陰陽師・安倍晴明の活躍を描いたベストセラー小説「陰陽師」シリーズを原作に、晴明が陰陽師になる前の物語を、原作者・夢枕獏の全面協力のもと完全オリジナルストーリーで映画化。
呪いや祟りから都を守る陰陽師の学び舎であり行政機関でもある「陰陽寮」が重要視されていた平安時代。青年・安倍晴明は天才と呼ばれるほどの呪術の才能をもっていたが、陰陽師になる意欲も興味もない人嫌いの変わり者だった。ある日、彼は貴族の源博雅(ヒロマサ)から、皇族の徽子(ヨシコ)女王を襲う怪奇現象の解明を頼まれる。ともに真相を追う晴明と博雅は、ある「陰陽寮」の学生(ガクショウ)が変死したことをきっかけに、平安京をも巻き込む凶悪な陰謀に巻き込まれていく。
若き日の「安倍晴明」を山崎賢人、「源博雅」を染谷将太、「徽子(ヨシコ)女王」を奈緒が演じる。佐藤嗣麻子が監督・脚本を手がけ、作家・加門七海が呪術監修を担当。
《感想1》「正気の現実」と「催眠・暗示された現実」が相互浸透する。
《感想2》「呪術」は「催眠」・「暗示」にすぎないとの科学的視点に立つ。
★安倍晴明(921-1005)
960年(39歳)天文得業生(トクギョウセイ)(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇(在位946-967)に占いを命ぜられる。出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていた。その後、961年(40歳)以降に「陰陽師」に任じられる。979年(58歳)晴明は皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行い、花山天皇(在位984-986)の信頼を受ける。花山天皇の退位後は、一条天皇(在位986-1011)や藤原道長の信頼を集める。993年(72歳)、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(ミソギ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し正五位上に叙された。また1004年(83歳)、深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(カズケモノ)を与えた。陰陽師として名声を極めた晴明は、位階は従四位下に昇った。
☆安倍晴明をめぐる伝承
今日では平安時代の代表的な陰陽師のように扱われている晴明だが、その名が知られるようになるのは、晴明を説話の登場人物として扱った『大鏡』や『今昔物語集』が出た12世紀前半、すなわち晴明の死から100年後である。11世紀後半から12世紀後半にかけて陰陽道といえば「賀茂氏」と認識される時代が長く続いた。13世紀(鎌倉時代)に入るとようやく『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』などに晴明の活躍が記されるようになる。
☆『大鏡』によれば花山天皇(在位984-986)が帝位を捨てて出家しようとした時、晴明は天文を見てそれを察知し、式神(十二天将)を使って朝廷に急報しようとしたが、その時天皇はすでに寺に向かっており間に合わなかった。
☆『今昔物語集』によれば①仁和寺で公卿達に陰陽道の技でカエルを殺してみせるようにせがまれ、術を用いて手を触れずにカエルを真平らに潰した。②晴明の家では式神を家事に使っており、人もいないのに勝手に門が開閉した。
☆『宇治拾遺物語』によれば①晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。②藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時道長が法成寺に入るのを止めようとした。道長が晴明に占わせると、晴明は「呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだ」と告げ、呪いをかけた陰陽師道摩法師を、式神を使って見つけ出し捕らえた。
☆『平家物語』によれば貴船神社に祈願し鬼となった「橋姫」の腕を渡辺綱が切り落とし、播磨守であった晴明が封印した。
☆『簠簋内伝(ホキナイデン)』(別名『金烏玉兎集(キンウギョクトシュウ)』):陰陽道の経典となる秘伝書。晴明が著者に仮託されている。Cf.「簠(竹甫皿)簋(竹艮皿)」は、古代中国で用いられた祭器の名称。Cf. 「金烏」は太陽に棲む三本足の金の烏であり、太陽を象徴する霊鳥。「玉兎」は月に棲むウサギで、月を象徴する。これらは気の循環を知り、日月の運行によって占う陰陽師の秘伝書であることを示す。
☆人形浄瑠璃・歌舞伎 『蘆屋道満大内鑑』 (アシヤドウマンオオウチカガミ)(通称「葛の葉」)
朱雀天皇(在位930-946)の御代、天文博士の「加茂保憲」が急死し、陰陽道の奥義書『金烏玉兎集』を誰が継ぐかをめぐって争いが起こり、高弟にあたる「安倍保名」と「蘆屋道満」も巻き込まれる。そのうちに同書が盗まれる事件が起き、保憲の娘で安倍保名の恋人である「榊の前」がこの争いを苦に自害。保名は悲嘆のあまり気がふれてしまい、形見の小袖をまとい「榊の前」の幻を追って徘徊する。信太森(シノダノモリ)に至った保名は、「榊の前」と瓜二つの妹「葛の葉」に出会い、正気に戻る。保名は、信太森の中で石川悪右衛門に追われていた白狐を助けるがその際に重傷を負う。その時に介抱してくれたのが「葛の葉」で、二人は夫婦となり男児(安倍童子、のちの安倍晴明)に恵まれて幸せに暮らしていた。ところが童子が五歳になった折、「葛の葉」は自らの正体が本物の「葛の葉」ではなくかつて保名に救われた白狐であると明かす。全てを明かした白狐は、童子を保名に託し断腸の思いで信太森へ帰って行った。去り際に障子へ「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」という和歌を書き残した。Cf. 安倍清明の父を「安倍保名」、母を「葛の葉」という狐とする作品は数多く存在する。
★徽子(キシorヨシコ)女王(929-985)は平安時代中期の歌人。醍醐天皇の皇孫。朱雀朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御(サイグウノニョウゴ)と称された。三十六歌仙の1人。
★源 博雅(ミナモト ノ ヒロマサ)(918-980)は平安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の第一皇子の長男。官位は従三位。管絃の名手。藤原実資からは「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物(シレモノ)なり」と評されている。また酒豪であったという。
☆逸話①960年のいわゆる「天徳四年内裏歌合」に講師として参加、和歌を詠ずる役であったが、天皇の前で緊張し、出されていた歌題とは異なる歌を読んでしまうという失敗をした。②朱雀門の鬼から名笛「葉二(ハフタツ)」を得、琵琶の名器「玄象(ゲンジョウ)」を羅城門から探し出し、逢坂の蝉丸のもとに3年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉(リュウセン)」「啄木(タクボク)」を伝授される。(『今昔物語』)③ある日、博雅(ヒロマサ)宅に盗人が入った。博雅が床下に隠れていると、盗人は次々と家中の物を盗み出してゆく。博雅が落ち着き払って床下で笛を吹き出すと、盗人は感じ入って盗んだ物をみな返し、家から出て行ったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2a/d319a47bbc7e20de16729c84210ac4c3.jpg)
呪いや祟りから都を守る陰陽師の学び舎であり行政機関でもある「陰陽寮」が重要視されていた平安時代。青年・安倍晴明は天才と呼ばれるほどの呪術の才能をもっていたが、陰陽師になる意欲も興味もない人嫌いの変わり者だった。ある日、彼は貴族の源博雅(ヒロマサ)から、皇族の徽子(ヨシコ)女王を襲う怪奇現象の解明を頼まれる。ともに真相を追う晴明と博雅は、ある「陰陽寮」の学生(ガクショウ)が変死したことをきっかけに、平安京をも巻き込む凶悪な陰謀に巻き込まれていく。
若き日の「安倍晴明」を山崎賢人、「源博雅」を染谷将太、「徽子(ヨシコ)女王」を奈緒が演じる。佐藤嗣麻子が監督・脚本を手がけ、作家・加門七海が呪術監修を担当。
《感想1》「正気の現実」と「催眠・暗示された現実」が相互浸透する。
《感想2》「呪術」は「催眠」・「暗示」にすぎないとの科学的視点に立つ。
★安倍晴明(921-1005)
960年(39歳)天文得業生(トクギョウセイ)(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇(在位946-967)に占いを命ぜられる。出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていた。その後、961年(40歳)以降に「陰陽師」に任じられる。979年(58歳)晴明は皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行い、花山天皇(在位984-986)の信頼を受ける。花山天皇の退位後は、一条天皇(在位986-1011)や藤原道長の信頼を集める。993年(72歳)、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(ミソギ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し正五位上に叙された。また1004年(83歳)、深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(カズケモノ)を与えた。陰陽師として名声を極めた晴明は、位階は従四位下に昇った。
☆安倍晴明をめぐる伝承
