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『唯識(下)』多川俊映、第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その4):認識対象の「真実相」を洞察する「智慧」を求める「転識得智」!大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智!

2023-01-31 11:41:13 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その4)
(19)-5 「転識得智」:認識対象の「真実相」を洞察する「智慧」を求める!
D  唯識仏教は、「八識」(※モナド)による変容に満ちた認識でなく、認識対象の「真実相」を洞察する「智慧」を求める。これが「転識得智」(テンジキトクチ)である。(49頁・51頁)
D-2  「能変」によってさまざまに色づけされた「八識による認識」を質的に転換し、ものごとやことがらの本質を洞察・覚知する智慧の獲得(「転識得智」)が、唯識仏教の宗教課題だ。(51頁)
Cf. そもそも認識(「八識による認識」)が「あるがまま」に行われることはない。「能変の心」(※構成する超越論的主観性)と「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)のみがある。

《参考》(17)-2 宗教的最終目標である「転識得智(テンジキトクチ)」:誤謬ある「八識による認識」を質的に改造し、自己と世界の本質を真正に了知する智慧である「四智」(シチ)を獲得すること!
P 能変作用をもつ八識に依存する状況からの脱却が「転識得智(テンジキトクチ)」であり、唯識仏教における重要な宗教課題だ。つまりなにかと誤謬ある八識による認識を質的に改造し、自己と世界の本質を瞬時に、しかも真正に了知する智慧を獲得することが、宗教的最終目標だ。(上124頁)
P-2  「転識得智(テンジキトクチ)」は次の「四智」(シチ)への質的な転換だ。
①第八阿頼耶識(「初能変」)からの脱却である「大円鏡智」(ダイエンキョウチ):過去の体験や経験という一切のしがらみを捨て、鏡のように、すべてのものをありのままに映し出す智慧)。
②第七末那(マナ)識(「第二能変」)からの脱却である「平等性智」(ビョウドウショウチ):自分の都合(自己中心性)ではなく、平等にものを見る智慧。
③第六意識(「第三能変」)からの脱却である「妙観察智」(ミョウカンサッチ):自我によるバイアスを去り、対象を十分に観察する智慧。
④前五識(「第三能変」)からの脱却である「成所作智」(ジョウショサチ):煩悩・随煩悩にとらわれず状況を把握した上で、やるべきことをやる智慧。(上124頁)
P-2-2  誤謬があり・私たちが仏の世界に近づくのを妨げるものを、仏教では「漏(ロ)」(「有漏(ウロ)」)という。仏教は、そうしたものが取り除かれた「無漏(ムロ)」を求める。したがって仏道とは「有漏(ウロ)から無漏(ムロ)へ」の道程だ。(上124-125頁)
P-2-2-2 「有漏(ウロ)から無漏(ムロ)へ」の道程は、唯識的に言えば「転識得智(テンジキトクチ)」である。すなわち「なにかと誤謬ある八識による認識」から、自己と世界の本質を瞬時に洞察・了知する「四智」への質的転換である。これが唯識仏教の目標だ。(上125頁)
Cf.  密教では大日如来の智を「五智」とする。 ⓪究極的実在それ自身である智 (法界体性智)、① 鏡のようにあらゆる姿を照し出す智 (大円鏡智 )、② 自他の平等を体現する智 (平等性智 )、③あらゆるあり方を沈思熟慮する智 (妙観察智)、④ なすべきことをなしとげる智 (成所作智 )。

D-3  「初能変」の第八阿頼耶識が改造されて顕(アラワ)れる「大円鏡智」は、過去の体験や経験という一切のしがらみを捨てたもので、すべてを文字通りありのままに映し出す鏡のような智慧だ。(52頁)
D-3-2  本識(根本の識体)(第八阿頼耶識)がかかる智慧(大円鏡智)となれば、そこから転変する七識(第七末那識、第六意識、前五識)もまた、それぞれにふさわしい智慧(平等性智、妙観察智、成所作智)としてスガタを顕す。(52頁)
D-3-3  「能変」という問題をクリアした「四智」!(52頁)
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『唯識(下)』多川俊映、第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その3): 第八阿頼耶識の「阿頼耶」=「蔵」!「一切種子識」!三層のフィルター(「三能変」)!影像(ヨウゾウ)相分!

2023-01-30 19:33:23 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その3)
(19)-3-2 第八阿頼耶識の「阿頼耶」(アーラヤ)=「蔵」の三義:「能蔵」・「所蔵」・「執蔵(シュウゾウ)」!
B-5  第八阿頼耶識の「阿頼耶」(アーラヤ)は「蔵」を意味することばで、「蔵識」と意訳される。この「蔵」には三義ある。(37-38頁)
B-5-2  ①「能蔵」:第八阿頼耶識は過去の行動情報のすべてを「種子」(シュウジ)として保持する識体である。すなわち第八識は一切の種子を「能(ヨ)く蔵する」識体だ。(※知識在庫としての第八識!)(38頁)
B-5-2-2 なお「種子」(シュウジ)は未来の「現行」(ゲンギョウ)の原因になるので、因相(原因としての相)から見た第八識は「一切種子識」である。(38頁)
B-5-3 ②「所蔵」:様々な「現行」(日常のさまざまな行為;前五識・第六識・第七末那識のはたらきそのもの)が、その情報を第八阿頼耶識に送り込み・植え付けること、つまり「受熏」(ジュクン)が、「所蔵」である。(38頁)
B-5-3-2 ②-2 受薫の第八阿頼耶識は日常の行為行動の結果である。こうした果相(結果としての相)から見た第八識は「異熟(イジュク)識」と言う。(38-39頁)
B-5-3-3 なお第八阿頼耶識は善でも不善でもない「無記」である。かくて善・不善に関し「過去と違った未来を築く」ことができる。(39頁)
B-5-3-4  ③「執蔵」:心の深層領域で、第七末那識が、その唯一の認識対象である第八識という蔵識を、これぞ「実我」と誤認し執着すること、すなわち「執我」が、「執蔵」の意味である。(40頁)

