DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「1980年代 遊園地化する純文学」(その1):「ポストモダンと文化の爛熟」新自由主義!「Japan as No.1」&バブル景気!ポストモダン文学=脱リアリズム!(斎藤美奈子『日本の同時代小説』3)

2022-02-28 15:03:52 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(26)「ポストモダンと文化の爛熟」:1980年代に「小さな政府」を目指す「新自由主義」の経済路線へ経済政策が転換した!「格差社会」のスタートだが、誰もまだ気づいていなかった!
A  1980年代は、それまでの規範が崩れたところからはじまった。そして「文化の爛熟時代」だった。「昭和の。文化文政時代」と言ってもよい。(90頁)
A-2  1980年代に「小さな政府」を目指す「新自由主義」の経済路線へ経済政策が転換した。Ex. アメリカのレーガノミックス(任1981-1989)。イギリスのサッチャリズム(任1970-1990)。(90頁)
A-2-2  日本でも電電公社がNTT(1985)に、専売公社が日本たばこ(JT)(1985)に改変され、さらに国鉄が分割民営化されJRグループ(1987)となった。これは、後に顕在化する「格差社会」のスタートだった。(※だが、誰もまだ気づいていなかった。)(90頁)

(26)-2 1980年代の日本は浮かれていた:『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(Japan as No.1)(1979)&「バブル景気」(最盛期は1987-1989)!
A-3  1980年代の日本はなんとなく浮かれていた。社会学者エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)で、高度経済成長を実現させた日本型経済の優れた点を分析した。1980年代の日本人は自分たちが「世界の勝ち組」になったと思った。(90頁)
A-3-2  1985年のプラザ合意に端を発する「バブル景気(バブル経済)」は、日本人をますます有頂天にさせた。(90頁)
《参考》プラザ合意後の「円高不況」に対し、日銀が公定歩合を引き下げたが、円高のメリット(Ex. 外国産の原材料が安い)でむしろ好況となり、その結果、銀行のカネ余りを招き、そのお金が株や土地の購入(「財テク」ブーム)に使われ「バブル景気」(1986/12-1991/2、最盛期は1987-1989)が生じた。

(26)-3  1980年代の文化は完全に「陽」だった:「お笑い芸人」、「コピーライター」、「ニューアカ」、「ディズニーランダイゼーション」!
A-4  文化の面で、1970年代は「公害」と「戦争体験」と真摯に向き合った点で「陰」気味だった。そこから一転、1980年代の文化は完全に「陽」だった。(90-91頁)
(a)漫才ブームで「お笑い芸人」がトップスターに躍り出る。(91頁)(※ B&B・ツービート・紳助・竜介、タモリ・明石家さんま・ビートたけしの「BIG3」等。)
(b)「コピーライター」が時代の寵児となり、広告表現が「文化」に昇格する。(91頁)(※糸井重里(1948-)「くうねるあそぶ」「いまのキミはピカピカに光って」。仲畑貴志(タカシ)(1947-)「タコなのよ、タコ。タコが言うのよ」「カゼは社会の迷惑です」等。)
(c)浅田彰(1957-)や中沢新一らの若手の学者が「ニューアカ」(ニューアカデミズム)の旗手として人気を集める。(91頁)

《参考1》浅田彰『構造と力――記号論を超えて』(1983、26歳):構造主義とポスト構造主義の思想を一貫した見取り図のもとに再構成。フランス現代思想に対する「知の見取り図」として受容される。
Cf. 「構造主義」:クロード・レヴィ=ストロース(1908-2001)、ルイ・アルチュセール(1918-90)、ジャック・ラカン(1901-1981)、ロラン・バルト(1915-1980)等。
Cf. 「ポスト構造主義」:ミシェル・フーコー(1926-84)、ジャック・デリダ(1930-2004)の「脱構築」の哲学、ドゥルーズ(1925-95)とガタリ(1930-92)が用いたラカン派精神分析等。
Cf.  構造主義は、対象を構成要素に分解し、要素間の関係を整理統合して、その対象を理解する。