今日では平安時代の代表的な陰陽師のように扱われている晴明だが、その名が知られるようになるのは、晴明を説話の登場人物として扱った『大鏡』や『今昔物語集』が出た12世紀前半、すなわち晴明の死から100年後である。11世紀後半から12世紀後半にかけて陰陽道といえば「賀茂氏」と認識される時代が長く続いた。13世紀(鎌倉時代)に入るとようやく『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』などに晴明の活躍が記されるようになる。
☆『大鏡』によれば花山天皇(在位984-986)が帝位を捨てて出家しようとした時、晴明は天文を見てそれを察知し、式神(十二天将)を使って朝廷に急報しようとしたが、その時天皇はすでに寺に向かっており間に合わなかった。
☆『今昔物語集』によれば①仁和寺で公卿達に陰陽道の技でカエルを殺してみせるようにせがまれ、術を用いて手を触れずにカエルを真平らに潰した。②晴明の家では式神を家事に使っており、人もいないのに勝手に門が開閉した。
☆『宇治拾遺物語』によれば①晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。②藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時道長が法成寺に入るのを止めようとした。道長が晴明に占わせると、晴明は「呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだ」と告げ、呪いをかけた陰陽師道摩法師を、式神を使って見つけ出し捕らえた。
☆『平家物語』によれば貴船神社に祈願し鬼となった「橋姫」の腕を渡辺綱が切り落とし、播磨守であった晴明が封印した。
☆『簠簋内伝(ホキナイデン)』(別名『金烏玉兎集(キンウギョクトシュウ)』):陰陽道の経典となる秘伝書。晴明が著者に仮託されている。Cf.「簠(竹甫皿)簋(竹艮皿)」は、古代中国で用いられた祭器の名称。Cf. 「金烏」は太陽に棲む三本足の金の烏であり、太陽を象徴する霊鳥。「玉兎」は月に棲むウサギで、月を象徴する。これらは気の循環を知り、日月の運行によって占う陰陽師の秘伝書であることを示す。
☆人形浄瑠璃・歌舞伎 『蘆屋道満大内鑑』 (アシヤドウマンオオウチカガミ)(通称「葛の葉」)
朱雀天皇(在位930-946)の御代、天文博士の「加茂保憲」が急死し、陰陽道の奥義書『金烏玉兎集』を誰が継ぐかをめぐって争いが起こり、高弟にあたる「安倍保名」と「蘆屋道満」も巻き込まれる。そのうちに同書が盗まれる事件が起き、保憲の娘で安倍保名の恋人である「榊の前」がこの争いを苦に自害。保名は悲嘆のあまり気がふれてしまい、形見の小袖をまとい「榊の前」の幻を追って徘徊する。信太森(シノダノモリ)に至った保名は、「榊の前」と瓜二つの妹「葛の葉」に出会い、正気に戻る。保名は、信太森の中で石川悪右衛門に追われていた白狐を助けるがその際に重傷を負う。その時に介抱してくれたのが「葛の葉」で、二人は夫婦となり男児(安倍童子、のちの安倍晴明)に恵まれて幸せに暮らしていた。ところが童子が五歳になった折、「葛の葉」は自らの正体が本物の「葛の葉」ではなくかつて保名に救われた白狐であると明かす。全てを明かした白狐は、童子を保名に託し断腸の思いで信太森へ帰って行った。去り際に障子へ「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」という和歌を書き残した。Cf. 安倍清明の父を「安倍保名」、母を「葛の葉」という狐とする作品は数多く存在する。
★徽子(キシorヨシコ)女王(929-985)は平安時代中期の歌人。醍醐天皇の皇孫。朱雀朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御(サイグウノニョウゴ)と称された。三十六歌仙の1人。
★源 博雅(ミナモト ノ ヒロマサ)(918-980)は平安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の第一皇子の長男。官位は従三位。管絃の名手。藤原実資からは「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物(シレモノ)なり」と評されている。また酒豪であったという。
☆逸話①960年のいわゆる「天徳四年内裏歌合」に講師として参加、和歌を詠ずる役であったが、天皇の前で緊張し、出されていた歌題とは異なる歌を読んでしまうという失敗をした。②朱雀門の鬼から名笛「葉二(ハフタツ)」を得、琵琶の名器「玄象(ゲンジョウ)」を羅城門から探し出し、逢坂の蝉丸のもとに3年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉(リュウセン)」「啄木(タクボク)」を伝授される。(『今昔物語』)③ある日、博雅(ヒロマサ)宅に盗人が入った。博雅が床下に隠れていると、盗人は次々と家中の物を盗み出してゆく。博雅が落ち着き払って床下で笛を吹き出すと、盗人は感じ入って盗んだ物をみな返し、家から出て行ったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2a/d319a47bbc7e20de16729c84210ac4c3.jpg)