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映画『陰陽師0(ゼロ)』(2024年):「正気の現実」と「催眠・暗示された現実」が相互浸透する!「呪術」は「催眠」・「暗示」にすぎないとの科学的視点に立つ!

2024-04-30 00:38:53 | 日記
陰陽師・安倍晴明の活躍を描いたベストセラー小説「陰陽師」シリーズを原作に、晴明が陰陽師になる前の物語を、原作者・夢枕獏の全面協力のもと完全オリジナルストーリーで映画化。

呪いや祟りから都を守る陰陽師の学び舎であり行政機関でもある「陰陽寮」が重要視されていた平安時代。青年・安倍晴明は天才と呼ばれるほどの呪術の才能をもっていたが、陰陽師になる意欲も興味もない人嫌いの変わり者だった。ある日、彼は貴族の源博雅(ヒロマサ)から、皇族の徽子(ヨシコ)女王を襲う怪奇現象の解明を頼まれる。ともに真相を追う晴明と博雅は、ある「陰陽寮」の学生(ガクショウ)が変死したことをきっかけに、平安京をも巻き込む凶悪な陰謀に巻き込まれていく。

若き日の「安倍晴明」を山崎賢人、「源博雅」を染谷将太、「徽子(ヨシコ)女王」を奈緒が演じる。佐藤嗣麻子が監督・脚本を手がけ、作家・加門七海が呪術監修を担当。

《感想1》「正気の現実」と「催眠・暗示された現実」が相互浸透する。
《感想2》「呪術」は「催眠」・「暗示」にすぎないとの科学的視点に立つ。

★安倍晴明(921-1005)
960年(39歳)天文得業生(トクギョウセイ)(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇(在位946-967)に占いを命ぜられる。出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていた。その後、961年(40歳)以降に「陰陽師」に任じられる。979年(58歳)晴明は皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行い、花山天皇(在位984-986)の信頼を受ける。花山天皇の退位後は、一条天皇(在位986-1011)や藤原道長の信頼を集める。993年(72歳)、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(ミソギ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し正五位上に叙された。また1004年(83歳)、深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(カズケモノ)を与えた。陰陽師として名声を極めた晴明は、位階は従四位下に昇った。

☆安倍晴明をめぐる伝承
今日では平安時代の代表的な陰陽師のように扱われている晴明だが、その名が知られるようになるのは、晴明を説話の登場人物として扱った『大鏡』や『今昔物語集』が出た12世紀前半、すなわち晴明の死から100年後である。11世紀後半から12世紀後半にかけて陰陽道といえば「賀茂氏」と認識される時代が長く続いた。13世紀(鎌倉時代)に入るとようやく『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』などに晴明の活躍が記されるようになる。
☆『大鏡』によれば花山天皇(在位984-986)が帝位を捨てて出家しようとした時、晴明は天文を見てそれを察知し、式神(十二天将)を使って朝廷に急報しようとしたが、その時天皇はすでに寺に向かっており間に合わなかった。
☆『今昔物語集』によれば①仁和寺で公卿達に陰陽道の技でカエルを殺してみせるようにせがまれ、術を用いて手を触れずにカエルを真平らに潰した。②晴明の家では式神を家事に使っており、人もいないのに勝手に門が開閉した。
☆『宇治拾遺物語』によれば①晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。②藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時道長が法成寺に入るのを止めようとした。道長が晴明に占わせると、晴明は「呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだ」と告げ、呪いをかけた陰陽師道摩法師を、式神を使って見つけ出し捕らえた。
☆『平家物語』によれば貴船神社に祈願し鬼となった「橋姫」の腕を渡辺綱が切り落とし、播磨守であった晴明が封印した。

☆『簠簋内伝(ホキナイデン)』(別名『金烏玉兎集(キンウギョクトシュウ)』):陰陽道の経典となる秘伝書。晴明が著者に仮託されている。Cf.「簠(竹甫皿)簋(竹艮皿)」は、古代中国で用いられた祭器の名称。Cf. 「金烏」は太陽に棲む三本足の金の烏であり、太陽を象徴する霊鳥。「玉兎」は月に棲むウサギで、月を象徴する。これらは気の循環を知り、日月の運行によって占う陰陽師の秘伝書であることを示す。

☆人形浄瑠璃・歌舞伎 『蘆屋道満大内鑑』 (アシヤドウマンオオウチカガミ)(通称「葛の葉」)
朱雀天皇(在位930-946)の御代、天文博士の「加茂保憲」が急死し、陰陽道の奥義書『金烏玉兎集』を誰が継ぐかをめぐって争いが起こり、高弟にあたる「安倍保名」と「蘆屋道満」も巻き込まれる。そのうちに同書が盗まれる事件が起き、保憲の娘で安倍保名の恋人である「榊の前」がこの争いを苦に自害。保名は悲嘆のあまり気がふれてしまい、形見の小袖をまとい「榊の前」の幻を追って徘徊する。信太森(シノダノモリ)に至った保名は、「榊の前」と瓜二つの妹「葛の葉」に出会い、正気に戻る。保名は、信太森の中で石川悪右衛門に追われていた白狐を助けるがその際に重傷を負う。その時に介抱してくれたのが「葛の葉」で、二人は夫婦となり男児(安倍童子、のちの安倍晴明)に恵まれて幸せに暮らしていた。ところが童子が五歳になった折、「葛の葉」は自らの正体が本物の「葛の葉」ではなくかつて保名に救われた白狐であると明かす。全てを明かした白狐は、童子を保名に託し断腸の思いで信太森へ帰って行った。去り際に障子へ「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」という和歌を書き残した。Cf. 安倍清明の父を「安倍保名」、母を「葛の葉」という狐とする作品は数多く存在する。

★徽子(キシorヨシコ)女王(929-985)は平安時代中期の歌人。醍醐天皇の皇孫。朱雀朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御(サイグウノニョウゴ)と称された。三十六歌仙の1人。

★源 博雅(ミナモト ノ ヒロマサ)(918-980)は平安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の第一皇子の長男。官位は従三位。管絃の名手。藤原実資からは「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物(シレモノ)なり」と評されている。また酒豪であったという。
☆逸話①960年のいわゆる「天徳四年内裏歌合」に講師として参加、和歌を詠ずる役であったが、天皇の前で緊張し、出されていた歌題とは異なる歌を読んでしまうという失敗をした。②朱雀門の鬼から名笛「葉二(ハフタツ)」を得、琵琶の名器「玄象(ゲンジョウ)」を羅城門から探し出し、逢坂の蝉丸のもとに3年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉(リュウセン)」「啄木(タクボク)」を伝授される。(『今昔物語』)③ある日、博雅(ヒロマサ)宅に盗人が入った。博雅が床下に隠れていると、盗人は次々と家中の物を盗み出してゆく。博雅が落ち着き払って床下で笛を吹き出すと、盗人は感じ入って盗んだ物をみな返し、家から出て行ったという。


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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(続):『精神現象学』は「認識論的序説」と同時に「歴史哲学」だ!「感覚」・「知覚」・「悟性」と個別性・特殊性・普遍性!

2024-04-29 13:46:18 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(続)(90-92頁)
(14)-5 『精神現象学』は「認識論的序説」と同時に「歴史哲学」だ!
★ヘーゲル『精神現象学』はがんらい「認識論的序説」だが同時に「歴史哲学」たる意味をもっている。(90頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の中で次のように言う。「《意識がこの道程において遍歴する諸形態の系列》は、むしろ《意識自身が学に到るまでに必要な教養の詳細な委曲をつくした歴史》である・・・・」(90頁)
☆あるいはへーゲルは言う。「《意識》は《一般的精神》と《その個別性または感覚的意識》との間に媒語として《全体にまで自己を秩序づける精神的生命としての意識形態の体系》をもっている。しかして《この体系》がこの書(『精神現象学』)において考察されるところのものであり、また《世界歴史》としてその対象的定在をもつものである。」(90頁)

(14)-5-2 (A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけでない!
★ (A)「意識」(「対象意識」)の段階ではまだ「歴史哲学」たる意味は十分には明瞭ではない。(Cf. (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)だが、「歴史哲学」たる規定は『精神現象学』の全体を通ずるのであるから、この(A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけではない。(90-91頁)
☆まず(A)「意識」(「対象意識」)が「最も自然的な意識」であるという点から、古代の認識論が問題になってくる。(91頁)
☆(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)のうち、Ⅰ「感覚」の段階では、パルメニデースとか、プロタゴラスの説が利用される。Ⅱ「知覚」の段階になると、スピノーザの実体観であるとか、ロックの認識論であるとか、ライプニッツの考えであるとかが利用されている。さらにⅢ「悟性」の段階になるとカントの認識論などが活用される。(91頁)

(14)-6 Ⅰ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!
★なお(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」というのは、論理的にいうと「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる。(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)

☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)

☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)

(14)-7 感覚の①「対象」・②「主体」・③「主客体」にそうての議論!
★(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」の段階の議論は、次の3つに分かれる。(92頁)
☆感覚の①「対象」にそうての議論。
☆感覚の②「主体」にそうての議論。
☆感覚の③「主客体」にそうての議論。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」:「力」は「物の内なるもの」だが、その「内なるもの」は「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものである!

2024-04-29 10:22:42 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(88-90頁)
(14)ヘーゲル哲学の根本的な命題:「実体は主体である」!この命題を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ!
★ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「意識」(or「対象意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)

★「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆「物」(Ex. 白墨)は「性質」(Ex. 白い・一定の重さ・一定の比重・味など)をもつ。それらいろんな性質が「属性」だ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
☆「物」は性質をもっている。(Ex. 「この牛は白い」or「この馬は黒い」。)「実体」は直接的には「物」Dingである。(88-89頁)

(14)-2 ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」を証明しようとするなら、「物」が「対象的に存在するもの」ではなくて、「主体」or「自己」or「概念」であることを証明しなくてはならない!
★ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

(14)-3 (A)「意識」(or「対象意識」)の段階Ⅱ「知覚」の段階:「物」がじつは「物」ではなくして「力」である!「力」は「物の内なるもの das Innere 」だが、その「内なるもの das Innere 」は、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであり、かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく!
★「物」が「対象的に存在する」のでなく、「自己」・「主体」・「概念」であることを証明する必要がある。この課題を引き受けるのが(A)「意識」(or「対象意識」)の段階だ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(89頁)
★(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)の中心はⅡ「知覚」、Ⅲ「悟性」のところだ。Ⅱ「知覚」の段階において、「物」がじつは「物」ではなくして「力」であることが証明される。(89頁)
☆「力」は「感覚せられる外的なもの」ではなく、「物の内なるもの das Innere 」である。
☆その「内なるもの das Innere 」は、直接的には「物における内なるもの」だが、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであることが証明される。かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく。(89頁)

(14)-4 「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」!
★ (A)「意識」(「対象意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A)「意識」(「対象意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)

★「概念」という点からいうと(A)「意識」(「対象意識」)Ⅲ「悟性」の段階において、「法則」というものが出てくる。「法則」は「主体としての概念」の「客観的な存在的形式」をとったものだ。(90頁)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論:《序》対象意識・自己意識・絶対知(理性)!「絶対知」とは「主体と客体とが統一づけられる」ことだ!

2024-04-23 11:38:56 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論:《序》対象意識・自己意識・絶対知(理性)!(86-87頁)
(13)「絶対知」とは「主体と客体とが統一づけられる」ことだ!
★「絶対知」とは「絶対の他在のうちにおいて純粋に自己を認識すること」だ。(86頁)
☆それは「主体と客体とが統一づけられる」ことだ。すなわち「主体が客体を認識する」のは、「他者」を認識するのでなく、「自分自身」を認識するのだ。(86頁)

★これは「自然的な意識」の態度と非常に違う。(86頁)
☆「自然的な意識」においては、「対象を知る」こと(対象意識)は「自分とちがったものを知る」ことであり、「自分を知る」こと(自己意識)は「対象とちがったものを知る」ことだ。そこには「対象意識」と「自己意識」との対立がある。(86頁)

★この「対象意識」と「自己意識」が、『精神現象学』本論の(A)「意識」(詳しくいえば対象意識)と(B)「自己意識」だ。そして(C)「理性」が「絶対知」であり、それは「対象意識と自己意識を統一づけた絶対知」である。(86頁)

★ところが『精神現象学』は、そういう「絶対知」を無媒介的に押し出すのではなくて、「自然的意識」を忠実に観察して意識自身をして「絶対知」へと高めてゆかねばならぬという課題を背負ったものだ。(86-87頁)
☆かくて『精神現象学』は、まず(A)「意識」(対象意識)と(B)「自己意識」とが論ぜられる。(87頁)

(13)-2 《参考1 》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:
Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、
Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、
Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界

(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、
B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」

(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
A「観察的理性」、
B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、
C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、

(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、
B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、
C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、

(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、
B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、
C「啓示宗教」、

(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

(13)-3 《参考2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」
1「感覚」、
2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、
3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」

(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」

(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(六)「精神現象学の方法」2「『精神現象学』の方法」(その2):「意識」が新しい「経験」を獲得することは、「新しい対象」が出てくることだ!

2024-04-22 15:51:04 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(六)「精神現象学の方法」2「『精神現象学』の方法」(続)
(12)-2「『精神現象学』の方法」(その2):「意識」が新しい「経験」を獲得することは、「新しい対象」が出てくることだ!(82-84頁)
★「意識」は、自分の「知識」が「対象」に合うかどうかをつねに注意し、「対象」に合わない「知識」を捨て、「対象」に合うように新たな「知識」を得ていく。これが「意識」の「態度」の変化だ。(82頁)
☆「意識」は、「態度」を変えることによって、つまり「対象」に合うように新たな「知識」を得ていくが、これは「意識」が新しい「経験」を獲得するということだ。だから『精神現象学』は「意識経験の学」であると言われる。(82頁)
★この場合、「意識」が「態度」を変えること(すなわち「意識」が「対象」に合うような新たな「知識」を得ること、すなわち「意識」が新しい「経験」を獲得すること)は、「新しい対象」が出てくることでもある。(82頁)
☆これを具体的に言うと、「感覚」は「この」特別の「このもの」を認識するつもりでいる。しかし単なる「このもの」はなく、なにかある「普遍者」(※言葉によって名づけられた一般者)における「このもの」だ。このことに気づけば「意識」はおのずから「感覚」の段階から「知覚」の段階へと移行する。(82頁)
・このように「意識」段階が変わってゆくことによって、「対象」の方でも「このもの」から「物」Ding に変わる。(82頁)

★ところで「知覚」は、「物」を知覚すると考えているが、「物」の真相は「力」であり、「力」はさらに「生命」であり、さらには「自己」である。(82頁)
☆このように考えてゆくと、悟性の「対象意識」(※対象に向かう意識)はなくなって、「自己意識」(※自己についての意識)へと変ってゆく。(82-83頁)
☆「自己意識」という意識の態度になると、意識される相手ももはや「物」ではなく、「生命あるもの」あるいは「他の自己意識」となる。(83頁)

★このように「意識の態度」が変わってゆくにしたがって、「対象」そのものも変わってゆき、つねに「対象」の新しい側面が出てくる。こうして「意識」は自分の「経験」を次第に増してゆく。その意味で『精神現象学』は「意識経験の学」である。(83頁)

(12)-3「『精神現象学』の方法」(その3):「意識の態度」が変わると「対象」も変わってゆくこと(「対象の生成」)は、「意識」自身は自覚せず、観察している「現象学者」だけが自覚している!
★『精神現象学』の「方法」に関する問題③(Cf. ①②、81-82頁):「対象の生成」は観察している「現象学者」だけが自覚する!
「意識の態度」が変わるとともに「対象」も変わってゆくこと、つまり「対象の生成」は、(「感覚」あるいは「知覚」というような)「意識」自身は自覚せず、これらを観察している「現象学者」だけがはっきりと自覚している。一つの「意識」段階はその前の「意識」段階から発生してくるが、これがいかにして発生してきたかは、「現象学者」だけが知っている。(83頁)
☆両「意識」段階、両「対象」の必然的連関(「意識段階間の発生的連関」)は、「哲学的観察者」(「現象学者」)がそとから与えてやらなければならない。これが「『精神現象学』の方法」として、ヘーゲルが第③に強調していることだ。(83頁)

★しかし「意識段階間の発生的連関」以外のことは、すべて「意識」自身が行ってゆく。(83頁)
☆ヘーゲルの方法は「弁証法」であるが、これは「正・反・合というような形式」を内容にそとから押しはめるのではない。「弁証法」は内容そのものに即して考えてゆけば、内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式だ。「弁証法」は決して内容から離れたものでもないし、内容に外から押しつける雛型のようなものでもない。(83-84頁)
Cf.  この点について「意識段階間の発生的連関」に関しては疑惑がないわけでないが、これは著者が後述する。(84頁)
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