DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その1):A「人倫」→B「自己疎外的精神、教養」→C「道徳性」!

2024-09-01 21:18:56 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その1)(295-296 頁)
(72)C 「道徳性」は、A「古代の人倫」と異なり、「近代の人倫」であり、「より内面的主体的な道徳」だ!
★「教養の世界」の「自己疎外」は克服され、「精神」は「自己疎外」から「自己確信」に移る。(295頁)
☆即ち、(BB)「精神」のA「真実なる精神、人倫」は、B「自己疎外的精神、教養」を通じて、C「自己確信的精神、道徳性」に到達した。(295頁)

Cf.  ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)

《参考》「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「絶対否定が絶対肯定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定は、「個的自己」の「絶対的」な肯定だ)となり、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される!(294頁)

★このC 「道徳性」は、A「人倫」とむろん似ているが、同じではない。A 「人倫」は「人倫そのもの」ではなく、「直接に真実なる」、いいかえれば「まだ『自然性』をまぬがれえぬ『精神』に支えられた」ものとして「古代の人倫」だった。(295頁)
☆これに対しC「道徳性」は、「近代の人倫」であり、「より内面的主体的な道徳」だ。(295頁)

(72)-2 「近代の人倫」であるC 「道徳性」は、a「道徳的世界観」、b「ずらかし」、c「良心、美魂、悪とその赦し」の3段階からなる!C 「道徳性」の段階は歴史的には「ロマンティスィズム」を頂点とする「ドイツ観念論」の時代だ!
★さて「近代の人倫」であるC 「道徳性」は、a「道徳的世界観」、b「ずらかし」、c「良心、美魂、悪とその赦し」の3段階からなる。(295頁)
☆C 「道徳性」の第1段階(a「道徳的世界観」)は「カントの倫理学」、第2段階(b「ずらかし」)および第3段階(c「良心、美魂、悪とその赦し」)は(ドイツの)「ロマンティスィズム」が材料としてヘーゲルにより使われる。(295頁)
☆要するにC 「道徳性」の段階は歴史的にはあきらかに「ロマンティスィズム」を頂点とする「ドイツ観念論」の時代だ。(295頁)
☆ヘーゲルにとっては、B「教養」の時代を担う主役が「フランス人」であったのに対して、C 「道徳性」の時代ン場合は「ドイツ人」だ。(295頁)

(73)C「道徳性」の第1段階:a「道徳的世界観」(カント)!「抽象的」で、いろんな矛盾はまぬがれないため、「神の存在」、「霊魂の不死」を「要請」せざるをえない!
★C「道徳性」の第1段階は、a「道徳的世界観」(カント)である。(295頁)
☆人間は「個別者」でありながら、「絶対否定」を介して、「普遍」と相通ずるものになるが、これは「道徳的義務」を実践しうることにほかならない。この立場から「道徳的世界観」(カント)がいだかれる。(295-296頁)

★しかし「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で、いろんな矛盾はまぬがれない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第1は、「道徳」が「内面的精神的」なものにすぎないので、それには「自然界」が対立する。そこで「道徳」と「自然」との一致、とくに「道徳」と「幸福」との一致、かくて「神の存在」が「要請」されざるをえない。(296頁)

★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第2は、内面的主体的なもので、「理性」と「感性」とが対立して一致をみず、分裂するということだ。そこで「理性」と「感性」との一致、かくて「霊魂の不死」が「要請」されざるをえない。(296頁)

★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第3は、「義務」には「道徳法則」そのものが示す「ただ一つの義務」があるだけでなく、それぞれの「状況」に応じて「多数の義務」があるから、「義務」の「『絶対性』と『相対性』」、「『単一性』と『数多性』」とに関して矛盾が生じる。かくてこれを調停するために、第1、第2の場合と同じく、やはり「統一」、かくて「神の存在」を「要請」せざるをえない。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)においては、「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的(※誰にもあてはまる)立法の原理として妥当しうるごとく行為せよ」という「道徳法則」そのものはよくわかっていても、「具体的状況」に臨んでなにが自分の「義務」であるかということになるとよくわからない。わかっているのは「道徳法則」という「抽象的」法則だけであって、「個々の場面」に臨んでどうしたらよいかは「神」ならぬ身にはわからない。(296頁)

《参考》カントは、「理論理性」による認識によっては肯定的にも否定的にも論証不可能な「自由」、「霊魂の不死」、「神」を実践的行為がそれなしには成り立ちえない欠くべからざる前提という意味で、「実践理性」の「要請」と名づけた。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ホ「フランス革命」:「テロリズム」は「個的自己」の「絶対否定」として「至高の教養」だ!

2024-08-31 10:43:52 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ホ「フランス革命」(292-294頁)
(71)「啓蒙」の立場では「世界は『自己』のためにある」、そして「自我」は「絶対自由」を持ち、これが実行に移され「フランス革命」が到来する!
★「啓蒙」の立場からすれば、「世界は『自己』のためにある」のだから、「自我」は当然「絶対自由」を持つことになり、これが実行に移されることにより、アンシャン・レジームの制度が打破される、ここに「フランス革命」が到来する。(292頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)!

《参考》「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
☆そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

(71)-2 「抽象的」な「絶対自由」においては、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される!ルソーは「代議制度」を否定した!「行政」も「司法権」・「裁判」も、「組織」をもってするほかないので否認される!「抽象的」な「絶対自由」は「テロリズム」に帰結する!「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎する!
★では「フランス革命」はいかなる意義をもっているのか?さて「絶対自由」といっても最初は「抽象的」なものであって、「個的自己」が「絶対者」であると考えられているので、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される。(292-293頁)
☆例えばルソーは「『立法権』は国民各自が自分自身で執行すべきものであって『代理』されることはできず、そうすれば『自由』はなくなるから、自分で立法に参与すべきである」と言って、「代議制度」を否定した。これではフランスのような「大国」ではけっきょく「立法」はおこなわれえないことになる。(293頁)
☆また「行政」も、「司法権」・「裁判」も、「組織」をもってするほかないので、これらも実際上は否認される。(293頁)

★そこでこのような「抽象的」な「絶対自由」をそのまま実行に移そうとすれば、あらゆる「組織」を拒否するから「テロリズム」が不可避だ。(293頁)
★「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎する。なぜならそもそも「至高存在」とは、「あらゆるものを否定する」もの、つまり「絶対否定」を要求するものだが、このことを、身をもって体験させたものが即ち「テロリズム」だからだ。(293頁)

《参考1》「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は、「絶対実在」はそんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここに「啓蒙」の①「理神論」がある。(288頁) 
《参考2》「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)

(71)-3 「テロリズム」はやがて終わり、人々はまた「組織」のうちにかえる!「立憲君主政治」!
★しかし「テロリズム」はむろん耐えがたいものだ。だからそれはやがて終わり、人々はまた「組織」のうちにかえる。人々は「国家社会」の成り立つためには「自己否定」(「個的自己」の否定)の必要であることを悟って、再びナポレオンのもとに君主政治を再建する。(293頁)
☆それによって生ずる現実政治における変化は、それまでの「絶対君主政治」が「立憲君主政治」になったということだ。(293-294頁)
☆ヘーゲルはこの「立憲君主政治」をもって、政治形態の発展は一応終わると考えている。(294頁)

《参考》さて「絶対自由」といっても最初は「抽象的」なものであって、「個的自己」が「絶対者」であると考えられているので、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される。(292-293頁)

(71)-4 「啓蒙」においては「絶対自由」の実行が「テロリズム」となる!人間が生活するにあたって「自己否定」((「個的自己」の否定))はいつも必要だ!「テロリズム」は「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を、人間に身をもって体験させるので「至高の教養(※エスプリorガイスト)」だ!
★「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎するが、ヘーゲルは「テロリズム」にもっと深い意味を認めようとする。(294頁)

Cf.1 「啓蒙」においては、③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、これは、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)
Cf.2 「抽象的」な「絶対自由」をそのまま実行に移そうとすれば、あらゆる「組織」を拒否するから「テロリズム」が不可避だ。(293頁)