《参考1-2》浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(1984、27歳):浅田は人間を、特定の価値観や立場・見方に固執するパラノイア(偏執狂)型と物事に固執しないスキゾフレニア(統合失調症)型に二分し、物事に執着しないタイプの人間(スキゾ)を推奨。これは「パラノからスキゾへ」というキャッチフレーズとして、当時の流行語となった。
《感想》「人格」としての自分の価値さえ相対化し、「逃走」する!つまりこの「世間」で上手に立ち回り=逃げ回り、エリートとしてちゃっかり生きる。(評者の個人的感想。)

《参考2》中沢新一(1950-)『チベットのモーツァルト』(1983年、33歳):中沢新一は、チベット密教僧に弟子入りし瞑想を体験。西欧の構造主義のコンテクストを用い瞑想世界を解明しようとする。吉本隆明はこれを「精神(心)の考古学」と評した。(※中沢は「オウム真理教」との関係がしばしば指摘される。)
《参考2-2》吉本隆明は、この中沢新一の本は「太古を探る知的営み」だと言う。「はじめに言葉(ロゴス)ありき」の以前、言葉が生成され精神・時間・空間が分節される以前の、いわば「夜明け前の曙光」を心で体感しこの本は生まれた。かくて、ここで使われる言葉はイメージ喚起的な言葉ばかりとなる。

(d)建築史家の中川理(オサム)(1955-)は『偽装するニッポン』(1996)で、1980年代の公共施設が「おもしろさ」「かわいらしさ」を過剰に追求したので、動物などを模したデザインばかりになったと言い、これを「ディズニーランダイゼーション」と呼んだ。Cf. ディズニーランド開園は1983年。(91頁)

(26)-4  1980年代の「ポストモダン」文学:「脱リアリズム」&「事実を蹴飛ばす超ノンフィクション」!
A-5 1980年代の文学は「ポストモダン」文学と言われる。(91頁)
A-5-2 「ポストモダン」とは何か?ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』(1989)は、「大きな物語の終焉」「知識人の終焉」をあげる。建築なら、「機能性と合理性」だけを追求した建築物が「モダン」、「遊び」を求め「規範から逸脱」した建築物が「ポストモダン」だ。(91頁)
A-5-3  1980年代の「ポストモダン」文学は、「脱リアリズム」を特徴とする。事実を重んじる「ノンフィクション」の時代から、「事実を蹴飛ばす超ノンフィクション」の時代となった。(91頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『グレンとグレンダ』(1953):オルトン博士は「男と女が一つの精神に同居している」トランスベスタイト(服装倒錯者)について語る!

2022-02-26 16:10:27 | 日記
※『グレンとグレンダ』GLEN or GLENDA(1953、米)監督エドワード・デイヴィス・ウッド・Jr

(1)ウォーレン刑事はあるトランスベスタイトtransvestite(服装倒錯者)の自殺事件を扱った。刑事は「トランスベスタイト(服装倒錯者)について学びたい。人を救いたい。予防できるのか?助言が欲しい!」と精神科医オルトン博士を訪れる。「彼らを異常と決めつけず、受け入れてやることが肝心」とオルトン博士は説く。
(2)オルトン博士は「男と女が一つの精神に同居している」トランスベスタイト(服装倒錯者)について語る。「グレン」は女性の服が着たくてたまらない。グレンは女装し化粧し女性の鬘をつけ「グレンダ」としてふるまう。ただしグレンはホモセクシュアルではない。
(3)グレンには、「バーバラ」という婚約者がいた。2人は「隠し事をしない」と約束していた。結婚を控え、グレンは自分の女装趣味をバーバラに告白すべきか悩む。実際、グレンの友人でトランスベスタイトの「ジョニー」は、自分の女装趣味を結婚後妻に知られ、離婚せざるを得なかった。
(4)「グレン」は悩む。彼は性的妄想も抱く。(a) 誘惑的なバーバラの肉体、(b)挑発する女性の肢体、(c)男女の性交渉場面、(d)女装するグレンを誰もが男も女も非難する妄想、(e)バーバラが許してくれない場面の妄想。こうして女装のグレン(「グレンダ」)は昏倒する。
(5)「グレン」は、結局、「バーバラ」に自分の女装を告白する。自分はトランスベスタイト(服装倒錯者)だとバーバラに告げる。混乱するバーバラ。だが彼女はグレンを受け入れる。「あなたを愛している。2人で頑張れると思うわ」とバーバラが言う。

(6)オルトン博士はウォーレン刑事にもう一人のトランスベスタイト(服装倒錯者)のケースも話す。これは女装して「アン」となる「アラン」(男)の話だ。(ア)アランの母親は娘を望んだがアラン(男)が生まれてしまった。(イ)父親は仕事で忙しくアランに興味を持たない。しかも(ウ)アランは男の子たちから仲間外れにされていた。アランは女装するようになった。
(7)「アラン」は兵役にもついたが、いつもトランクに女性用の衣服を入れて持ち運び、休暇の時には、それを着て、自分を慰めた。第2次大戦が終わると、彼は性転換の手術を受けると決意した。
(7)-2「アラン」は女性になる事を選んだ。(a)何十回ものホルモン注射、(b)胸を作る整形手術、(c) さらにホルモン注射が続く、(d)男性器を取り、女性器を作る手術。アランはこれらに耐えて、ついに彼は身体的に「女のアラン」つまり「アン」になった。さらにその後(e)女性としてふるまう訓練が行われた。「アラン」は、今24歳で「アン」として幸せだ。

(8)オルトン博士はウォーレン刑事に、その後の「グレン」と「バーバラ」について語った。2人はオルトン博士のカウンセリングを受け、またバーバラの愛と理解によって、トランスベスタイト(服装倒錯者)の状況から解放されていった。最終的にグレンは「正常な男性としての日々を送るようになった」とオルトン博士は結んだ。
(8)-2トランスベスタイト(服装倒錯者)となるのは、「後天的」要因だとオルトン博士が言う。「グレン」(「グレンダ」)の場合は、(ア)祖父は孫の自慢がしたくてフットボール選手になれとグレンに強く要求し、グレンはそれから逃れたかった、(イ)母親は夫が嫌いで、夫に似るグレン(男)をも嫌った。こうしてグレンはトランスベスタイト(服装倒錯者)となっていった。

《感想1》語り手が大時代がかっているが、ドラキュラ映画風のおどろおどろしさで1950年代初期の映画としては標準的だろう。
《感想2》“List of films considered the worst”(最悪と考えられる映画リスト)の1950年代に“Glen or Glenda”(『グレンとグレンダ』)はあげられている。しかしストーリーは、大変、理性的or科学的であって、啓蒙映画と言える内容だ。
《感想3》ただしグレンが抱く性的妄想の場面は、やや長い。男性観客を念頭におき、長くなったのだろう。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「1970年代 記録文学の時代」(その12):「大作」野間宏『青年の環』、埴谷雄高『死霊』!「私小説」壇一雄『火宅の人』、島尾敏雄『死の棘』!私小説作家!(斎藤美奈子『日本の同時代小説』2)

2022-02-26 11:35:07 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(25)「目がくらむような大作」:野間宏『青年の環』(1947-1971、32-56歳)、埴谷雄高『死霊』!
L 70年代に完結した重厚長大な大作がある。野間宏『青年の環』(1971)と埴谷雄高(ハニヤユタカ)『死霊』(シレイ)(1976)だ。(85頁)
L-2  野間宏(1915-1991)『青年の環』(1947-1971、32-56歳)の舞台は1939年の大阪。被差別部落への融和事業に従事する市役所吏員矢花正行(ヤバナマサユキ)と、資産家の息子で政治運動(マルクス主義運動)から脱落し夜の世界を徘徊する大道出泉(ダイドウイズミ)、対照的な二人の青年を中心に物語が進む。100人以上の人物が登場し、筋は錯綜、議論が延々と続く。「全体小説」を目指す。(85頁)
《参考》「全体小説」とは、差別、戦争、性、家、宗教、生と死、個と全体など多様な問題と取り組み、人間を、一方で内側の欲望からとらえ,他方で重層する現代社会のメカニズムから統一的にとらえることをめざす小説だ。