(19)-3-3 「一切種子識」:「現行熏種子」(ゲンギョウクンシュウジ)・「生果(ショウガ)の功能(クウノウ)」・「種子生(ショウ)現行」・「種現因果」(シュゲンインガ)・「待衆縁」(タイシュエン)・「種子生(ショウ)種子」・「一類相続」または「自類相続」!
B-6  第八阿頼耶識は、日常の行動(現行)の情報(のすべて)を(一切)種子(シュウジ)として保持する「一切種子識」である。(40頁)
B-6-2  そして「現行」がその種子を第八識に送り込む心的メカニズムが「現行熏種子」(ゲンギョウクンシュウジ)である。(41頁)

B-6-3 「種子」(シュウジ)はファイルされた過去の行動情報であるだけでなく、その後、類似の行動(「現行」)を生み出す潜勢力である。これが「生果(ショウガ)の功能(クウノウ)」である。(功能とははたらきの意。)(41頁)
B-6-3-2 種子が現行を生起させる過程は「種子(シュウジ)生(ショウ)現行(ゲンギョウ)」と言われる。(41頁)
B-6-3-3 ただし因としての「種子」(シュウジ)が「現行」(ゲンギョウ)という果を生む(「種現因果」シュゲンインガ)といっても、「種子」にはたらきかける「衆縁(シュエン)」(さまざまな要素や条件)が整わなければ、「種子」は「現行」化しない。(これを「待衆縁」タイシュエンと言う。)(42頁・44-45頁)

B-6-4 第八阿頼耶識に送りこまれ・植え付けられた種子は、朽ちず、永年にわたって「種子生(ショウ)種子」を繰り返しその性質が相続される。これを「一類相続」または「自類相続」という。(42-43頁)

(19)-4 三層のフィルター(「三能変」)を通して心に描く世界:①第八阿頼耶識における「初能変」、②第七末那(マナ)識における「第二能変」、③第六識、前五識における「第三能変」!
C  「ものごとやことがらの認識ですが、私たちにあっては、それらが《外界にあるがまま》に行われるのではなく」、認識する側の「感覚能力」や「好悪」、あるいは「知識」や「経験」、また「知的興味」など、さまざまな個別条件が、認識対象を加工したり・変形したりして、認識が行われる。
C-2  つまり私たちは、「私たちと離れて外界にある認識対象、そのあるがままに認知しているわけでなない」。(45頁)
C-3 唯識仏教では「心」は「能変の心」であり、認識の対象は単に「境」でなく、能変の心によって加工・変形された「所変の境」だ。かくて「一切従心転」(イッサイジュウシンテン)(一切は、心に従って転ずる)と言われる。(45頁)

《感想1》「ものごとやことがらの認識ですが、私たちにあっては、それらが《外界にあるがまま》に行われるのではなく」と多川俊映師は述べる。だが実は、唯識の立場からすれば、「外界」は存在しないと言うべきだ。あらゆる「ものごとやことがら」は(「外界」にあるのでなく)「心」(※超越論的主観性あるいはモナド、すなわち八識という構造を持つ「心王」)のうちに《そのもの》(「現象」)として出現する。
《感想1-2》そして「現象」としての「ものごとやことがら」《そのもの》が、「能変の心」(※構成する超越論的主観性)によって、「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)となる。
《感想1-3》「私たちと離れて外界にある認識対象」と多川俊映師は述べる。だが唯識の立場からすれば、「私たちと離れて」ある「外界」などないのだ。「認識対象」は「外界」にあるのでなく「心」(※超越論的主観性あるいはモナド、すなわち八識という構造を持つ「心王」)のうちに《そのもの》(「現象」)として出現する。

《感想2》 (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)(八識という構造を持つ「心王」)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》を、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》を、《そのもの》として含む。
《感想2-2》(2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりでの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。

C-4 「能変」(※意味構成)は、「三能変」といって三層になっている。①「本識」(ホンジキ)(根本の識体)の第八阿頼耶識の能変が最初に作用するので、これが「初能変」だ。②第七末那(マナ)識における「第二能変」、そして③第六識、前五識における「第三能変」と、順次作用する。(46頁)
C-4-2 ①「初能変」は最深層の第八識による能変(※意味構成)であり、「種子」(シュウジ)という過去の行動情報(※知識在庫)が、認識に先ずかかわってくることだ。(46頁)
《参考》「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。(上49頁)《感想》「種子」(シュウジ)とは「過去の行為行動の情報・残存気分」に関する「類型的知識」である。

C-4-3  ②「第二能変」は執拗に自己中心性を言い募る第七末那(マナ)識によるものだ。第七末那(マナ)識は、「不変でも実体でもない第八阿頼耶識という自己の生存基盤」を、「不変で実体的な実我」と誤認し執着する。すべてが利己の目線によって処理される。深層領域における自己愛・自己中心性が「第二能変」の内容だ。(47頁)

