DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その3):「奴」の方が自己の「無限性」・「真の自由」を実現する!「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」!

2024-05-31 18:59:42 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その3)(140-143頁)
(26)-4 「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」!
★ところで「自己意識」と「自己意識」の関係は本来「相互的」でなければならない。(140頁)
☆「人格関係」は「相互的」だ。(140頁)
☆かくてこちらから「なにかしてもらたい」と思っても、相手にその気がなければ、けっきょくのところ「いかなることもしてもらえない」ということもそこから生じる。(140頁)

★「奴」が「権力のおそろしさのため主を尊敬している」といっても、「尊敬するかしないか」はやはり「奴」の自由だ。(140頁)
★したがって「主」は「独立的のもので、なにものにも依存していない」ようであっても、じつは「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」。(140頁)
☆「主人として承認するや否や」は、けっきょくは「奴の自由意志」によっている。(140頁)
☆この点からいうと、「奴よりむしろ主の方が奴隷的である」、つまり「主」は「奴の奴隷的であるよりさらに奴隷的である」といえる。(140頁)

(26)-4-2 「主もかえって奴に依存している」、いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」!
★このことを理論的にいうと、「主人」は「精神的無限性ないし普遍性」を実現し、「奴」は「欲望」にとらわれて「個別性」にとどまっている。(141頁)
☆ところがじつは「主人」も支配される方の「奴」の「個別性」に依存している。(141頁)
☆そこで「奴が主に依存する」と同様に、「主もかえって奴に依存している」。いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」。(141頁)

(26)-5 ヘーゲルは「自由」を「奴」の方から説こうとする!むしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」! 
★かかる理由(「主もかえって奴に依存している」or「主は奴になり、奴は主になる」)から、ヘーゲルは「自由」をむしろ「奴」の方から説こうとする。(141頁)
☆これについて、ヘーゲルは①「畏怖」と②「奉仕」と③「形成」との3点をあげる。(141頁)

(26)-5-2 ①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
★①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
☆これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)
☆「奴隷」はがんらい「生命」に執着したものだが、しかし「おそれとおののき」(「畏怖」)のうちにあることによって、その執着を震駭(シンガイ)(Cf. 侵害)されている。(141頁)
☆「奴隷」は「主人」が恐ろしい(「畏怖」)から服従して、「飲み食い眠るという欲望」さえおさえているが、この服従はかえって「個別性への執着」をたちきるものだ。(141頁)

(26)-5-3 ②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
★②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
☆「畏怖」(「主人」をおそれる)(「権力によって殺される」という「死」の「絶対的な恐怖」)(「おそれとおののき」)だけではまだ内面的主観的だ。この「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」が「奉仕」だ。「奉仕」によって、「食いたい眠りたい」という具体的の(※主観的な)「欲望」を「現実的に客観的に」のりこえている。             (141頁)

(26)-5-4 ③「形成」(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
★③「形成」(「労働」)(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
☆「奉仕」もまだ「個別的断片的」であり、また「自分の身にそくしたもの」であるという意味で「主観的」だ。これがもっと「客観的」にあらわれたものが「形成」(「労働」)だ。(141-142頁)
☆「主人」は「対自存在」であり、「享楽」においてあり、「無限性」を実現している。(142頁)
☆しかし「主人」の「享楽」は消えていく。しかるに「奴隷」はせっせと働き、他物に働きかけてこれを「形成」してゆくことによって、自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換してゆく。(※「労働」or「労働」の対象化!)(142頁)

(26)-5-5 ③(続)「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!
★したがって「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)