L-3  埴谷雄高(ハニヤユタカ)(1909-1997)『死霊』(シレイ)(1-5章)(1976)(なお未完ながら9章までが作者の死去に伴って1997完結。)舞台は昭和10年代の東京。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と同じ4兄弟の物語。主人公の三輪与志(次男)は旧制高校生で人との接触が苦手なオタク系。三輪高志(長男)は大学生で元地下活動家の政治青年だが、今は結核で病床にある。(※さらに「首ったけ」こと自称革命家の首猛夫、「黙狂」と呼ばれる思索者・矢場徹吾の4人の異母兄弟。)ここに暴君である彼らの父や、友人らが加わって物語は進行する。(85-86頁)
L-3-2  「形而上小説」と呼ばれるだけあり、「テキストには哲学的な(凡人には意味不明な)思弁が横溢」、全巻読み通した人はいないとさえ言われる「怪作」だ。(斎藤美奈子氏評。)(86頁)

《参考》『死霊』(シレイ)では、「無限」、「存在の秘密」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」、「のっぺらぼう」、「過誤の宇宙史」等々についての形而上学的・観念的思索が繰り広げられる。(Cf. 三輪与志は「虚體」の思想を持ち「自同律」に懐疑を抱く。)そして何十ページにもわたる独白の応酬としての対話劇。独自の諸観念・主題としては(a)「永久運動の時計台」、(b)「死者の電話箱」と「存在の電話箱」の実験、(c)「窮極の秘密を打ち明ける夢魔」との対話、(d)「愁いの王」の悲劇、(e)「暗黒速」や「念速」の概念、(f)「人間そのもの」・「イエス・キリスト」・「釈迦」・さらに「上位的存在」への弾劾、(g)「虚体」・「虚在」・「ない」の三者の観念的峻別等々。(※Wikipedia「死霊」参照。)

(25)-2 「超弩級の私小説」:壇一雄『火宅の人』(1975)、島尾敏雄『死の棘』(1977)!
L-4  伝統的な「私小説」で、戦後の集大成というべき大作が完成した。壇一雄『火宅の人』(1975)と島尾敏雄『死の棘』(1977)だ。内容的にはどちらも「浮気」の小説だ。(86頁)
L-4-2  壇一雄(1912-1976)『火宅の人』(1975、63歳)は1955年から20年間、断続的に発表されてきた。45歳の作家「私」は妻と4人の子どもがいる。だが19歳年下の女優と関係を持つ。それが発覚。そこからの5年間を物語は追う。事実上それは、居場所を無くした作家の放浪記に近い。(86-87頁)
※壇一雄は「最後の無頼派」とも呼ばれる。「無頼派」の中心は坂口安吾(1906-1955)、太宰治(1909-1948)、織田作之助(1913-1947)だ。
L-4-3  島尾敏雄『死の棘』(1977)は1960年から16年間、ライフワークとして少しづつ発表されてきた。これは「家庭内戦争」の物語だ。「私」トシオは39歳。妻と子ども2人がいる。妻に日記帳を見られて浮気が明らかとなり、地獄の日々が始まる。家庭生活は破綻、妻は精神科病棟に入院する。(87頁)
L-4-4  これら2作は読者の度肝を抜く作品で、「家庭人が愛人をもつとこんな目に遭うのか」と読者は恐怖に恐れおののいた。と同時にそこで描かれた知識人たる作家の姿は、十分に滑稽だ。(88頁)

L-4-5 沢木耕太郎(1947-)は『壇』(1995)で妻ヨリ子を取材し、梯(カケハシ)久美子(1961-)は『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(2016)で、小説の裏事情を検証するが、『火宅の人』も『死の棘』もたぶんにフィクショナルな要素を含む。(87-88頁)

(25)-3 私小説に特化した作家:佐伯一麦(カズミ)、南木佳士(ナギケイシ)、車谷長吉(クルマタニチョウキチ)、西村賢太(ケンタ)!
L-5  私小説に特化した(純文学)作家に佐伯一麦(カズミ)(1959-)(※電気工をしていた20代にアスベストの被害で肋膜炎にかかり以後、喘息の持病を抱え執筆を行なう)、南木佳士(ナギケイシ)(1951-)(※自身のうつ病の経験から生と死をテーマにした作品が多い)、車谷長吉(クルマタニチョウキチ)(1945-2015)(※2004年提訴され和解の後、「凡庸な私小説作家廃業宣言」)、西村賢太(ケンタ)(1967-2022)(※石原慎太郎から「お互い、インテリヤクザ同士だな」と言われた)などがいる。(88頁)
L-5-2  なお小島信夫(1915-2006)『わかれる理由』(1981、66歳)が完結する。家族の崩壊を描いた『抱擁家族』(1965)の続編に近い小説で、1968年から書き続けられていた。(88頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「1970年代 記録文学の時代」(その11):「女性作家の前衛趣味」富岡多恵子、津島佑子、金井美恵子、松浦理英子!「ベストセラー」見延典子、中沢けい!(斎藤美奈子『日本の同時代小説』2)

