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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(92) 百田氏の誤り:①『真相』以前に国民は知っていた!②「軍部」への嫌悪!③「政府」に《騙されていた》!④GHQのCIEが制作!

2021-08-31 14:14:35 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)  

(92)百田氏の誤り①:ラジオ放送(NHK)『真相はこうだ』(以下『真相』)が《始まる以前》から国民はすでに日本軍の残虐行為や、戦争中のプロパガンダの嘘を知らされていた! (357 -358頁) 
K  既に述べたようにWGIPの施策のうちラジオ放送(NHK)については、『真相はこうだ』1945/12/9-1946/2/10、『真相はこうだ質問箱』1946/1/18-2/8、『真相箱』1946/2/17-11/29が放送された。(355頁)
K-2 ラジオ放送『真相はこうだ』について、百田尚樹『日本国紀』は次のように述べる。「この番組は大東亜戦争中の政府や軍の腐敗・非道を暴くドキュメンタリーをドラマ風に描いたものだった。国民は初めて知らされる『真相』に驚くと同時に政府や軍部を激しく憎んだ。しかしこの番組は実はGHQがすべて台本を書いており(そのことは国民には知らされていなかった)、放送される内容も占領政策に都合のいいもので、真実でないものも多かった。すべては日本人を『国民』対『軍部』という対立構図の中に組み入れるための仕掛けだったのだ。また『太平洋戦争は中国をはじめとするアジアに対する侵略戦争であった』ということを徹底的に刷り込むためのものでもあった。」(百田424頁)
K-2-2 百田氏の誤り①:百田氏は「国民は初めて知らされる『真相』に驚く」と言うが、これは誤りだ。ラジオ放送『真相はこうだ』(1945/12/9~)が始まるまでに、終戦から4か月近く経っていた。国民はすでに政府と新聞によって日本軍の残虐行為や、戦争中のプロパガンダの嘘を知らされていた。

(92)-2 百田氏の誤り②:『真相』によって「初めて」、「軍部」に対する《嫌悪と批判》が示されるようになったわけでない!(359頁)
K-2-3  百田氏の誤り②:ラジオ放送『真相はこうだ』(1945/12/9~)によって「初めて」、「軍部」に対する嫌悪と批判が示されるようになったわけでない。終戦直後から(a)軍事物資を持ち出して郷里に帰る軍人たち(※《兵》ではなく《職業軍人》)を国民は見ている。「警視庁警備課」がまとめた「街の声」(1945/9/1/15)にそのような多くの指摘がある。(b)陸軍省など軍部の関連省庁で書類が燃やされる隠蔽工作を、多くの市民が目撃している。(359頁)

(92)-3 百田氏の誤り③:『真相』によって「初めて」、「政府」に《騙されていた》と国民が知ったわけでない!(359頁)
K-2-4  百田氏の誤り③:政府に《騙されていた》と、『真相はこうだ』(1945/12/9~)によって国民が「初めて」知ったわけでない。国民自身が、とっくに知っていた。すなわち、(ア)終戦直前まで「本土決戦」を叫び「一億総玉砕」を唱えていた政府が、突然手のひらを返し、「終戦の詔勅」を発するに至ったこと。国民は《騙されていた》!(イ)「特殊爆弾」を使用するも「被害軽微」との政府の発表が嘘で、原子爆弾の被害は甚大・残虐であったこと。国民は《騙されていた》!(ウ) 東久邇宮(ヒガシクニノミヤ)首相の「声明」発表により、国民はこれまで隠されてきた軍の敗退、軍事力の払底が知らされたこと。国民は《騙されていた》と知った!《参考》東久邇内閣「戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説」(1945/9/5)、後述。 (エ)そして何よりも《復員兵たち》が自分たちの惨状、戦地での体験(Ex. 侵略戦争であったこと、日本軍の残虐行為)を語り始めていた。(359頁)

(92)-4 百田氏の誤り④:ラジオ放送『真相はこうだ』をGHQのCIE(民間情報教育局)が制作していることは明示されていた!(361頁)
K-2-5 百田氏の誤り④:ラジオ放送『真相はこうだ』について百田氏は「この番組は実はGHQがすべて台本を書いており(そのことは国民には知らされていなかった)」と述べているが、これは全くの誤りor嘘だ。GHQのCIE(民間情報教育局)が制作していることは『真相はこうだ』で明示されていた。(361頁)