(26)-5-6 「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
★しかし③「単なる『労働』と『形成』」とではだめで、やはり①「畏怖」(「奴隷」は「主人」をおそれる)と②「奉仕」(「畏怖」のそとに客観的にあらわれ実証されたもの)が必要で、ことに「絶対的な主人である死の恐怖」(①「畏怖」)があることが必要で、これによりあらゆる「個別的のものへの執着」をたちきり、「自己の無限性や普遍性」を実現してゆくことができる。(142頁)
☆そこで「奴隷」は単なる「我欲」にとらわれず、「普遍的、客観的にものを考える力」をもつようになるから、「無限性の概念」をうる。(142頁)
☆これに対して、「主人」の「無限性」は「享楽」におけるものだから「存続」できないし、また「享楽」の「個別性」にとらわれている。(142頁)
☆かくてむしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となる」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆「奴」の方が自己の「無限性」を、つまり「真の自由」を実現する。「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」。

(26)-5-7 「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」:昔の「殿様と家来」、「主人と番頭」、今日の「社長と社員」など!
★このあたりの叙述(※(26)-5~(26)-5-6すなわち「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」)はマルクスやサルトルを感心させた。(142頁)
☆ヘーゲルはよく人間関係の機微を具体的に知っている。(142-143頁) 
☆表現はヘーゲルらしく晦渋だが、いっていることは昔の「殿様と家来」、「主人と番頭」、今日の「社長と社員」などのあいだにもいつも行われていることだ。(143頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その2):「欲望」の立場で、二つの「自己意識」が「戦い」、「独立の自己意識」を持った方が「主」で、他方が「奴」だ!

2024-05-30 13:59:53 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その2)(138-140頁)
(26)-3 「一つの自己意識」と「他の自己意識」との関係における「主と奴」という関係!
★「一つの自己意識」と「他の自己意識」の「相互承認」というという「無限性」の関係は、「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。(138頁)
☆まず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)である。
《参考2》金子武蔵氏は(B)「自己意識」も3段階にわける。(B)「自己意識」:イ「生命あるいは欲望」個別性(Cf. 「感覚」)。ロ「主と奴」特殊性(Cf. 「知覚」)。ハ「自由」普遍性(Cf. 「悟性」)。(126-127頁)

★「自己」が満足するには、(「他者(※対象)」に対する)単なる「欲望」だけではなく、「他の自己意識」との関係においてあることを要するが、最初は(「相互承認」の立場に至らず)まだ「個別性」、つまり「欲望」の立場が強く残っている。(138頁)

《参考1》へーゲルは「無限性」について2通りのもの区別する。すなわち①「無限性であるにとどまる」場合と、②「無限性であることを自覚している」場合だ。即ち①「客観的な即自的な無限性」(普通に「生命」とか「生きもの」とかいわれるもの)と②「対自的自覚的な無限性」(Cf. 「相互承認」)だ。(129-130頁)

《参考2》「生命」の世界はたしかに「無限性」を実現しているが、しかし「ただ無限性である」ことにとどまって、「無限性であることを自覚する」までに至っていない。そこに「生命」の立場の限界がある。(132頁)
《参考2-2》かくて「無限性」は、「対象的」には実現されず、「主体的」にのみ実現される。(132頁)

《参考3》ヘーゲルは問題を「主体」(Cf. 「対象」)の方向に転じて、「『主体』において『無限性』はどうして実現するか」を考える。ヘーゲルは「一つの『主体』と他の『主体』との関係においてのみ、いいかえると一つの『自己意識』と他の『自己意識』との関係においてのみ、『無限性』は真に成りたちうる」ことを証明しようとする。(133頁)

《参考4》まず「欲望」から考えると、「対象」は「無力」のものであるから、「自我」は「対象」を取って食う。だから「自己確信」は「主観的」ではなく「客観的な真理」だ。(133頁)

《参考5》「『欲望』は人間のもつ『無限性』を実現するもの」といいうるが、「単なる欲望」では「無限性」は本当の意味では実現しない。なぜかというと、「欲望」はいつも「否定すべき相手」をもち、「一つの欲望が満足すると次の欲望が起こる」というように「欲望はかぎりのないもの」であり、「満足」にはつねに「否定すべき他者(※対象)」が必要だからだ。したがって「単なる欲望」の立場には、「悪無限」はあっても、「真無限」は実現されない。(133頁)
《参考5-2》「欲望」はつねに「否定すべき他者」を要するから、いつも「相手」が残る。この意味で、ヘーゲルは「欲望」をギリシア神話の「シシュフォスの徒労」にたとえる。シシュフォスは石を麓から推し上げ頂上まで持って行こうとするが、頂上の直前で石はガラガラと落ちる。ヘーゲルは「欲望の悪無限」を「シシュフォスの徒労」にたとえる。「欲望」の「無限性」は、「悪無限」だ。(133-134頁)

(26)-3-2 最初は(「相互承認」の立場に至らず)まだ「個別性」、つまり「欲望」の立場が強く残っている!相手を「生命」としてみ、真の意味の「人格」としてみない!
★「欲望」の立場(Cf. 「相互承認」の立場)における「一つの自己意識」と「他の自己意識」との関係をみると、「欲望」の対象は「生命」であるから、相手を「生命」としてみ、真の意味の「人格」としてみない。(138頁)
☆「自己意識」はその概念からいうと、「無限性」(「相互承認」)を実現すべきであるのに、二つの「自己意識」はまだ「個別性」の段階、つまり「欲望」の立場を離れない。(138頁)
☆そこでかかる「自己意識」と「自己意識」とが相対すると、互いに「相手」を「欲望の対象」にし「食いもの」にしようとする。(139頁)
☆二つの「自己意識」は「生死を賭しての戦い」を行う。(139頁)

(26)-3-3 「欲望」の立場において、二つの「自己意識」が「戦い」を行い、「相うち」になると「自己意識」の「統一」は実現するが、「無限性」(「相互承認」)は実現しない!
★「欲望」の立場において、二つの「自己意識」は「生死を賭しての戦い」を行うが、「相うち」になると、確かに「二つの自己意識の『統一』」は実現するが、その統一は「存在的な、死んだもの」であり、これではほんとうの「無限性」(「相互承認」)は実現しない。(139頁) 

(26)-3-4 「欲望」の立場において、二つの「自己意識」は、「お互いに相手を殺してはいけない」!「相手をなきものにしてはほんとうの『統一』はできないので、相手を生かしておいて、そこに『統一』をはかろう」とする!「精神的否定」or「止揚」という否定!
★二つの「自己意識」は、「欲望」の立場において、「生死を賭しての戦い」を行うが、「お互いに相手を殺してはいけない」。「相手をなきものにしてはほんとうの『統一』はできないので、相手を生かしておいて、そこに『統一』をはかろう」とする。(139頁)
☆対立するものを「否定的に統一づける」といっても、その否定は「精神的否定」だ。つまり「一方で肯定して他方で否定する」こと、へゲールのいわゆる「止揚」という否定だ。(139頁)
★「相互承認の関係が完全に実現された」場合と異なり、「欲望」の立場において、二つの「自己意識」は、「生死を賭しての戦い」を行うが、「相手を生かしておいて、そこに統一をはかろう」とするので、一方の自己意識は否定面、他方は肯定面を実現する。(139頁)

(26)-3-5 「独立の自己意識」として成り立った方が「主」で、他方が「非自立的意識」としての「奴」である!
★即ち「二つの自己意識」の間に「生死を賭した戦い」があるとき、一方(※奴)は「『生命』(イノチ)がおしくなって屈服し『生命』を保つ」が、他方(※主)は「最後まで戦いぬいて『精神』を実現する」のだ。(139頁)
☆このようにして「二つの自己意識」に「生命」と「精神」が分割されて実現される。(139-140頁)
☆ところが、これではいずれの「自己意識」も「否定肯定の両面」をもつのではないから、「相互承認」は「一方的」になる。(140頁)
★「独立の自己意識」として成り立った方が「主」で、他方が「奴」である。このようにして「主奴」の区別がでてくる。(140頁)
☆「主人」(「主」)の方は「自己意識の無限性(Cf. 相互承認)」を現実に実現する。「主人」は「他の自己意識」をおのれの「奴隷」にすることによって、制限されずにおのれの「欲望」を満足し享楽している。それに対して「奴隷」の方はまだ「無限性(Cf. 相互承認)」を実現していないので、「主人」において「他者」を持ち、「生命」に執着し、「物」に依存しているが、これは「非自立的意識」だ。(140頁)