2022-02-25 16:27:57 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(24)「女性作家の前衛趣味」:「エクリチュール・フェミニン」すなわち「権力を攪乱する女性の言葉」!
K この時期(1970年代)にデビューした女性作家に感じられるのは、既存の「小説らしさ」の否定から出発していることだ。(81頁)
K-2  1970年代に流行った概念に「エクリチュール・フェミニン」という言葉がある。フランスのフェミニスト(ジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライ、エレーヌ・シクスー等)が語った。「権力化した男性が支配する言葉」に対抗する「権力を攪乱する女性の言葉」といった意味だ。70年代以降の女性作家の作品には、確かに「撹乱」の傾向が見える。(81頁)

(24)-2 富岡多恵子(1935-)『丘に向かってひとは並ぶ』(1971)(日本の近代家族のカリカチュア)!『植物祭』(1973)(恋人や母に対する男たちの幻想を打ち砕く)!
K-3  「エクリチュール・フェミニン」の方面の先駆的な作家が富岡多恵子(1935-)だ。『丘に向かってひとは並ぶ』(1971、36歳)は「ヤマトの国から来たといっても、ヤマトの国というのはどこなのかだれも知らない」と始まる寓話ないし神話風の作品、つまり「偽史」だ。男の代表「ツネやん」と女の代表「おタネ」、およびその子どもたちの生涯を語るが、これが悪に満ちた「日本の近代家族のカリカチュア」になっている。(81-82頁)
K-3-2  富岡多恵子『植物祭』(1973、38歳)は三十代半ばの「わたし」(ツシマさん)と24歳の「ぼく」(ナツキ)が進行役の小説。2人は友達以上恋人未満の関係。やがてナツキの出生の秘密(姉のミサコが実は18歳で自分を産んだ母だった)が明らかになる。「魔女としての母」がグロテスクに描かれて、恋人や母に対する男たちの幻想を打ち砕く。(82頁)

(24)-3 津島佑子(1947-2016)『光の領分』(1979)(「母子家庭の小説」の先駆的作品)! Cf. 『謝肉祭』(1971)(奇想天外なことが起こりすぎ)!
K-4  津島佑子(1947-2016)(※太宰治の次女)『光の領分』(1979、32歳)は、シングルマザーを主役にした小説。それは、ひとりで3歳の娘を育てる道を選んだ「わたし」の別居や離婚にまつわる苦悩を描くのでなく、他の男との一夜の契りなども含む日常を描く。「母子家庭の小説」の先駆的作品。(81-82頁)
K-4-2  津島佑子も当初は「とんがりまくった作家」(斎藤美奈子氏評)でその出世作『謝肉祭』(1971、24歳)は、奇想天外なことが起こりすぎ、読者もどうかすると迷子になりそうだ。(Cf. 「メリー・ゴーラウンド」の迷子の少年!)(82頁)

(24)-4 前衛的な作品:金井美恵子(1947-)『愛の生活』(1967)(25歳の主婦のアンニュイな生活)、松浦理英子(1958-)『葬儀の日』(1978)(近すぎるゆえに結ばれない一心同体の二人)!
K-5  金井美恵子(1947-)『愛の生活』(1967、20歳):19歳の女性作家が「25歳の主婦のアンニュイな生活」を一人称で書く。「悪意と批評性と背伸びっぷりは鮮烈」と斎藤美奈子氏が評する。(83頁)
K-6 松浦理英子(リエコ)(1958-)『葬儀の日』(1978、20歳)も前衛的な作品で、葬儀の「泣き屋」の私と、その片割れとも言うべき「笑い屋」の彼女の関係を描く。近すぎるゆえに結ばれない一心同体の二人。レスビアニズムと近似した感覚。Cf. 『ナチュラル・ウーマン』(1987、29歳)(※生々しい女性同性愛の世界。)(83頁)

(24)-5 「反ロマンチック・ラブ・イデオロギー」:「愛と結婚とセックス」を三位一体とする思想の揺らぎ!
K-7  富岡多恵子、津島佑子、金井美恵子、松浦理英子のこれらの作品は、「従来の男女関係と異なる関係」をモチーフにしている。「反ロマンチック・ラブ・イデオロギー」の感覚と言える。なお「愛と結婚とセックス」を三位一体とする思想、あるいは「愛する二人が結ばれる」という恋愛結婚イデオロギーが、「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」だ。(83頁)
K-7-2  1970年代の初頭にウーマンリブ運動が出現し、男女の規範をめぐるそれまでの価値観が大きく揺らいだ。「リブ的なゆらぎ」は小説にも共通していた。(83-84頁)

(24)-6 「女子大生や女子高生が性体験を描いている」:見延典子(1955-)『もう頬杖はつかない』(1978)、中沢けい(1959-)『海を感じる時』(1978)!
K-8  上記のような前衛的な諸作品は、プロの批評家に高く評価された。しかし女性作家の作品で、一般の読者の話題(ベストセラー)となった作品は、見延典子(ミノベノリコ)『もう頬杖はつかない』(1978)と中沢けい『海を感じる時』(1978)だ。(84頁)
K-8-2  見延典子(1955-)『もう頬杖はつかない』(1978、23歳)の語り手「わたし」は東京の私大に通う女子大生。半同棲する「橋本くん」と風来坊のような三十男の元カレの「恒雄」との間で揺れる。やがて「わたし」は妊娠するが、どちらの男の子どもかわからない。(※今、2022年なら医学的検査でわかるはず。)不誠実な男たちに嫌気がさし、「わたし」は妊娠中絶する。そして二人の男を振る。「ごみをすてるついでに、あなたと、あなたの子供をすてちゃったわ。」(84頁)
K-8-3  中沢けい(1959-)『海を感じる時』(1978、19歳)は、東京の女子高生の性体験を描く。高校3年生の「わたし」は母ひとり娘ひとりの母子家庭。働きながら大学で学ぶ先輩と「わたし」は付き合うが、肉体関係があると知った母は「けがらわしい」と激怒する。「わたし」は投げやりな態度の恋人に懇願する。「あたし、もてあそばれてもいいんです。あなたのそばにいたいんです」。(84頁)

K-8-4 見延典子、中沢けいのこの2冊がベストセラーになったのは、「読者のスケベ根性を刺激したから」だ。(斎藤美奈子氏評。)「女子大生や女子高生が性体験を描いている」というだけで色めきたつほど、当時1970年代の日本は「保守的」だった。(84-85頁)
K-8-4-2  これらの小説に価値があるとしたら、それは、同時代の男子少年小説を「相対化」した点だろう。女子から見れば、男子高校生のセックス観など、まったく「いい気なもの」なのだ。(85頁)

《参考》中沢けいは、2005年より法政大教授だ。2015年(56歳)、「ヘイトスピーチをする人間は3歳児のようなものであり、反論するのではなく叱りつけるしかない」、また「インターネットにおいて言論の管理をすることが必要」と発言した。2020年(61歳)、松本人志が新型コロナウイルス感染で生活苦の芸人に「100万円を無利子で貸し付ける」と表明したことに対し、「嫌な男だな。利子はつけないって言っているけど、お金を借りたら、ああだ、こうだと指図されて、いいように使われそう。ヤンキーのままや」と批判した。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「1970年代 記録文学の時代」(その10):「青春小説の大爆発」の理由①青春の質の多様化、②文芸各誌の新人賞創設、③使い勝手のいい「一人称小説」定着!(斎藤美奈子『日本の同時代小説』2)

2022-02-24 17:08:09 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(23)「『青春小説の大爆発』はなぜ起こったか」すなわち「青春小説の大爆発」の理由①:全員「そこらの若者」だ、つまり青春の質が多様化した!
J 中上健次(1946生)、村上龍(1952生)、三田誠広(1948生)、宮本輝(1947生)、高橋三千綱(1948生)、村上春樹(1949生)、立松和平(1947生)ら1970年代の「青春小説の大爆発」。主人公は全員、(a)「東京」に幻想を抱いていない、(b)「知識人いかに生くべきか」的な悩みと無縁、(c)「政治的」でもない。(d)彼らはいわば、全員「そこらの若者」だ。なお(e)みんな「微妙に不機嫌」だ。(78頁) 

J-2 「青春小説の大爆発」の理由①:「青春の質が多様化した」。庄司薫(1937生)『赤頭巾ちゃん気を付けて』(1969)の主人公「薫くん」は、1970年前後に青春を送った。1970年代の「青春小説の大爆発」における主人公たちも同じ時代に青春を送った。(78-79頁)
J-2-2 「薫くん」は(ア)東京の中産階級の家に生まれ、エリート高校から東大を目指す受験生。だがそんな子は世の中に人握りしかいない。(イ)新聞販売所の寮でくすぶっている子(中上)もいれば、(ウ)基地の町でラリっている子(村上龍)、(エ)※セクト幹部で年上のレイ子と同棲し流されていくノンポリの大学生(三田)、(オ) ※北陸富山を舞台に古風な思春期を経験する少年(宮本)、(オ)部活で汗を流す高校生(高橋)、(カ)※自己の独自の世界を構築しその内で主観的に生きる青年(村上春樹)、(キ)都市近郊でトマト栽培に精を出す青年(立松)など、「青春の質が多様化した」。(78-79頁)

(23)-2 「青春小説の大爆発」の理由②:多様な青春をすくい上げる(小説家の)人材登用のシステムが整った!
J-3 「青春小説の大爆発」が起こった理由の第2は、多様な青春をすくい上げる(小説家の)「人材登用のシステム」が整ったことだ。(79頁)
J-3-2  昔の文学青年が小説家を目指す場合、上京して著名な作家の門を叩くか、同人誌で腕を磨く以外になかった。(だから同工異曲に「ヤワなインテリの小説」ばかり製造された。)(79頁)
J-3-3  だが1950-60年代に、文芸各誌の新人文学賞が続々創設された。かくて修行の過程をショートカットして、若い書き手がいきなり文壇に登場する道が開かれた。(Ex. その先駆的な例が1955年、文學界新人賞受賞の石原慎太郎『太陽の季節』だ。)(79頁)

(23)-3 「青春小説の大爆発」の理由③:「僕/ぼく」で語る「一人称小説」の定着!
J-4  1970年代の多くの青春小説が「僕/ぼく」という「一人称一元小説」(ひとりの視点で書かれた小説)だ。(79頁)
J-4-2  「一人称小説」は岩野泡鳴(1873-1920)が「僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった」ではじまる情痴小説『耽溺』(1909)で発明した方法と言われるが、1960年代までは一般的な方法でなかった。「私小説」の多くも「A男は・・・・」などと書く「三人称一元小説」だった。(79-80頁)
J-4-3 「僕」を多用しその効用を知らしめたのは、大江健三郎と庄司薫だ。(80頁)
J-4-4  やはり団塊世代の沢木耕太郎(1947-)『敗れざる者たち』(1976)も、「ぼく」という一人称で自身とスポーツ選手を訪ねる一種の青春小説(的ノンフィクション)だった。(80頁)
J-4-5 「僕/ぼく」という男性の一人称は、(ア)「私」よりカジュアルで、「俺」よりフォーマルで使い勝手がいい。また(イ)「何気ない日常に秘められた不安」を語る現代の小説と相性がいい。(80頁)
J-4-6  1970年代後半以降は「神の視点」で語る「三人称小説」のほうが珍しくなる。「私小説」ならぬ「僕小説」の誕生。「僕/ぼく」を自家薬籠中のものとした団塊作家の登場は「一人称の時代」のはじまりを告げるものだった。(80頁)

J-5  1970年代から80年代にかけて、芥川賞の「取りこぼし」が目立つ。村上春樹に芥川賞を出し損ねたことは芥川賞の「汚点」として語り継がれることになる。旧世代の選考委員には、戦後生まれの小説が理解できなかったのだろう。(80頁)
《参考》「1973-80年の間、芥川賞選考委員だった者」:滝井孝作、丹羽文雄、船橋聖一(1975まで)、井上靖、中村光夫、永井龍男(1977まで)、大岡昇平(1975まで)、 安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作(1976から)、大江健三郎(1976から)、開高健(1978から)、丸谷才一(1978から)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする