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宮本輝(1947-)「力道山の弟」(1989年):「力道粉末」の空き袋は、「喜代ちゃん」が、香具師「力道山の弟」の子を身ごもったことを知った日の「父のあらぶる心と悲哀」を示すものだった!

2023-04-30 19:11:46 | 日記
※宮本輝(1947-)「力道山の弟」(1989年、42歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年所収
(1)昭和33年(1958)①:尼崎駅前、「京大工学部の学生」と称する男(香具師)!
昭和33年(1958、小5、11歳)の11月末、尼崎駅前、そこで香具師(ヤシ)が物を売る。最初、京大工学部の学生と称する男が「高度数学解読法」なる子ども教育用の冊子を売る。「さあお父さん、お母さん。この本を読めば、頭の悪い子供にもう家庭教師など必要はない。赤にかぶれた月給泥棒の教師の顔は青くなる」。1冊100円の冊子が、20冊近く売れる。
《感想》この頃、ラーメンが50円位だった。「日教組」が強い時代で「赤にかぶれた・・・・教師」と言われておかしくない。
(2)昭和33年(1958)②:尼崎駅前、「力道山の弟」と称する男(香具師)!
次いで黒いシャツに格子縞の背広を着た男がやってきて、突然服を脱ぎ黒いタイツ一枚になった。彼は「力道山の弟」だと言い、煉瓦を空手チョップで割ったりした。彼は「力道粉末」という漢方薬を売った。「青びょうたん」の私は健康に強くなれる「力道粉末」が欲しかったが、200円と高くて買えなかった。
(3)昭和33年(1958)③:「私」は麻雀屋で父の金券を盗んだことを謝まり、父に「力道粉末」を渡した!
父(1922生)は、その日、「喜代ちゃん」の麻雀屋でマージャンをやっていた。そこに例の香具師「力道山の弟」もいた。わたしは父のマージャンの金券200円分を盗んで、「力道山の弟」から「力道粉末」を買った。ところが「力道粉末」はとんでもない薬で、それを飲んだその晩、私は下痢し嘔吐し苦しんだ。私は父に金券を盗んだことを謝まり、父に「力道粉末」を渡した。
《感想1》「私」(宮本輝)11歳(1947生)は、父(宮本熊市)50歳の時の子だ。したがって父は1897(明治40年)生まれで、この昭和33年(1958)には父は61歳だ。
《感想2》私が「力道粉末」を父に渡して10年後、父は昭和43年(1968)に71歳で亡くなった。それから20年経ち、現在1988(昭和63年)だ。
(4)昭和30年(1955):市田喜代が尼崎に麻雀屋を開店した!
父の友人であった高万寿(コウマンジュ)の妻、市田喜代が麻雀屋を開店したのは昭和30年(1955)だった。(父58歳、私8歳、喜代40歳位か)。私は幼少の頃から、彼女を「喜代ちゃん」と呼んでいた。喜代ちゃんが開店にこぎつけるにあたって、父の裁量や資金作りのための奔走があった。
《感想》父は市田喜代におそらく恋心を抱いていた。昭和30年(1955)には、市田喜代は、子どものいない若い後家であり40歳位、父は会社を経営する58歳。私は8歳(小2)で、母は50歳代だったろう。
(4)-2 昭和10-12年(1935-37):高万寿と市田喜代の結婚生活!
父は戦前、対中国貿易で財を成した。高万寿は中国の福建省出身の商人で、神戸に事務所を持っていた。父とは親友で高万寿26歳の時、1935(昭和10年)、父が間を取り持って料亭の仲居だった市田喜代(20歳位か)と結婚した。(喜代ちゃんは両親に死別し孤児となり、苦労をして大きくなったという。)日中戦争勃発の年(1937年)、高万寿は喜代を残して中国に帰り、消息が絶えた。
(5)昭和33年(1958):喜代ちゃんは、香具師「力道山の弟」の子を身ごもった!
さて昭和33年(1958、「私」小5、11歳)の香具師「力道山の弟」の話に戻そう。「力道山の弟」は市田喜代の麻雀屋3日間泊り、どことも知れず出て行った。ところが市田喜代(43歳位か)は、香具師「力道山の弟」の子を身ごもった。それが分かった時、父は喜代の店の麻雀台を叩き潰し、麻雀牌を喜代の体につぶてのようにぶつけ、長椅子を持ち上げ、入り口の扉や帳場をこわした。「喜代ちゃん」は無抵抗なまま泣いていた。
(5)-2 昭和34年(1959):父の会社が倒産し岡山に逃げた!喜代ちゃんが悦子を生んだ!
その翌年、昭和34年(1959)、父の会社は倒産した。私たちは尼崎を引き払い、父の古い友人を頼って、岡山に逃げそこで5年間を過ごした。喜代ちゃん(44歳位か)は、この昭和34年(1959)、女の子を生んで、悦子と名づけた。そして尼崎の元の場所で麻雀屋を営み、よく繁盛していた。
《感想》「私」は1947年生まれ、悦子は1959年生まれだから「私」の12歳下だ。
(6)昭和39年(1964):父・母・私、尼崎に戻る!
「私」たちが、昭和39年(1964)に、尼崎に戻ると、喜代ちゃん(49歳位か)は幼い娘(悦子5歳)の手を引いて訪ねて来た。けれども父(67歳)は、2人に逢おうとはしなかった。母は近所の喫茶店で、喜代ちゃんと会い、近況を訊いた。(当時「私」は17歳だった。)その後、3年近く(1964・65・66年)、母は父に内緒で、喜代ちゃんに金を工面してもらっていた。
(6)-2 昭和39・40・41年(1964・65・66):私は喜代ちゃんから、金を受け取りに行った!
喜代ちゃんから、金を受け取りに行くのは、いつも「私」(17・18・19歳)の役目だった。そのたびに、私は悦子(5・6・7歳)を駅前の広場に連れて行って遊んでやった。
(6)-3 昭和43年(1968):喜代ちゃん(53歳位か)が子宮がんで死んだ!
喜代ちゃん(53歳位か)が子宮がんで死んだのは、昭和43年(1968)、悦子が9歳になったばかりのときだった。孤児となった悦子を父(71歳)が、子供のない明石に住む夫婦の養女に世話した。そんな悦子を父は時折、映画に連れて行ったり、何時間も環状線に乗って、大阪の街並みを見せたりした。(その年、父は亡くなった。)
(7)昭和63年(1988):悦ちゃん(29歳)が結婚する!
「悦ちゃん(29歳)は、あした(1988年)結婚するんや。相手は神戸で寿司屋をやってる男やけど、もう悦ちゃんの尻に敷かれとるわ」と私(41歳)は亡くなった父に心の内で報告し、「力道粉末」(1958に「私」が買った)の空き袋に火をつけて焼いた。この「力道粉末」の空き袋は20年前(1968)、父の遺品の中から出て来て、私はその袋を、1冊の詩集に挟み込んだまま、本棚の隅に保存してきた。
(7)-2 「力道粉末」(1958に「私」が買った)の空き袋は、「あの日(喜代ちゃんが、香具師「力道山の弟」の子を身ごもったことを知った日)の、父のあらぶる心と悲哀」を示すものだった。
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太宰治(1909ー1948)『十五年間』(1946):この戦争には、何の希望も持てなかったが、私は、日本に味方するつもりでいた!太宰は「逆コース」の動きを察知しなかった!状況は急激に変化した!

2023-04-29 22:35:09 | 日記
※『グッド・バイ』(計16編)(新潮文庫)所収
(1)15年間津軽から離れ東京に住んだ:1930年東京帝大フランス文科に入学し、1945年津軽に帰った!
A 私は15年間故郷・津軽から離れていた。昭和5年(1930)(※数え年22歳)東京帝大のフランス文科に入学、それから空襲で二度罹災し昭和20年(1945)津軽に帰った。(46-47頁)
B 昭和5年(1930)から『思い出』という小説を書いた。「こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白」であり「遺書」だった。だが「書いて置きたい事が一ぱい出て来て」、死ぬことをやめる。(47-48頁)
C 私のこれまでの生涯を追想して「幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらった」時だ。(※1939・昭和14年、結婚式。)(51頁)

(2)私はサロンの偽善と戦って来た!
D 「私の半生は、ヤケ酒の歴史である。」(52頁)
D-2 「私はサロンの偽善と戦って来た。」「本棚に私の著書を並べているサロンは、どこにもない。」(53頁)
D-3 「半可通が、私のいうサロンなのだ。」「自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。半可通は永遠に、洒々然(シャシャゼン)たるものである。」(54頁)
D-4 「私がはじめて東京で作品を発表した昭和8年から、20年まで、その12箇年、私はあのサロンの連中とはまるっきり違った歩調であるいて来た。」(55頁)
D-5 「サロン」の者たちとは例えば「キザに気取った色の白いやさ男」の「新進作家」であり、「浅墓な軽薄そうな男」だ。「私は上品な芸術家に疑念を抱」いた。「田舎者の私には、どうもあんなものは、キザで仕様が無かった。」(55-56頁)
(2)-2 真の芸術家は醜いものだ!
E  画家ベックリンに「芸術家」と題する一枚の画があった。「大海の孤島」に「汚らしいへんな生き物」がいる。かれは「笛を吹いている」。「波打際に、美しい人魚があつまり、うっとりとその笛の音に耳を傾けている。もし彼女らが、ひとめその笛の音の主の姿を見たならば、きゃっと叫んで悶絶するに違いない。芸術家はそれゆえ、自分のからだをひた隠しに隠して、ただその笛の音だけを吹き送る。」(56頁)
E-2 「ここに芸術家の悲惨な孤独の宿命もあるのだし、芸術の身を切られるような真の美しさ、気高さ・・・・つまり芸術・・・・があるのだ。私は断言する。真の芸術家は醜いものだ。」(56頁)
(2)-3 気が弱くてだらしない癖に、相当虚栄心も強くて、ひとにおだてられるとわくわくして何をやり出すかわかったもんじゃない男!
E-3 「お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。」わたしは自分が「生活は秩序正しく、まっ白なシーツい眠る」という「否定できない魅力」にひかれ、人が変わって「あんなに憎悪していたサロンにも出入りし、いや出入どころか、自分からチャチなサロンを開設して半可通どもの先生になりはしないか。何せどうも、気が弱くてだらしない癖に、相当虚栄心も強くて、ひとにおだてられるとわくわくして何をやり出すかわかったもんじゃない男なのだから。」(57頁)

(3)れいの「階級闘争」に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した!そして「絶望の乱舞」!
F  私たちの年代の者(※太宰1909生)は、過去20年間(※1925-1945)、ひでえめにばかり遭って来た。・・・・はたちになるやならずの頃に(※1929頃)、既に私たちの殆ど全部がれいの階級闘争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。」(59頁)
F-2 「東京に出てみると、ネオンの森である。曰く、フネノフネ。曰く、クロネコ。曰く、美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿の賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。」(59-60頁)
《参考》小泉癸巳男(キシオ)の版画「春の銀座夜景」(1931)には三越、伊東屋、クロネコ、銀座會館のネオンが描かれている。道には露店の赤・黄色の光、市電、円タクのライト。この頃の銀座は、女給のサービスと色気が売りのカフェー、バーが全盛期だった。(Cf. 「不純」なカフェーに対し、コーヒーを飲ませる「純喫茶」があった。)カフェークロネコと銀座會館は隣同士にあった巨大なカフェーだ。クロネコは3階までバー、レストラン、サロンがはいっていた。レストランは「フネノフネ」、バーは「イナイナイ・バー」という名前。銀座會館にはクルクル回る風車のネオンサインがあった。
(3)-2 こんどは敵は米英ということになり、日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極めた!
F-3 「つづいて満州事変(※1931)。五・一五(※1932)だの、二・二六(※1936)だの、何の面白くもないような事ばかり起って、いよいよ支那事変(※1937)になり、私たちの年頃の者(※太宰28歳)は皆戦争に行かなければならなくなった。」(60頁)
《参考》ただし太宰自身は「とうとう私には召集令状が来なかった」という。(66頁)
F-3-2 「事変はいつまでも愚図々々つづいて、蒋介石を相手にするのしないのと騒ぎ、結局どうにも形がつかず、こんどは敵は米英ということになり(※1941年)、日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極めた。」(60頁)

(4)昭和十七~二十年:私の或る小説は全文削除を命じられ、また或る小説は出版不許可になった!
G 「昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。・・・・ひまひまに小説を書いて発表すると・・・・私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終わりまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。」(60-61頁)
G-2 「しかし私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理屈でなかった。(※津軽の)百姓の糞意地である。」(61頁)
(4)-2 戦争がすんだら急に、東条の悪口を言い、戦争責任云々と騒ぎまわるような新型の便乗主義!またサロン思想に堕した社会主義!
G-3 「しかし、私は何もここで(※戦争が終わった時点で)、誰かのように『余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり』などと、戦争がすんだら急に、東条の悪口を言い、戦争責任云々と騒ぎまわるような新型の便乗主義を発揮するつもりはない。」(61頁)
G-4 (戦争が終わって)「いまではもう、社会主義さえ、サロン思想に堕している。私はこの時流にもまたついて行けない。」(61頁)

(5)この戦争(対米英開戦1941)には、何の希望も持てなかったが、しかし日本は、やっちゃったのだ!私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った!
H 「私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。」(61頁)
H-2 「けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったかと思うが、しかし日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。」(61頁)
H-2-2 「この戦争(※対米英開戦1941)には、もちろんはじめから何の希望も持てなかったが、しかし日本は、やっちゃったのだ。」(61-62頁)
H-2-3 「親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘をついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮(キワマ)ると観じて、黙って共に討死さ」!(太宰『火の鳥』1939)(62頁)
H-2-4 「このような思想を、古い人情主義さ、とか言って、ヘヘンと笑って片づける、自称『科学精神の持主』とは、私は永遠に仕事をやって行けない。」(65頁)
H-2-5 「私は戦争中、もしこんなていたらくで日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国だと思っていた。けれども私は、日本必勝を口にし、日本に味方するつもりでいた。負けるにきまっているものを、陰でこそこそ、と自分ひとり知ってるような顔で囁(ササヤ)いて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。」(65-66頁)
(5)-2 この戦争中、私はねばって、とにかく小説を書きとおした!
I この戦争中、「私はそのように『日本の味方』のつもりでいたのであるが、しかし時の政府には、やっぱりどうも信用が無かったようである。情報局の注意人物というデマが飛び、私に、原稿を依頼する出版社が無くなってしまった。しみったれた事を言うようであるが、生活費はどんどんあがるし、子供は殖えるし、それに収入がまるで無いんだから、心細いこと限りない。・・・・私はねばって、とにかく小説を書きとおした。」(66頁)
I-2 「しかし、まさか、戦争礼賛の小説などは書く気はしません。」(67-68頁)