★このように「主奴」の関係では、「承認」が一方的に成り立っている。「主」の方では「奴」を「独立の人格」として認めていないのに、「奴」の方は「主」を「独立の人格」として認めている。(140頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『デ・キリコ展』東京都美術館(2024/05/29):幻想的な雰囲気、日常の奥に潜む非日常・神秘・謎を描く「形而上絵画」!

2024-05-29 15:56:44 | 日記
★デ・キリコ(1888-1978)の「形而上絵画」(Metaphysical Painting):1910年代(20歳代)、幻想的な雰囲気、日常の奥に潜む非日常・神秘・謎を描く。ニーチェの哲学から影響を受ける。シュルレアリストたちに衝撃を与えた。これら作品群を後にデ・キリコ自身が「形而上絵画」と名づけた。
★「イタリア広場」:1910年(22歳)にフィレンツェに移ったデ・キリコは、ある日、見慣れたはずの街の広場が、初めて見る景色であるかのような感覚に襲われた。これが「形而上絵画」誕生の「啓示」となった。こうして「イタリア広場」のシリーズが描かれる。柱廊のある建物、長くのびた影、不自然な遠近法が、不安、空虚さ、憂愁、謎めいた感覚を生じさせる。
☆「バラ色の塔のあるイタリア広場」1934年(46歳)頃


★「形而上的室内」:第一次大戦の勃発により軍から召集を受けたデ・キリコは、1915年(27歳)にフェッラーラの病院に配属される。ここで彼は、この町の家の室内、店先のショーウインドウなどに魅せられ、室内画を制作していく。このシリーズは、線や四角、箱、地図、ビスケットなどのモティーフを組み合わせ構成された。
☆「福音書的な静物Ⅰ」1916年(28歳)


★「マヌカン」:デ・キリコは「形而上絵画」において、マヌカン(マネキン)をモティーフとして取り入れた。これにより人物像を、他のモティーフと同じモノとして扱うことが可能となった。マヌカンは謎めいたミューズたち、予言者、占い師、哲学者などの役割を演じる。
☆「形而上的なミューズたち」1918年(30歳)

☆「不安を与えるミューズたち」1950年(62歳)頃


★「室内風景と谷間の家具」:1920年代(30歳代)に新しい主題として「室内風景と谷間の家具」が登場する。海、神殿、山々などが室内にある、あるいは谷間に屋内にあるべき家具がある。ちぐはぐで不穏なイメージ。
☆「緑の雨戸のある家」1925-26年(37-38歳)


★「伝統的な絵画への回帰」:デ・キリコは1920年代頃(30歳代)からティツィアーノ、ラファエロ、デューラーなどルネサンス期の作品に、次いで1940年代(50歳代)にルーベンス、ヴァトーなどバロック期の作品に傾倒する。
☆「岩場の風景の中の静物」1942年(54歳)


★「新形而上絵画」:1978年(90歳)に亡くなるまでの10年余りの時期(80歳代)にデ・キリコはあらためて形而上絵画に取り組む。
☆「燃えつきた太陽のある形而上的室内」1971年(83歳)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その1):「自己意識」と「自己意識」の関係において、「相互承認」という意味の「無限性」が生じるのは、理想である!

2024-05-28 13:49:33 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その1)(136 -138頁)
(26)「自己意識」(自己)は「他の自己意識」(他己)との関係においてのみその「満足」を見いだす!すなわち「無限性」!すなわち「相互承認」!
★「無限性」という概念は「主体と主体との間」、「自己と他己の間」に実現さるべきものだ。なぜなら「自己意識」(自己)は「他の自己意識」(他己)との関係においてのみその「満足」を見いだすからだ。(136頁)
☆「『自己意識と自己意識との関係』において生まれる『満足』」、すなわち「無限性」という概念には、「相互承認」の概念をおきかえることができる。(136 頁)

(26)-2 「相互承認」(「無限性」):「自己意識は他の自己意識との間においてのみ『満足』を見いだす」!
★「自己意識」(自己)は「他の自己意識」(他己)と対しており、したがって「自己意識」は「他の自己意識」との関係においてしか存在できない。(136 頁)
☆「相互承認」(「無限性」)においては、「他者(他己)の存在」を肯定するのは「自己の存在」を肯定することであり、裏からいうと「自己の存在」を肯定することは「他者(他己)の存在」を肯定することだ。(136 -137頁)

(26)-2-2 「欲望」の場合は「相手を否定してしまう」!「相互承認」(「無限性」)においては、「他者の存在を肯定(否定)する」ことによって「自己の存在を肯定(否定)する」!「相手(他者)を肯定するor否定する」ときその「肯定or否定」は自分自身に「還帰」してくる!
★「欲望」の場合は「相手を否定してしまう」。(137頁)
★しかし「相互承認」(「無限性」)においては、「他者の存在を肯定する」ことによって「自己の存在を肯定する」のであり、裏から見ると「相手を否定する」のは「自己を否定する」ことになる。(137頁)
☆すなわち「相互承認」(「無限性」)においては、「自己意識は他の自己意識との間においてのみ『満足』を見いだす」。かくて相手を殺してしまっては、自己意識は「満足」の見いだしようがない。(137頁)
☆「他者をなくす」ことは「他者における自分自身を否定する」ことだ。つまり「自分自身の自由をうる」には「相手を自由に存在させる」のでなければならない。(137頁)
☆「相手(他者)を肯定する」ときその「肯定」は自分自身に「還帰」してくる。また「相手(他者)を否定する」ときその「否定」は自分自身に「還帰」してくる。(137頁)

(26)-2-3 「自己意識」と「他の自己意識」との「相互承認」(「無限性」)における「行為」の「相互性」!また「無限性」!   
★「自己意識」(自己)と「他の自己意識」(他己)との「相互承認」(「無限性」)においては、「自分自身の行為」も一方的ではなく相手があるわけであって、「自分がなにかをする」のは「相手がなにかをしてくれる」からであり、「相手がなにかをする」のは「私がなにかをしてやる」というように「相互的」だ。(137頁)
☆したがって「否定」にしても「肯定」にしても、けっきょく「自己」に「還帰」するのだから(Cf. つまり「相手(他者)を肯定する」ときその「肯定」は自分自身に「還帰」し、また「相手(他者)を否定する」ときその「否定」は自分自身に「還帰」してくるのだから)、「自己意識の行為」は「相手に向かう」と同時に「自己に向かう」ことであり、「自己にむかう」とは同時に「相手にむかう」ことであり、すべての行為は「相互的」となる。ここに「無限性」がある。(137頁)

★「親子の関係」に「人倫的」のものがあるのも、「自己を肯定する」ことは「相手を肯定する」ことであり、「自分を否定する」ことは「相手を否定する」ことであるという関係において、自分自身に「還帰」しているからだ。(137-138頁)

(26)-2-4 「自己意識」と「(他の)自己意識」の関係において、「相互承認」という意味の「無限性」が生じるのは、理想である!
★「無限性」が「人格」間に支配しているときは、まさにヘーゲルの「相互承認」の関係が生じている。いいかえると「自己意識」と「他の自己意識」の関係は「相互承認」という意味の「無限性」を必要とする。(138頁)
☆しかし、これは「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、あるべきものであって、このような「相互承認」という関係が、いまただちに実現されるのではなく、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。(138頁)
☆そこでまず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)である。
《参考2》金子武蔵氏は(B)「自己意識」も3段階にわける。(B)「自己意識」:イ「生命あるいは欲望」個別性(Cf. 「感覚」)。ロ「主と奴」特殊性(Cf. 「知覚」)。ハ「自由」普遍性(Cf. 「悟性」)。(126-127頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その6):「無限性」は「精神」であり、「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である!

2024-05-27 14:24:50 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その6)(134-136頁)
(25)-13 「人倫的体験」がヘーゲル哲学の根柢になっている!
★ヘーゲルはフランクフルト時代に『キリスト教の精神とその運命』という長編の論文を書いている。この時代はヘーゲルのロマンティシズムの時代で、したがって「愛」を至高の境地と考えた時代だ。この「愛」ということを考えると「無限性」のなんであるかがよくわかってくる。(134頁)

《参考》☆1796年(26歳)、ヘーゲルは故郷シュトゥットガルトに帰る。ヴュルテンベルク公国において政治的改革を実施すべしとの激越な政治パンフレットを書く。☆1796-1800年(26-30歳)、ヘーゲルはフランクフルト市の銀行家ゴーゲル家で家庭教師をつとめる。この頃はヘーゲルのロマンティシズムの時代で、「運命」、「愛」、「和らぎ」というようなことが話題になっている。(41-42頁)

★「父親と息子の間に人倫的愛情がある」というのは、「息子」は《父親の願望や考え》をもって《自分のもの》とし、「父親」も《息子の志望や心持ち》をおしはかって《自分のもの》とするとき、「父親は《息子の他者》であり、息子は《父親の他者》でありながら、お互いの間に『統一』があり、お互いの間に『共通の統一的生命』が通ずる」のだ。「父親」と「息子」はお互いに(※別の人間として)わかれていても、「同じ統一」のわかれだ。(134頁)
☆かくて、ここにも「無限性」という関係がある。(134頁)

★このような「愛」を至高の境地と考えたのがヘーゲルのフランクフルト時代だ。(134-135頁)
☆しかし『精神現象学』ではヘーゲルは「愛」は感覚的なもので、「愛」では広い人間関係を解明しえず、「家族」というようなせまい人倫的関係の場合はよいが、「広い人倫関係」の場合はだめだとする。かくてヘーゲルは「愛」をせまい「家族」関係に限る。(135頁)

(25)-13-2 「人倫」の見地をいれると、「他者を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる!「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である!
★とにかくこのような「人倫的体験」がヘーゲル哲学の根柢になっている。(135頁)
☆「人倫」の見地をいれると、「他者(※対象or他我)を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者(※対象or他我)を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる。(135頁)
★「《自己意識》の全き自由と自立とを具えた《両項の統一》であるところの《精神》というこの《絶対的実体》」、換言すれば「『我々なる我』であり『我なる我々』であるところの《精神》」とヘーゲルが述べるように、「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である。(135頁)
★ヘーゲル『精神現象学』の「精神」は根本的には「人倫的生活」と分離しえない。(135頁)

★したがって、この「無限性」を本来の「対象意識」(天文学者が月を観測して惑星の軌道を考えるというような「対象意識」)にもってくると、それは本来的には成り立たない。(135頁)

★「『私が机を意識する』ということは『私を意識する』ことであり、『私を意識する』ことは『机を意識する』ことである」というのは、変なものではないかという「疑惑」が残る。(そのように、金子武蔵氏は「悟性段階」の最後のところで、すでに言及した。)(135頁)
☆だが「人倫的関係」をいれると、少なくともある程度までは、この「疑惑心」は解ける。(135頁)

《参考1》さきほど「対象意識は自己意識である」と言ったが、これではたとえば「私が机を意識する」こともじつは「自分を意識する」こととなるわけで、なんだかふにおちない。(125頁)
☆「いわゆる形而上学的なものをふくむのではないか」という「疑惑」が残る。(125-126頁)
☆この「疑惑」は「ヘーゲル哲学」に最後までつきまとうものだ。(126頁)
☆だが「(B)自己意識」の段階がヘーゲルにとって本来の境地であることを思うと、この「疑惑」もある程度まで解ける。(この点については追々、述べる:金子武蔵!)(126頁)

《参考2》「普通の認識」と「哲学的認識」(=「絶対知」):「普通の認識」の立場では、対象を認識することは他者(他在)を認識することで、自分自身を認識することではない。つまり「対象」を認識するときに、その対象は自己と違ったものであり、認識する「自己」も対象とは違ったものであると考えるのが、「(A)意識」の立場だ。(58頁)

《参考3》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
☆「無限性」は「概念」即ち「自己」にほかならないので、「対象意識」の段階から「自己意識」の段階にうつる。(123頁)
☆「無限性」の概念から我々の「意識」を考えてみよう。まず普通に「意識」するというのは「自己を意識する」のではなく、「対象を意識する」ことだ。(123頁)
☆ところが「無限性」からいうと、「対立」は「相互に他に転換」する。したがって「認識主観」は「客観」へ、「認識客観」は「主観」へというように、「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある。そしてその「統一」が二分して「対立」し、「相互転換」して「統一」にかえる。このような「無限性」の運動において「対象意識」は成立する。(123頁)
☆「BがCを意識する」あるいは「CがBを意識する」というのは、「BもCもA(同一のもの)のあらわれ」だから、(「C」が)「B」を、また(「B」が)「C」を「意識する」ことではなく、「自己Aを意識する」ことだ。つまり「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく。(123頁)

《参考3-2》「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない!「対象の内なるもの」と「主体としての内なるもの」とは同じものだ!
☆言いかえると、「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。(123頁)
☆「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)

《参考3-3》「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ!「実体は主体である」!
☆このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

(25)-13-3 ヘーゲル『精神現象学』の全部に通じるプリンシプル:「『精神』は『我々なる我』であり『我なる我々』である」!ヘーゲルの「無限性」、「主体」、「精神」というような概念は「人倫的生活」と切りはなせない!
★「『精神』は『我々なる我』であり『我なる我々』である」というのは、ヘーゲル『精神現象学』のこれからのちの全部に通じるプリンシプルであり、いろいろの段階はこのプリンシプルの展開である。(135-136頁)
☆もっとも(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」という段階はこのプリンシプルに直接の関係はない。しかし大体からいえば、この「精神」(「我々なる我」であり「我なる我々」である「精神」)は、ヘーゲル『精神現象学』のこれからのちの叙述に対して目標になる概念だ。(136頁)

★この見地から「人倫の国」というイデーも生まれる。(136頁)
★このようなわけで、ヘーゲルの「無限性」、「主体」、「精神」というような概念は「人倫的生活」と切りはなせない。(136頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2》「人倫」とは、人間社会・人間集団の倫理という意味で、ヘーゲルはこの「人倫」 の中でこそ、人間の「自由」は現実的に実現されると考えた。 ヘーゲルによれば、「人倫」は「家族―市民社会―国家」として弁証法的に「正―反―合」の螺旋的運動としてあらわされる。「家族」は愛情で結ばれた自然の共同体であるが、個人の自覚は弱いままである。子どもが成長すると「市民社会」の一員となる。それは個人の自覚に基づくが、欲望の衝突があり人と人の結びつきが弱まった共同体だ。この両者(「家族」・「市民社会」)を統合した最高の共同体が「国家」だ。「国家」は「家族」の強い結びつきと「市民社会」の個人の独立性が統合された共同体だ。ヘーゲルは人間の真の自由は「国家」の中でこそ実現され、「国家」の中で人と人との真の結びつきが回復されると考えた。(Cf. NHK高校講座『倫理』)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする