DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

『関孝弘 ピアノリサイタル』東京文化会館(2022/12/8):「関さんのどこまでも澄み切った透明で美しいピアノの響き」と村井邦彦氏が評する!

2022-12-26 13:11:18 | 日記
関孝弘:東京芸術大学在学中に日本音楽コンクール第2位、安宅賞を受賞。イタリアのブレーシャ国立音楽院に留学。多数の国際コンクールに上位入賞。ヨーロッパ全土で演奏旅行。2011年イタリアの音楽文化を広めた功績により、イタリア政府より大統領の名のもと、文化功労勲章「コメンダトーレ章」が叙勲された。

《プログラム》
スカルラッティ(1685-1757):バッハと同年の生まれ。スペインで活躍した。
「4つのソナタ」(K. 481/9/20/159)(もとはスペイン王妃のためのピアノ練習曲)
レスピーギ(1879-1936):イタリアの作曲家、ヴァイオリン奏者。教育者としても活動。
「シチリアーナ」(16世紀末の作曲者不詳の作品を現代によみがえらせた有名な作品)
「6つの小品」P44より第6曲「間奏曲」(旋律が甘美)・第3曲「ノクターン」(イタリア風印象主義)
リスト(1811-1886) : 「バラード第2番」(遠雷を思わせる半音階から始まり、技巧的部分と抒情的部分が対比されていく)
村井邦彦(1945-):テンプターズに「エメラルドの伝説」、ピーターに「夜と朝の間に」、辺見マリに「経験」を提供。プロデューサーとして荒井由実をデビューさせる。関孝弘氏のためにピアノ作品を書くプロジェクトが今年、15周年である。現在ロサンゼルス在住。
「エレナ」(15年前、関氏の小さかったお嬢さんをイメージした作品)・「スノー」・「タンゴ」・「1月のカンヌ」(世界初演、このコンサートのために書く)

《感想》
「関さんのどこまでも澄み切った透明で美しいピアノの響き」と村井邦彦氏の評のとおり、素晴らしい演奏だった。ロザンゼルスより、村井邦彦氏がビデオ動画で同時出演し大変よかった。大きくなったエレナさんが花束をもって登場し、ビデオの村井邦彦氏に渡す演出が、感動的だった。

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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その4):表面心と深層心の重層性!「本識」(第八阿頼耶識)と「転識」の重層構造:「阿頼耶識縁起」!原因「種子」と結果「現行」:「種現(シュゲン)因果」!

2022-12-24 16:48:13 | 日記
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々々):唯識仏教における「心」(続)!
(8)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造①:表面心(「前五識」・「第六意識」)と深層心(「第七末那識」・「第八阿頼耶識」)の重層性!
S  唯識仏教は、心を表面心と深層心の重層性として捉える。五感覚の「前五識」と(当面の)自己そのものといえる「第6意識」は心の表面のはたらきだ。(56頁)
S-2  深層心の「第七末那識」(マナシキ)の自己愛ないし自己中心性のはたらきが表面心である第6意識に通奏低音のように囁き続ける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)がある。(56頁)(21-22頁)
S-2-2  こうした深層の二意識、「第七末那識」と「第八阿頼耶識」は無意識あるいは意識下である。(56-57頁)
S-2-3 フロイトの無意識の場合は、無意識識領域に抑圧されたことがらを意識化し、問題が解決される、つまり意識化が可能だ。だが唯識仏教の最深層の無意識である「阿頼耶識」は「不可知」とされる。(57頁)
S-2-4 川本臥風に「菱餅の上の一枚そりかえり」という雛の節句の俳句がある。これを唯識の心の構造に譬えると、反りかえる上の1枚は表面心の「前五識」と「第六意識」。それ以下は心の深層領域で、中の1枚が「第七末那識」、一番下の1枚が「第八阿頼耶識」と見立てることができる。(59-60頁)
S-2-4-2 深層領域の中と下の2枚は音無しの構えだが、表面心の上の1枚は何かと騒々しい。「第六意識」の例えば「瞋(シン)(排除する)」心所がむくむくと立ち上がり、それにつれ具体的な随煩悩の心所「忿(フン)(腹を立てる)」や「恨(コン)(うらむ)」などが相応してくる。「上の一枚そりかえり」という状況だ。(60頁)

