマは「闘い」だ。「いじめを受けている子ども」が先生や親に相談せず、気丈に振る舞う姿が特に印象的だった。
《書評3》「弱い者、違う者を差別し痛めつける事で自分の存在を肯定する」という人の性がある限り、いじめを完全に無くすのは難しい。理不尽ないじめの中で被害者は自分の尊厳を守るため戦う。

★重松清(1963-)『エイジ』(2000)
《書評1》中2のエイジの住む町で起こった「連続通り魔事件」の犯人は、クラスメイトだった。ごく普通の目立たない少年が、なぜ「向こう側」へ行ってしまったのか?「犯人の少年の心情」は描かず、エイジを含む「周りのクラスメイト」のもがき苦しむ様子で、少年たちの葛藤を描き切る。
《書評2》「通り魔」という社会的な事件が身近に起こること、そして14歳「思春期」の変化が起こること。2つの揺さぶりによってエイジ達に変化が表れる。彼らは自分と周囲が「分からない」事に葛藤する。「自と他」、「子供と大人」、「男と女」、「A級とB級」、「先輩と後輩」、「善意と悪意」、そして「犯罪者と普通の人」。曖昧で中途半端な自分に苛立ちながら、自分なりの受け取り方を探す。やがて確かに自分の考えと位置があることに気付き、成長する。一歩大人になった彼らの姿はお日さまのように清々しい。

G-5-2  重松清(1963-)『疾走』(2003、40歳)のキーワードは「地方都市」だ。閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさをあますところなく伝える。優秀な兄・シュウイチは高校でカンニングを疑われ停学処分、そのショックで放火事件を起こし少年院送りとなる。4歳年下の弟・シュウジは「赤犬(放火犯)」の身内として激しいいじめにあう。大工だった父は行方不明、化粧品販売で生計を支える母はギャンブルに逃避。中学卒業を前にしてシュウジは家出し、大阪、さらに東京で忌まわしい事件の当事者となる。(193頁)
《書評1》もう「これでもか」っていうくらい不幸が続いて、その度に手を差し伸べてくれる存在がいるのが救いではあるが、全体的に「いじめや暴力」の場面が多く、暗く気が滅入る。
《書評2》暗い話ばかりが続く。そして暗さも重さも増していく。でも、物語に引き込まれ一気に読んだ。シャッターに「私を殺してください」と書く「ひとり」と、「だれか一緒に生きてください」と書く「ひとり」。シュウジとエリ、それぞれが背負わされた、強烈な孤独と底知れぬ寂しさ。
《書評3》救いのない話。15歳の少年が駆け抜けた人生の話で、読めば読むほど重くなる。「どこかに救いがあるかも?」と思い、気になって数時間で読み終えたけど、結局どこにも救いはなかった。

(55)-5 地方都市の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分:吉田修一『悪人』(2007)!
G-6  吉田修一(1968-)は『パーク・ライフ』(2002、34歳)(芥川賞受賞)など、それまでポヨヨンとした人間関係を描いてきた。(193頁)
《書評1》電車の中で知り合いと間違え話しかけたら普通に答えてくれた彼女。毎日のように行く日比谷公園で彼女と再会、名前も知らないのに少し会話をするようになる。淡々とした日常とちょっとした出来事が描かれる。
《書評2》ストーリーが存在せず、ただシーンが次から次へと流れていくだけのようだ。
《書評3》なんて初々しいのだろう!ちょっと背伸びするような、いっぱいのおしゃれで飾られた、日比谷公園を中心に展開される、都会生活の日々の情景。

G-6-2  これに対し吉田修一『悪人』(2007、39歳)は、吉田のブレイクポイントになった作品であり、そのキーワードは「地方都市」だ。(193頁)
G-6-3 主人公の清水祐一(ユウイチ)(27歳)は長崎の工業高校を出た後、健康食品会社に就職するが、すぐ辞め、カラオケボックス、コンビニでバイト、今は親戚が営む土建屋で日雇労働だ。すでに4年。その彼が福岡の生保会社に勤める石橋佳乃(ヨシノ)を図らずも殺す。その直後、祐一は、同い年の馬込光代(ミツヨ)を呼び出し、2人は、自動車で絶望的な逃避行をする。(光代は佐賀県の高校を出て食品工場に就職したが、人員削減で失職、今は国道沿いの紳士服量販店に勤める。)(194頁)  
G-6-3-2 祐一と佳乃が出会ったのも、祐一と光代が知り合ったのも「出会い系サイト」。先の見えない「地方都市」の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分が、作品全体にあふれる。(194頁)
《書評1》結局誰が本当の「悪人」だったのだろう。作中には悪い奴がいっぱいだ。殺された佳乃も酷いし、増尾(佳乃をナンパした裕福な大学生)も腐ってる。人を殺すことは悪だが、殺人者が「悪人」なのかというとまた違う。「法を犯さなければ何をやってもいい」という訳でない。「善人」と「悪人」の差って何だろう。いろいろ考えさせられた。
《書評2》「解体工の男(祐一)が保険外交員(佳乃)を殺した」と、犯人は冒頭に明かされる。そこから被害女性、加害青年、彼ら・彼女らを取り巻く人物視点のドラマが展開される。タイトルの通り、誰が「悪人」なのか、わからなくなってくる。
《書評3》登場人物一人一人が丁寧に描かれる。良い人も悪い人も、 強い人も弱い人も みんなそれぞれが送ってきた人生がある。最後は「悪人」にならないと 周りの人を救えなかった、 そんな祐一の行きどころのない思いが 重く切ない。

(55)-6 社会から見捨てられた若者:行き場のない怒りと焦り、そして「殺人」!
G-7  2000 年代の特徴は「殺人」が純文学の世界にも津波のように押し寄せてきたことだ。社会から見捨てられた若者、行き場のない怒りと焦り、彼らに同情するも、どうにもできない女たち。(195頁)
G-7-2  2000年代の小説世界はムルソー(『異邦人』1942)、ラスコーリニコフ(『罪と罰』1866)、スメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』1880)だらけだ。(195頁)
《参考1》ムルソー:母の死に無感情。「太陽が眩しかったから」とアラブ人を射殺。裁判で死刑を宣告される。
《参考2》ラスコーリニコフ:奪った金で世のために善行をしようと、金貸しの強欲な老婆を殺害する。だが偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。
《参考3》スメルジャコフ:カラマーゾフ家の使用人、卑屈で臆病。実は、家長フョードルの息子たち(退役将校ミーチャ、無神論者イワン、修道院で暮らすアリョーシャ)とは腹違いの兄弟。フョードルを殺す。
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核戦争によって多くの人間が苦しみ死ぬだろう!人が人を苦しめる、人間は残虐だ!内集団には共感・やさしさを示すが、外集団には残虐だ!若者の多くに(経済的に)希望がない!だが人は生きる!

2022-04-25 10:56:38 | 日記
(1)地球では、やがて核戦争によって多くの人間が苦しみ死ぬだろう。(なお全面核戦争になるかどうかは不明。)核戦争は人間の社会を崩壊させ、地球の気候を変化させ、飢えと貧困が地球を覆うだろう。また医療の不足や不平等で、多くの者が苦しみ死ぬだろう。
(1)-2   Cf. ただし人間は滅亡しないだろう。核戦争で例えば10億人が死んでも、60億人以上は生き残る。
(2)人が人を苦しめる。苦しめられる人々にとって、この世は苦界だ。苦しめる側は、苦しむ人間を見るのを楽しみにする。人間は残虐だ。
(3)人間には他者への共感orやさしさもある。ただし、ひとりの人間が残虐であり、同時にやさしくもありうる。人は、人を2種類に分ける。内集団のメンバーに対しては共感・やさしさを示す。外集団に対しては残虐だ。
(4)極東のこの島国は今や、若者の多くに希望がない。勤めても、多くの者が、いつでも首を切られるし、給料も安い。国の産業は衰退し、「失われた30年」が過ぎた。これからも多くの者が、特に若者の多くが、(経済的に)希望を持てないだろう。
(5)だが人は生きる。とは言え、残念だが、力尽きる者もいるだろう。恵まれた家に生まれ、恵まれた生活を送る者もいるだろう。恵まれない家に生まれ、能力があっても、例えば進学できない者もいるだろう。様々な人生を、それぞれの者たちが生きる。
(5)-2  人間はこの世に存在してしまった。君もこの世に存在してしまった。生きるしかない。成功すれば幸い。あるいは、どんなつらい状況に陥っても、喜びと幸せを探す。
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映画『はらはらなのか。』(2017、日本)監督・酒井麻衣:「虚構」は、「嘘」でも「夢」でもあり、かつグラデーション的に「現実」である!

2022-04-24 19:21:04 | 日記
(1)子役から女優へのステップアップをめざす中1の女の子・原ナノカ。ナノカは「物語(劇)の中に入りたい」と思う。だが美少女で芸歴も長いのに、ナノカはオーディションに受からず焦りを感じていた。
(2)そんなある日、「亡き母親・原マリカが出演していた舞台が再演される」と知ったナノカは、オーディションに挑み主役の座を勝ち取る。
(3)劇団「Z-Lion」の演出家・粟島は、ナノカが偶然知り合った喫茶店主リナをよく知っていた。リナはかつて「Z-Lion」の女優だった。
(4)中学校で、原ナノカ(中1)は歌手をめざす生徒会長リン(中2)と知り合いになる。
(5)ナノカは、劇団員たちの望みを知り、喫茶店主リナに、劇団「Z-Lion」にもどってくれるよう頼む。
(6)他方でナノカは芝居(劇)をするのは「嘘をつくこと」にすぎないのではないかと思い悩むようになる。観客を「騙している」だけなのではないかと芝居(劇)の意義を疑う。
(7)喫茶店主リナが芝居(劇)は、現実の世界では実現できない「夢」を観客に見させ、だからおカネをとってもよいのだと言われ、ナノカは納得する。ナノカは主役として、芝居(劇)で一生懸命演じるにいたる。

《配役》◎原ナノカ/ 妄想ナノカ(原菜乃華):現実の自分と、妄想によるもう1人の自分がいる。◎リナ(松井玲奈):喫茶店の店主。元「Z-Lion」劇団員。◎リン(吉田凜音):中学校の生徒会長。歌手志望。◎粟島(アワシマ)(粟島瑞丸):劇団「Z-Lion」の演出家。◎原マリカ(松本まりか):ナノカの母。故人。劇団「Z-Lion」の看板女優だった。◎原直人(川瀬陽太):ナノカの父。◎オオヤギ(水橋研二):カメラマン。ナノカに芸術のためだから「下着の見える写真」を撮ろうと言い拒否される。◎劇団「Z-Lion」団員:ミッチー(道化の化粧)(micci the mistake)、モモ(もも)等。

《感想1》「芝居(劇)が、現実世界にとってどんな意義があるか?」という問いに、原ナノカは悩む。「人は、なぜ『虚構』(フィクション)を制作するのか」という問題だ。
《感想2》「虚構」(フィクション)も「現実」も、そもそも「言葉」で叙述される。「言葉」は「集合」(類型)を示し多くの「要素」を含む。つまり「現実」にぴったりの「言葉」(「集合」or類型)はない。かくて「言葉」で叙述される限りでは、「現実」も一種の「虚構」だ。
《感想2-2》「虚構」(フィクション)も「現実」も、そもそも「言葉」で叙述される限り、どちらも「虚構」かつ「現実」だ。「虚構」と「現実」はグラデーション的に連続している。
《感想2-3》「虚構」は、「言葉」で描かれる限り(そして「言葉」で描かれるしかないが)、「嘘」でも「夢」でもあり、かつグラデーション的に「現実」である。




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