《参考》東久邇内閣(昭和20.8.17〜20.10.9):「戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説」(1945/9/5)
 稔彦、先に組閣の大命を拝し、国家非常の秋に方り重責を負うことになりました、真に恐懼感激に堪えませぬ
 茲に第八十八回帝国議会に臨み、諸君に相見え、今次終戦に至る経緯の概要を述べまして、現下困難なる時局に処する政府の所信を披瀝しますことは、私の最も厳粛なる責務であると考えます・・・・
 諸君、先に畏くも大詔を拝し、帝国は米英ソ支四国の共同宣言を受諾し、大東亜戦争は茲に非常の措置を以て其の局を結ぶこととなりました、征戦四年、顧みて萬感交〃至るを禁じ得ませぬ、併しながら既に大詔は下ったのであります、我々臣子と致しましては飽くまでも承詔必謹、大詔の御精神の御諭しを体し、大御心に副い奉り、聊かも之に外れることなく、挙国一家、整斎たる秩序の下に新たなる事態に処し、大道を誤ることなき努力に生きなければならないと思います・・・・
 征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、冱寒を凌ぎ、炎熱を冒し、具さに辛苦を嘗めて勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて其の職務に盡瘁し、銃後国民は協心戮力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は其の総力を挙げて戦争目的の完遂に傾けて参りました、固より其の方法に於て過ちを犯し、適切を欠いたものも少くありませぬ、其の努力に於て悉く適当であったとは言い得ざる憾みもあります、併しながら凡ゆる困苦欠乏に耐えて参りました一億国民の此の敢闘の意力、此の盡忠の精神こそは、仮令戦いに敗れたりとは言え永く記憶せらるべき民族の底力であります
 然るにガダルカナル島よりの後退以来、戦勢は必ずしも好転せず、殊にマリアナ諸島の喪失以降、連合国軍の進攻は頓に其の速度を加うると共に、我が本土に対する空襲は次第に激化し、其の惨害は日を逐うて増大して来ました、既に海上輸送力の低下に依って相当の影響を受けて居りました軍需生産は、斯くの如き戦局の、一段の急迫と共に、本年の春頃よりは愈〃至難を加え、一方戦争の長期化に伴う民力の疲弊亦漸く顕著ならんとし、終戦前の状況に於きましては、近代戦の長期維持は逐次困難を加え、憂慮すべき状況になったのであります、茲に其の概要を述べますれば、即ち本年五月頃の状況に於きまして、汽船輸送力は、船舶喪失量の増大と、数次に亙る船腹の南方抽出等に依りまして、開戦当初の使用船腹の概ね四分の一程度を保持するに過ぎませぬでした、而も液体燃料の不足と、連合国軍の妨害激化等に依りまして、運航能率は著しく阻碍せられ、殊に沖縄戦の終末以来、連合国軍航空機の威力の増大に伴い大陸との交通すらも至難の状態となり、一方機帆船の輸送力も燃料不足と連合国軍の妨害に因って急激に減少し、新船の建造及び損傷船舶の補修亦意の如く進捗せず、海上輸送力の斯くの如き機能の低下は、戦力の維持に甚大なる影響を與うるに至りました
 鉄道輸送力の方面に於きましても、車両、施設等の疲弊に加えて、相次ぐ空襲に依り逐次に其の機能を低下し、動もすれば一貫性を失う傾向すらありまして、全体としての輸送力は本年中期以降に於きましては昨年度に比し、各般の努力に拘らず尚お二分の一以下に低減するを免れないものと予想せらるヽに至りました
 斯くの如き輸送力の激減に伴いまして、石炭其の他工業基礎原料資材の供給は著しく円滑を欠くのみならず、南方還送物資の取得も殆ど不可能となり、之に加えて空襲に依る生産施設の被害の増大と作業能率の低下は、各産業に深刻なる影響を與え、工業生産は全面的に下向の一途を辿り、軍官民の努力にも拘らず是が速かなる改善は望み難き状況となったのであります
 鉄鋼の生産は開戦当初に比し約四分の一以下に低下し、鉄鋼に依存する鋼船の新造補給も爾後多くを期待し得ざる状況となりました、又所在資材の活用戦力化も、小運送力の低下、配炭の不円滑等の事情に依り、減退の一路を辿るようになりました
 石炭に付きましても、出炭実績は益〃悪化するに加えて、陸海輸送力の大幅低下に依り、供給は逐次減少し、是が為め中枢地帯の工業生産は全面的に下向き、本年中期以降是等の地帯に於きましては相当部分運転休止を見るが如き由々しき事態の発生をすら予想せらるヽに至ったのであります
 又大陸工業塩の還送減少に伴い、ソーダ工業を基礎とする化学工業生産は加速度的に低下するの已むなきに至り、是が為め本年中期以降に於きましては、金属生産は固より、爆薬等の供給にも支障を生ずる虞なしとせざる危機に瀕したのであります
 液体燃料に於きましても、既に日満支の自給力に依存するの外なき状況にありましたが、而も貯油の払底と拡充の困難に伴い、アルコール、松根油等の生産増強に異常なる努力を傾けましたにも拘らず、航空機燃料等の減少は、遠からざる将来に於て戦争の遂行に重大なる影響を及ぼさざるを得ない状況に立至ったのであります、一方航空機を中心とする近代戦備の生産も亦空襲の激化に因る交通及び生産施設の破壊と、各種材料、燃料等の不足に因り、従来方式に依る大量生産の遂行は遠からず至難を予想られるヽに至ったのであります
 斯くの如く我が国力は急速に消耗し、本年五、六月の交に於きましては、近代戦を続行すべき物的戦力の基盤は極度に弱められ、軍官民相協力して凡ゆる対策を講じ、国力の恢復に異常なる努力を捧げましたが、近き将来に於て物的国力の徹底的転換を図ることは、漸く至難なるものあるを思わしむるに至りました、殊に沖縄戦の終末以来形勢は全く重大化するに至ったのであります
 加うるに長期に亙る戦争の結果、国民生活、特に食料の面に於ける苦難は益〃増加すると共に、インフレーションは逐次一般に浸潤せんとし、戦力の現況は戦争の前途に対し深甚なる考慮を要するに至りました
 此の間我が特別攻撃隊は悲愴極りなき盡忠の精神を発揮して赫々たる偉勲を樹て、硫黄島、フィリピン、沖縄島等に於ける陸海の将兵亦一丸となって奮戦力闘、克く進攻の連合国軍に甚大なる出血を強要する等、我が陸海の精鋭は大東亜全戦域に亙り、一死以て皇国防護の大義に生くる伝統の勇武を発揮し、一億国民亦来るべき本土決戦に完璧の防衛態勢を以て、一挙に上陸連合国軍を撃滅すべく軒昂たる意気を示したのであります、併しながら長期に亙る数々の決戦に於て、其の都度連合国軍に至大なる損害を與えたりとは言え、此の間皇軍の被りました創痍も亦決して少い数字ではないのであります、御手許に配付致しました表に依って御覧の如く、海軍力および航空勢力の消耗は甚大なるものがありました、何れも戦争遂行上重大なる影響を與え、而も前述の如く国内生産の現状に於きましては、是が補充は意の如くならず、又陸上兵力に於きましては、大東亜各地に亙り作戦を続けて来たのでありますが、其の装備は漸く十全を期し難く、終戦時に於ける皇軍の物的戦力は逐次低下するの已むなきに至りました、之に対し厖大なる資源と工業力とを有する連合国側の軍需補給力は愈〃増大し、特に欧州に於けるドイツの屈伏後は、戦勝の余勢を駆って全戦力を帝国の周辺に集中し来り、物的方面に於ける彼我戦力の相対的比率は、急速に均衡を破るに至りました、国力の現状は以上の如く、陸海の戦備も亦斯くの如く低下を見るに至りましては、徹底的勝利の確信も理論上に於ては遺憾ながら其の根拠を減少し、戦争の継続は正に容易ならざる段階に到達したのであります
 一面連合国航空機に依る我が本土の空襲は愈〃甚だしく、大都市は申すまでもなく、中小の諸都市は次々に壊滅し、戦災に因り家屋の焼失せるものは二百二十萬に達し、負傷者は数十萬を以て数え、戦災者は一千萬に垂んとするの惨状を呈しました、而も八月に入りまして連合国軍は新たに原子爆弾を使用するに至り、其の攻撃を受けました広島、長崎両市の惨状は、眼も当てられぬ悲惨なものであります、其の残酷なる非人道的なる災禍の及ぶ所、延いては我が民族の滅亡を来し、世界の人類の文明も為に破壊に陥るを憂えしむるに至りました、加うるにソ連は突如として我が国に宣戦し、国際情勢亦最悪の事態に到達したのであります・・・・
 組閣の大命を拝するに当りまして、畏くも 天皇陛下に於かせられましては私に対し、「特に憲法を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持に努め時局の収拾に努力せよ」との有難き御言葉を賜わりました、私は此の有難き 大御心に副い奉ることを唯一の念願として、之を施政の根本基調として、粉骨砕身の努力を致し、国民の先頭に立ち平和的新日本の建設の礎たらんことを期して居ります、国民諸君も亦畏き 聖慮の存する所を再思三省され、心機一転、溌刺清新の意気を以て、新たなる御代の隆昌に向って勇往邁進して戴きたいのであります
 是が為には特に溌刺たる言論と公正なる與論とに依って、同胞の間に溌刺たる建設の機運の湧上ることが、先ず以て最も重要なりと信ずるのであります、私は組閣の初めに当りまして建設的なる言論の洞開を促し、健全なる結社の自由を認めたき旨意見を表明する所があったのでありますが、政府と致しましては、言論の尊重、結社の自由に付きましては、最近の機会に於きまして言論、出版、集会、結社等臨時取締法を撤廃致したき意向であり、既にそれ等の取締を緩和致しましたことは先に発表致しました通りであります、苟くも国民の能動的なる意欲を冷却せしむるが如きことなきよう、今後とも十分留意して参る所存であります、特に帝国議会は、国民代表の機関として名実共に真に民意を公正に反映せしめ得る如く、憲法の精神に則り正しき機能を発揮せられんことを衷心より希望するものであります
 戦争の終結に伴いまして、軍事上、産業上の復員が行われ、今後多数の同胞は各〃其の家郷に、或は又旧の職場に復帰して参ります、又大東亜各地に配備せられて居ります多数軍隊の内地帰還は真に容易のことではありませぬ、相当の年月を要する処があるのでありますが、是等の任務を解かれた軍人及び産業要員の就職、授産等の援護厚生に付きましては、政府と致しましても固より萬全の準備を盡して遺憾なきを期する所存でありますが、同胞諸君に於かれましても、傷き破れた是等の人々に深き思いやりを致され、温き同胞愛を以て抱擁して戴きたいのであります、特に特別攻撃隊の勇士を初め、壮烈護国の華と散られました幾多の将士の盡忠に対しましては、私は諸君と共に謹んで敬弔の誠を捧げます、又戦陣に傷き病んだ将兵各位に対し深甚なる同情の意を表し、其の速かなる再起を衷心より希望して居るのであります、政府と致しましては軍人遺族並に傷痍軍人の上に寄せさせ給う有難き 大御心を体し、其の援護厚生に今後特段の努力を傾け施政の萬全を期したき考えであります
 又第一線の将兵と変ることなき危険を冒し、幾多の尊き殉職者を出しつヽも、敢然として長期に亙り海上輸送の完遂に撓まざる努力を示して参りました船員諸君に対し、更に空爆下一身の安危を顧みず増産増送の職場を守り抜き、遂に職域に殉じた同胞諸君並に皇国の大義に生くる行学一致の学徒動員に、真に目覚ましき働きを示しました学徒諸君に対しましては、私は諸君と共に心から敬意を表しますると共に、空爆に因り非命に斃れ、家を失い、職を離れた同胞諸君に対し深甚なる同情の意を表するものであります、是等殉職者、戦災者の援護に付きましては、今次の 御詔書に於きましても洵に有難き 御聖慮を拝して居るのでありまして、政府は今後とも全力を傾注致したき考えであります、戦災者諸君に於かれましても、悲運に屈することなく、速かに溌刺たる意気を以て建設に奮起して戴きたいのであります ・・・・
 畏くも 詔書には「朕は常に爾臣民と共に在り」と御示しになって居ります、此の有難き 大御心に感奮し、我々は愈愈決意を新たにして、将来の平和的文化的日本の建設に向って邁進せねばならぬと信じます、全国民が一つ心に融和し、挙国一家、力を戮せて、不断の精進努力に徹しますならば、私は帝国の前途は軈て洋々として開け輝くことを固く信じて疑わぬものであります、斯くしてこそ初めて、宸襟を安んじ奉り、戦線銃後に散華殉職せられましたる幾十萬の忠魂に応え、英霊を慰め得るものと固く信じます
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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(91) 百田氏の誤り:「WGIP」の施策のうち「ラジオ」について言及するのに、「新聞」について全く触れない!

2021-08-30 18:17:37 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)  

(91)百田氏の誤り:「WGIP」の施策について「ラジオ」について言及するのに、「新聞」について全く触れない!(355 -356頁) 
J 百田尚樹『日本国紀』は「GHQの『WGIP』はラジオ放送によっても行われた」(百田423頁)と述べるが、ところが「新聞」について、百田氏は全く触れない。これは誤りだ。(355頁)
Cf. 「WGIP」(War Guilt Information Program)は、浮世氏の逐語的訳では「戦争責任を伝える計画」だが、百田氏の(江藤淳に従った)意訳によれば「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」だ。(百田421頁)
J-2  WGIPの施策は、先述したGHQ による「検閲」のほかには、「ラジオ放送と新聞だけ」だった。(355頁)
※なお浮世氏が「WGIPは『検閲』・・・・とは関係ありません」(355頁)と述べるのは、思い違いだ。GHQ による「検閲」については「浮世350-354頁」参照。 
J-2-3  WGIPの施策のうちラジオ放送については、『真相はこうだ』1945/12/9-1946/2/10、『真相はこうだ質問箱』1946/1/18-2/8、『真相箱』1946/2/17-11/29が放送された。(355頁)(※ラジオ放送『真相はこうだ』等については次節!)