(8)-2 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造②:「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造:「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)!
T 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」には、もう一つ重要な重層構造がある。それは「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造だ。(60頁)
T-2  「本識(ホンジキ)」とは第八阿頼耶識のことで、すべては第八識の「本識」から発出・発現し、これを「転変(テンペン)」という。(60頁)
T-2-2 つまり八識でいえば、前五識も第六意識も、そして第七末那識もすべて、根本の識体たる第八識(第八阿頼耶識)から「転変」して現れたものと考えるので、前五識・第六意識・第七末那識を「転識」と言う。(60-61頁)

T-3  かくて唯識仏教では、ものごとは阿頼耶識にもとづき、阿頼耶識を主とし、阿頼耶識によってつくり出されるということになる。かくて唯識の縁起論(ものごとの成り立ちについての考え方)は「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)と呼ばれる。(61頁)
T-3-2  「第八阿頼耶識」(蔵識)は「種子(シュウジ)」を所蔵するので「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)とも呼ばれる。
《参考》「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。「種子」(シュウジ)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものである。(50頁)

(8)-3 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでなく、第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する!
T-4  第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでない。(61頁)
T-4-2  第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する。(61頁)

《参考》仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(※唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。)(5頁)
《参考》唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)

《感想1》唯識仏教にとって、さまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》唯識仏教は、「心」は「物」の世界を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在し、「物」が「心」に反映・模写するという見解をとらない。
《感想2-2》》唯識仏教は、「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)とする。
《感想3》「心」(超越論的主観性)のうちに出現する「対象」(「境」)は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々、あらゆる「対象」(「境」)が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》さらに「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf.  アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!

《参考》(1)唯識仏教によれば、「心」が対象を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
(2)認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
(3) 唯識仏教では「心」(※超越論的主観性)は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味・意味的諸規定)と言う。(48頁)
(4)認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
(5)かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
(6)「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)

《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。Cf. 「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。
①「物」の世界は間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)「物」の世界は、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
④-2 さらにこれら「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も対象的意味(「所変の境」)として構成される。それら「感情」「意志」「欲望」の間主観的な規則性or法則にもとづき、多くの人間の間で、マヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的・経済的・心理的等々の「操作」が可能となる。

(8)-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)は「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)を所蔵する!原因である「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる:「種現(シュゲン)因果」!
U 第八意識に所蔵された「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)は、単なる過去の行動情報でなく、事後ないし将来にわたって条件(「縁」)が整えば、類似の行動(「現行」ゲンギョウ)を発出する潜勢力でもある。〈62頁)
U-2  これが唯識仏教の、阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐる「縁起」の考え方だ。〈62頁)
U-2-2 新たに引き起こされた類似の行為行動は「現行」(ゲンギョウ)と呼ばれる。かくて原因の「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる。これを唯識では「種現(シュゲン)因果」という。〈62頁)
U-3  しかし同時に、「当面ではあるが自己そのものといってよい第六意識」こそ、日常生活者としては重要だ。
つまり「深層の阿頼耶識に所蔵される過去の行動情報」である「種子」(シュウジ)がそのまま再現されるのではない。「自覚的な心の第六識」の覚悟こそ明日の自己を改造する。第六識こそ、自己を育み・成長させるものであると思い定めたい。(多川俊映氏)(63頁)
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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その3):「心」が、心の主体(「心王」)(※超越論的主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知する!

2022-12-23 10:15:14 | 日記
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々):唯識仏教における「心」!
(6)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」!「第八阿頼耶識」=「蔵識」=「一切種子(シュウジ)識」!無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」である「第七末那識(マナシキ)」!
K まず「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」については、唯識仏教では、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、第六意識の「六識」に、さらに第七末那識(マナシキ)、第八阿頼耶識(アラヤシキ)が想定された。(49頁)
《参考》唯識の「空」:龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する「心」のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。(「広隆寺ホームページ」)
K-2  「第八阿頼耶識」は私たちの認識活動のみならず生存にも深くかかわり、心の大本(オオモト)である。「阿頼耶」はサンスクリット語のアーラヤで「蔵」を意味する。(49頁)《感想》「阿頼耶識」は、A・シュッツ「知識在庫」Stock of knowledgeに相当する。
K-2-2  「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。《感想》「種子」(シュウジ)とは「過去の行為行動の情報・残存気分」に関する「類型的知識」である。(49頁)
K-2-2-2 かくて「阿頼耶識」は「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)である。
(49頁)
K-2-2-3 「阿頼耶識」は一切の「種子」(シュウジ)を所蔵する「蔵識」と意訳さることがある。 
K-2-3 「種子」(シュウジ)つまり「過去の行動情報」(※類型的知識)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。(50頁)
K-2-3-2 言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものでもある。(50頁)

K-3  「第七識」の「末那識(マナシキ)」は、無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」(Cf. フロイトの快感原則)のことで、自覚的な「第六意識」に絶えず影響力を行使する。(50頁)

(7)心のはたらき(「心所」)(※心の意味構成的諸作用):六位五十一心所!
L  「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」、すなわち「八識心王」に相応してはたらく「心所」(心のはたらき)(※心の意味構成的諸作用)は五十一ある。(50頁)
L-2  八識(※8つの「超越論的主観性の諸領野」)のうち「第六意識」(自覚的ないわゆる「心」、ふつういうところの「心」、当面の自己そのもの、表面における心)はこれら「五十一心所」のどの心所とも相応してはたらく。(50頁・55頁)
L-2-2  かくて「五十一心所」リストは私たちの日常行動を一覧するものでもある。(50頁)
L-2- 3 「前五識」・「第七末那識(マナシキ)」・「第八阿頼耶識(アラヤシキ)」と相応する心所は限られている。それについては、ここでは割愛する。(50頁)

《参考1》「唯識」は、すべてを心の要素に還元し心の問題として捉えるが、心のはたらきは「心所」(シンジョ)と呼ばれ51の心所がある。(15頁)
《参考1-2》51の心所はその性質から6グループに分類される:「六位(ロクイ)五十一心所」。①「遍行」(ヘンギョウ)(どのような認識にもはたらく基本的なもの)、②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらくもの)、③「善」(仏の世界に順ずるもの)、④「煩悩」(仏の世界に違反するもの)、⑤「随煩悩」(煩悩から派生した仏の世界に違反するもの)、⑥「不定」(フジョウ)(その他)。(17-18頁)
《参考1-3》五十一の心所リストは、日常の行為・行動のリストでもある。(18頁)
《参考1-4》なお仏教は「善と悪」という枠組みは使わず、「善と煩悩」、「善と不善」と捉える。(18頁)

《参考2》世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(21-22頁)

M  五十一心所①「遍行」(ヘンギョウ):どのような認識にもはたらく基本的な心所(心のはたらき)(5心所)!(50-51頁)
(1)触(ソク):「心を認識対象に接触させる」という心所(心のはたらき)。
(2)作意(サイ):「心を起動させる」という心所(心のはたらき)。
(3)受(ジュ):「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」という心所(心のはたらき)。
《感想》「認識」を価値中立的な認識に限定しない。むしろ本来的に「認識」は価値判断的である(苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める)と、唯識仏教は考える。
(4)想(ソウ):「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」という心所(心のはたらき)。
《感想》「認識」するとは「受け止めたもの」を「自己の枠組み」(Ex. 類型的知識)にあてはめること、つまり「類型化」すること、あるいはより一般的には「言語化」することだ。
(5)思(シ):「認識対象に具体的に働きかける」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非価値的・非行動的関係)でない。「認識」とは「認識する主体・主観(心)」と「認識対象」との関係づけ(「具体的に働きかける」こと)であり、その関係は、観想的(非価値的・非行動的)関係、価値的関係、行動的関係のすべてを含む。