C-4-4  こうした深層領域の能変①②の下、さらに③当面の自己である第六意識の「第三能変」がはたらく。「広縁の識」と言われる第六識の能変フィルターの幅は広い。それは知・情・意の3方面にまたがる。(47頁)
C-4-4-2  (a) ものごとやことがらの理解力・考察力、問題意識の有無やその濃淡、またそのことがらをどれだけ広い視野の下で捉えられるかどうかなど知的能力にかかわる能変。(47頁)
C-4-4-3  (b) そのことがらにまつわる好悪の感情。(b)-2 また感情の起伏が大きく、嫌悪感に苛まれるような案件には、常識的で妥当な判断は期待できない。日ごろから沈着冷静をわきまえ、情動の抑制を心がけておれば、その「所変の境」もまた違ったものになる。(47頁)
C-4-4-4  (c)問題意識の継続という意志的側面にかかわる能変。(47頁)

C-4-5  ③-2 この「第三能変」には「前五識」の「感覚能力」というフィルターも加わる。(ア) 「感覚能力」に関する人間の「種」としてのいかんともしがたい条件(Ex.  犬のような鋭い嗅覚がない)もあるし、またその範囲内での(イ)個々人の個体的条件もある。(※ Ex. 眼が悪い、耳が遠い、視覚障害、聴覚障害。)(イ)-2「驚くほど繊細な感覚能力の持主」もいれば、「齢を重ねる」ことによる感覚能力の低下もある。 (ウ)人間として「今日ただ今ここにいるので」感覚能力もすべてはその範囲内だ。(※Ex. 進化的・歴史的・文化的条件。)(48頁)
C-4-5-2 こうした感覚部門の「前五識」は「今ここに生きる一個の生物」として認識の最前線だが、能変としては「第三能変」だ。唯識仏教は「自身の過去を背負う」第八阿頼耶識のはたらき(「初能変」)と、心の深層領域で繰り広げられる第七末那識の自己中心性のはたらき(「第二能変」)を、重く見ている。(48頁)

(19)-4-2 「心」(自体分)における「四分義」(相分・見分・自証分・証自証分)という認識の仕組み!
C-5 私たちの認識の対象(「境」)は、こうした「三能変」として八識のそれぞれの段階で加工され・変形されたいわゆる「所変の境」だ。そしてそういうもの(所変の境)を、私たちの心が改めて見ている。(48頁)
C-5-2  さて心(「自対分」)がみられる領域の「相分」(ソウブン)(※ノエマ)とみる領域の「見分」(※ノエシス)に分化して、認識が成り立つ。(48頁)つまり「自体分」がその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)(※これは、フッサールの「受動的なレベルで行なわれている総合」つまり「受動的総合」に相当する。)その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)(※これは、フッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合」つまり「能動的総合」に相当する。)
C-5-2-2 以上が唯識独特の「認識の仕組み」の説明(「四分義」シブンギ)である。(48頁)

C-5-3  だが「相分」は(※「三能変」の結果として)「影像(ヨウゾウ)相分」と言われる。「真実相」とはかけ離れている。(48頁)Cf.  認識対象の「相分」(※ノエマ)は心の中に描き出された像(「影像」ヨウゾウ)(※構成された意味)で、「外界に実在する」ものでない。(上113頁)
《感想1》多川英俊師は「外界に実在する」認識対象あるいは「私たちと離れて外界にある認識対象」を想定するが、唯識の立場からすれば、認識対象が「外界に実在する」あるいは「私たちと離れて外界にある」ことはありえない。認識対象は「外界」にあるのでなく、認識対象(もの・ことがら)はすべて「心」(※超越論的主観性あるいはモナド、すなわち八識という構造を持つ「心王」)のうちに《そのもの》(「現象」)として出現する。
《感想2》、すべて「心」(※超越論的主観性あるいはモナド、すなわち八識という構造を持つ「心王」)のうちに《そのもの》(「現象」)として出現する認識対象(もの・ことがら)は、三層のフィルターを通し、人それぞれだ。かくて唯識仏教は、三層のフィルターの影響を受けない認識対象(もの・ことがら)の「真実相」を洞察する「智慧」を求める。

《参考》(16)認識の仕組み「四分(シブン)義」:未分化の識「自体分」が、認識される「相分」と 認識する「見分」に分化し、「自証分」が認識の成立を自覚し、さらにそれを再確認するのが「証自証分」だ!
M  日本の唯識仏教である法相宗は認識の仕組みを「四分(シブン)義」に基づいて説明する。「四分」は心の4つの領域で、「相分ソウブン」「見分ケンブン」「自証分ジショウブン(自体分ジタイブン)」「証自証分ショウジショウブン」である。(上110-111頁)
M-2  唯識仏教は「識のはたらき」(認識の成立)をこれら4つの要素によって考察する。(上110-111頁)
M-2-2  この四分(4つの要素)は、八識の心王(識体)それぞれに、またそれらに相応する心所にもある。(上111頁)
M-2-3  これを第六識について見てみよう。(上111頁)
M-2-3-2 未分化の第六識(「自体分」)が、認識される領域の「相分」(※ノエマ)と 認識する領域の「見分」(※ノエシス)に分化し、いちおう認識の成立を見る。(上111頁)
M-2-3-3 そして「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)
[感想]「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
M-2-3-4 その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)
[感想]「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。

[参考1]フッサールは『デカルト的省察』(1931)第38節「能動的発生と受動的発生」で次のように述べる。「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」(中央公論社『世界の名著51』262頁)
[参考2]E. フッサール後期の「発生的現象学」は、超越論的意識の能動的志向的体験(対象の能動的発生)を超えて、それに先立って「先所与性」が存在し、その「先所与性」が発生する起源(対象の受動的発生)まで遡らなければ、世界構成を徹底的に明らかにすることはできないとする。かくて「静態的現象学」から「発生的現象学」への移行が説かれた。『デカルト的省察』にその思想的転換が認められる。
[参考3]対象の認識は多様な知覚的現れの統一,すなわち「総合」として成立するが,その際自我が積極的に関与する局面を「能動的総合」、自我の関与がおのずから(受動的に)生じる局面を「受動的総合」とよぶ。「能動的総合」はすべて「受動的総合」を基盤として行われる。
[参考4]E. フッサールは『デカルト的省察』(1931)第39節「受動的発生の原理としての連合」で次のように述べる。「《能動的形成物に完全に先立って与えられているあらゆる対象を構成する受動的発生》の普遍的原理は、《連合》Assziationという名称でよばれる。《連合》は、指向性(志向性)をあらわす名称である。」(中央公論社『世界の名著51』264頁)
[参考4-2]《連合》とは感覚や観念のあるものが、ほかのものを断続的or同時的に(相互に)呼び起こしあうことである。
[参考4-3]《連合》は《対化》Paarungとも呼ばれる。《対化》とは、あるものと他のものが「対(ペア)」として現れてくるときに受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)である。

[参考4-4]フッサールは受動的な「過去把持」Retentionと能動的な「想起」Erinnerungを区別し、また受動的な「(未来)予持」Protentionと能動的な「予期」Erwartungを区別する。
[参考5]E. フッサールは『デカルト的省察』(1931)第37節「あらゆる自我発生の普遍的形式としての時間」で次のように述べる。「超越論的自我」において「あらゆる個々の体験そのものは、《流れ》の普遍的統一《形式》(※時間)のうちで流れるものであるから、その流れの普遍的統一形式(※時間)うちで秩序づけられる。」(中央公論社『世界の名著51』259頁)「動機づけ(※因果性)の形式」である「この普遍的発生(※意味構成)の形式的法則(※時間)に従って、過去・現在・未来が、《流れゆく所与様式のあるノエシス・ノエマ的形式構造において》、たえず一つに構成される。」(同上)
[参考5-2]この「流れの普遍的統一形式」(※時間)or「普遍的発生(※意味構成)の形式的法則」(※時間)をフッサールは「内的時間意識」das innere Zeitbewusstseinと呼ぶ。

M-2-4  なお認識対象の「相分」(※ノエマ)は心の中に描き出された像(「影像」ヨウゾウ)(※構成された意味)であって、「外界に実在するもの」としての認識対象でない。(上113頁)
[感想]だが「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」(E. フッサール『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」中央公論社『世界の名著51』259頁)
[感想(続)]「心」(※超越論的主観性)において「対象」(もの・ことがら)は「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている」。これは言い換えれば、「対象」《それ自身》が「心」(※超越論的主観性)において出現するということだ。「心」(※超越論的主観性)において出現するこの「対象」《それ自身》が「現象」と呼ばれる。
[感想(続々)]この「心」(※超越論的主観性)において「現象」として「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられ」る「対象」(もの・ことがら)の意味的規定=意味構成物(※ノエマ)(「相分」=「影像ヨウゾウ」)は、「心」(※超越論的主観性)の受動的総合と能動的総合によって構成される。

M-2-5 認識対象の「相分」(※ノエマ)は心の中に描き出された像(「影像」ヨウゾウ)(※構成された意味)であり、その「相分」(「影像」)を心の要素の「見分」が了知し、その相・見二分のはたらきが自覚の上で進行し(「自証分」)、その一連の流れを「証自証分」が重ねて自覚・確認する。(上113頁)

M-2-5-2 認識は、かくて人それぞれで、相違する。(上114頁) 
M-2-5-4 心内に浮かべる「相分」(※ノエマ)(※構成された意味)には、(a)認識の対象への関心の度合い、(b)問題意識の有無やその濃淡、(c)経験のあるなし、(d)嗜好の問題、(e)その時点での気分等々が、一丸となって関与している。(上114頁)
[参考]認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(上48頁)
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辛酸なめ子(1974-)『辛酸なめ子の現代社会学』幻冬舎文庫(2011、37歳):「『地球の萌え』を守らなければ!」とエコロジー系漫画家の辛酸なめ子氏が言う!

2023-01-28 16:42:04 | 日記
(1)「純愛プレイ」:「純愛」は男女どちらかが死ぬ!
2001年頃からじわじわと発生した純愛ブーム。『世界の中心で愛をさけぶ』『冬のソナタ』『電車男』『いま、愛に行きます』など。2006年には『恋空』。純愛は男女どちらかの死がないと美しく昇華されない。ところで最近、「夫、死んでほしい」と念じる妻がいるという。
(2)「地震ノイローゼ」(2004):地震への世間の危機感!
プレートのひずみがたまっていて、東海地震が「来る来る」と言われ、地震への世間の危機感!
(3)「スローライフにかられて」:スローライフムーブメントはリッチな層(富裕層)のブーム!
2004年にスローライフやスローフードの団体が設立され、スローライフムーブメントが緩やかに発祥。ただしこれはリッチな層(富裕層)のブーム。そうでない金のない人たちはファストライフ。リッチなスローライフの40代と、ファストライフの20代。
(4)「アキバの戦い」:人々の色欲でヒートアップしている!
アキバに集まるオタク男性は「リアルの女性に興味がない」or「リアルの女性に相手にされない」。ディセンション(次元下降、意識降下)願望。これに対しスピリチュアル系な女性たちのアセンション(意識向上)願望。アキバは人々の色欲でヒートアップしている。
(5)「パクリの地平線」:複製されたDNAである人間!
2006年、盗作騒動。槇原敬之が松本零士から盗作?しかしそもそも人間は複製されたDNAからできる。つまりパクリ。
(6)「モテ無間地獄」:モテブームと「本物の愛」!
CanCam全盛期の頃に起こったモテブーム。モテワンピ、モテヘア、モテメイクなどお嬢様風ファッション。エビちゃんファッション。Cf. 「女が欠点を見せても男が女を嫌いにならない」なら、本物の愛。
(7)「セクハラ脳の恐怖」:日本男性は世界でも不人気=もてない!
2006年北米トヨタ自動車の45歳女性社員(日本人)が社長兼CEOの男性をセクハラで訴える。1億9000万ドル(210億円)の支払いを求める。なお日本男性は世界でも不人気=もてない。
(8)「オーラの泥沼」:「オーラの色は魂の格差を示す」とスピリチュアルブーム!
『国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉』(2005年から4年間放送)は日本の女性の間にスピリチュアルブームを巻き起こした。オーラの色は魂の格差を示す。「経済の格差」とは別の「スピリチュアルな格差」の概念が、不況の閉塞感に風穴を開けた。
(9)「個人情報過敏症」:個人情報が漏洩すると心配!
2005年に「個人情報保護法」が施行されてから、過敏(ナーバス)になる人が激増。Ex. 個人情報が漏洩すると心配で、何も捨てられなくなり、部屋は乱雑をきわめいわゆるゴミ屋敷状態になる。
(10)「結婚しない人生」:晩年は未婚も既婚も同じ立場になる!
30代の未婚率が増えている。30-34歳の未婚率は男性47.1%、女性32.0%。女性もいつか「独り身のおばあさん」になるから、途中で未婚差別をうけて厳しいかもしれないが、晩年は未婚も既婚も同じ立場になる。
(11)「王子の夢のあと」:「王子」の旬は短い!
スポーツでピュアな汗を流す王子キャラがもてはやされた2007年。王子キャラは数多の熟女のリビドーのはけ口となった。(Ex. ハンカチ王子、ハニカミ王子。)男性はあっという間に世俗にまみれ「王子」の旬は短い。王子より、「若様」、「貴公子」の方が賞味期限が長い。
(12)「でき婚ファンタジー」:男性はますます二次元やロリータに走る?
芸能人のできちゃった婚の事例は少なくない。1997年の安室奈美恵とSAM、2000年のキムタクと工藤静香、2003年(&2010年)の広末涼子等々。アイドルや女優の婚前交渉、風紀の乱れに、男性はますます二次元やロリータに走る懸念がある。
(13)「女子アナ人生すごろく」:彼女たちは生粋の勝ち組だ!
女性たちの憧れの的、女子アナ。美人で名門大出身で育ちもよい彼女たちは生粋の勝ち組だ。大学時代も人の輪の中心にいて、華やかな人生。退行していく経済状況で弱気の下流の男性たちは、相手にされない。かくて「お天気おねえさん」の人気がたかまる。手が届きそうで、性格もきつくなさそう。
(14)「KY式モテ計画」:KYを超越し、空気を思い通りにする!
2007年に流行語になった「KY」(空気が読めない)。Cf.  KYを超越し、空気を思い通りにできる男こそモテる。(とくに外国人)。
(15)「エコ教の乱」:オーガニック商品は、経済力がないと買えない!
エコロジストのエコピープル(初期)は、絞り染めやアースカラーの民族系ファッション、首にはオーガニックコットンのストール、ドレッドやおだんごヘア!エコファッションで擬態しないとエコ系イベントでは快適でない。オーガニック商品はそれなりに高いので、経済力がないと買えない。
(16)「2012年の恐怖のシナリオ」:地球は1回リセットされ、三次元から五次元にアセンションする!
マヤ人の暦(コヨミ)が2012年2月で終わっていることから、人類滅亡の憶測がスピリチュアル系の人々の間で過熱する「2012年問題」。その時、地球は1回リセットされ、三次元から五次元にアセンション(次元上昇)するという説が根強い。
(17)「日本総モンスター化計画」:世の中が不景気で人々はイライラしている!
モンスターペアレント対応マニュアルを大阪市と富山市が作成。いつから親はこんなにやりたい放題になったのか?モンスターペイシェント(わがまま患者)、モンスターカスタマー(Ex. 「靴ずれの治療費払ってください」)など。世の中が不景気で人々はイライラしている。
(18)「今、そこにあるテロ」(2004):思想の有無を聞いてみる!
2004年は、スペインでの列車爆弾テロなど多くのテロがあった年。「不審人物を見かけたら思想の有無を聞いてみればいいんだわ」との提案!
(19)「いじめの向こう側」:「ダメな自分」が優越感をえるため、弱者をいじめる!
陰湿&複雑化しつつある「いじめ」の現状。世の中のストレスが多いのも一因。「私は他の人に劣らず価値のある人間である」という設問への「よくあてはまる」と答えた中学生の率:アメリカ60.7%、中国73.1%、日本11.0%と極めて低い。「ダメな自分」が優越感をえるため、弱者をいじめ、強者の欠点をあげつらい引きずりおろす。Cf.「 警察官は痩せていたりメガネをかけていたり弱そうな人を狙って職務質問し、ポイントを稼いでいるそうです。遠目に見るとカツアゲそのものです。」
(20)「ネオグリム」:「鳥インフルエンザで計100万羽殺処分」等々!
定期的に起こるグリム童話ブーム。グリム童話は残酷なストーリーが多く、「みんな死んでしまいました」と淡々と終わったりする。しかし現代はさらに陰惨。「鳥インフルエンザで計100万羽殺処分」、「口蹄疫で家畜30万頭、殺処分」など。
(21)「食べ物の恨み」:日本では松茸はキノコの王様!
2010年、松茸は大豊作だった。日本では松茸はキノコの王様とされる。だが「変な臭い」だと嫌がる国(Ex. 中国)もある。Cf. 高級レストランになればなるほど、食べ物で遊んでいるようなメニューが多い。
(22)「萌えトレ」:「萌え」とは「羞恥心のいり交じった性欲」だ!
いまだ衰えることをしらない萌えブーム。「萌え」とは「羞恥心のいり交じった性欲」だ。ギラギラした肉食男子は「萌え」というシャイな感情が理解できない。萌え系アニメのぬるま湯の世界に日本人男子がハマっている間に、いつの間にかGDPが中国に追い抜かれた。以下、「萌え」を学ぶトレーニング。
step1「元祖メイドに学ぶ萌え」:メイドさんはだれも一生メイドで終わるつもりなんてない。笑顔の下には「有名になってやる」、「金持ちを捕まえたい」等々!
step2「少年萌え入門」:ウィーン少年合唱団とか、「私立小の半ズボン少年」への萌え。だが恵まれた環境が「私立小の半ズボン少年」のセンスを育む。かくて「少年萌え」以前に、「お金萌え」に辛酸なめ子はなってしまう!
step3「猫萌え入門」:近頃、猫が人気。「猫漫画で一発当てたいな」と辛酸なめ子氏。
step4「霊萌え入門」:霊は怖いので、「霊は可愛いい、霊萌え」と唱えれば、霊も怖くなくなる。スピリチュァリストで霊能力をもつ暁玲華先生にたずねてみた。「萌え系の霊はいるのか?」いなさそう・・・・
step5「マスク萌え入門」:このところ「マスク萌え」のDVDや写真集が続々リリースされている。
step6「萌え漫画レッスン」:萌え系漫画家さん(蒼樹うめ先生)に「萌え」の極意を辛酸なめ子氏が学ぶ。萌え系の絵を描くには人間への愛が必要だ。
step7「ボーイズラブを探して」:ボーイズラブなんて幻想。ゲイは恋愛感情より「性欲」がまさっている。ゲイの人は「性欲」が強く刹那的。将来の不安があるのかもしれない。
step8「『萌え』の意味とは?」:性欲が「萌え」で消費されて生殖までいたらない。「萌えブーム」が続くと少子化や環境問題が解決しない。生命に溢れた「地球」という惑星こそ「萌え」である。「『地球の萌え』を守らなければ!」とエコロジー系漫画家の辛酸なめ子氏が言う。
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『唯識(下)』多川俊映、第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その2):第八識は(a)「種子」(過去の行動情報)、(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)、(c)「器界」(自然など)を所蔵する!

2023-01-27 16:55:13 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その2)
(19)-2 第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)を所蔵(管轄)する:「現行」(ゲンギョウ)は済めばその「種子」(シュウジ)(行動情報)を第八阿頼耶識に「熏習」(クンジュウ)する、すなわち「現行熏種子(ゲンギョウクンシュウジ)」!「一切種子識」としての第八識!
B  第八阿頼耶識は、(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)、(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)、(c)「器界」(自然など)を所蔵(管轄)する深層の根本識体だ。(34頁)
B-2  (a)「種子(シュウジ)」は、過去の行為・行動(「現行」ゲンギョウ)の情報(印象・気分なども含む)が深層の第八意識に送り込まれ・植え付けられ・蓄積されたものだ。この心的メカニズムは「熏習」(クンジュウ)(移り香)と呼ばれる。(34-35頁)
B-2-3 こうした過程は「現行熏種子(ゲンギョウクンシュウジ)」と呼ばれる。「現行」(ゲンギョウ)は済めばその「種子」(シュウジ)(行動情報)を第八阿頼耶識に「熏習」(クンジュウ)する。第八阿頼耶識には「種子」(シュウジ)がプールされる。かくて第八識は「一切種子識」とも言われる。(35頁)

(19)-3 第八阿頼耶識は(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)、また(c)「器界」(自然など)を所蔵(管轄)する!
B-3  第八阿頼耶識は (b)「有根身(ウコンジン)」(身体)を所蔵(管轄)する。(34-35頁)
B-4  第八阿頼耶識は(c)「器界」(器世間)(自然など)(私たちが肉体をもって存在する場所)(身体をとりまく自然や環境)を所蔵(管轄)つまり「執持(シッジ)」(管理)する。(34-37頁)

《参考1》E. フッサールは『デカルト的省察』(1931)第38節「能動的発生と受動的発生」で次のように述べる。「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」
[感想1] 第八阿頼耶識は超越論的主観性あるいはモナドである。超越論的主観性あるいはモナドの内には「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。」かくて「物」(触覚される対象)も《それ自身》として根源的ありさまにおいて与えられる。
[感想1-2]つまり「心」(第八阿頼耶識)のうちに「物」そのもの・「物」《それ自身》が存在する。このような「心」は、日常生活でいう「心」ではない。「物」そのもの・「物」《それ自身》が存在するような「心」つまり《「物」を含む「心」》(第八阿頼耶識)は、超越論的主観性あるいはモナドである。
[感想2] 「物」(触覚される対象)は「心」(超越論的主観性あるいはモナド)つまり第八阿頼耶識に含まれる。
[感想3]《「物」と対立する「心」》は、《自我としての「超越論的主観性あるいはモナド」つまり第八阿頼耶識》に含まれる《「物」でない一切の対象》をさす。例えば、自我の「認識」・「感情」・「意志」の作用(ノエシス)と意味(ノエマ)は《(「物」と対立する)「心」》に属す。ただし間主観的な「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」等々)は《(「物」と対立する)「心」》に属すが、複数の《(「物」と対立する)「心」》に共有される。
[感想3-2]さらに《「物」と対立する「心」》は、「物」を通して、つまり「身体」を通して、《他我としての「超越論的主観性あるいはモナド」》つまり《超越論的他我》と出会う。
[感想3-2-2]《超越論的他我》は「超越論的主観性あるいはモナド」として「物」を含む。つまりそれは《「物」を含む「心」》である。
[感想3-2-3]《超越論的他我》(他我である第八阿頼耶識)の「心」とは、より狭義には、他我である第八阿頼耶識の《「物」と対立する「心」》である。それは、超越論的他我に含まれる《「物」でない一切の対象》をさす。例えば、他我の「認識」・「感情」・「意志」の作用(ノエシス)と意味(ノエマ)は他我の「心」に属す。

《参考1-2》第八阿頼耶識に(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)が含まれるとは、(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)という「物」《それ自身》が含まれるということだ。第八阿頼耶識は「超越論的主観性あるいはモナド」であり、そこには、(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、《「物」(触覚される対象)世界に属する(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)》も、また《「物」(触覚される対象)世界そのものである(c)「器界」(自然など)》も、含まれている。
《参考1-2-2》なお《「物」(触覚される対象)世界》は、「前五識」の世界(色シキ境、声ショウ境、香境、味境、触境ソクキョウ)と言い換えてよい。

《参考1-3》フッサール現象学の「現象」とは「(受動的経験の総合の中で)《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている対象」のことである。Cf. E. フッサール『デカルト的省察』(1931)第38節「能動的発生と受動的発生」では次のように述べられている。「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」

《参考2》(9)-10 「 前五識」は、そもそも根(感官)自体が「肉体」の一部だから、第八阿頼耶識(アラヤシキ)の管理下にある!
F 根(感官)自体が「肉体」(有根身ウコンジン)の一部だから、「 前五識」はそもそも「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)の管理下にある。「第八識」は《(「肉体」を持つ)人》としての生存そのものを支えている。(上74頁)
Cf. 第八阿頼耶識は①「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)」、②「有根身(ウコンジン)」(身体)、③「器界」(自然など)を所蔵(管轄)する深層の根本識体だ。(上65頁)

《参考2-2》上記「(9)-10」に関する感想!
[感想1]「識」とは「認識」のことだが、唯識仏教においては、「識」(「心」)は超越論的主観性(フッサール)であり、「物」は《そのもの》が「現象」として超越論的主観性の領野内に出現する。超越論的主観性の内に出現する「物」は、物の「像」ではない。それは「物」《そのもの》である。超越論的主観性(フッサール)あるいは第八阿頼耶識という「心」は「物」《そのもの》を含む。
[感想1-2]超越論的主観性は、「物」という「現象」に関して言えば、それは一方で主観性=「識」(「心」)であって、他方で同時に「物」《そのもの》である。
[感想2]第八阿頼耶識という超越論的主観性(「識」or「心」)のうちには、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」(「外界」)以外にも、「認識」・「感情」・「意志」の作用(ノエシス)と意味(ノエマ)、さらにより抽象的でかつ間主観的な諸「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々、あらゆる「対象」(「境」)が出現する。

《参考3》上記「(9)-10」に関する感想(続)!
[感想1]犬(動物)もまた「識体」(心)(※超越論的主観性orモナドor小宇宙)である。
[感想1-2]なお「識体」(心)(※超越論的主観性)においては、その「識体」(心)(※超越論的主観性としての第八阿頼耶識)の内に「物」そのものが(従って「身体」そのもの)が「現象」として出現する。
[感想1-3]E. フッサールは『デカルト的省察』第55節「モナドの共同化と、客観性の最初の形式としての相互主観的自然」において、「動物」は「人間性(※「超越論的主観性orモナドor小宇宙」としての人間)の・・・・変様態」であると述べている。
[感想2]おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性orモナドor小宇宙)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」が考えうる。無生物は「識体」でない。
[感想2-2]「識体」(心)(※超越論的主観性orモナドor小宇宙)においては、世界(宇宙)そのものが「現象」=「自体分」として出現し、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、つまり意識化される。
[感想2-3]「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」=「自体分」である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのもの(モナドor小宇宙)だ。

《参考4》第七末那識の認識対象である第八阿頼耶識!
A-2  第七末那識の「末那(マナ)」はサンスクリット語のマナス(思い量る)の音写語だ。意訳すれば「思量識」だが、末那識の思量は、通り一遍のものでなく「執拗きわまりない」。(上141頁)
A-2-2  第七末那識の認識対象は、第八阿頼耶識である。第八阿頼耶識は、私たちの生存基盤であり「自己」(本来の自己そのもの)と言っていい。(上141頁)
Cf. 第八阿頼耶識は、(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)」、(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)、(c)「器界」(自然など)を所蔵(管轄)する深層の根本識体だ。(上65頁)

《参考4-2》上記「《参考4》」に関する感想!
「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)(八識という構造を持つ「心王」)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》を《そのもの》として含む。
《参考4-2-2》なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「物」であるかぎりで「器界」にとりまかれた(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。
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『唯識(下)』多川俊映、第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その1):本識(ホンジキ)(根本の識体)である第八阿頼耶識(アラヤシキ)!「わが心深き底あり」(西田幾多郎)!

2023-01-26 20:21:13 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第8回 第八阿頼耶識 わが心深き底あり(その1)
(19)本識(ホンジキ)(根本の識体)である第八阿頼耶識(アラヤシキ)!「わが心深き底あり」(西田幾多郎)!  
A 西田幾多郎(1870-1945)の句、「わが心深き底あり喜(ヨロコビ)も憂(ウレヒ)の波もとゞかじと思ふ」の「深き底」は、本識(ホンジキ)(根本の識体)、第八阿頼耶識(アラヤシキ)をさすと言ってもよい。(多川俊映氏)(32頁)

《参考1》世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(上21-22頁)

《参考2》(6)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」!「第八阿頼耶識」=「蔵識」=「一切種子(シュウジ)識」!無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」である「第七末那識(マナシキ)」!
K まず「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」については、唯識仏教では、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、第六意識の「六識」に、さらに第七末那識(マナシキ)、第八阿頼耶識(アラヤシキ)が想定された。(上49頁)
[参考]唯識の「空」:龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する「心」のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。(「広隆寺ホームページ」)
K-2  「第八阿頼耶識」は私たちの認識活動のみならず生存にも深くかかわり、心の大本(オオモト)である。「阿頼耶」はサンスクリット語のアーラヤで「蔵」を意味する。(上49頁)[感想]「阿頼耶識」は、A・シュッツ「知識在庫」Stock of knowledgeに相当する。
K-2-2  「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。[感想]「種子」(シュウジ)とは「過去の行為行動の情報・残存気分」に関する「類型的知識」である。(上49頁)
K-2-2-2 かくて「阿頼耶識」は「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)である。
(上49頁)
K-2-2-3 「阿頼耶識」は一切の「種子」(シュウジ)を所蔵する「蔵識」と意訳さることがある。(上49頁) 
K-2-3 「種子」(シュウジ)つまり「過去の行動情報」(※類型的知識)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。(上50頁)
K-2-3-2 言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものでもある。(上50頁)

K-3  「第七識」の「末那識(マナシキ)」は、無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」(Cf. フロイトの快感原則)のことで、自覚的な「第六意識」に絶えず影響力を行使する。(上50頁)

《参考3》(8)-3 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでなく、第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する!
T-4  第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでない。(上61頁)
T-4-2  第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する。(上61頁)
Cf. 仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(※唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。)(上5頁)
Cf. 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(上47頁)

《参考3-2》上記「(8)-3」に関する感想!
[感想1]唯識仏教にとって、さまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
[感想2]唯識仏教は、「心」は「物」の世界を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在し、「物」が「心」に反映・模写するという見解をとらない。
[感想2-2]唯識仏教は、「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)とする。
[感想3]「心」(超越論的主観性)のうちに出現する「対象」(「境」)は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
[感想4]「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々、あらゆる「対象」(「境」)が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
[感想5]さらに「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf.  アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!

《参考4》(1)唯識仏教によれば、「心」が対象を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(上47-48頁)
(2)認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(上48頁)
(3) 唯識仏教では「心」(※超越論的主観性)は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味・意味的諸規定)と言う。(上48頁)
(4)認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(上48頁)
(5)かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(上48頁)
(6)「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(上48-49頁)

《参考4-2》上記「《参考4》」に関する感想!
私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。Cf. 「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。
①「物」の世界は間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)「物」の世界は、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
④-2 さらにこれら「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も対象的意味(「所変の境」)として構成される。それら「感情」「意志」「欲望」の間主観的な規則性or法則にもとづき、多くの人間の間で、マヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的・経済的・心理的等々の「操作」が可能となる。

《参考5》(8)-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)は「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)を所蔵する!原因である「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる:「種現(シュゲン)因果」!
U 第八意識に所蔵された「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)は、単なる過去の行動情報でなく、事後ないし将来にわたって条件(「縁」)が整えば、類似の行動(「現行」ゲンギョウ)を発出する潜勢力でもある。〈上62頁)
U-2  これが唯識仏教の、阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐる「縁起」の考え方だ。〈上62頁)
U-2-2 新たに引き起こされた類似の行為行動は「現行」(ゲンギョウ)と呼ばれる。かくて原因の「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる。これを唯識では「種現(シュゲン)因果」という。〈上62頁)
U-3  しかし同時に、「当面ではあるが自己そのものといってよい第六意識」こそ、日常生活者としては重要だ。
つまり「深層の阿頼耶識に所蔵される過去の行動情報」である「種子」(シュウジ)がそのまま再現されるのではない。「自覚的な心の第六識」の覚悟こそ明日の自己を改造する。第六識こそ、自己を育み・成長させるものであると思い定めたい。(多川俊映氏)〈上62頁)
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