(91)-2  WGIPの施策のうち「新聞」で行った『太平洋戦争史』の連載は、「強圧的」でなかった!(355 -356頁)
J-3  WGIPの施策のうち「新聞」では『太平洋戦争史』が連載された。連載期間は1945/12/8-12/17だ。(355頁)
J-3-2  この『太平洋戦争史』の連載はわずか10日間だ。CIE(民間情報教育局)が進めたWGIP(戦争責任を伝える計画)は「洗脳」というようなものでない。(356頁)
J-3-3  またCIEは「新聞などの言論機関に対して、強圧的な活動もしていない。」(356頁)
J-3-3-2  CIEはそもそも矛盾を抱えていた。メディアを利用した情報発信には当然、CIEの意に沿った報道をメディアに行わせる必要がある。しかしこれを強制することは、アメリカが日本から除去しようとした軍国主義に近く、移植しようとした民主主義に反する。(356頁)
《感想1》ソ連が日本を占領すれば《占領権力》の意に沿った報道をメディアに行わせるため「強圧的な活動」を平然と行ったろう。独裁国家のソ連が日本を占領していたら、日本は「奴隷化」され「ソ連の衛星国」となり、秘密警察と密告の陰鬱な社会になったはずだ。軍国主義者とみなされた者も、またソ連=《占領権力》への反対者も即座に逮捕され収容所に送られ、必要なら処刑されたろう。ソ連には《法的手続きの保障》など全くない。
《感想1-2》これに比較すれば《占領権力》が米国だったことは、日本国民にとって歴史上の僥倖だった。米国の「民主主義の理念」が米国民に浸透し、占領政策の遂行者自身が「民主主義」を守ろうとした。

J-3-3-3  CIE(民間情報教育局)局長のケネス・ダイクは次のように述べている。「我々は、サイドラインを引き、ゴールを設け、ボールをトスする。彼ら[日本]がそのボールを拾い上げ、それを持って走る。彼らがボールを落としたり、倒れたりしたときには助ける。しかし我々は特にプレーに加わるわけではない。」(356頁)
J-3-3-4  CIE(民間情報教育局)は『太平洋戦争史』の掲載を各新聞社に強制した。しかし編集は自由でCIEが提供した『太平洋戦争史』のうち、朝日は17%、毎日は12%、読売は19%を削除した。「マニラの虐殺写真」、「軍国主義者への非難」などが削除された。(356-7頁)
J-3-3-5 これらに対して、CIEは注文をつけたり、書き換えを強要したり、指導、処罰したりしていない。(357頁)

J-3-4 CIEの進めたWGIPの「メディア統制」はこのようなものだった。書き換えの強要、出版禁止命令、メディアへの弾圧、プロパガンダによる「洗脳の深さ」など、戦前の日本の言論統制のほうがはるかに「恐ろしい」はずだが、『日本国紀』は一切言及しない。(357頁) 
《感想2》百田尚樹『日本国紀』はWGIP(戦争責任を伝える計画)について、「これは日本人の精神を粉々にし、二度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものであった」(百田421頁)と言う。しかしこれは主観的な《陰謀論》に基づく見解にすぎない。(Cf. 浮世346-348頁)
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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(90)-4 百田氏の誤り⑤:「GHQによる検閲・出版禁止」はポツダム宣言の「違反」でなく、「遵守」・「執行」である!

2021-08-29 13:52:04 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)  

(90)-4 「GHQによる検閲・出版禁止」はポツダム宣言の「違反」でなく、「遵守」・「執行」である!(350-352頁) 
I-7 百田尚樹『日本国紀』は「[GHQによる]検閲や焚書を含む、これらの言論弾圧は『ポツダム宣言』に違反する行為であった。『ポツダム宣言』の第十項には『言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権は確立されるべきである』と記されている。つまりGHQは明白な『ポツダム宣言』違反を犯しているにもかかわらず、当時の日本人は一言の抵抗すらできなかった。」(百田423頁) 
I-7-2 百田氏の誤り⑤:「GHQによる検閲・出版禁止」は、「言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権」の阻害要因の「除去」だった。ポツダム宣言は「言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権は確立されるべきである」として、「GHQによる検閲・出版禁止」を要請している。(354頁) 
I-7-2-2 「GHQによる検閲・出版禁止」はポツダム宣言の「違反」でなく、「遵守」・「執行」である。(354頁)

《参考》ポツダム宣言十条「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」
《参考》降伏文書調印に関する詔書(1945/9/2)「朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各国政府ノ首班カポツダムニ於テ発シ後ニ蘇聯邦カ参加シタル宣言ノ掲フル諸条項ヲ受諾シ、帝国政府及大本営ニ対シ、聯合国最高司令官カ提示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且聯合国最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ命シタリ 朕ハ朕カ臣民ニ対シ、敵対行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ条項並ニ帝国政府及大本営ノ発スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス 御名御璽 昭和二十年九月二日 (東久邇宮内閣閣僚全員連署)」

《感想1》かつての「鬼畜米英」は日本人を「奴隷化」しなかった。多くの日本国民が安堵したことは明らかだ。だから《マッカーサー人気》も生じた。
《感想1-2》もしソ連が日本を占領していたら、日本は「奴隷化」されていたろう。秘密警察と密告の陰鬱な社会になったろう。米軍による日本占領は、ソ連占領に比べれば、日本国民にとって歴史の《僥倖》である。

《感想2》日本国民にとって不幸だったことは、戦前、国家(大日本帝国)が「言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権」の阻害・弾圧を行ったことだ。
《感想2-2》それら阻害要因を、《占領権力》であるGHQ が「除去」することとなった。なぜなら、大日本帝国は、連合国との戦争に敗北し降伏したからだ。降伏後は、連合国の《占領権力》が日本を統治する。
《感想2-3》「大日本帝国憲法」第29条は「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と規定する。つまり「言論著作印行集会及結社ノ自由」は「法律ノ範囲内ニ於テ」保障されるに過ぎない。他の基本的人権や自由についても同様だ。(Cf. 第28条日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス)それら基本的人権や自由は、「大日本帝国憲法」の下ではいくらでも「法律」によって制限できる。

《感想3》「ポツダム宣言」第六条は「吾等[連合国]ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」と述べる。
《感想3-2》日本(国家)は戦前、満州・中国・朝鮮など他国にまで、軍事力(およびその威嚇)によって領土を拡張したor拡張しようとしたが、結局、国民にとって賢明でなかった。諸国家or諸民族の友好・同意のもとで、国際問題は解決されるべきだ。
《感想3-3》戦前の日本政府について「無責任ナル軍国主義」とのポツダム宣言の指摘は残念ながら、当たっている。「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタ」としか言いようがない。
《感想3-4》「太平洋戦争」(「大東亜戦争」)(1941/12/8-1945/9/2)に関し、ポツダム宣言の「無責任ナル軍国主義」との評価は、《あの戦争は、日本の安全保障と『自存自衛』のための戦争だった。またアジア諸国の解放が戦争の目的だった》との百田氏の見方と、対立する。

(90)-5 参考資料:成田市『私たちの戦争体験集「今だからこそ」』(1988年)
《参考1》「戦時中の生活体験(下方・男性・59歳)」(2020/11/5:成田市ホームページ)
 戦時中の生活体験と言えば、先ず苦痛な事や悲惨な事が、浮んで来ます。戦争と言うむごさから、当然の事かも知れません。大東亜戦争の開戦から終戦までの3年8ヶ月の間、自分乍らに体験した様々な出来事の幾つかを、考えて見たいと思います。
 戦争の始まった昭和16年12月8日。あの朝、ラジオの臨時ニュースは、人々の心をかりたて、戦争と言う恐怖感の余り、寒い朝のように記憶しております。
 あの特殊潜行艇に依る真珠湾の攻撃も、有名な戦果の一つでした。翌17年には、アジアの殆んどの地域を占領すると言ったまさに破竹の勢いでした。日本中が、戦勝ムードに湧いた時代でも有ったようです。然し、勝利の陰には其れなりの損害も有った事は、否めません。
 国内では動員制度が実施され、一家の働き手が家庭を離れる悲しい場面も見られました。次第に戦争意識が高まる中、生活物資は配給制度となり、精神的にも張り詰めた気持から、物に堪える心構えが養われていったような気がします。
 家が農家だったせいか、食糧増産と言う言葉をよく聞きました。供出の為、米俵を牛車や馬車で、農家から運び出される光景も見られました。あの当時は、牛馬が運搬や農作用の基幹でしたから、何処の農家でも飼われていたようです。
 あれは、18年の麦刈の頃でしたが、其の大切な馬が軍馬として、徴発された事が有りました。家の人達は、時節柄止むを得ないとあきらめてはいたようですが、年少の自分には、苦労してかいばや、草を与えた惜別の情に、理解できなかった事を覚えています。
 生活物資の不足を補う為、種々と関係機関の指導が有ったようです。其の一つに、砂糖の代用にする為さとうきびを使った時が有りました。又、甘藷や大根めしを弁当に持って行った事も思い出されます。
 18年の6月でした。本土空襲に備えての、疎開者の受入れが有りました。農家は、住んでいる部屋や空家が有った為、そう言う人達を入れなくてはならないとの指示が有ったようです。我が家にも入居したのですが、都会の人達にはそれなりの厳しさが有ったようです。空襲に対処する為、火災防止対策として、道路に面した片側の住宅の撤去が行われ、住み家がこわされる無念な思いをした話を聞き、ここにも戦争のむごさが有った事を感じました。
 18年の7月でした。学校の校庭での出来事ですが、始めて敵機を見た時の事です。江弁須の山林上空を、八代の方へ飛んで行ったのです。余り近いので、操縦士の姿もはっきり見え、先生の、「敵機だ。」と言う声にぞっと、寒気がしたのを覚えています。始めての本土襲来の時でした。
 昭和18年9月頃には、志願募集が頻繁に行われ、満蒙開拓青少年義勇軍を志望した事がありました。内原訓練所へ実習にまで行き乍ら、果せずして悔やんだ事を覚えています。然し、後に渡満した友人から厳寒の満州での苦労話を聞かされ、特に、開拓団の実態はひどかったとの事です。あの時、もし自分が行っていたらどうなっていただろうと、複雑な思いをした事も忘れられません。
 戦争が長びくにつれ、食糧や、生活物資の不足は深刻で、配給だけでは生きて行けない必死の食糧戦争でも有ったのです。農家も、食糧の供給にはかなり義務付けられ、最終的には強権発動と言う事態も有ったようです。
 又、20年の4月でした。本土空襲の際のB29が、酒々井町伊篠へ落ちた時が有りました。あの時、緩やかにとんで来て二つに折れ、落ちた瞬間凄い黒煙が上がったのですが、記憶に残る人も多いと思います。又、此の頃、本土決戦に備えての決戦隊が、寺院や、消防詰所に駐留していた時が有りました。近くの、農家へ食糧の調達や、入浴に来ていたのですが、種々と故郷の思い出話を聞き、農家の出身との事で、話が相通ずるものが有りました。後に茨城県守谷町の方へ移動したのですがどうした事か思い出されます。
 昭和20年3月20日、東京大空襲が有りました。此れまでにない被害で有ったとの事です。其の後、私用で東京を通過した時の事ですが、見渡す限り焼け野原と化した中、水道の蛇口だけが点々と立ち残っているのが見えました。橋の上からは、異様な姿を見ました。焼夷弾による火災の暑さから逃れようと、川にとび込み、亡くなられた人々の遺体が、岸辺に浮いて居るのです。全くの悲惨な情景に、心ひるんだ事を覚えています。
 連日のように、空襲警報のサイレンが鳴り、夜間の空襲時には、燈火管制がしかれました。暗闇の中ラジオから流れる情報に、耳を澄まし、やがて解除の報に安堵した事も忘れられません。そして時は過ぎ、20年8月、原爆が広島、長崎に投下され、遂に終戦となったのでした。長い戦争に依る食糧や、生活物資の極度な不足により、激動の時代はまだ続いたのでした。
 然し、あの廃墟の中から、現代の恵まれた時代がこようとは、誰が知る由もなく、全く働く事に精進した時代と言えます。こうして40数年前を考えて居ると、あの時代に帰ったような錯覚さえ覚えます。これまでの思い出も、ほんの一部に過ぎません。年月が経つにつれ次第に風化されようとしています。あの悲惨な時代を繰り返してはならないとの思いは、体験した人達誰もが共通の願いと思います。次代への灯として、何時までも燃え続く事を念じつつ、つたない体験文では有りますが、投稿した次第です。

《参考2》「紙きれ一枚で帰って来た主人(本三里塚・女性・74歳)」(2020/11/5:成田市ホームページ)
 主人が35歳。私が4つ下で31歳の春でした。昭和18年4月。ハガキより一回りは大きいその薄桃色の紙には有無を言わせないような毅然とした書体で「召集令状」と記されてあったのです。
 これから先、つらく悲しい私の戦争体験は全てこの一通から始まりました。
 口数も少ない真面目な桶職人だった主人が縁あって、三里塚の日通に勤め出して間もないころでした。
 しかし、特別の感慨も涙もなく“ああやっぱり”と淡々と手にできたのは、地域では遅い召集で“赤紙は当然”の覚悟ができていたからでしょうか。4日後には、普段、滅多に口にもできないお赤飯と親類やご近所の方に見送られ佐倉の連隊に早々に入隊させられたのです。
 間もなく佐倉の連隊が、どこかに移動するという連絡を、その当日になって受けた私は、主人の好きな煙草とありあわせの食べ物を持って、大あわてで面会に伺いました。
 兵隊さんはすでに連隊本部を出発して、佐倉駅のホームから汽車に乗り込む直前でしたが、雑踏のホームで主人に会えたのは本当に幸運でした。主人は「よく間に合ってきてくれた」と喜んでくれました、結局この時のあわただしい10分程度の面会が、主人の姿を見た最期になってしまったのです。
 「年寄りと子供を頼むぞ」という言葉を残して、行き先も告げられていないらしい軍用列車に飛び乗って行きました。
 あの時、あの光景は、今でもはっきり瞼の裏に焼きついています。
 主人の出征の後、家には2人の年寄りと4人の子供が残され、私が大黒柱の変わりとなりました。このころ戦局はますます厳しくなり、地域でも戦死の訃報が出始めていました。そんなころです。2番目の倅が学校から帰るなり「母ちゃん、父ちゃんはまだ死なねえか。お国のための名誉の戦死っていいよな」って。戦死という意味も良く知らなかったのでしょうが、こんな恐い話が美化される悲しい時代でした。
 食べ盛りの男の子と、二人の年寄りを抱え、今日、明日の生活にも困る様になったのは、主人が出征したから間もなくのことです。
 それまで勤め人の専業主婦だった私は、生活のために御料牧場の畑で働くことになったのです。当時は日当制で、その切符をいただき交換所で換金する仕組みでしたが、僅かな給金のうえに物がない時代でしたから、これだけで米を買うことはとてもできませんでした。こんな時、着物と米を交換する方法を覚え、私の物がなくなると、主人の印ばんてんやモモヒキまでお米に替えました。
 日曜も祭日もなく御料牧場で働き、早朝と夜は自前のわずかばかりの畑と、借りた畑で野菜と芋を耕しました。ただただ生きていくのが精一杯で、毎日何が何だかわからないうちに時は過ぎていったのです。
 こんなに働いても生活は苦しく、口にできた物はほとんど芋と麦と野菜。肉や魚はとても贅沢な食べ物でした。
 子供にも助けられました。よくやってくれたと思います。私と一緒に働いてくれる者。食事の支度や家の事をやってくれる者。小学校に入って間もない一番の下の子でさえ、兄弟みんながやっているから自分もという気があったのでしょう。背がとどかない流し台の上に上がって洗濯を手伝ってくれたのです。しかし、見よう見まねでゆすぎ方を知らないものだから、乾くと石けんの粉で真白だったりして。
 ツギハギだらけの服に裸足にゲタばき、どん底の生活にもみんなが元気で堪えてくれました。つらかったのは、子供たちの学校の教科書を買う時です。とりわけ4人の子供が全部学校へ入った年などは大変でした。
 10銭位のお金にも困っていましたから、こんな時はいつもご近所のお世話になっていたのです。内地に残された家族がこんな生活と戦っているころ、音信のなかった主人から便りがまいりました。なんと中支に派遣されていたのです。それまでは、どこの部隊なのかも知りませんでしたのに。
 こんなころの20年8月15日、御料牧場で玉音放送を聞きました。しかし涙はありません。戦争に負けた悲しみよりも今日の生活を心配しなければならないほど苦しかったのです。そして、敗戦より数ヶ月経ち、世の中が混沌としていた時、主人が帰ってきました。昭和20年4月没という紙きれ一枚で。援護局へ遺骨を受け取りに行った義兄に渡されたものは、遺骨でも遺品でもないひとつの戒名だけでした。
 中支からシベリヤへ抑留されていたことも、この時まではまったく知りませんでした。
 出征間もないころ「名誉の戦死…」とハシャイデいた子も、父の死を現実と知り、泣いていました。少し成長していたのですね。

《参考3》「私の生活体験:その1 小学生期」(幸町・男性・57歳)(2020/11/5:成田市ホームページ)
 満州事変が勃発した昭和6年7月18日に私は出生致しました。
 幼稚園児の時代は戦争ごっこ等の戦時に染まった遊びが主だったと思います。中でも佐倉の陸軍病院の傷病兵の楽隊を先頭にして行進し慰問を致した事などいまだに思い出されます。
 小学生の頃は、日中戦争、太平洋戦争がありましたので生徒は、皇国史観の思想に燃え戦地の兵隊さん達に慰問の手紙等を書き、又南京陥落シンガポール陥落の際には提灯行列を致して戦争祝賀の行進を町内で行いました。戦争遂行のため、身体剛健づくりが学問と並行して重要視されて、毎日体操の授業があり、心身を鍛えました。裸足でしかも、半身裸で、下半身はパンツ1枚の姿で先生の号令の下に一糸乱れずに運動を行い、又次の世代を担う国民としての自覚を持って毎日の学習にも明け暮れました。
 小学校に登校する時には各町内の班別に集合し班長の号命の下に隊列を組んで行進し、正門に入る際には歩調をとって入門し奉安殿迄行き拝礼を致して解散し、各自の教室に入室して一日が始まりました。
 当時の四大節には諸党にて宮城遙拝を致し、国家「君が代」を斉唱し、校長先生の教育勅語の朗読があり、その後に少国民としての戦時下の自覚と責任の講語を賜わり、そのほかの来賓の方々の祝辞を受けて御祝いの儀式を致しました。
 又1ヶ月に1度は遠足があり、乗物は使用せず徒歩にて軍歌、唱歌等口ずさんで一日を過ごした事、出征兵士の見送りは「祝出征○○君」の幟を立てて各自手に手に日の丸の小旗を持って軍歌を歌って成田駅まで見送った事、又名誉の帰還「戦病死」には成田駅に黒腕章姿にて出迎えた事等は今だに脳裏に鮮明に残っております。
 防空演習、退避訓練等も諸先生ならび上級生の指導の下で行われました。
 茨城県の内原満蒙開拓青少年義勇団の隊員一同が成田小学校に参り、鼓笛の演奏、隊員の生活体験等の報告の会合も忘れることは出来ません、
 当時の教育目標は「七生報国」「至誠勤労」であり、その下で情熱に燃えた諸先生方に松下村塾の吉田松陰先生に匹敵するに劣らない薫陶をうけられました。
 小学校4・5・6年生時代は太平洋戦争に突入した時代であり、食料も不足し自給自足の下に学校農園の作業も開始され、出来た甘藷芋は輪切りにされて、校庭一面の筵の上で干され、又養豚も始まり、高等科の先輩達は各家庭を廻って餅になるものをもらい歩き、飼育に励み、食糧増産に精を出しておりました。
 小学校6年の折は、上級学校進学の為に先生方により補習が毎日夜遅く迄裸電球の下で行われ、真剣そのものでした。当時の中等学校入試は戦時下であり、体力測定「懸垂。俵かつぎ競争。百米競争。手榴弾投げ。」と口頭試問「学力検査」等で行われ、特に印象に残っておりますのは「修練」とは何ぞやと言う質問でした。

《参考3-2》「私の生活体験:その2 中学生期」(幸町・男性・57歳)(2020/11/5:成田市ホームページ)
 昭和19年4月の成田中学校で奉行された入学式後に当時の軍事教官の小柳陸軍中尉より、戦時下に於ける中学生の責任と自覚についての講話の中で教官は「貴様達生徒を大東亜共栄圏内の各国々の指導者として養成するので一層奮励努力する事を望む」との言葉は今でも鮮明に蘇って来ます。
 各教科の学問の中でも軍事教練、武道は特に重点とされて教育を受けました。中学校の諸先生方もそれぞれの専科を担任されて熱心に学生を指導鞭撻されて下さった事は人間形成の上で非常に有意義であったと確信致します。
 又先生方、上級生に対する礼儀作法は厳しいものがあり、映画館、飲食店等は立ち入り禁止とされ、遊蕩の気に流れる事は心身の成長には弊害をともなうとの趣旨で厳しく指導されました。中学校生活も戦争の熾烈の度を増すにつれ、昭和19年9月頃から上級生の3、4、5年生は学校を離れて軍需工場に動員されて行きました。学校に残った1、2年生は近くの陸軍飛行場の基地拡張工事「草深、誉田、八街」に出かけて行き、戦争遂行の為に汗水を流して働きました。
 当時は現在の様な機械による工事ではなく総て人力に頼る人海戦術の工法で行われ、土は円匙と万能で掘り、運搬はモッコとトロッコを使い、地固めコンクリー製のローラーを人力を使って引張ってころがして固めました。又空襲も激しくなって来ましたので陸軍の監督の将校は敵機の爆弾投下の際は音にて近距離、遠距離、至近距離かを判断する事、又退避の方法等の説明をなされて自分で自らを護る様強調されました。
 又米軍機による「降伏の勧告」「現在の戦況」「為政者と国民の不協力を促進する文」等の投下ビラは必ず軍に届出をして、自分で持った事は禁止されていると強く訓示されました。そのほかに旧久住村の水田の改良工事、出征兵士宅の農繁期の奉仕、旧豊住村の十日川の改修工事等も授業を犠牲にして行われました。又動員されない日は学校にて授業が行われ空襲の時は裏の成田山公園の山林に退避し、解除になると教室に戻り、授業を再開しました。
 入学しました1年生の時には全学年4百数十名が学校に在籍しておりましたので毎月8日の大証奉戴日には全校生徒「3・4・5年生は武装して」と校長先生を始めとして諸先生軍事教官一同で校旗を先頭にして町内を行進し成田山新勝寺と埴生神社に戦勝祈願の参拝に参りました。
 又陸海軍の軍人達が学校を訪れて戦局講演会を催して軍に志願する事を勧誘されて先輩達が海兵、陸士、海軍予科練等の軍の学校に入学、入隊されたために、学窓を去って行った事も忘れる事は出来ません。
 昭和20年になりますと戦場は本土に近くなり、学校には私共2年生と下級生の1年生のみが残り上級生の3、4、5年生は軍需工場、軍の基地建設等に動員されて不在でした。当時は完全に制空権は米軍が握り、日夜B29艦戴機の空襲を受け各主要都市、軍需工場、軍施設は大きな被害が続出する状態でした。その折5月から学舎は職員室と事務室を除いて、本土決戦部隊に接収され、私共は各自の机を成田山新勝寺客殿に持ちこんで裸電燈の下で作業のない日は学問に励みました。そして6月になりますと1、2年生は現成田ニュータウン内の山林で本土決戦用のガソリンの入っているドラム缶を入れる防空壕掘りの作業をする様になり、雨の日は仮校舎で授業をうけ、天気の良い日は毎日防空壕掘りの作業を続けました。当時は、食糧、衣料品そのほか一切の生活用品は極端に不足し、毎日代用食の雑炊のすいとん、馬鈴薯、甘藷芋を不平を言わずに食べました。
 又どこの家庭でも両親等は自分達が我慢して、育ち盛りの子供達にひもじい思いをさせたくないと食べさせて下さいました。今までもその恩は私達一同忘れる事は出来ません。学生服はつぎの当った服で、戦闘帽にゲートル、地下足袋で作業を致し、昼食は大樽に入った麺を代用醤油のお汁で食べる事が、唯一の楽しみでありました。
 毎日作業現場に集合し点呼が有り、総指揮官のひげ顔の陸軍中尉殿が訓示し、各班は10数名で構成され二等兵の兵士を班長として作業をするのが日課でした。作業は生徒達の人力で行われ、班長は監督の名の下で作業せずに指示するだけでした。生徒達は戦争の勝利を信じて黙々と不平不満を言わずに、防空壕掘りに精を出しました。
 寸暇を惜しんでの軍事教練では、教官から諸君は中学生報国隊員である米軍が九十九里浜より上陸した際は竹槍で必ず一人は殺害するのが日本男子の本懐であると訓示され銃剣術の指導をうけました。
 休暇の日に土屋地先の根木名川に友達と水泳に行き、空襲に見舞われ水田の中を逃げ廻った事、又撃墜された敵のB29艦戴機の現場に自転車に乗って駆けつけた事等も記憶に鮮明に残っています。
 8月15日も晴天で暑かった。作業現場に行くと今日正午に天皇陛下の重大放送があるので帰宅せよとの事で作業はなく、生徒達は解散しました。私は家族一同で当時の箱型の真空管4本のラジオの前に正座して玉音放送を聞きました。雑音のひどい中で陛下の「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、太平を開かんと欲っす」との玉音を聞き、このお言葉で戦争の終結を知りました。その後、軍隊のいなくなった学舎に帰り荒廃した学校施設の復帰に励みました。
 一番私にとって印象深い出来事は銃機庫にありました先輩達の使用した軽機関銃、小銃帯剣等の武器を大八車に積載して成田警察署に友達と運搬した事です。
 出征した先生方も復員して学園に帰って参りました。先輩達も軍服姿にて学園に帰って参り元気溌剌と行動していた事が走馬燈の様に頭にうかんで参ります。
 私達が生まれてからの終戦迄の15年間は正に日本開闢以来の激動期でありました。
 この大戦中の世界各国の多数の犠牲者の死を無にせずに私達は平和がこの地球上に永遠に続く為に、粉骨砕身して尽力する責務を担っていると確信致します。

《参考4》「戦争と共に歩んだ青春時代」(南羽鳥・男性・67歳)(2020/11/6:成田市ホームページ)
 私は17年に実施された徴兵検査を受けました。検査では現役の甲種合格で直ぐに佐倉の連隊に入隊させられました。
 当時は、甲種合格といえば、お国のために役立つ立派な青年という社会風評があったのですが、今思えば幸なのか不幸なのか、入隊直後に体の具合いを悪くした私は、10日ばかりで帰されてしまったのです。
 しかし、戦局も激しさを増してくると、それどころではなく、召集を受け、今度は海軍の横須賀海兵団に配属されました。が終戦も近いころの海兵団とは名ばかりで、港には戦艦の影一隻すらもなかったのです。
 訓練も空襲の激しい昼間は避け、夜間訓練ばかりでしたが、この訓練も実は意味のないものでした。終了しても乗れるあてのある戦艦は横須賀にはないのですから。
 その内、食糧事情が切迫してくると、我々の部隊は飛騨の高山で開墾をさせられたんです。これは正しくは農耕部隊ですね。
 また、首都東京は、昼夜を問わず、米軍の新鋭爆撃機B29の空襲を激しく受けていましたが、これにたち向かう戦闘機さえなかったのです。あったとしてもB29の高度まで上昇できる性能はなかったでしょう。
 聖戦とはいうものの、こうなると完全に負け戦だと思いましたね。もちろん、当時はこんなこと口に出しては言えませんが、心の中では、もうダメだと思っていました。
 それに食べる物が底をついていました。腹が減っては戦ができぬ例えはその通りで、士気が上がりません。山の中に壕を掘って泊まり、蛇やたにしまで食べた腹っ減らしの兵隊さんでは、敵が上陸してもどうにもならなかったでしょう。
 特に昭和19年から終戦、それに戦後の食糧不足はひどい有様でした。農家でさえ白い御飯を食べられる日はめったになく、ジャガイモやサツマイモを刻んで御飯に混ぜ、量を増やす工夫をしたものです。
 だから、8月15日の詔書を聞いた時は、正直なところホッとしましたね。もっともその内容を十分に理解することは非常に難しいことではありましたが、とりあえずは、これで無駄な犠牲は払わなくても済んだな、という思いでした。それは、敵が九十九里浜に上陸してくるという情報が入り、その時は、爆弾抱えて敵戦車に飛び込めと命令されていたんですから。自爆しろということだったんです。今思い出してもゾッとしますね。
 しかし、終戦で命拾いはしたものの、この先、世の中はどうなってしまうんだろうという不安感が残りました。それまでは、戦争に勝つという国民総意の目標がありましたが、それが根底から崩れてしまったのですから。
 この不安感に拍車をかけたのが、何といっても米不足でした。現在の稲作農家は一反歩から約10俵の収量があるといいますが、当時は4俵位が平均で5俵の収量があげられる農家はよっぽどの所でした。
 肥料がないから収量を上げられないのです。昭和20年はひどい干害も追い打ちをかけました。都会から衣類を持って買い出しに来られる方も随分おられましたが、分けてあげられるほどの米がとれないのです。
 内地や外地から一時に兵隊さんが復員するし、どこの家庭でも食べ盛りの子供が5から6人はいたし、国は厳しい米の供出を要求するし、農家であっても米を口にできない時でした。
 そんな時に、供出の対象外だった開墾地や沼の干拓地で頑張られた農家は立ち直りも早かった様ですが、主人が戦死されたり、男手のない農家の生活ぶりは大変だったと思います。まるで地獄だったという人もおりますから。
 これでも農家の食生活はまだ良い方で、会社員や公務員など給料で生計を図っていた方は、もっと惨めだったと思います。限られた商品に人間が殺到しますから、物価は自然の内に上がっていきます。
 それも、ものすごい勢いでインフレは進んでいきました。物価に月給が追い付いていけない様でした。闇米、闇市もこの時代で、お金よりも物で交換されていましたね。
 私の青春時代は、この様に全て戦争と二人三脚でした。大正10年に生まれ、物心ついた時にはすでにまわりは戦争という環境にあったのです。
 学生時代も勉強らしい勉強はせず、小学校2・3年から芋畑を耕し、出征軍人の家にも勤労奉仕に行きました。そして、お国のためという令状で召集され、一命は取り留めはしたものの死や飢えと隣り合わせの極限状態。
 戦後もまた、お国のためと食糧増産、復興と戦ってきたのです。

《参考5》「西和泉区の空襲」(押畑・男性・70歳)(2020/11/6:成田市ホームページ)
昭和19年11月24日、この日は大東亜戦争史上、東京初空襲という重要な意義を持つ日である。米領マリアナ諸島にボーイングB29重爆撃機の基地が10月に完成し、日本本土全域が戦略爆撃の圏内に入ったことは、軍以外の一般国民は全く知らなかった。多少の不安は感じつつも「帝都」だけは、敵機の蹂躙にまかすようなことはないと、軍部の力を固く信じていた私にとって、晴天のへきれきであり精神的衝撃は余りにも大きかった。
 アメリカも又、日本国民に与える心理的動揺を狙った作戦であったことは云うまでもない。この東京が初空襲された日、成田市の旧中郷村西和泉区も大空襲を受けたのである。このような重大な、しかも成田市内唯一の空襲災害事件も、なんの記録もなく40有余年の歳月が流れ、今日このことを語る人もごく僅かとなって、星霜と共に忘却の彼方に消え去ろうとしている。私は、職務上この空襲災害を検証した者として、2人の生き証人の話を基に記録に止めて置きたいと願うものである。
 アメリカ戦略爆撃機ボーイングB29編隊が西和泉上空に侵入した経路については詳らかではないが、戦災誌の東京編等から状況を判断するに、この日東京初空襲したB29は、3編隊18機といわれ、そのうちの後尾の1編隊6機が、南東海上より東京都江東区に侵入した。その頃の帝都防空態勢は健全であり、砂町附近にあった高射砲陣地の対空砲火が凄まじく弾幕を張ってこれを阻止した。敵機はこれを回避しようと急拠北東に迂回したが、国府台付近の高射砲陣地から砲火をうけ被弾する機もでき、再度帝都に侵入できず、そのまま一直線に東方海上に遁走することとなったらしい。船橋・習志野・佐倉・成田と飛来し、西和泉上空に至って6機に搭載してあった全爆弾を投下したのである。災難とはまさにこのこと。
 この日正午の天候は、晴天でときおり白雲が浮び無風、おだやかな冬日であった。12時20分頃、初弾は芦田区八幡神社の裏の坂道に投下され、西和泉区に集中して落下、それから東和泉と小泉区一部に至る間、爆弾・焼夷弾の混合で約50発以上投下され、何れも100K級の大型爆弾である。昼時でありほとんどの家族が在宅していた。これほどの大爆撃を受けたにもかかわらず人命に及ぶ被害がなかったことは天佑というほかはない。
 火災は随所に起り、のどかな里山は一瞬にして大混乱に陥った。このときの状況を、西和泉の岩澤老はこう語っている。
『昼食を済ませラジオを聞いていた。空襲警報が発令され、東京海上に敵機数編隊本土に接近中厳戒を要す。とのことであったが、西和泉の山の中までは先づ心配あるまいと思い、晩生の稲を入れるために厩から馬を出し荷鞍を付けていた。そのとき芦田の八幡様の方から、腹にこたえるような大きく重みのある飛行機の爆音が響いてきた。その時大きな影が私と馬を横切った。思わず空を見た。胴体も翼も銀色に輝いた今まで見たこともないような大きな飛行機の編隊が、西和泉の空を覆い、産土様の方へ飛んでいった。言いようのない恐怖が体を走った。続いてゴーという音とカラカラカラという異様な音が空から襲った。次の瞬間、ドスン・ドスン・バリバリという大音響とともに地面がゆらぎ、もうもうたる黒煙と爆風によって、木々の梢が狂ったようにゆれ動いている。何が起きたのか咄嗟に判断がつかず地にひれ伏していた。
 それが鎮り数分間、どの家からも何んの声もしない。人々は皆、放心状態にあったのか、不思議なほど静寂な時間が流れた。私は、驚きおののいている馬をしずめ安全な場所へ放し、ようやく空襲であることが、銀色の大きな飛行機と関連して考え解ってきた。
 そのとき、火の見の半鐘がジャンジャン鳴り出し『空襲だ、空襲だ…』叫びながら半鐘を打っているのが消防団長であった。このときから西和泉は、大混乱に陥った。『城固寺が燃えているぞ』誰かが云った。お寺に駆付けた。お寺の内部全体は紅蓮の炎に包まれ、当時の消防ポンプでは施す術もなく、ただ茫然と立ちすくむのみであった。
 そのとき誰かが大声でどなった。「繁右衛門も、治平も、治右衛門も火事だ」「善兵衛の裏も燃えている、大変だー。」それっと全員が弾かれるようにその方へ飛んで行った。
 西和泉の菩提所城固寺は、大型焼夷弾の直撃を受けて20分ほどで全焼したのである。』
当時の恐怖の思い出を、岩澤さんはこのように語っている。
 また、この日の空襲を女の立場から、西和泉の岩澤さんは次のように語っている。「B29の編隊が西和泉の上空に飛来したことは、全く気が付かなかった。ザーという音に続いて、ドスン・ドスンという地響きとバリバリという大音響、黒煙がふきあげ、真暗になり、何が起きたのか解らない恐怖のどん底へ一瞬にしてたたき込まれたが、気を取り直し、子供を探しに駆け出した。男の子2人は下の田圃で、女の子の2人は家の裏で遊んでいたと思った。お絵を限りに子の名を呼び探し廻った。幸いどの子も無事で、女の子1人が爆弾の破片で頭に軽い怪我を負っただけで助かった。祖母は孫4人の無事な姿を見て腰をぬかし、4人の孫を抱えて土間に座り込み観音経を唱え御佛のご加護を願っていた。
 そのとき納屋の屋根がそちこちから燃え出し、主人と2人で流しの溝水を掛け、消し止めることができた。」以上岩澤さんの話しである。米軍の帝都初空襲の日、成田市西和泉が空襲されたことを忘れないために寄稿した。又不発弾も処理されずそのままになっているので、自衛隊に依頼し記念品として保存したいと思っている。

《参考6》「戦争体験」(並木町・女性・63歳)(2020/11/24:成田市ホームページ)
 当時私は20才だった。父建具職、母、妹、家族四人昭和20年3月9日より10日に掛けて東京都墨田区吾嬬町東にて東京大空襲で被災した。
 当時私は家より5分、大日本油脂株式会社東京工場(花王石鹸)総務課兵籍係勤務で会社の重要人物の召集延期の仕事をしていた。
 石鹸はごく一部でコプラを材料として搾油し、飛行機の油、潤滑油を作っていたので、軍需工場として大きくマークされていた。空襲のサイレンを開き、電燈を消すか消さないうち内に敵機来襲。焼夷弾が落ちる音と共に空が赤くなり、火の手があっちこっちで上った。
父は消防団なので馳けつける。母は佛前に手を合わせる。其の内、家の中が昼間の様に明るくなり、戸を開けると逃げまどう人で道路はごった返していた。もう2、3軒先まで燃えている。
 私たちは荷物を肩に毛布を頭に被る。私はとっさに友のくれた大好きな博多人形を抱え外に出た。人にぶつかり合い、人形を落した。やっとかき分け、拾い上げると首が取れていた。人につき飛ばされ、何人かが身体の上を歩いていった。
起き上がった時は母も妹もいない。私は暑くてたまらず道路にしゃがんだ。目の前で大日本油脂のドラム缶がドカンドカンと火柱を立て、爆発する。其の内誰かが「小松川橋へ逃げろ。」と叫んだ。皆我れ先にと歩いた。其の内「橋が落ちた。」と引き返して来た。
 どの位、どこを歩いたかして小学校の庭についた。大声で呼び合ったり、腰を落としている人、子供の泣き声がして大勢いた。ここは早く焼け落ちたようだ。人に母と妹の無事を聞かされた。すべてもえるものは燃えた。家を探した。食器の一部で確認した。ほてりで暑く目は痛い。顔はすすけ、涙が出た。父そして母と妹も帰って来た。近所の人もポツポツ帰って来た。皆無事を喜び合った。
 水はふき出していた。米屋の焼け跡より焼き米、酒屋より味噌、焼け鍋で汁をつくり、いびり臭いお米を食べた。私の家の壕は良く出来ていたので中に入れた品物だけ残った。壕の中で一夜過ごした。外に出ると夜空は赤く、残り火が風に煽られ、時々火柱となる。皮肉な事に壕はほてりでポカポカ温かく疲れきった私達はまどろんだ。
大火になると風が起こる。焼けない所を見つけるより焼け跡に逃げる。デマが飛ぶ、後日小松川橋を渡った。其の橋は落ちたと聞いた橋だ。体験した尊い教訓だ。
 一週間焼け跡で過した。被災手続き、配給、整理に忙しいが淋しい。他県よりの見舞客のくれた品物など近所の人が分けてくれた。下町の良き人情味の中で、焼けるまで私たち家族は幸せだった。疎開先の住所を書き、近所の人々も別れを惜しみ再開を約して去って行った。まだ放心状態で肉親を探している人もいる。
 亀戸本所は一家全滅が多かった。大日本油脂のそばを流れる川は死んだ人で一杯だ。暑くて川岸に逃げ押されて死んだ人だ。亀戸天神さまの池も人で一杯だったそうだ。4、5日たって兵隊さん達がトラックで来て、川から引き上げ、近くの錦糸公園と原公園に穴を掘り埋めた。身内の確認などしていなかった。私の親友は亀戸で壕の中で死んでいた。
 父は茨城、母は江戸っ子、叔母達2家族合計16名、父の知人を頼りに印旛郡岩戸に疎開した。焼けリヤカーに荷物を積み、惨めな姿だった。印旛沼の渡しを渡る。戦争で被災したなど嘘の様に沼は静かだ。別世界に来たようだ。
 知人の離れを借りた。知人は良くしてくれた。だが食糧に追われた。父は無口になった。電気もなく、夜は空襲になっても目を開けて寝ていればよかった。
 教えてもらって、食べられる物は何でも食べた。百合の球根、山みつば、たんぽぽ、つくし、野びる、あけび、山栗、沼でタツ貝と云う小貝が取れ、農家の人は肥料にし、トウモロコシの根元などに立たせる。私達は大御馳走と云って食べた。
 又近所で豚を殺し、頭だけ呉れた。大きな釜でグラグラ煮て、スープを取る事にした。蓋を開けると恨めしそうな顔が浮ぶ。すぐ向かいの若いお嫁さんが、姑に隠れて芋あめ、野菜、塩のきいた梅干しなど持って来てくれた。親切が泣くほど疎開者はうれしい。時がたつほど、あれもあったら、これもあったらと感じる。
 焼け跡の整理に行く時のおかずは知人の取ってくれた食用鮭の焼いたものだ。秋田の叔父より、するめを仕入れ、新宿の闇市で売った。隣りの握り飯の方がとぶ様にうれた。帰りは必要な品物を買って来る。帰りは闇の中、渡しを降りて土手をよじ登り夢中で歩いた。注文の品物を家族に見せるのがうれしい。今なら外燈がついていてもこわくて歩けないと思う。土地の人は疎開者を「よそ者」と呼ぶ。芋の洞がいたずらされると「よそ者がやった」と云う。私は「こんな田舎は嫌だ。早く東京へ帰りたい。」と思った。
 稲刈りもした。初めて膝まで浸り、一日三食食べてお米一升、母と二人で一週間通った。ご馳走になる白米は甘く、光り輝き思いきりご馳走になった。男たちは再建のため焼け跡に残っていた。叔母達は子供が小さいので縫い物など合間をみては食を得た。母は畠仕事が上手になった。何でも蒔いた。実りはうれしい。
 年がかわり、耳の不自由を感じていたので佐倉陸軍病院へいった。被災の時、通院中でしたが放って置いたので「鼓膜がとけて、もう駄目だよ。」と先生は簡単に言う。岩戸へ帰る道、私は自分に言い聞かせた。「あんなに苦しんで皆死んだんだもの耳位聞けなくともなにさあ…。」と。でも、人間って勝手なもので耳鳴りがなかったら頭がすっきりするだろうなどと思う時もある。
 人の紹介で印旛村農業会に務める事が出来た。現金出納係。途端に農家の人と親しくなる。債権など持って行くとお茶も出してくれる。物交にいっても、もっともっとと要求した要求した農家も…。
 今こうして書いていると岩戸で過ごした歳月の中の出来事は決して忘れられない。苦しいけど楽しくもあり、自然の中で得た喜びは金銭にかえられない。夢中なら何でも出来る。生きる為なら、そして家族の為なら。父も母も叔父、叔母も死んでいない。僅かに岩戸で過ごした従兄弟が東京にいる。
 戦争の空しさは経験した人でなければわからないと思う。あの火の怖さもわからないだろう。私は被災だけだが、死んだ人は一体何だろう。何かの土台になったのだろうか―。と私は思う。

《参考7》「ふたつの戦死」(新町・男性・65歳)(2020/11/24:成田市ホームページ)
 ふと後ろをふりかえった。
 川俣兵長が歯をくいしばり、二人の兵に背後から腰を支えられ、いや押されながら、いまにも折れそうな両足をけんめいに踏みしめ、また踏みしめて、必死に歩いてくる。「あっ」声にならない声が、私の胸の奥でも呻きをあげた。
 川俣兵長が下痢で栄養失調の状態におちいった、という話は聞いていた。この戦闘作戦の行動中、特に消化器官をこわして、栄養失調の状態におちいってしまったら、先づ絶望である。いく日かベッドに寝て休養し、流動食から粥食にと食事に段階をつけて、徐々に体調の回復をはかれば、体力をとり戻し得ることがわかっていても、それができない。
 野戦病院が近くにあるわけではない。地を這ってでも部隊の後を追って行かなければ、とり残された兵は、日本軍の通過後、かくれひそんでいた山中からそれぞれのに戻ってきた老百姓(農民)たちに発見されて、殺されてしまうであろう。それがいやなら、休養によって当然生きのび得る筈の生命を、1日1日と燃え尽きさせながら、友軍の後を追って倒れるまで歩くほかはない。
 その夜、老百姓たちの逃げ去ったあとの民家に、宿営していた我々の分隊へ、「宮城兵長」、と声をかけながら鈴木軍曹がきた。「川俣がとうとう眼をおとしてしまったよ」「そうですか」分隊先任の宮城兵長の言葉も短かかった。互いに沈痛な無言の数刻。
 翌朝、積みあげられた薪の上に、死んだ川俣兵長の片手、肘から先が置かれて火がつけられた。遺骨を郷里へ届けるためである。遺髪、遺爪も戦友が預った。
 遺体を埋葬するべき墓穴掘りの使役命令は、我々初年兵にこなかった。従軍経験の短かい初年兵の士気を沮喪させてはならぬ、との配慮から古参の兵士が葬ったのであろうか、あるいは部隊の出発時刻に追われ、埋葬もかなわずにそのまま放置されたのであろうか。故郷、それは東北の地と聞いたが、そこに居る家族にとってはかけがえの無いたった一人の夫、父である川俣兵長の遺体。
 戦争と云う、個人の意思ではあり得ない暴力の前に、無惨に打ちひしがれ無念に死んだその遺体が。そして今も中国大陸のその地に、彼、川俣兵長の遺体は白骨と化し、去る者日々に疎き、人の記憶にその無念さはとどまるよしもなく、ばんこくの恨みを残して眠りつづけているのだ。
亦、或る兵は、明日交替によって、危険な最前線から安全な後方へ退かれるというその日、「今日1日のがれれば(「のがれられれば」というこの兵の、この言葉の重みを、願わくは充分に理解していただきたい)俺は無事帰れるんだ」、と喜んでいたその日討伐に出て、大地に伏せ銃をかまえての戦闘中、隣りで機関銃を撃っていた戦友が、バタッと突っ伏してしまったので、「おいっ、どうしたっ」と助け起こしたその瞬間、思わず高くなったその姿勢を狙い撃ちされたのであろうか、かぶっていた鉄帽の星章のど真ん中をぶちぬかれて、「ウワーッ」、というもの凄い絶叫とともに倒れ、顔面血に染まって2分ほどの虫の息の後、呼吸絶えた、と云う。撃たれたその瞬間の、その例えようもない無念さが、その、ものすさまじい叫びにあらわされているように思えてならない。
 「強力な新爆薬による巨大な破壊力がもたらす、かつてなかったほどの戦禍の惨状を知った時、人間はそれに堪えかねて、やがて戦争をやめないではおかないであろう」、というのが、ダイナマイトの発明者であるA、ノーベルの期待であり願望であった、と云う。
 だが期待は完全に裏切られ、願望は水泡となって消えた。ダイナマイトなど比較にならない、核爆弾の恐怖を知った今日でも、人間の戦うこの姿は、全く変わっていない。
 人間は人類というこの惑星地球世界に生きる生物の中のひとつの類として、戦争の無い地球世界の実現を人類全体の意志として求めてきた。平和を得るために人類はあらゆる努力を惜しまなかった。しかしながら人類全体の平和希求の願望は、それを人類全体の意思として求め努力したにも拘らず実現せず、遂に戦争によって、より拡大する物的損失、より拡大する悲劇と悲惨、そしてより拡大する「死」をこの地上にもたらしてきた。数えきれない「死」を、人間の望まない「死」を。
 この事実は、この人類全体の平和希求の意志を、圧倒的な力で排除し、圧し潰してしまうもうひとつの意志が、この惑星地球に存在していることを物語っているのではないだろうか。それは戦争のみならずあらゆる手段方法によって、人間を殺すことを究極の目的としている意志。しかもその目的をほかならぬ人間を用いて遂行することのできる、恐るべき狡智と能力を持つ巨大な意志。それがこの惑星地球の上にくろぐろとおおいかぶさっていることを、教えているのではないだろうか。
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藤田正勝『西田幾多郎』(その14):「東洋文化を背景として新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ」!「日本精神」は「世界的」なものでなければならない!

2021-08-28 18:16:00 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(8) 東洋文化(印・中・日)の根柢:「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」!日本文化は「無限に動くもの」に目を向ける「情の文化」だ!(162頁)
H  『働くものから見るものへ』(1927年、57歳)「序」で西田は「東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んで居る」と言う。(162頁)
H-2  論文「形而上学的立場から見た東西古代の文化形態」(1934年、64歳)で西田は西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化(インド、中国、日本)は「無を実在の根柢と考える」、つまり「無の思想」だと言う。(164頁)
H-2-2 インドの無の思想は「知的」、中国の無の思想は「行(ギョウ)的」、日本の無の思想は「情的」だと西田は言う。(164頁)
H-2-3 日本文化が「情的文化」だとは、形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、把握し、表現しようとすることだと西田は言う。「形なき情の文化」!(166頁)

(8)-2 「東洋文化を背景として新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ」!「日本精神」は「世界的」なものでなければならない!
H-3 1937年、盧溝橋事件とともに 日本は日中戦争に突入する。その年、西田は「学問的方法」という講演を行い、また1938年「日本文化の問題」という連続公演を行い、それらをもとに1940年『日本文化の問題』(岩波新書)を出版した。
H-3-2 その中で、西田は「我々はいつまでも唯、西洋文化を吸収し消化するのでなく、何千年来我々を孚(ハグク)み来った東洋文化を背景として、新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ」と言う。(167頁)
H-3-3 また西田は言う。「日本は世界に於て、只特殊性・日本的なものの尊重だけではいけない、そこには真の文化はない。・・・・つまり自家用の文化ではいけない。自ら世界的な文化を造り出さねばならぬ。」(169頁)
H-3-4  西田は、「日本精神」は「世界的」なものでなければならないと言う。そして「日本精神」が「世界的空間的となる」ためには「厳密なる学問的方法によって概念的に構成せられることでなければならない」と述べた。(169頁)
H-3-5  西田は「日本も・・・・皇室を中心として自己同一を保って来た。そこに日本精神というものがあった」と言う。そして「今の日本はもはや世界歴史の舞台から孤立した日本ではない。・・・・皇道は世界的とならなければならない。・・・・世界的原理を創造せねばならい」と言う。(173-174頁)
《感想》「皇道は世界的とならなければならない」とは、「世界的原理を創造する」にあたって、日本は独自の貢献をしなければならないという意味だ。
H-3-6  実際、西田は言う。「真の国家は、他の民族に対して、共に自己自身を形成する歴史的世界の自己形成の立場に於て結合するのである。・・・・単に排他的なる民族主義から出て来るものは、侵略主義と帝国主義との外にない。帝国主義とは民族利己主義の産物である。」(「哲学論文集第四補遺」1944年)(175頁)
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藤田正勝『西田幾多郎』(その13):「宗教」こそ「哲学の終結」である!《自己》と《自己を超えたもの》との矛盾的な関係としての「逆対応」!「平常底」(ビョウジョウテイ)!

2021-08-28 16:09:28 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(7) 西田は『善の研究』(1911年、41歳)で、宗教こそ「哲学の終結」であると述べた!(142-143頁)
G 西田は初期から晩年まで「宗教」の問題に深い関心を寄せ続けた。(142頁)
G-2 西田は『善の研究』(1911年、41歳)で、宗教こそ「哲学の終結」であると述べた。(142頁)
G-2-2  西田は晩年しばしば《自分の体系をしめくくるものとして宗教論を書きたい》と語っていた。それを実現したのが最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年、75歳)だった。(142頁)
G-2-3  種田山頭火(1882-1940)に「へうへう(飄々)として水を味(アジハ)ふ」の句がある。西田が「宗教」の究極に見ていたのは、そのような《ごく普通の行為》、《ごく普通の生の営み》だった。(142-143頁)

(7)-2 「逆対応」:《自己》と《自己を超えたもの》との矛盾的な関係!(143-155頁)
G-3 西田は、論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945、75歳)で「宗教的意識と云うのは、我々の生命の根本的事実として、学問、道徳の基でなければならない」と述べる。(143頁)
G-3-2  論文「経験科学」(1939年、69歳)では、哲学も宗教も《「全自己の立場」に立つこと》が求められると西田は言う。《世界を外から眺める》のでなく、「ポイエシス(制作)的自己の自覚の立場」、すなわち世界の中で生き、行為する(制作する)自己であることが求められる。(144頁)
G-3-3 『一般者の自覚的体系』(1930年、60歳)、『無の自覚的限定』(1932年、62歳)で西田は「場所」(※純粋経験)を「絶対無の場所」という一つの宗教的意識として説明している。それは「見るものも見られるものもなく色即是空(シキソクゼクウ)空即是色(クウソクゼシキ)の宗教的体験」であるという。(144頁)(Cf. 104-107頁)
G-3-4 西田は「場所的論理と宗教的世界観」(1945)で親鸞にふれ、自己の「死」、自己の「無」を意識した時にこそ、《自己を支えるもの》、《自己を超えたもの》、つまり「絶対者」、「絶対無限なるもの」に出会うと言う。(148頁, 151頁)

G-3-4-2 そしてこの《自己を超えたもの》は、超越的な他者でなく「真の自己自身」だと西田は言う。そして一方でこの《自己》と、他方で《絶対的存在》つまり《自己を超えたものでありつつ、自己の根底である存在》との矛盾的な関係こそ、「宗教」が成り立つ場所とされた。(152-153頁)
G-3-4-3  論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)で《自己》と《自己を超えたもの》関係を西田は「逆対応」と呼ぶ。われわれは《われわれの自己が徹底して無であること》つまり《自己の死》を自覚するとき、《自己を生かしているもの》にあるいは《われわれの存在を支えているもの》に出会う。こうして自己の《無》を超える。このパラドックスを西田は「逆対応」(※自己の《無》が、自己の《永遠》に対応すること)と呼ぶ。(153頁)

《感想1》『善の研究』(1911年)における西田の根本の主張は、「『純粋経験』こそ実在、つまり真にあるものである」というものだ。西田は「純粋経験」が「余の思想の根底」だと言う。「純粋経験」が「唯一の実在」とされる。(38頁)
《感想2》西田にとって「場所」(Platz)は、「純粋経験」概念を深化・拡張したものだから、《自己》=「純粋経験」にそもそも「外」(超越)はない。「絶対者」も《自己》=「純粋経験」のうちにあるしかない。
《感想3》評者が思うに、《自己》=「純粋経験」=「場所」(Platz)は、超越論的主観性=超越論的間主観性である。

G-3-4-4 親鸞は、罪悪を背負った自己自身をどこまで突きつめていくとき、つまりそのような「極限」において、阿弥陀の本願に、そのありがたさに出会いうると述べた。このことを西田は「逆対応」という言葉で言い表した。(154-155頁)

(7)-3 「平常底」(ビョウジョウテイ):《永遠の生命》を得るとは、《最初からあり続けていた本来の自己に出会う》こと、つまり《もとの自己に帰る》ことだ!(155-158頁)
G-4  論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)で西田は、「逆対応」という仕方で《絶対》に対することが、同時に自己の立場の根本的な転換を意味すると述べる。《自己の死を知る》ことによって、われわれは《死を超える》あるいは《永遠の生命》を得る。(155頁)
G-4-2 《永遠の生命》を得るとは、《最初からあり続けていた本来の自己に出会う》ことだ。つまり《もとの自己に帰る》ことだ。《そこに実現される自己の本来的なあり方》を西田は「平常底」(ビョウジョウテイ)と呼ぶ。(156頁)
G-4-3 「平常底」(ビョウジョウテイ)とは、「仏法は・・・・だだ是れ平常無事、屙屎送尿(アシソウニョウ)、著衣喫飯(ジャクエキッパン)、困(ツカ)れ来れば即ち臥す」(大小便をし、衣服を着け食事をし、疲れれば眠る)というあり方(『臨済録』)に帰ること(禅の立場)、あるいは「へうへう(飄々)として水を味(アジハ)ふ」(山頭火)というような日常の営みに帰ることだ。(156頁)
G-4-4 「平常底」(ビョウジョウテイ)はまた「廬山煙雨浙江潮」(蘇東坡「観潮」)である。これは西田が好んだ詩句だ。「廬山は煙雨(エンウ)、浙江は潮(ウシオ)。未だ到らざれば、千般[長い間]恨み[行ってみたいという渇望]を消せず。到りえて還り来れば、別事なし[何ということはない]。廬山の煙雨、浙江の潮。」(157-158頁)
《感想》平凡なここにこそ幸せはあったのだ。チルチル、ミチルの「青い鳥」だ。《永遠の生命》を得るとは、《最初からあり続けていた本来の自己に出会う》ことだ。つまり《もとの自己に帰る》ことだ。
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