N  五十一心所②「別境」(ベッキョウ):特別な対象だけにはたらく心所(心のはたらき)(5心所)!(51頁)
(6)欲(ヨク):(認識対象を)「希求する」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想でない。認識対象を「希求する」心所(心のはたらき)(「欲」)も「認識」に含まれる。
(7)勝解(ショウゲ):(認識対象を)「深く了解する」という心所(心のはたらき)。
(8)念(ネン):(認識対象を)「記憶する」という心所(心のはたらき)。
(9)定(ジョウ):(認識対象に)「集中する」という心所(心のはたらき)。
(10)慧(エ):(認識対象を)「択び分け、正邪を判断する」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非価値的・非行動的関係)でない。認識対象を「択び分け、正邪を判断する」心所(心のはたらき)(「慧」)も「認識」に含まれる。

O 五十一心所③「善」(ゼン):仏の世界に順ずる心所(心のはたらき)(11心所)!(51-52頁)
(11)信(シン):「自己を真理に委ねる」という心所(心のはたらき)。
《感想》ここでの認識対象は「自己と(人間的and自然的)世界・宇宙との関係において何を至高の価値とするか」という問いに対する答えである。答えは「自己を真理に委ねる」ことだ。
(12)慚(ザン):「自らを顧み、また教えに照らして恥じる」という心所(心のはたらき)。
《感想》「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きる時、慚(ザン)つまり「自らを顧み、また教えに照らして恥じる」という心所(心のはたらき)は「善」である。
《感想》そもそも「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きるとは、「仏の世界」を希求しつつ生きることである。かくて「仏の世界に順ずる心所」である「善」の心所(心のはたらき)が、唯識仏教において目標となった。
(13)愧(キ):「他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)。
(14)無貪(ムトン):「むさぼらない」という心所(心のはたらき)。
《感想》キリスト教の「七つの大罪」(①嫉妬、②傲慢、③怠惰、④憤怒、⑤強欲、⑥色欲、⑦暴食)と比較すると、「(13)愧(キ):他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)は、「七つの大罪」のうち「②傲慢」に陥いらないことだ。また「(14)無貪(ムトン):むさぼらない」という心所(心のはたらき)は、「七つの大罪」のうち「⑤強欲、⑥色欲、⑦暴食」に歯止めをかけることに相当する。       
(15) 無瞋(ムシン):「排除しない」(※憎しみのないこと)という心所(心のはたらき)。
《感想》「(15) 無瞋(ムシン)」は、「七つの大罪」のうち「④憤怒」に陥いらないことに相当する。
(16) 無癡(ムチ)(無痴):「真理・道理に即する」(※妄想をもたないこと)という心所(心のはたらき)。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンジンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。
(17)勤(ゴン):「精進。たゆまず努める」という心所(心のはたらき)。
(18)安(アン):「軽安(キョウアン)。身心がのびやかで、はればれとしている」という心所(心のはたらき)。
《感想》「仏」は身も心もおだやかなのだ。素晴らしいことだ。
《感想(続)》「障害」(平均的な身体・心の機能・構造から離れていること)のある身・心(メンタルな機能・構造)であっても、「のびやかで、はればれとしている」ことは可能だ。だから「安」(アン)は「健康」(多数派的な身体・心の機能・構造で、「障害」の反対概念)とは異なる。
(19)不放逸(フホウイツ):「欲望をつつしむ」という心所(心のはたらき)。
《感想》無貪(ムトン)(むさぼらない)に似るが、「貪」は行き過ぎた欲望だ。不放逸は、欲望そのものをコントロールし節制することだ。Cf.「腹八分」は欲望のコントロールすなわち「不放逸」だ。これに対し「七つの大罪」の一つでもある「⑦暴食」は「貪」である。
(20)行捨(ギョウシャ):「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)。(※楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 。心の平静。かたよりのないこと 。心が平等で苦楽に傾かないこと 。)
《感想》「行捨(ギョウシャ)」はエピクロス学派(通俗化され快楽主義と呼ばれる)が幸福の必須条件として主張した「アタラクシア」(静安)に似る。「アタラクシア」は他のものに乱されない,平静な心の状態。エピクロス学派では、幸福は「快楽」にあるが,「外的なものにとらわれず欲望にとらわれない内的な平静」が最大の快楽であるとする。Cf. キケロがエピクロスの説を通俗化し、享楽を正当化する唯物論的な「快楽主義」と同一視させた。詩人のホラティウスはふざけて自分を「エピクロスの獣群のなかの豚」と呼んでいた。
(21)不害(フガイ):「いのちをあわれみ、他を悩ませない」という心所(心のはたらき)。(※非暴力。他を害しないこと。他者への思いやりの心すなわち慈悲心。)

P 五十一心所④「煩悩」(ボンノウ):仏の世界に違反する心所(心のはたらき)(6心所)!(52-53頁)
(22) 貪(トン):「むさぼる」という心所(心のはたらき)。
(23) 瞋(シン):「排除する」(※憎しみをもつ)という心所(心のはたらき)。
(24) 癡(チ)(痴):「真理・道理に暗い」(※妄想をもつ)という心所(心のはたらき)。
《感想》これら(22) 貪(トン)・(23) 瞋(シン)・(24) 癡(チ)は、五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(14)無貪(ムトン)(むさぼらない)・(15) 無瞋(ムシン)(排除しない、※憎しみのないこと)・(16)無癡(無痴)(ムチ)(真理・道理に即する、※妄想をもたない)と反対の心所だ。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンシンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。

(25)慢(マン):「自己を恃み、他をあなどる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(13)愧(キ)(他に対して恥じる)と反対の心所だ。
(26)疑(ギ):「真理・道理をわきま得ず、疑う」という心所(心のはたらき)。
(27)悪見(アッケン):「誤った見解に立つ」という心所(心のはたらき)。
《感想》これら(26)疑(ギ)・(27)悪見(アッケン)は、五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(11)信(シン)(自己を真理に委ねる)・(12)慚(ザン)(自らを顧み、また教えに照らして恥じる)と反対の心所だ。

Q 五十一心所⑤「随煩悩」(ズイボンノウ):煩悩から派生した仏の世界に違反する心所(心のはたらき)(20心所)!(53-54頁)
(28)忿(フン):「腹を立て、危害をくわえようとする」という心所(心のはたらき)。Cf. 諺に「短気は損気」、「ならぬ堪忍するが堪忍」とある。
(29)恨(コン):「うらむ」という心所(心のはたらき)。Cf. 諺に「人を呪わば穴二つ」とある。
(30)覆(フク):「隠し立てする」という心所(心のはたらき)。
(31)悩(ノウ):「他を悩ませる」という心所(心のはたらき)。
(32)嫉(シツ):「ねたむ」という心所(心のはたらき)。《感想》キリスト教の「七つの大罪」のひとつは「①嫉妬」だ。
(33) 慳(ケン):「ものおしみする」(※ケチで欲深い)という心所(心のはたらき)。
(34) 誑(オウ):「たぶらかす」という心所(心のはたらき)。
(35) 諂(テン):「へつらう」という心所(心のはたらき)。
(36)害(ガイ):「いのちへの思いやりがなく、他をなやませる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(21) 不害(いのちをあわれみ、他を悩ませない)(※非暴力、他を害しないこと、他者への思いやりの心すなわち慈悲心)と反対の心所だ。
(37) 憍(キョウ):「うぬぼれる」という心所(心のはたらき)。
(38)無 慚(ムザン):「自らを顧みず、また教えに照らして恥じない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの (12)慚(ザン)(自らを顧み、また教えに照らして恥じる)と反対の心所だ。
(39) 無愧(ムキ):「他に対して恥じない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの (13)愧(キ)(他に対して恥じる)と反対の心所だ。
(40) 掉挙(ジョウコ):「気持ちが騒がしく浮き立つ」(※心が昂ぶり頭に血が上った状態)という心所(心のはたらき)。
(41) 昏沈(コンジン):「気持ちが深く沈む」という心所(心のはたらき)。(※昏沈(コンジン)は「掉挙(ジョウコ)」の対義語。)
《感想》五十一心所⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)のうち、この(40) 掉挙(ジョウコ)と(41) 昏沈(コンジン)は、平静な心を失っているため煩悩とされる。Cf. これに対して五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(20)「行捨(ギョウシャ)」は「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)だ。「行捨」は楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 、心の平静、かたよりのないこと 、心が平等で苦楽に傾かないことだ。
(42)不信(フシン):「真理を顧みない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(11)信(シン)(自己を真理に委ねる)と反対の心所だ。
(43)懈怠(ケタイ):「なまける」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(17)勤(ゴン)(精進、たゆまず努める)と反対の心所だ。《感想》キリスト教の「七つの大罪」のひとつは「③怠惰」である。
(44) 放逸(ホウイツ):「欲望のままにふるまう」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(19)不放逸(フホウイツ)(欲望をつつしむ)と反対の心所だ。
(45)失念(シツネン):「記憶を失う」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらく5心所)のうちの(8)念(ネン)(記憶する)と反対の心所だ。
(46)散乱(サンラン):「集中を欠いて乱れる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらく5心所)のうちの(9)定(ジョウ)(集中する)と反対の心所だ。
(47)不正知(フショウチ):「誤って理解する」という心所(心のはたらき)。

《感想》五十一心所④「煩悩」(ボンノウ)(6心所)および⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)は、仏への不信心と共に、日常的な悪い心がけ・態度・行為・感情・意図等の一覧と言える。

R 五十一心所⑥「不定」(フジョウ):その他の心所(心のはたらき)(4心所)!(※善にも悪・不善にも働く!)(※ともに起こる心所により善あるいは悪・不善となり、それ自体では一方的に性格づけられない!)
(48)悔(ケ):「くやむ」という心所(心のはたらき)。
(49)眠(ミン):「ねむたくなり、身心の自在を失う」という心所(心のはたらき)。
(50)尋(ジン):「認識の対象をおおざっぱに思いはかる」という心所(心のはたらき)。
(51)伺(シ):「認識の対象を詳細に思いはかる」という心所(心のはたらき)。
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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その2):唯識仏教では「心」は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)と言う!

2022-12-21 10:41:09 | 日記
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続)
(5)唯識仏教の「心」:認識対象を「心」がいろいろと加工したり・変形したり(「能変」)して捉える!J 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)
J-2  「むろん外界のさまざまな事物は、あるにはあります。」(多川俊映)(47頁)
《感想1》「あるにはある」外界のさまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》「外界」は「物」に関して言えば、「身体」も含む。つまり「外界」とは「身体」と触れ合い連続して広がる「物」の世界だ。「心」は「物」の世界と異なるが、①「心」(主観性=主観)は「物」の世界(客観=対象)を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在する、つまり「物」が「心」に反映・模写するという見解と、他方で②「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)という見解がある。(《感想2-3》参照)
《感想2-2》「外界」は一般には、(認識)対象(「境」)すべてだ。この場合、「外界」は、「物」の世界より、ずっと広い。(《感想3》参照)
《感想2-3》「外界」(対象)はどこにあるのか?「外界」(対象)は意識されている、つまり「心」のうちに出現している。この場合、①「外界」(対象)は「心」の外にあるのか(対象の出現はいわば反映・模写である)のか?あるいは②「外界」(対象)は「心」のうちにある、つまり「外界」(対象)《そのもの》が「心」のうちに出現しているのか?
《感想3》「心」のうちに出現する「対象」は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》ところが「この心」(超越論的自我)のうちに、「他なる心」(超越論的他我)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf.  アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!

J-3  唯識仏教によれば、「外界」にあるなにか(対象)を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
J-3-2  認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
J-3-3  唯識仏教では「心」は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)と言う。(48頁)
J-3-4  認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
J-3-5  かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
J-3-6  「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)
《参考》「唯識」とは「唯(タダ)、識(シキ)のみなり」ということである。唯識では「心(シン)・意・識」の三者を厳密に区別するが、当面は「唯識」の「識」は、ふつう言うところの「心」と思っていてよい。「唯識」は、あらゆることがらをすべて「心」の要素に還元し、心の問題として考える仏教である。(13-14頁)

《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。
①「物」の世界は「所変の境」(※構成された対象的意味、つまり「物」の意味的諸規定)が間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は間主観的であり、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
⑤さらに「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も抽出可能であり、それにもとづき多くの人間のマヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的等々の「操作」が可能である。
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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その1)倶舎仏教の「心」:心の主体(「心王」)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「心」は「対象」をいかなるものか認知する!

2022-12-19 20:02:29 | 日記
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方
(4)「唯識」における「心」の「八識説」: 前五識、第六意識、第七末那(マナ)識、第八阿頼耶(アラヤ)識!前五識と第六意識は「初期仏教」以来のものである!
H  仏教はすでに初期の段階から十分に唯心的で、「心」に対する関心が旺盛だった。そうしたことを「唯識(唯、識のみなり)」と先鋭化したのが、西暦5世紀頃に体系化された唯識仏教だ。(36頁)
H-2  唯識が想定する「心」の概略は前五識、第六意識、第七末那(マナ)識、第八阿頼耶(アラヤ)識の「八識説」である。(36-37頁)
H-2- 2 「前五識」は眼(ゲン)識・耳(ニ)識・鼻識・舌識・身識である。(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に相当する。)(37頁)
H-2-3  第6番目に「意識」が取り上げられるので、「第六意識」と言う。(37頁)
H-2-4  「唯識仏教」は「心」について「八識説」をとる。前五識と第六意識は「初期仏教」以来のもので、「唯識」仏教は、それらに第七末那(マナ)識と第八阿頼耶(アラヤ)識という深層の二識を追加した。(37頁)

(4)-2 初期仏教における身業・口業・意業!
H-3 行為(「業」ゴウ)について初期仏教は、身業(身体的行動)・口(ク)業(ことば)・意業(心中の思い)と「身・口(語)・意の三業」を並列に並べる。(42頁)
H-3-2  唯識は、すべてを「心」(※超越論的主観性に相当する)の要素に還元し、「身・口(語)・意の三業」についていえば、「身・口」の二業も、「意」の一業に集約して考える。(42頁)

(4)-3 倶舎(クシャ)仏教の「心」:心の主体(「心王」)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知する! 
I 部派仏教のグループの一つに「説一切有部」(セツイッサイウブ)があった。その「有部」の主要な論書の一つが(唯識を体系化する以前の)世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』である。(43頁)
I-2 倶舎仏教の「心」は、初期仏教以来の「六つの心識」(前五識と第六意識)によって考えられている。(43頁)
I-3 また一般に「心身」というように、倶舎仏教も物質的な要素(身)と精神的な要素(心)を区別する。(43-44頁)
I-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性の諸領野)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(43-44頁)
I-4-2  倶舎仏教は「心王」(※主観性の諸領野)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(45頁)
I-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(45頁)
I-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の認識の直前に滅した眼識ないし意識を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(46頁)
I-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(46頁)
I-4-3 倶舎仏教の見解では「心所」(心のはたらき)は46あり、「善」や「煩悩」などの性質によって6グループに仕分けされる、すなわち「六位四十六心所」とされる。なお唯識仏教はこれを整理・改訂し「六位五十一心所」とした。(詳しくは後述。)(46頁)

(4)-3 倶舎(クシャ)仏教の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は外界に実在するものだ!
I-5  倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(46頁)
I-5-2  倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(47頁)
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