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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その10):「人相術的法則」において「外は内の表現である」という命題の成立は一応認められるが「概念」的には成立しない!

2024-06-29 17:59:23 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その8)(184-185頁)
(40)「外は内の表現である」という命題:(ヘ)「人相術」!(ト)「骨相術」! 「外なるものは内なるものの表現である」という法則はやはり「概念」的には成立しない!
★ヘーゲルは「個性は環境によって限定される」という見方は、「抽象的な分別悟性」のものにすぎぬとして、「心理学的法則」の立場をもしりぞける。すなわちヘーゲルは「心理学」においても、「外なるものは内なるものの表現である」という法則はやはり「概念」的には成立しないと言う。(183-184頁)(既述)

★そこでもっとこの「概念」的関係に適合しそうな対象を求めて、「観察的理性」はさらに内面に向かってゆくことによって、(ヘ)「人相術」(「(「観相学」)」)と(ト)「骨相術」(「骨相学」)とが扱われることとなる。(184頁)
☆ヘーゲルは(ヘ)「人相術」と(ト)「骨相術」についてじつに長々と述べる。このへんは①「精神物理学的問題」(「心身関係」の問題)や、②「唯物論」的問題も含み、相当重要な箇所だが、それにしても詳しすぎる。(184頁)
☆しかしここにも当時の事情が影響している。(ヘ)「人相術」はラファーター(Johann Kasper Lavater)(1741-1801)によって、(ト)「骨相術」(「骨相学」)はガル(Franz Joseph Gall)(1758-1828)によって、それぞれ提唱され、世間をさわがせ、やかましい問題になっていた。ヘーゲルは彼らに対し自分の態度を表明した。(184頁)

《参考1》ラファーターの「人相術」((「観相学」))(Physiognomy)は、顔立ちや体型をもとにその人の性格を知ることができることを説いた『観相学断片』(『人相学断章』)(4巻、1775年-1778年)(それまであった多くの「人相学」の文献をまとめたもの)によって知られる。なおラファーターの「観相学」の理論は18世紀後半のドイツ社会にシルエットの流行をもたらした。
《参考2》ガルの「骨相術」(「骨相学」)Phrenologieによれば、脳は「色、 音、言語、名誉、友情、芸術、哲学、盗み、殺人、謙虚、高慢、社交」などといった精神活動」に対応した27個の「器官」の集まりとされ、各「器官」の働きの個人差が頭蓋の大きさや形状に現れるとされた。初期の脳機能局在論である。

(40)-2「外は内の表現である」という命題:(ヘ)「人相術」(「観相学」)!「人相術的法則」において、「外は内の表現である」という命題の成立は一応、認められるにしても、本当には、すなわち「概念」的には成立しない!
★「人相術」(「観相学」)は、「顔つき」とか「ものごし」とかは、「人となり」や「性格」、またどんな「感情」・「意志」・「意図」等を持っているかを示すとする。「外面」(「顔つき」とか「ものごし」)は「内面」(「感情」・「意志」・「意図」等)への反省を伴う(示す)。(184頁)
☆「表情」(「顔つき」とか「ものごし」とか)において、「外は内の表現である」ということが成り立つだろうというわけで、ヘーゲルは「人相術的法則」を取り上げる。その(「外は内の表現である」ということの)成立は一応、認められるにしても、本当には、すなわち「概念」的には成立しないと、ヘーゲルは言う。(184-185頁)

★その理由は、ヘーゲルが「人格」や「精神の自由」を高調するところにある。(185頁)
☆たとえば「ニコニコしている」としても、必ずしも「好意をいだいている」証拠でなく、「だまそうと思ってそうしている」場合もある。(185頁)
☆かくて「人相」や「表情」が、必ずしも「内面的なもの」を表現しているわけでない。(※つまり「外は内の表現である」という命題は成り立たない。)(185頁)
☆要するに、「精神はもっと自由なものである」というところから、ヘーゲルは「人相術」(「観相学」)にも反対している。(185頁)

《参考1》《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》あるいは《(三)「理性」1「観察」》における「自然観察」は、「無機物の観察」が、いつしか「有機物or有機体の観察」にうつり、後者に重点が置かれる。かくて前者(無機物)の「法則」が、後者(有機物or有機体)の「法則」になってしまう。(172頁)
☆ところで「法則」とは、「相反するものの綜合」として「相反するものが相反しながら帰一し、しかもまた対立に分裂すること」だ。(172頁)
☆「法則」についてのそういう考え方に、(「自然観察」において)もっとも適当しているのは「有機体」だ。「有機体」はそれぞれ独立的なもので、「環境」から自由に食物その他のものを摂取して、「自分」を形成して生きている。たとい「外」へ関係しても、けっきょくは「自己保存」のために働いており、なんとしても「個体」としての自分自身を、また「種族」としての自分自身を「再生」することをめざしている。(172頁)
☆だから「有機体」は、「外」へ関係するにしても、けっきょくは「自分自身」へ帰ってくるのだから、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ。(172頁)

《参考2》「有機体」において、「外」はやはりある。しかし「内と外」といっても相即しているから、「外は内の表現である」という関係が成立する。(172頁)
☆すなわち「生物」と「環境」との関係において、「外は内の表現である」という命題が成立する。この命題は「観察」(※《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》)の全体に対して基本的意義を持つ。(172-173頁)
☆「観察的理性」の段階に関して、これからの課題はこの命題「外は内の表現である」を種々の場合について検討することだ。この検討は次の順序で行われる。(イ)「有機体」と「環境」との関係、(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係、(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係、(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係、(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)、(ヘ)「人相術」、(ト)「骨相術」。(173頁)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その9-2):(ホ)「論理学的心理学的法則」(続)!「意識」が「理論的論理的」たるのほかに「実践的」なら「心理的意識」となる!

2024-06-28 13:16:46 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その9-2)(182-184頁)
(39)-3「外は内の表現である」という命題:(ホ)「論理学的心理学的法則」(続)「論理学」は、「絶対知」の内容を純粋に――「自然」と「精神」となるに先立った――純粋な形式において展開すべきものだ! 
★さて、ここでなぜ「論理学」が出てきたかについて、考察してみよう。(金子武蔵氏)これは実は『精神現象学』が変貌しつつあることを示す。(182頁)
☆なぜなら「論理学」は、「絶対知」の内容を純粋に――「自然」と「精神」となるに先立った――純粋な形式において展開すべきものだ。(182頁)
☆これに対して「(精神)現象学」はむしろ「絶対知」の「認識論的序論」にすぎない。(182頁)

★ところが「論理的法則」がでてきたあたりから『精神現象学』は「認識論的序説」という規定をしだいに失い、「精神哲学」・「哲学概論」の性格を強くしている。(182-183頁)
☆ただ『精神現象学』は、「論理的な諸規定」をまさに論理的なものとして純粋に取り扱うのでなく、「観察」の立場から「対象」化され、したがって「個々バラバラにされたもの」として取り扱うことによって、「現象学」の立場は守られている。(183頁)

(39)-4 「意識」が「理論的論理的」たるのほかに「実践的」な意味を持つようになれば、それはヘーゲルにとっては「心理的意識」となる!
★すでに見たように「論理学的法則」の立場においては、「外なるものは内なるものの表現」という基本命題の意味が十分に発揮されなかったのは、そのさいの「主体」たる「意識」には、「具体的普遍としての個体」の意味がなかった。(183頁)
☆これは「意識」が「理論的」たるにとどまって「実践的」でなかったからだ。(183頁)

★「意識」が「理論的論理的」たるのほかに「実践的」な意味を持つようになれば、それはヘーゲルにとっては「心理的意識」となる。(183頁)
☆かくてヘーゲルは「心理学的法則」に移ってゆく。(183頁)
☆「環境、風俗、習慣、宗旨など」のいかんによって、それぞれの「個性」がきまってくる。かくて「心理学的法則」は、「個性」と「環境的なもの」との間に「法則」的関係を見いだそうとする。ここに「外なるものは内なるものの表現である」という基本法則の適用のあることは明らかだ。(183頁)

(39)-4-2 ヘーゲルはこういう見方(「個性は環境によって限定される」)は、「抽象的な分別悟性」のものにすぎぬとして、「心理学的法則」の立場をもしりぞける!
★しかしこれ(「心理学的法則」)に対しても、ヘーゲルは「有機体と環境」との場合とほぼ同じ筆法を使い、「自己意識の実践性」を一層強く強調する。すなわち「個性は環境によって限定される」が、しかし同時に「個性は環境を選ぶことも変革することもできる」から、「環境が必ずしも個性を表現しているわけではない」とする。(183頁)
☆ヘーゲルはこういう見方(※「個性は環境によって限定される」)は、「抽象的な分別悟性」のものにすぎぬとして、「心理学的法則」の立場をもしりぞける。(183頁)
★かくて「心理学」においても、「外なるものは内なるものの表現である」という法則はやはり「概念」的には成立しないことになる。(183-184頁)

《参考》「基本法則」は「『外なるもの』は『内なるもの』の『表現』である」ということだ。(161頁)
☆これには、次のような場合がある。(イ)「有機体」と「環境」との関係、(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係、(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係、(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係、(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)、(ヘ)「人相術」、(ト)「骨相術」(161頁)
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)
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「死体のはらわた」『スペイン民話集(エスピノーサ篇)』(第52話):食べるものがなかったある夜、女房は墓をあばき、死体からはらわたを取り出し、料理してジャガイモを添え食卓に出した!

2024-06-28 08:19:17 | 日記
(1)
昔、ある夫婦が墓場の近くに住んでいた。食べるものが何もなかったある夜、女房は墓場へ行って一つの墓をあばき、死体からはらわたを取り出して、焼いて料理した。夫が帰ってくると、その料理にジャガイモを添えて食卓に出した。
《感想》墓場の人間の死体を掘り出して「はらわた」を取り出し、「焼いて料理する」とは鬼気迫る。だが飢餓は人間に「食人」をさせるだろう。しかも女房は「人肉」の料理に「ジャガイモを添え」食卓に出すほどだから、「人肉」は、「豚肉」「牛肉」「羊肉」「鳥肉」などと同様、違和感なく扱われている。
《参考》「食人」は飢餓状態であれば起こりうる。①大岡昇平『野火』は太平洋戦争末期のレイテ島で、敗走する日本軍における「食人」を描く。②武田泰淳『ひかりごけ』は太平洋戦争末期、 徴用船 が 難破後、岸にたどり着いた乗員が、飢餓状態に置かれ、死んだ他の者の遺体 を食べて生き延びた現実の事件を描く。③「独ソ戦」(1941-1945)の最中、ナチス・ドイツによるレニングラード(サンクトペテルブルク)包囲戦(1941-1944)では、300万人が取り残され、「人肉食」が横行するほどの飢餓で100万人以上が犠牲となった。
(2)
その夜、夫婦が床に就くと、遠くの方から声が聞こえてきた。「墓の中かから引き出した、わしのはらわたを返せ!」暗闇のなかで、死人は女房に近づき、ついに髪の毛をつかみ、墓場までひきずって行った。死人は、そこで、女房を殺し、はらわたを引きずり出し、自分のおなかに収めると、また元の墓の中へ入っていった。
《参考》西洋中世の埋葬は火葬でなく土葬である。死者は服を着せ棺に入れられ、墓地に掘られた穴に棺ごと埋められた。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その9):(ホ)「論理学的心理学的法則」!最初には「精神」は「思考」と解せられ、「論理学的法則」が求められる!

2024-06-27 12:30:42 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その9)(181-182頁)
(39)「外は内の表現である」という命題:(ホ)「論理学的心理学的法則」!「自然」のうちには「概念」は見いだされない!「精神」のうちに「外は内の表現」という法則(「概念」)を求める!最初には「精神」は「思考」と解せられ、「思考の法則」(「論理学的法則」)が求められる!
★「自然的なもの」については「外は内の表現」という法則は見いだされないから、「観察」は「精神」のうちにそれ(「外は内の表現」という法則)を求める。(181頁)

《参考》「観察」の見地((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)からいうと、いままでは「観察」されるものは「自然」であり、そのうちには「概念」は見いだされえないという結論がえられた。これからのちは、この結論にしたがって、「自己意識」あるいは「精神」の「観察」に向かい、そこに果たして「概念」あるいは「理性」が見いだされうるかが考察される。(180頁)

☆今や「観察」は、「精神」のうちに「外は内の表現」という法則を求めるが、最初には「精神」は「思考」と解せられ、「思考の法則」(「論理学的法則」)が求められる。(Cf. その後、「心理学的法則」が求められる。)(181頁)

★「思考の諸規定」はヘーゲルにとっては、彼が「論理学」において示したように、「三一的統一」(Cf. 正・反・合)をもって貫かるべき「弁証法的」運動においてのみ「統一」を形づくるべきものだ。(181頁)
☆したがって「個別態が特殊態を通じて『普遍態』に、すなわち『具体的普遍としての個別態』になる」のであり、「主体も主体自身にはとどまらず、客体との対立におちいりながら、この対立が帰一する」のだから、ここにこそ「『外なるもの』は『内なるもの』の表現」ということが成立しうるべきはずだ。(181頁)

《参考》ヘーゲルの方法は「弁証法」であるが、これは「正・反・合というような形式」を内容にそとから押しはめるのではない。「弁証法」は内容そのものに即して考えてゆけば、内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式だ。「弁証法」は決して内容から離れたものでもないし、内容に外から押しつける雛型のようなものでもない。(83-84頁)

(39)-2 「論理的法則」(or「思考の諸規定」):「自」は「他」から「区別され分離される」と同時に、「結合」もされている!「自」と「他」とのいずれに対しても、「Grunt」即ち「根拠」なり「理由」なりの意味をもつものがあり、これにおいて「自」も「他」も成立している!
★しかしいまここでは「理性」が「観察」の立場をとっているために、「思考の諸規定」も「対象」化せられて、それぞれ「別々のもの」として受けとられて、「思考の諸法則」となっている。たとえば「同一律」や「矛盾律」や「理由律」も関連づけられずに、それぞれ別個のものとされバラバラになっている。(181頁)
☆しかしそれぞれの間に関係が全然ないわけでもないのだから「外は内の表現である」(Cf. 「内は外の表現である」と金子武蔵氏は書いているが誤りか?)ということがある程度までは成立している。(181頁)

★テキスト(ヘーゲル『精神現象学』)には、①「同一律」・「矛盾律」・「理由律」という実例はあげられていない。また②「論理的法則」の箇所が「外なるものは内なるものの表現」という基本命題と明確に関係づけられているわけでもない。そこで今少し説明する。(金子武蔵氏)(181頁)

★「AがAである」、即ち「自は自である」というのが「同一律」の意味だ。これに対して「Aが、AであるとともにAならぬものであることはない」というのが「矛盾律」の意味だ。(181-182頁)
☆しかしおよそ「自」は「他」なくしてありえない。「自」は「自」であって「他」ではないにしても、「他」なくしては「自」もまたありえない。だから「自」は「他」から「区別され分離される」と同時に、「結合」もされている。(182頁)
☆すると「自」と「他」とのいずれに対しても、「Grunt」即ち「根拠」なり「理由」なりの意味をもつものがあり、これにおいて「自」も「他」も成立しているということなる。そこに「理由律」が意味をもってくる。(182頁)
☆すると「同一律→矛盾律→理由律」の関係は、「個別態」が「特殊態」をへて、「普遍態」あるいは「具体的普遍としての個別態」にいたるという関係と同じことになる。

☆したがって「『主』もまた『主』でありながら、『客』との対立にまきこまれ、そうしてこの『対立』が『統一』に帰入することになる」のだから、「外なるものは内なるものの表現」ということが成立しうる。(182頁)

(39)-2-2 「意識」はヘーゲルにおいて「理論的」たるにとどまらず「実践的」であり、「論理的意識」が同時に「心理的意識」としての意味を持つ!
★以上のようにここには「弁証法的運動」があり、したがって「『具体的普遍としての個別』の自己展開」がある。(182頁)
☆しかし以上のような「弁証法的運動」があり、したがってこれが「『具体的普遍としての個別』の自己展開」という意味をもちうるは、「意識」がヘーゲルにおいてただ単に「理論的」たるにとどまらず同時に「実践的」であり、「論理的意識」が同時に「心理的意識」としての意味を持つことによる。(182頁)
☆そこでおのずとヘーゲルは「心理的法則」に移って行く。(182頁)

《参考》「同一律」・「排中律」・「矛盾律」・「理由律」!
☆「同一律」(自同律):任意の命題Aについて「AはAである」という原理。
☆「排中律」:任意の命題Aについて「AかAでないかのいずれかである」(「Aまたは非Aである」)という原理。
☆「矛盾律」:任意の命題Aについて「Aは非Aでない」という原理。ある命題とその否定命題が同時に成り立つことは無いという原理。
☆「理由律」(「充足理由の原理」):「事実の真理を保証するためには、十分な理由がなければならない」or「何ものも根拠のないものはない」とする原理。推理の真理を保証する「矛盾律」と並ぶ二大原理としてライプニッツによって提唱された。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その8):(ニ)「比重」と「凝集力」とは「比例的」な関係であり、「内面的な関係」、「本当の意味での法則」即ち「概念」でない!

2024-06-26 13:51:40 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その8)(178-180頁)
(38)「外は内の表現である」という命題:(ニ)「比重」と「凝集力」との関係!「『法則』を定立する考え方」は、「無機物」の「観察」にこそみられる!
★「『法則』を定立する考え方」は、「それぞれの『契機』を固定させて、それらの間の『数量的関係』しか見ない」。(178頁)
☆このような「『法則』を定立する考え方」は「有機体」の「観察」(「観察的理性」)にみられるだけでない。それはむしろ「無機物」の「観察」にこそみられるという理由で、ヘーゲルは(ニ)「比重」と「凝集力」との関係を持ち込んでくる。(178頁)
★こうすることによってヘーゲルは、「有機体」のほかに「非有機体」をも考慮して、「有機体」を重んじつつも、ともかくも「自然全体」の「観察」(「観察的理性」)という立場を維持する。(178頁)

(38)-2 「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」という基本法則:「比重」(※「質量」)は物体の「本質」として「内なるもの」だ、他方「凝集力」によって代表される形態・色彩・硬度などは、「内なるもの」が「外」へ発現したところに生ずるところの「外なるもの」だ!
★シュテッフェンス(Henrik Steffens)が1801年『地球の内的な自然史』という論文で「金属」を主要の材料としつつ、自然物の「比重」とその他の「形態・色彩・硬度などの性質」すなわち「凝集力」とは、「比例的な」関係があると考えた。(179頁)
☆シュテッフェンスは「比重」に対立する「もろもろの性質」は、「凝集力」でひとまとめにできるとした。(179頁)
☆そして彼は、「比重」が変わるのに「反比例」して「凝集力」、したがって「凝集力によって一括される他のもろもろの性質」は変わるとした。(179頁)

★ヘーゲルは、シュテッフェンスのこのような見解を採用し、そこに「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」という基本法則のひとつの適用を見る。すなわち「比重」(※「質量」)はそれぞれの物体をそれぞれの物体とするゆえんの「本質」として「内なるもの」だ。これに対して「凝集力」によって代表される形態・色彩・硬度などは、「内なるもの」が「外」へ発現したところに生ずるところの「外なるもの」だ。(179頁)

(38)-3 「物体自身」or「内なるもの」or「本質」は、「それ自身に対して『外的なもの』にすぎぬ『数的制限』」だけをもち、「比重」となる!「比重」(※質量)と「凝集力」(or「性質」)との間に、「比例的な関係」が成り立ちはするが、しかしこれは「内面的な関係」、「本当の意味での法則」即ち「概念」ではない。
★しかしヘーゲルはシュテッフェンス流の考えに対して批判もする。(179頁)
☆「『精神』を『精神』たらしめるものは『自由』である」。それと同じく「『物体』を『物体』たらしめるものは『重力』(※質量)、したがって『比重』である」。だからシュテッフェンスやシェリングが「それぞれの『物体』をそれぞれの『物体』とするところの本質を『比重』とした」のはもっともではある。そのようにヘーゲルは言う。(179頁)

★しかし「物体自身」という「内なるもの」即ち「本質」(※「比重」)が、それの「外」への現象であるもろもろの「性質」(※「凝集力」)から分離され、もろもろの「性質」にたいして固定される。かくて「物体自身」or「内なるもの」or「本質」は、なんとも限定のできないものであり、だからこそ、それ(「物体自身」or「内なるもの」or「本質」)は、「それ自身に対して『外的なもの』にすぎぬ『数的制限』」だけをもち、「比重」となる。(179-180頁)

★そうして(「比重」に対する)もろもろの「性質」も、またこれらが帰着する「凝集力」も、「比重」(※質量)に対して、全く「外面的」な「性質」であるにすぎぬ。(180頁)
☆だからこそ「比重」(※質量)と「凝集力」(or「性質」)との間に、「比例的な関係」が成り立ちはするが、しかしこれは「内面的な関係」、「本当の意味での法則」即ち「概念」ではない。(180頁)
☆換言すれば「外は内の表現」という法則は、この場合にも、「概念」としては十分には成立しえない。(180頁)

《参考1》(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)
☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)

《参考2》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

《参考3》「有機体」における「外は内の表現である」という命題:(イ)「有機体」(「内」)と「環境」(外)との関係!「環境」(「外」)を見れば、おのずと「動物自身」(「内」)が分かる!だが「環境」が原因で「有機体」が結果であるという「因果関係」ではない!ヘーゲルは「環境」と「有機体」の「相互作用」の立場、あるいは「有機体」の「目的論的」立場をとる!(173-174頁)

《参考4》「基本法則」は「『外なるもの』は『内なるもの』の『表現』である」ということだ。(161頁)
☆これには、次のような場合がある。(161頁)
(イ)「有機体」と「環境」との関係
(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係
(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係
(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係
(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)
(ヘ)「人相術」
(ト)「骨相術」
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)

(38)-4 およそ「自然界」には「概念」あるいは「理性」が十分に見いだされえない!
★かくて「外は内の表現である」(Cf. 180頁には「内は外の表現である」と書かれているが誤りか?)という基本命題は《 (イ) 「有機体」と「環境」との関係》、《 (ロ) 「感受性」と「反応性」と「再生」との関係》、《 (ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係》、《 (ニ) 「比重」(※質量)と「凝集力」との関係》のいずれについても本質的には成り立たない。(180頁)
☆いいかえると「真の意味での概念的関係」、即ち「個別-特殊-普遍の概念的関係」は「自然界」には見いだされえない。これは「無機的自然」にかぎったことでなく、「有機的自然」についても同様である。そこでは「『類』を限定して『種』にまで到りうるとしても、『個物』にまで到りえない」。これはおよそ「自然界」には「概念」あるいは「理性」が十分に見いだされえないことを意味する。(180頁)
☆およそこのような結論を下してヘーゲルは「論理的心理的法則」((ホ)「論理学的心理学的法則」)に移って行く。(180頁)

★「観察」の見地((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)からいうと、いままでは「観察」されるものは「自然」であり、そのうちには「概念」は見いだされえないという結論がえられた。(180頁)
☆これからのちは、この結論にしたがって、「自己意識」あるいは「精神」の「観察」に向かい、そこに果たして「概念」あるいは「理性」が見いだされうるかが考察される。(180頁)

《参考1 》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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