(6)「日本の無条件降伏」から5カ月、「文化人」の「何々主義」はすべて「サロン思想」のにおいがしてならない!
J 「日本の無条件降伏」から「既に、五箇月ちかく経っている。」だが「何だかひどく憂鬱になって来た。またもや、八つ当たりしてヤケ酒を飲みたくなって来たのである。日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。」(72-73頁)
J-2 「このごろの所謂『文化人』の叫ぶ何々主義、何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは『成功者』になれるのかも知れないが、田舎者の私にはてれくさくて、だめである。私は、自分の感覚をいつわる事が出来ない。」(73頁)
J-2-2 「それらの主義が発明された当初の真実を失い、まるで、この世界の新現実と遊離して空転しているようにしか思われないのである。」(73-74頁)
K いま故郷津軽で「雪靴をはいて、雪路(ユキミチ)を歩いている私の姿は、まさに田舎そのものである。しかし、私はこれからこそ、この田舎者の要領の悪さ、拙劣さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問でもって、押し通しててみたいと思っている。いまの私が、自身にたよるところがありとすれば、ただその『津軽の百姓』の一点である。」(74頁)

(7)「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」「自由思想」の本来の姿は「反抗精神」・「破壊思想」だ!
L 太宰治は「この悪夢に似た十五年間の追憶の手記」(※『十五年間』1946)を、『パンドラの匣(ハコ)』(1946)の「自由主義」・「自由思想」に関する一節を引用して終わらす。(※以下、参照!)(75頁)
L-2 「自由主義者」には例えば、17世紀フランスの「リベルタン」がいる。彼らは「自由思想」を謳歌してずいぶんあばれ廻った。宗教の自由を叫んであばれていた。「あばれんぼう」で、たいていは「無頼漢みたいな生活」していた。鼻の大きいシラノなどは当時のリベルタンのひとりだ。「時の権力に反抗して、弱気を助ける。」(75-76頁)
L-2-2 「日本の江戸時代の男伊達(オトコダテ)」にちょっと似ている。「幡随院の長兵衛」も「自由主義者」だ。「花川戸の助六」も「鼠小僧の次郎吉」も「フランスの十七世紀のリベルタン」のようなものだったかもしれない。(76頁)
L-3 「自由思想」の本来の姿は「反抗精神」・「破壊思想」だ。「自由思想」は「(※戦後のように)圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想」ではなくて、「圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想」だ。(76頁)
L-3-2 「闘争の対象の無い自由思想は・・・・全く飛翔出来ません。」(77頁)
L-3-3 「真理を追究して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だ」。(77頁)
L-3-4「自由思想の本家本元は、キリストだ」。「思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ、播(マ)かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴しい自由思想じゃないか」。(77頁)
(7)-2 今日に於いては「天皇陛下万歳!」が最も新しい自由思想だ!
L-4 「日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想でない。」(78頁)
L-4-2 「真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措(オ)いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし今日に於いては最も新しい自由思想だ。」(79頁)

《感想1》太宰治は、戦後じきに始まる「逆コース」の動きを察知しなかった。状況は急激に変化した。
《感想1-2》当初1945年、GHQは日本の「民主化・非軍事化」を進めていた。しかし日本を「反共の防波堤」にしたいアメリカはこの対日占領政策をすぐに転換する。1947年、日本共産党主導の二・一ゼネストにGHQが中止命令を出す。1950年朝鮮戦争勃発とともに警察予備隊が設置される。以後、公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージ・・・・。こうして保守勢力の勢いが増していった。
《感想2》太宰治『十五年間』(1946)では「天皇陛下万歳!」は最も新しい「自由思想」とされたが、実は早くもその翌年、1947年には「天皇陛下万歳!」の思想はもはや「自由思想」・「反抗精神」・「破壊思想」でなく、「保守思想」・「大勢順応思想」・「反動思想」となった。
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前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004)(その6):すべての「動物」、さらに「植物」、一般に「生命」が、「モノやコトに注意を向ける働き(awareness)」(①)としての「意識」を持つ!

2023-04-22 12:53:38 | 日記
※前野隆司(1962-)『脳はなぜ「心」を作ったのか――「私」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫2010)(2004刊行、42歳)
第4章心の過去と未来――昆虫からロボットまで
(12)動物は「心」(「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」)を持つか?(148-151頁)
M  人の「心」のうち、「知」と「意」は大脳新皮質がつかさどる。「情」は大脳縁辺系がつかさどる。(148頁)
M-2  魚類に始まる脊椎動物は、みな、脊髄・小脳・大脳といった中枢神経系を持ち、魚類さえも小さいながらも大脳新皮質に対応する部位を持つ。かくてすべての脊椎動物(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類)は人の「心」と同じように、「知」「情」「意」「記憶(※意味記憶とエピソード記憶)と学習(※記憶の更新)」を行っていると思われる。(149頁)

《参考1》「心」は、「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」(※脳科学のような「意識化された無意識」も含む)の5つの働きからなる。(24頁)
《参考2》「記憶」には「宣言的記憶」(言語で宣言できる)(「エピソード記憶」・「意味記憶」)と「非宣言的記憶」(Ex. からだで覚える)がある。(20頁)
《参考2-2》「宣言的記憶」には「エピソード記憶」(episodic memory)と「意味記憶」(semantic memory)がある。「エピソード記憶」は「日記」のようなもので、自分がいつ何をしたかをエピソードの連続として時系列的に順番に覚えていく記憶だ。「意味記憶」は「辞書」のようなもので、モノやコトの「意味」の記憶だ。時系列とは関係なく、例えばリンゴとは何か、色とは何か、心とは何かなどを、定義として覚えることだ。(20頁)
《参考3》「意識」とは、モノやコトに注意を向ける働き(awareness)(※ノエマとノエシスの分化、※唯識の「見分」と「相分」の分化、※「世界の開け」)と、自分は私であることを認識できる自己意識(selfconsciousness)を合わせたものである。(22-23頁)
《参考4》「脳」についての知見である「脳科学」は、「意識化された無意識」(前野隆司)であり、つまり「脳科学」は「心」(意識)に属する。(24頁)
《参考5》コンピュータやロボットは、心の5つの働き・要素(「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」)のうち、「意識」という心の働きをまったく持っていない。(22頁)

M-3  さて脊椎動物(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類)は人の「心」と同じように「意識」を持つだろうか?(149頁)
M-3-2 「意識」とは、①モノやコトに注意を向ける働き(awareness)(※ノエマとノエシスの分化、※唯識の「見分」と「相分」の分化、※「世界の開け」)と、②自分は私であることを認識できる自己意識(self consciousness)を合わせたものである。(22-23頁)
M-3-3  「意識」(※ここでは②「自己意識」の意)は「エピソード記憶」を行うために生じた。(149頁)
《感想1》「モノやコトに注意を向ける働き(awareness)」(①)としての「意識」は、すべての脊椎動物が持つし、あらゆる「動物」、さらに「植物」、一般にすべての「生命」が、この①の意味での「意識」を持つだろう。
《感想1-2》あらゆる生命において、《ノエマとノエシスの分化、「見分」と「相分」の分化、「世界の開け」》が生じていると言うべきだ。

《参考1》後期フッサールの展開した「自我の関与を含まない受動的志向性」を射程に入れた「発生的現象学」。「受動的綜合」には、自我からのいかなる能作も関与していない。
《参考2》「連合の受動的総合」(対化)と「同一化の受動的総合」。
《参考2-2》受動的綜合としての「対化」(Paarung)。(Cf. 『デカルト的省察』第五省察。)「対化」とは、れわれが「同一化の受動的総合」に対立させて、「 連合」と呼ぶ受動的総合である。「対化」は「連合の受動的総合」のひとつの根本形式である。
《参考3》無意識(受動的)に働く「過去把持」と「(未来)予持」。なおフッサールは「(未来)予持は内容的には何を予持しているのか」という問い を立て、その答えとして「ヒュレー的与件に向かう(未来)予持」(H予持)と答える。
《参考4》「ヒュレー―ノエシス―ノエマ」の並行構造。ヒュレー(Hyle)は「質料、素材」、モルフェーは「形式」と訳される。ヒュレーはフッサール後期思想にはとりわけ重要な概念である。「ヒュレー―ノエシス―ノエマ」の並行構造。
《参考4-2》ヒュレー的で実的な作用内容(感覚内容)。原印象という形態においてにせよヒュレーがなければ、内的時間意識はなにものでもない。
《参考4-3》「実的(reell)内容」と「志向的内容」。フッサールは感覚について、「実的(reell)内容」と志向された内容すなわち「志向的内容」とを区別する。つまり物事を捉えるとき「事実性」の契機と「意味性」の契機が区別される。ヒュレー的で実的な作用内容(感覚内容)が、(知覚作.用のような)意味賦与する志向的作用による対象的意味の構成に先行する。
《参考4-4》純粋意識(超越論的意識)の「実的」構成要素は、感覚内容と、それを「生化(beseelen)」して対象を現出させる「意味付与(Sinngebung)」の層とに区分される。
《参考4-5》知覚作用は、「実的」内容を「対象の現出」として統握(Auffassung)する。

(13)昆虫の気持ちになってみると!?(152-159頁)
N 人間の脳には神経細胞が一千億個もあるが、昆虫の脳細胞の数はたったの数百万個だ。(153頁)
N-2  昆虫は「反射」による「フィードバック制御」主体の生き方をしている。(153頁)
N-2-2  例えば「動くものがぶつかってきたら角で押す」、「裏返しになったらバタバタする」など。(154頁)
《感想1》ここでの「フィードバック制御」とは状況を把握しそれに対し自動的・無意識的つまり「反射」的に対応・行動するという意味だ。
《感想1-2》昆虫が状況の把握が可能な限りでは、状況を一定の類型的「意味」として把握するので(意味記憶の参照)、昆虫にも「知」の働きはあると言える。
《感想1-3》一般に「フィードバック制御」は、試行錯誤(「結果を見てそれを次のアクションに生かす」214頁)による「順モデル」(原因から結果の連関)および「逆モデル」(目的・手段の連関つまり結果から原因の連関)の改善(より良い結果の獲得)だ。したがって試行錯誤による対応・行動の改善があれば、昆虫に「知」の働き(言わば「経験から学ぶ」こと)はあると言える。(Cf. 214-219頁)
《感想1-4》昆虫に「経験から学ぶ」ことがあれば、昆虫も「記憶(※ただし自己意識としてのエピソード記憶はなく、意味記憶のみ)と学習(※記憶の更新)」を行っていると言える。

N-2-3  ただし昆虫は「意」(高度な意思決定)、「情」(感情の生成、Ex. 「悲しい」、「痛い」)はないと思われる。(153-154頁)
N-2-4  昆虫には人間と同じような「心」はなく「反射」だけで生きている。(154頁)
《感想》①昆虫にも「知」の働きはある。昆虫が状況の把握が可能な限りでは、状況を一定の類型的「意味」として把握するからだ。その上で「反射」的な「フィードバック制御」が可能となる。②「情」(感情の生成、Ex. 「悲しい」、「痛い」)はないと思われる。また③「意」(高度な意思決定)もないと思われる。④昆虫に「経験から学ぶ」という意味での「フィードバック制御」があれば、昆虫も「記憶(※ただし自己意識としてのエピソード記憶はなく意味記憶のみ)と学習(※記憶の更新)」を行っていると言える。そして⑤昆虫にも「意識」はある。さて「意識」とは、(ア)モノやコトに注意を向ける働き(awareness)(※ノエマとノエシスの分化、※「見分」と「相分」の分化、※「世界の開け」)と、(イ)自分は私であることを認識できる自己意識(self consciousness)を合わせたものだが(22-23頁)、昆虫も(ア)モノやコトに注意を向ける働き(awareness)はある。この限りで昆虫にも「意識」はある。ただし⑤-2昆虫には、(イ)自己意識はなく(149頁)、エピソード記憶もないだろう。
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『ザ‧ミュージック‧マン』日生劇場2023/4/19(水):「マリアンの愛を得るためには、このままではいられない」と悟ったハロルドは、「自分は詐欺師だ」と本性を明かす!

2023-04-21 17:06:05 | 日記
『ザ‧ミュージック‧マン』The Music Manは、1957年初演、トニー賞を独占したブロードウェイ‧ミュージカル。(Cf. 『ウェストサイド物語』も同年初演。)1962年に劇場映画化され大ヒットを記録。2003年にもテレビ映画化された。
(1)
1912 年の夏、電車の車内で、巡回セールスマンたちが、ハロルド・ヒル(坂本昌行)の噂をしている。ハロルドは「音楽教授」のふりをして、マーチングバンドの大量の楽器・制服・楽譜を人々に売りつけ、金を持ち逃げする詐欺師だ。「あいつのおかげで、セールスが全くできなくなった。セールスマンは全員、詐欺師扱いされる」と巡回セールスマンのチャーリー・カウウェル(藤岡正明)が怒る。
(2)
さてハロルド・ヒルはアイオワ州のリバーシティという田舎町を狙い、電車から降り立つ。さっそく彼は「音楽教授」のフリをして、「ビリヤードという悪い遊興から子どもたちを救うため」と町民に嘘をつき、子どもたちのマーチングバンドを編成しようと町民たちに働きかける。ハロルドは、古い詐欺師仲間のマーセラス・ウォッシュバーン(小田井涼平)にも久しぶりに出会った。
(3)
ジョージ・シン町長(六角精児)はハロルドを疑い、「音楽教授」の資格証明書を提示しろと迫る。そのたびにハロルドは詭弁を弄して、切り抜ける。だが町長の恐妻ユーラリー・マッケクニー・シン(森 公美子)や町のご婦人たちは、ハロルドによるマーチングバンドと女性ダンス委員会の計画に大興奮し、ハロルドに積極的に協力する。こうして町の住民たちがハロルドに騙されていく。
(4)
ところが図書館司書でピアノも教えるマリアン・パルー(花乃まりあ)はハロルドが怪しいと見抜き、彼の素性を明かすため証拠探しを始める。そんなことを知らないハロルドは、マリアンに想いを寄せるようになり、家まで後をつける。(Cf. マリアンは少女アマリリスにピアノを教える。)マリアンに恋人ができないことを嘆いていた母親のミセス・パルー(剣 幸)は、ハロルドを気に入る。ハロルドはマリアンの内向的で吃音症のある弟のウィンスロップに出会い、彼を励まし、マーチングバンドに加わるよう説得する。(Cf. 少女アマリリスはウィンスロップを密かに想う。)
(5)
町長の娘ザニータ・シン(水嶋 凜)やそのボーイフレンドで不良のトミー・ジラス(山崎大輝)にとって、ハロルドは魅力的な大人の男であり、2人はハロルドの虜になっていく。トミーはハロルドの助手となり、町民たちからマーチングバンドの楽器・制服・楽譜の代金を集め、ハロルドに渡す。
(6)
シン町長はビリヤード場のオーナーであることもあって、ビリヤードを「反道徳的だ」と攻撃するハロルドが気に入らない。シン町長は教育委員会の委員たちに「ハロルドの資格証明書を早く確認しろ」と命じる。だが、ハロルドは委員たちを上手くはぐらかす。
(7)
マリアンはついにハロルドに不利な証拠を見つける。ハロルドが卒業したというゲーリーの音楽学校は、彼が卒業した年にはまだ存在していなかったことが分かったのだ。マリアンはその資料をシン町長に渡そうとする。
(7)-2
ところが弟のウィンスロップが、ハロルドかマーチングバンドに加わるように言われ、新品のコルネットも手に入れ、すっかり大喜びし、内気さや周囲を気にする様子がすっかり消えるのを見て、マリアンはハロルドを見直す。結局、マリアンは町長に証拠を渡すのをやめる。ハロルドが弟に接する姿を見たマリアンは、ハロルドを今までと違った目で見るようになり、ハロルドの過去を暴くのをやめたのだ。マリアンはハロルドを好きになっていく。(以上、第1幕)
(8)
独立記念日の「アイスクリームパーティー」に備え、町長の恐妻ユーラリー・マッケクニー・シンや町のご婦人たちの女性ダンス委員会が体育館でダンスのリハーサルをする。また教育委員会の委員たちは四重唱の練習。そこに町の若者たち大勢が割り込み、体育館を占拠し踊る。町長に「不良」と嫌われるトミー・ジラスと町長の娘ザニータが手をとって踊る。ハロルドはマリアンをつかまえ一緒に踊る。ダンスが終わると、シン町長がトミー・ジラスと娘ザニータの仲を激しく非難する。
(9)
「ハロルドととても楽しそうに踊っていた」からと、町の婦人たちがマリアンを女性ダンス委員会に誘う。そしてマリアンの「書物」への婦人たちの見解(彼女たちは、マリアンについてチョーサーやラブレーやバルザックなど「汚らわしい本」を読んでいると非難していた)は逆転し、町の婦人たちは「教授からすすめられたから、私たちはあの本全てを崇めるの!」と熱心に語るのだった。
(9)-2
その夜、教育委員会は再びハロルドから「音楽教授」の身分証明書を提出させようとしたが、ハロルドはうまく逃げる。一方、マリアンはベランダでハロルドを想う。
(10)
ハロルドの詐欺の手筈は完成し、いよいよハロルドが金を持ち逃げし町を離れる日が来る。その時、ハロルドに恨みを持つ巡回セールスマンのチャーリー・カウウェルが、ハロルドの素性を町中にバラすため乗り込んできた。チャーリーは、ハロルドに不利な証拠を町長に伝えようしていた。マリアンがハロルドをかばい、チャーリーを邪魔する。チャーリーは怒って「ハロルドは詐欺師でイリノイ全部の郡に女がいるんだ!」とマリアンに言った。
(11)
自分の「虚偽の風聞」(町の御婦人たちが、かつてマリアンについて「汚らわしい本」を読んでいると非難)を思いだしたマリアンは、チャーリーの「ハロルドの詐欺と女の話」は「作り話」だと思い込む。
(11)-2
マリアンはハロルドと会い、「あなたを愛している」と彼に伝える。その時、かつての詐欺仲間のマーセラスがやってきて、「マーチバンドの制服が届いたから代金を持って逃げろ」とハルロドに秘かに言うが、ハロルドはきっぱり拒否した。「マリアンの愛を得るためには、このままではいられない」と悟ったハロルドは、「自分は詐欺師だ」とマリアンに本性を明かす。
(12)
一方、ついに巡回セールスマンのチャーリーが独立記念日の「アイスクリームパーティー」にやって来る。彼は、「ハロルドは詐欺師だ」と告発した。町の人々は大騒ぎとなり、ハロルドの行方を捜す。傷心のウィンスロップ(マリアンの弟)は、「ハロルドなんかリバーシティに来なければよかったのに」と絶望する。しかしマリアンは、「ハロルドが言ったことはすべて信じていいのよ。町の子供たちによってマーチングバンドが実現できるわ」とウィンスロップに告げる。ハロルドはカネを持ち逃げすることをせず、マリアンに「君に会うまで恋をしたことはなかった」と告白する。そして警官に手錠をかけられ連行された。
(13)
シン町長は体育館でハロルドの処遇についての会議を開き、「マーチングバンドなんてどこにいるんだ?」と追及する。これに対しマリアンはハロルドを擁護する。そこへ町長に「不良」と呼ばれていたトミー・ジラス(ハロルドの助手)がドラムメジャーとして入場し、ついで楽器を手にした制服姿の少年たちのマーチングバンドが続いた。楽器を上手に演奏する我が子たちに、観客の親たちは心を奪われる。「マーチングバンドを編成しよう」と町民たちに働きかけたハロルドの言葉をシン町長も納得するほかなく、人々の歓呼の中、自由の身となったハロルドがマリアンと腕を組む。(以上、第2幕)



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「ひろゆき」氏は、「ダメな人」(「貧乏人」)は、「プログラミング」を学び「自己改造」して「一攫千金」をめざせと言う!また同氏はアメリカで「4chan」により「オルタナ右翼」の形成に貢献する!

2023-04-10 09:25:01 | 日記
※西村博之(にしむらひろゆき)(1976生、47歳):ネットの匿名掲示板・旧「2チャンネル」の創設者。英語圏最大の匿名掲示板「4chan」管理人。
(1)
「ひろゆき」氏は日本のインフルエンサー。YouTube月間再生数3億回超。ソニー生命のアンケート調査「中高生が思い描く将来についての意識調査2021」で「将来のことを相談したいと思う有名人」3位にひろゆき氏。「“将来、こういう大人になりたい”と思う有名人」10位。2022年ベネッセ『進研ゼミ小学講座』会員の「小学生流行語ランキング」でひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね?」が1位。ひろゆき氏の真似が小学生の間でブームという。

《感想1》ひろゆき氏は「貧乏人」は、「ダメな人」だと言う。だから彼らは「プログラミング」を学び「自己改造」して「一攫千金」をめざせと言う。
《感想1-2》ひろゆき氏にとって人間の価値は「カネ(金)」で測られる。「カネ(金)」のない人は「ダメな人」だ。(Cf. 堀江貴文氏も「カネ(金)」のない人をダメな「貧乏人」と呼ぶ。)
《感想2》「厭離穢土(オンリエド)、欣求浄土(ゴンクテンジョウド)」と言われるが、この世は、「穢土(エド)」つまり穢(ケガ)れた世(地獄)である。「一攫千金」を実現したひろゆき氏は、地獄で仏と出会ったような幸運な人生を今、送る人だ。

(2)
「ひろゆき」氏はアメリカで「オルタナ右翼」の形成に貢献する。『ニューヨーク・タイムズ』紙が「ひろゆき」氏を「X世代の扇動家」「倫理観の欠如」「恥をほとんど何とも思わない彼の能力はある種の最終兵器」「インターネット上でもっとも有害な意見を醸成している」と評する。ひろゆき氏は、「4chan」のオーナー等として、ニューヨーク州当局から銃乱射事件、陰謀論、人種差別等の温床とみなされている。

Cf. 「オルタナ右翼」(Alternative Right):アメリカ合衆国における「主流」の保守主義(right)への代替(alternative)。白人のアイデンティティ運動とも呼ばれる。多くはドナルド・トランプを支持。(Cf. ヒラリー・クリントンへの嫌悪と憎悪。)多文化主義や移民に反対する。オルタナ右翼に定まったイデオロギーはないが、以下のような特徴がある。①白人ナショナリズムor白人至上主義、②レイシズム(人種主義)、③反ユダヤ主義、④反フェミニズム、④-2「ミソジニー」(女性嫌悪)、⑤右翼ポピュリズム、⑥排外主義(反移民)、⑦主流の政治に対する軽蔑的態度、⑦-2「主流派」の保守主義や共和党への敵意、⑧「ワナビー・ファシスト(ファシストもどき)」(D・A・フレンチ)(Cf. wannabeつまりwant to beは何かに憧れ、それになりたがること)、⑧-2「ネオ・ナチ」と呼ばれる、⑨反「ポリティカル・コレクトネス」(Cf. political correctness:人種、信条、性別などの差別表現の削除・修正を求める運動)、⑩反「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー」(Cf. social justice warrior、SJW:「社会正義戦士、すなわちフェミニズム、人権(市民権)、文化多様性をめざす)、さらに⑪アメリカ育ちの白人女性は「フェミニスト」になりすぎたので、「性的にも男性に尽くし、小柄かつスリムで、色白など女性らしさについての昔ながらの西洋的な規範に合う」アジア系女性を選ぶ、⑫「左派の道徳主義にそっぽを向き、『レイシスト』(人種主義者)、『ホモフォビア』(同性愛嫌悪者)、『セクシスト』(性差別主義者)となじられることを勲章であるかのように考えている」(ベンジャミン・ウェルトン)、⑬「人種差別主義、白人ナショナリズム、ポピュリズムが混在した保守主義の分派」(J・ダニゼフスキ)等々。
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