★およそ人間が生活するにあたって「自己否定」(「個的自己」の否定)はいつも必要なものだ。(294頁)
☆これまでの「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)もまさに「教養の世界」として、いろんな(※「個的自己」の)「否定」を含んでいた。例①「封臣」・「廷臣」は「奉公」をし「頌辞」を呈しなくてはならなかったし、また例②「信者」にも「苦行」・「断食」・「喜捨」などが必要だった。(294頁)

★しかしこれらはいずれも「テロリズム」ほどに徹底したものではないが、およそ人間が「この世」に生きるには「自己否定」(「個的自己」の否定)が必要であり、とくに「教養」を必要とする「近代的人間」の場合にはそうだ。(294頁)

★だが「テロリズム」こそは、「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を人間に身をもって体験させるものだから、「テロリズム」は「至高の教養(※エスプリorガイスト)」だと、ヘーゲルは言う。(294頁)
☆このようにヘーゲルは「テロりズム」に深い意味を認めようとしている。(294頁)
☆なおこれは、「『奴』を訓練するものがけっきょくのところ『死』という絶対的主人の恐怖である」ことに、応じる。(294頁)
Cf. 「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)

《参考1》(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考2》人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる!「自己疎外」は結局、「教養」(※エスプリorガイスト)に至る!(256-257頁)
☆ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では
人間は「個的自己」として存在するが、人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』Bildungの努力」を引き受けなくてはならぬということになる。かくて(BB)「精神」A「人倫」(古代ギリシャのポリス)に続くBという段階は、「自己疎外的精神、教養」と題される。(256-257頁)
☆さてギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」)とは違い、人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる。「Entfremdung」とは、「自分にfremdなもの」、「自分に疎遠で外的であるもの」になることだ。つまり「自分から離れて、自分に疎遠なものになる」というのが「疎外」だ。(257頁)
☆「疎外」は苦しいことだが、その苦行を通じてのみ人間は「真の人間」にまで自分を高め形成することができるのだから、「自己疎外」は結局、「教養」Bildung(※エスプリorガイスト)に至り、それで(BB)「精神」A「人倫」c「法的状態」から以後(※つまり「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は、ギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」)とはちがって、「人間はただ『教養』(※エスプリorガイスト)をうることによってのみ人間として存在したとみなすことができる」というように時代が変わっていると、ヘーゲルは解している。(257頁)
☆「近代社会」は、「古代社会」とちがって、「個的自己」への徹底が行われているから、「社会」と結びつくには人間は「自然性」を剥脱し否定しなければならず、そういう意味の「教養」Bildungをそなえたものでなくては「近代社会」、「近代国家」の一員たりえないと、ヘーゲルは言う。(257頁)
☆フランシス・ベーコン(1561-1626)は「知は力なり」と言ったが、この語はベーコン自身では「自然征服」のことに関するが、ヘーゲルはこの語を転用して、「近代社会」の特徴(「教養」Bildungをそなえたものでなくては人間は「近代社会」の一員たりえない)を示すものと解している。(257頁)

《参考3》「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ。(「自己疎外的精神の世界」!)(266頁)
☆「教養の世界」は、①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界だ。(266頁)
☆そうして「対立するものを統一づけるもの」が、はっきりと出てきておればよいが、それはまだ出ていないで、ただいたずらに「一方が他方に転換する」だけだ。だからこの「教養(※エスプリorガイスト)の世界」の人間は「自己疎外の苦悩」をなめざるをえない。(266頁)

《参考3-2》「自己疎外」(①②③)ゆえに、「ガイスト」Geist(「エスプリ」esprit)すなわち「教養」が養われ、「絶対に対立するもの」が「一つになる」!「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはディドロの作品『ラモウの甥』を活用している!(266-267頁)
☆しかしこういう極端な「分裂」(「教養の世界」の「自己疎外」①②③)を通じて「絶対に対立するもの」が「一つになる」ところにこそ、ヘーゲル独自の「ガイスト」Geist が躍動してくる。「ガイスト」Geistは、フランス語の「エスプリ」espritに近いものだ。(266頁)
☆「エスプリ」espritとは、「ちょっと普通では関係のつかないような二つのもの」の間に「奇想天外な関係」を見つけるような能力のことだ。だから「エスプリ」に富んでいるのは、「気がきいている」ことであって、悪くすると「駄じゃれを弄する」ことにもなる。(266-267頁)
☆ヘーゲルは「エスプリ」espritの「よい点」を生かし、かくて「自己疎外」(①②③)こそが、人間に「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えると言う。(267頁)

《参考4》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考5》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)

(71)-5 「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「絶対否定が絶対肯定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定は、「個的自己」の「絶対的」な肯定だ)となり、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される!
★およそ人間が「この世」に生きるには「自己否定」(「個的自己」の否定)が必要であり、とくに「教養」を必要とする「近代的人間」の場合にはそうだ。「テロリズム」こそは、「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を人間に身をもって体験させるものであり、「テロリズム」は「至高の教養」だとヘーゲルは言う。(294頁)
★かくて「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される。(294頁)

★しかし、むろん「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」ということは、「政治経済の現実面」においては完全に実現されうるものではない。政治経済の現実面においては、このような「理法」(※「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」)がそのまま実現されることを妨げるいろんな偶然的事情がある。(294頁)

《感想》「テロリズム」すなわち「至高の教養(※エスプリorガイスト)」において体験させる「絶対否定が絶対肯定」とは、「個的自己」の「絶対的」な否定が、「個的自己」の「絶対的」な肯定になるということだ。これによって「自己疎外」は克服される。

★かくて「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」ということは、つまりこのような「理法」は、「政治経済の現実面」ではなく、ただ「精神的に」実現されるだけだ。(294頁)
☆すでに「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)を、(※「テロリズム」において)身をもって体験した人間は、「純粋に精神的な国」(ドイツ)(※ドイツのロマンティスィズム)のうちに住みうるようになっている。(294頁)

《参考1》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)

《参考2》「生命」(「客観的即自的な無限性」)の立場では「対立」は、先に述べた「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」、「力と発現」などは、「統一と区別」、「時間と空間」、「連続と非連続」等とも、さらには「過程と形態」、「機能と組織」とも呼ばれる。(130頁)

《参考3》さらに「生物」が感受し反応し再生するのは「過程」として「時間的」であり、そのような過程ないし機能を営むことにより、「生物」が自分にいろんな分肢を与え、自分を「組織」づけるのは「空間的」たるゆえんだ。そうして「空間的」たることは「非連続的」、「時間的」たることは「連続的」だ。(131頁)

《参考4》かくて一つの「個体」が独立の「個体」としておのれの生命活動を営み、おのれを形態づけ組織していくことは、「生物界全体の生命活動」が「個体」としておのれ自身をあらわしていくことだ。したがって「一つの個体が他の個体から非連続的に独立している」ということは、裏からいうと「他の生きものとの間に連続をなすし、そこに運命の交流がある」ということだ。(132頁)
☆「統一的普遍的生命」(「生物界全体の生命活動」)が、それぞれの「個体」のうちにおのれをあらわすというのは、「生物界全体」も「個体と普遍」、「空間と時間」、「連続と非連続」というもろもろの対立をもち、かかる対立が成立しながら相互に転換し「無限性」を実現していくことだ。(132頁)

《参考5》「観察的理性」における「観察」:「連続と非連続の弁証法」から脱け出すために「観察的理性」は「対立を統合したもの」、すなわち「法則」をつかもうとする!(167頁)
☆さて「本質的なもの」とは、「それぞれのもの」を「それぞれのもの」として、「他のもの」から「分離」する規定だ。ここ(「観察的理性」における「観察」)にも、(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅡ「知覚」の場合の「連続と非連続の弁証法」が起きてくる。(167頁)
☆「あるものの特色」(「本質」)とは、「そのもの」を「他のもの」から区別し「分離」するゆえんのものだ。しかしこの「分離」(※「そのもの」と「他のもの」との「分離」)も同時に「結合」(※「そのもの」と「他のもの」との「結合」)だ。例えば、「赤」(「本質」)といっても、もし「すべてのものが赤であれば、赤というものもなくなってしまう」ので、「赤でないもの」との関係においてこそ、「赤」(「本質」)は存在しうる。(167頁)
☆かくて「自」と「他」との「非連続」のほかに、「連続」も考慮することが必要だ。かくて「観察的理性」((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)の「観察」は「連続と非連続」、「自と他」というような「対立」したものの「弁証法」に巻き込まれてしまう。(167頁)
☆「観察的理性」は、これ(「連続と非連続」、「自と他」というような「対立」したものの「弁証法」)から脱け出ようとして「対立を統合したもの」、すなわち「法則」をつかもうとする。ここに「理性」は、(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅢ「悟性」に相応する段階に到達した。けだし「法則」は「悟性」によって定立されるものだからだ。(167頁)

《参考6》「人格」と「人格」との間には、「結合あるいは肯定」のほかに「分離あるいは否定」・「否定の隔たり」があり、「連続」のほかに「非連続」がある。ところがこの「非連続」の面を忘れてしまって、「連続」の面だけみてとり、そして「他人」のうちに「自分自身の満足」を求めようとするのが「快楽(ケラク)」の段階だ。かくて「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ。(196頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その3):「世界」は「自己のためにあるもの」だ!「絶対自由」の立場!

2024-08-29 16:05:40 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その3)(290-292頁)
(70)-6 「啓蒙」は、「信仰」との戦いのうちに、バラバラだった3つの主張、①「理神論」と②「唯物論」・「感覚論」と③「功利主義」・「相対論」が統一づけられていくことになる!
★「啓蒙」は、「信仰」との戦いにさいして、①「理神論」と②「唯物論」(or「感覚論」)と③「功利主義」(or「相対論」)との3つをバラバラに主張するだけで統一的に把握していない。(290頁)

Cf. ①「理神論」:「至高存在」はただ「理性」によってのみとらえられうる。(290頁)
Cf. ②「唯物論」or「感覚論」:「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」である。(288頁)
Cf. ③「相対論」:「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
Cf. ③(続)「功利主義」:③「相対論」はおのずからまた③(続)「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)

★しかし「啓蒙」が、相手(「信仰」)のAに対してはBを、相手のBに対してはAを唱えるという頑童にも等しい愚をおかしていることは、「信仰」との戦いのうちに、おのずと自覚され、3つの主張(①「理神論」と②「唯物論」・「感覚論」と③「功利主義」・「相対論」)は統一づけられていくことになる。(290-291頁)
☆そこに「概念の統一」が自覚され、「純粋透見」のまぬがれえなかった「主観性」・「個人性」は(※「啓蒙」において)洗いおとされ、「透見」はより高次の意味において「純粋透見」となり、「啓蒙」はその実を結び、また「信仰」との戦いにおいても勝利をえる。(291頁)

《参考》「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」だという欠陥が是正されなくてはならない。「純粋透見」は、ある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない。(284頁)
☆「純粋透見」の「公共化」について、ヘーゲルはフランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)のことを念頭において、個人個人の「透見」が集大成されることによって「純粋透見」は次第に「成長をとげていく」と考える。(284頁)
☆「純粋透見」が「成長していく」とは、最初は「プライベイト」な、「主観的」なものであった「透見」が、「社会的に普及する」ということも意味するが、これが「啓蒙」にほかならない。(284頁)
☆「啓蒙」は、「純粋透見」をして「公共的」・「普遍的」・「客観的」・「内容的」(⇔「個人的」・「個別的」・「主観的」・「形式的」)なものにまで「成長」させる。「啓蒙」は、「純粋透見」にとって不可欠なものだ。(284頁)

(70)-6-2 「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうるのは、「啓蒙」が、「自己意識の権利」に立脚しているからだ!「自分に対立するものをも包含した具体的な弁証法的な意味」における「自己意識の権利」に立脚する!かくて「啓蒙」は勝利を博する!
★「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうるのは、「啓蒙」が、「表象性」をまぬがれえぬ「信仰」とはちがい、「自我の働き」を重んじ、「自己意識の権利」に立脚しているからだ。(291頁)
★ただし「自己意識の権利」も2つある。第1は「『抽象的意味』における『自己意識の権利』」であり、第2は「『具体的意味』における『自己意識の権利』」だ。(291頁)
☆第2の「『具体的意味』における『自己意識の権利』」とは、「自分に対立するものをも包含した具体的な意味」における「自己意識の権利」であり、つまり「対自」のほかに「即自」をも、「自己」のほかに「対象」をも、「思惟」のほかに「感性」をも、「媒介態」のほかに「直接態」をもというように「反対をも包含した具体的な弁証法的な意味」における「自己意識の権利」だ。(291頁)

★「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうる原因となるべき「自己意識の権利」とは、第1の「抽象的意味」におけるものではなく、第2の「具体的意味」におけるものだ。(291頁)
☆「信仰との戦い」そのものが、「『抽象的意味』における『自己意識の権利』」から「『具体的意味』における『自己意識の権利』」へと移行させる。(291頁)
☆「啓蒙」は、「信仰」が「感性」をあげれば「理性」をあげ(※①「理神論」)、「信仰」が「対自存在」をあげれば「即自存在」をあげる(※②「感覚論」)というような愚をおかす。つまり「啓蒙」は「いつも自らの主張を裏切り虚偽をおかす」のだが、しかし愚をおかすことを通じて愚をさとって、「自己意識の権利」は「具体的なもの」に転じてゆく。(291頁)
☆かかる「『具体的意味』における『自己意識の権利』」は「絶対不可抗のもの」であるがゆえに、「啓蒙」は勝利を博することができる。(292頁)

★しかし「信仰」の主張も「実質的」にはまちがっていたわけではないから、「啓蒙」が勝利をうるといっても、このことは、「信仰」の要求も、「実質的」には「啓蒙」のうちに包含され、それ(「啓蒙」)によって充足されたことを意味する。(292頁)

《参考》「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)
☆だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)

(70)-7 「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する!「『有用なもの』の世界」:「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」だ!「絶対自由」の立場!
★「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。(292頁)
☆だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
★そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。(292頁)
☆かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。(292頁)
☆「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オマル・ハイヤーム「はなびらに」『ルバイヤート』(120):「若さ」はそれだけで、たのしい!「老年」の今、「過去」は後悔・悲しみばかり!「過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく」!

2024-08-28 16:25:48 | 日記
※オマル・ハイヤーム(1048-1131)『ルバイヤート』(小川亮作訳)岩波文庫、1949年
 
 「はなびらに」(120)

はなびらに新春(ノールーズ)の風はたのしく、
草原の花の乙女の顔もたのしく、
過ぎ去ったことを思うはたのしくない。
過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく。

《感想1》「春」はたのしい季節。(「はなびらに新春(ノールーズ)の風はたのしく」!)「若さ」はそれ自身、それだけで、たのしい。(「草原の花の乙女の顔もたのしく」!)
Cf.  しかし「若さ」は失われる:「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)!

《感想2》「過去」は後悔・悲しみばかり。「過ぎ去ったことを思うはたのしくない」!「馬鹿」な人生!
Cf.  藤圭子が「一から十まで 馬鹿でした」と歌う。ただし「馬鹿にゃ未練はないけれど忘れられない 奴ばかり」と、この歌のヒロインは幸せだ!

《感想3》いまや老年だ。「過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく」!「老いの繰り言」(老人が、言ってもしかたのないことを、くどくどと繰り返し言うこと)は無用だ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その2):①「理神論」、②「感覚論」・「唯物論」、③「功利主義」・「相対論」!

2024-08-28 09:35:55 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その2)(288-290頁)
(70)「啓蒙」は、①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」を、「信仰」に対して主張する!「啓蒙」の①「理神論」は、「絶対実在」は「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張する!
★「啓蒙」が「信仰」に対して何を主張するかというと、それは①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」の3つに帰する。ただしこれら①②③は、いずれも実質的には「信仰」にもあることだ。(288頁)

★「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は「絶対実在」は、そんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここにそれの①「理神論」がある。(288頁) 
☆しかし「信仰」だってこんな「感覚物」(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)をもって「絶対実在」と考えているのではなく、「信仰」は(※①「理神論」の立場にあり)「絶対精神」に対して「信頼」しているのだ。(288頁)

(70)-2 「啓蒙」は ②「感覚論」あるいは「唯物論」をも主張する!
★ところで「啓蒙」のいう「至高存在」は、ただ「即自存在」であるにとどまって、それ以上なんらの「限定」をも「内容」をももたぬものだから、その「理神論」に安住することはできず、それとは全然反対に、「啓蒙」は「ただ『感覚』できる『個々のもの』のみが『実在』である」とも主張するが、ここに②「感覚論」・「唯物論」が唱えられることになる。(288頁)
☆だがこれ(②「感覚論」・「唯物論」)とても、「葡萄酒」と「パン」とを「クリストの血肉」と信じ、「聖像」を「クリストの御姿」としてあがめるところの「信仰」にもあることだ。(288頁)

(70)-3 「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を非難する!
★さらに「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、この見地から「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を「馬鹿げたこと」と非難する。(288頁)
★だが「啓蒙」は、この③「相対論」・「功利主義」が、①「理神論」および②「感覚論」とどういう関係にあるか自覚していない。(288頁)

★「啓蒙」が③「功利主義」を唱えざるを得ない理由は明らかだ。(※①「啓蒙」の「理神論」において)「至高存在」は「即自存在」であるにとどまり、その他の(※「至高存在」であるという「規定」以外の)いかなる「規定」をも「内容」をも持たぬものであるからこそ、「啓蒙」はそれにとどまりえず、(※②「感覚論」あるいは「唯物論」の立場をとり)「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」であると唱える。(288-289頁)
☆またこの「至高存在」と全然正反対のごとく見える「感覚物」も、そのいちいちを、それぞれを「それ自体」としてみれば、やはり「至高存在」の「自体性・即自性」にあずかり、それを分かちもっている。(289頁)

★また(※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身として」のみあるものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
☆そうして(※「啓蒙」における)③「相対論」はおのずからまた③「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)

☆しかし「啓蒙」の③「功利主義」とても、やはり「信仰」にもあるものだ。けだし「信仰」は「最大のご利益」を目ざすものだからだ。(289頁)

(70)-4 「啓蒙」は、「信仰」に反対するが、「自己矛盾の虚偽」をおかしている!
★「啓蒙」は、すでに「信仰」も認めていることをもって、「信仰」に反対し、しかも反対にさいして、いつも「自己矛盾の虚偽」をおかしている。(289頁)

★即ち「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)

★だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)

(70)-5 「啓蒙」は、①「理神論」から②「感覚論」・「唯物論」に移らざるをえないことを自覚しない!
★「ただ『理性』によってのみとらえられうる『至高存在』」を高調する①「理神論」から、「ただ『感覚』せられうる『個物』のみをもって『実在』とする」という②「感覚論」・「唯物論」に、「啓蒙」が移らざるをえなかったのは、「即自存在」が「即自存在」にのみとどまりうるものではなく、「対他存在」に移行せざるをえぬからだが、「啓蒙」はこの当然のことを自覚しない。(290頁)

Cf. (※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)

(70)-5-2 「啓蒙」は、②「感覚論」・「唯物論」から③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないことを自覚しない!
★さらには「『即自存在』と『対他存在』とを結合すべきである」にもかかわらず、このことをも「啓蒙」は知らない。(290頁)
☆結合すれば「感覚的な個々物」自身についても、「即自存在」と「対他存在」とが不離のものであるから、「個々物」がいずれも「『それ自体』として存在する」と同時に「『他者との関係』において存在する」ことになるから、②「感覚論」・「唯物論」は、当然③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないのに、「啓蒙」はこのことをも自覚しない。(290頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする