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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996)「4 キツネ目の男」(1984-1985年、39-40歳):グリコ・森永事件の構図は「裏取引」と「株価操作」で、現金強奪が目的でない!

2023-07-30 16:56:46 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996年、51歳)
「4 キツネ目の男」(1984-1985年、39-40歳)
(4)1984年3月~1985年8月:警察庁指定114号「グリコ・森永事件」!
E  警察庁指定114号「グリコ・森永事件」は1984年3月の江崎グリコ社長誘拐事件に始まり、1985年8月に「かい人21面相」が「犯行終結宣言」するに至るまでの1年5カ月にわたる連続企業恐喝事件(江崎グリコ、森永製菓、丸大食品、ハウス食品など)だ。(下132-133頁)
E-2  1984年3月の「江崎グリコ社長誘拐事件」で犯人(犯人グループ)「かい人21面相」は江崎社長を拉致し現金10億円と金塊100キロを要求。3日後江崎社長は自力で脱出。その後、犯人は青酸ソーダを混入するなどグリコを脅迫。グリコは倒産寸前まで追い込まれるが、犯人は1984年6月に休戦宣言を発表。(下134-135頁)
E-2-2 犯人(犯人グループ)「かい人21面相」はその後、ターゲットを森永製菓、丸大食品(1984/6/28、5000万円の裏取引を迫る)、ハウス食品(1984/11/14、裏取引で1億円を強奪しようとした)などに移し脅迫を続けた。1985年8月滋賀県警山本本部長が焼身自殺。その5日後、犯人は「犯行終結宣言」を各種報道機関に送付。以後、犯人(犯人グループ)「かい人21面相」の動きは一切途絶えた。(下134-135頁)

(4)-2 1985年1月、警察が「グリコ・森永事件」の犯人として「キツネ目の男」の似顔絵を発表し、私(宮崎学39歳)は「キツネ目の男」とみなされた!ところが警察は私の「アリバイ」を崩せなかった!
E-3  1985年1月、警察が「グリコ・森永事件」の犯人として「キツネ目の男」の似顔絵を発表し、公開捜査に踏み切る。この男が「かい人21面相」の現場リーダーの可能性が高いと断定したためだ。(下131, 135頁)
E-3-2  ところがこの似顔絵は「私」(宮崎学)そっくりで、年齢・身長もぴったりだった。(下131-132頁)
E-3-3、丸大食品(1984/6/28、5000万円の裏取引を迫る)事件の時、またハウス食品(1984/11/14、裏取引で1億円を強奪しようとした)事件の時、「私」にそっくりの「キツネ目の男」が捜査員によって目撃されていた。(下135-138頁)
E-3-4 すでに1984年10月から警察が私の「おふくろ」、京都の喫茶店・飲み屋、私の仕事仲間のところにきて色々聞きまわっていた。(下139頁)
E-3-5  1985年1月、警察が「グリコ・森永事件」の犯人として「キツネ目の男」の似顔絵を発表し公開すると、みじかの連中からも「そっくりだ」と言われるようになった。実に「ヤバイ事態」だった。尾行がついている気配もあった。(下139-141頁頁)
E-4  なお1985年は「山一戦争」が起きた年でもあった。山口組長竹中正久が一和会のヒットマンに射殺され日本ヤクザ会空前絶後の大抗争が勃発した。(下141-144頁)
E-5  1985/2/10、中野にあった私の自宅マンションに中野署の刑事がやって来た。「任意」なので私は「出頭」を拒否し、「自宅での 事情聴取」となった。質問は計2~3時間ほど続いた。(下141-147頁)
E-5-2  最大の問題点は、「私」にそっくりの「キツネ目の男」が捜査員によって目撃されたことだ。①丸大食品(1984/6/28、5000万円の裏取引を迫)事件の時、また②ハウス食品(1984/11/14、裏取引で1億円を強奪しようとした)事件の時の私の「アリバイ」が問題だった。(下145-146頁)
E-5-2-2 ①6月の時は、私は「某音楽大学労組の会議に出席していた」、② 11月の時は、私は「東京で私の弁護士と打ち合わせしていた」。(下146頁)
E-5-2-3  警察の捜査員は「私」を事件の「最重要参考人」と見ており、ことに「キツネ目の男」に関しては「あいつに間違いない」「あいつしかおらん」としていたようだ。ところが結局、警察は私の「アリバイ」を崩せなかった。(下169頁)

(4)-3 「グリコ・森永事件」の構図:問題は「裏取引」と「株価操作」(犯人は株価を下落and上昇させ《空売り》や《買い戻し》で稼ぐ)だ!
E-6 1984/2/10中野署の刑事による「自宅での 事情聴取」の時、私は「警察はグリコ事件の構図をどう考えているんだ」と質問した。年嵩の刑事が答えた。「問題は株価だ。ターゲットにされた企業の株価が事件の進展に伴って下落し終結宣言後は上昇する。その間に犯人は株の《空売り》や《買い戻し》で利ざやを稼ぐ。犯人が現金を強奪しようとしたのは、株価操作のカムフラージュだ。」(下146頁)
E-6-2 「私」の推測では、犯行の目的は「現金強奪」ではない。これだけの犯罪プロがそんな簡単に足がつくようなまねをするはずがない。現金強奪はあくまで陽動作戦だ。刑事の推測は当たっている。犯人の狙いは、脅迫を行い、世間を騒がせながら、「裏取引」と「株価操作」を行うことにあった。(下184頁)
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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996)「3 悪党の情と非情」(1980-1983年):「寺村建産」が倒産する(1980年、35歳)!警察につぶされた!後始末に狂奔した1年間!

2023-07-26 12:46:43 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996年、51歳)
「3 悪党の情と非情」(1980-1983年、35-38歳)
(3)1980年(宮崎氏35歳)10月「寺村建産」が倒産する!実質的には警察につぶされたようなものだった!
C 京都府警は「私」(宮崎学氏)と兄貴を「詐欺罪」容疑で無理に逮捕したが、起訴できず釈放した。かくて警察の威信は失墜した。表面的には私の勝ちに終わった。だがその後、私は手痛いしっぺ返しをくらう。1980年(宮崎氏35歳)10月「寺村建産」が倒産する。実質的には警察につぶされたようなものだった。(下80頁)
C-2  ①私らが釈放された直後から、金融機関が取引停止(融資中断・停止)を通告してきた。あれだけ京都府警が総力を挙げた逮捕劇だから、また宮崎兄弟は逮捕され懲役に行くと金融機関の多くが見なした。また②警察と事を構えるような会社とはこの際縁を切るのが無難という判断もあった。さらに③警察が金融機関に「寺村建産」と取引停止するよう圧力をかけた。(金融機関も裏では汚いことをやっていて警察はその尻尾をつかんでおり脅した。)(下80-81頁)
C-2-2  ④業界内部からの中傷や密告もずいぶんあった。「宮崎兄弟は間違いなくまた逮捕され、間もなく不渡りを出す」とかのデマが流された。会社維持のため私は「談合破り」など悪辣なことを強引にやり続け業界から蛇蝎のように嫌われていたからだ。それに④-2 派手にやり過ぎた結果として「出る杭は打たれる」の法則が重なった。④-3 かくて信用不安をかきたてる動きが激化した。(下81-82頁)
C-2-3  ⑤倒産の決定打となったのは金融機関が融資を中断したのを知った「ヤクザ連中」が急に不安を感じはじめ、さっそく借金の回収にかかったことだ。(下82頁)
C-3  逮捕から3か月後の1980年10月(Cf. 山口百恵引退の10日後)ついに「不渡り」を出し「寺村建産」は倒産した。負債は25億。そのうち金融機関の負債は20億、あとの5億は寺村組関係者をはじめとするヤクザからの借金だった。(下86頁)
C-3-2  不渡りを出した途端にヤクザと金融機関の人間がドドッと会社になだれ込んできた。怒声や罵声が飛びかい、蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。こうなればもう俎板の上の鯉である。(下86頁)

(3)-2 「倒産」の後始末に狂奔した1年間(1980.11月~1981秋)は心底喘ぎに喘いだ!そのぶんだけ、人の裏表を痛いほど知らされた!
D  倒産に至るプロセスは神経をすりつぶす茨道だったが、それ以上にしんどかったのが「倒産の後始末」だった。後始末に狂奔した1年間(1980.11月~1981秋)は心底喘ぎに喘いだ。そのぶんだけ、人の裏表を痛いほど知らされた。(下87頁)
D-2  一番の苦労は25億円の借金のあと始末だった。銀行関係の負債20億は、会社の土地・建物・器材、それに私や兄貴の自宅などが抵当に入っていたから、勝手に処分させればよかった。(下87-88頁)
D-3  問題は、残りの5億、ヤクザや闇金融からの借金である。激烈な追い込みがかかるのは目に見えていた。 自分の家族と兄貴の家族を京都から逃がした。兄貴も姿をくらまさせた。(兄貴も極道者だったが総領の甚六で荒事に向いていなかった。ヤクザ連中ともみ合うのは私一人の方が気が楽だった。)(下88頁)
D-3-2 きわどい場面もかなりあったが、殺されるとは思わなかった。私を殺したところで金を取り戻せない。私が借金返済のため金策に走り回っていることは、ヤクザ連中もよくわかっていた。問題はやり取りのゆきがかりで撃たれたり刺されたりすることだったが、それはもう仕方のないことだと観念していた。(下89頁)
D-4 しかし渡る世間も鬼ばかりでない。金の論理だけで動く血も涙もない金の亡者ばかりでない。金の苦労をしているだけに、他人の苦労を思いやる情もあり、義侠心もある者もいる。それになによりも金の使い方が巧みである。(下89頁)
D -4-2 ①無言で現金をそっと届けてくれる者がいる。②「金の苦労はお互いさまや、これつこうとくんなはれ」と札束をポンと渡されたこともある。③兄貴がかなりの額の借金をしていた内田組の社長に、私(宮崎学)は「今のところ、借金を払えるメドはない。しかし払えるようになったら間違いなく払います」と言いに行った。社長は苦笑いしながら言った。「借金の言い訳に堂々と来られたんでは、たまったもんやない。あんたもおかしな人やな。ようわかった。金のことはもうええ。あれはわしからの見舞金と思てくれ」。これだけで、その後も金の話には一切触れなかった。(下81-91頁)
D-4-3 ④四代目会津小鉄の高山久太郎(1928-2003)会長も兄貴の5000万円の借金について私が詫びに行くと、「わかった。わしのことは気にするな」と即座に言った。四面楚歌の苦境にある身としては、泣きたいほど有難いことであった。⑤木幡勇一社長にも4000万円ほどの借金があり、全く返済できずにいた。私が「社長、金のことで迷惑をかけてすまん」と詫びを入れると、「金?何のこっちゃ。わしはあんたに金なんか貸していない。貸してえへんがな。倒産騒ぎで、頭おかしなったんと違うけ」と言った。私はその温情に今も恩義を感じている。(下94頁)
D-4-4 倒産前後の金の苦しみは実に地獄の苦しみだった。だがその一方で人間の情や男気に出会うこともできた。倒産で苦労した者には人間としての奥行きがある。倒産した経営者の3割が再起を果たす。再起組は人間が二回りも三回りも大きくなる。(下95頁)

(3)-3 バッタ屋の用心棒!(「倒産」の後始末中、1980.11月~1981秋)
D-5 「倒産」の後始末に走り回りながら、その一方で日々の生活費、活動費、それに東京にいる家族への仕送りの金を稼ぎださねばならなかった。私はアングラマネー(地下金脈)にかかわる危ない仕事をやった。バッタ屋の用心棒だ。(下97頁)
D-5-2 バッタ屋は闇ルートで安く仕入れた商品をスーパーやディスカウントショップに卸す特殊な卸問屋だ。取引はすべて現金決済。持ち込まれる物品(Ex. 倒産会社の売れ残り在庫、盗品など)の素性を詮索はしない。バッタの本場は大阪である。(下98-99頁)
D-6  1981年秋、私は京都を引き払って東京の家族のもとに戻ると決め、京都撤退の準備にかかった。実質的に夜逃げであった。先に何の希望も展望もなかった。1982年1月、私は東京に戻った。(下114-115頁)

(3)-4 1982年(宮崎37歳)1月に東京に戻る:仕事を斡旋してもらうため万年東一(74歳)をたずねた!
D-7  1965年に上京し(早大入学)、その後1975年に家業を継ぐため東京を去り、京都に帰り、1982年1月に東京に戻った。今や「クリスタル族」(Cf. 田中康夫『なんとなく、クリスタル』1980)、「ルンルン気分」(Cf. 林真理子『ルンルンを買っておうちに帰ろう』1982)の時代だった。エズラ・ヴォ―ゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)がベストセラーとなり、大国意識が国民的に浸透し始めていた。(下115-116頁)
D-8 1982年1月東京に舞い戻った私(37歳)は仕事を斡旋してもらうため万年東一(1908-1985;当時74歳)をたずねた。(下116頁)
D-8-2  万年東一は敗戦後(1945年、万年37歳)、東京の盛り場で新宿を拠点に暴れまわり「愚連隊の神様」と呼ばれた。彼は「ヤクザ」にはならなかった。(主に「ヤクザの用心棒」をつとめた。)万年に私淑する者は多く、安藤組の元組長安藤昇(1926-2015)もその一人だった。山口組三代目の田岡一雄(1913-1981)組長なども万年は呼び捨てにしていた。(下117-119頁)
D-8-3  万年はいろいろな仕事を私にまわしてくれた。多かったのは集金である。行先はヤクザの親分・幹部や右翼ばかりだ。いきなり行き「万年東一からいわれて集金に来ました」と告げる。相手は苦虫を噛みつぶしたような顔つきになるが結局はほとんど数百万円単位の金を出した。Ex. 笹川良一(1899-1955)のところにも二度ほど集金に行った。(下123-124頁)
D-8-3-2 集金した金を万年に持っていくと、万年はその場で私に手間賃を払った。500万円の集金なら200万円程度。そして残りはその場にいる若い衆に無造作に配った。まったくもって淡泊極まりなかった。(下125頁)
D-8-4  万年東一(74-75歳)のそばで送った1年間は実に充実して密度の濃い1年(1982-83年;宮崎37-38歳)だった。(下130頁)
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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996)「2 ゼネコン恐喝」(1980年、35歳):私らの「詐欺事件」を京都府警が「伏見工場恐喝事件」解明の突破口にしようとしたが失敗!

2023-07-24 11:20:04 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996年、51歳)
「2 ゼネコン恐喝」(1980年、35歳)
(2)京都府警が「伏見工場恐喝事件」解明の突破口にしようとした私ら兄弟の「詐欺事件」は、起訴されず私らは釈放された!「おのれのいい分を通して警察と渡り合い、いい分を通し切ったのだから、大したもんや」!
B 京都府警が「ゼネコン詐欺」(大手ゼネコンの「佐藤工業」から1200万円を搾取した)の容疑で1980年7月、私(宮崎学氏)と兄貴を逮捕する。その直前、私は読売新聞大阪本社社会部の大谷昭宏と会い、連載記事「企業恐喝を追う」に情報提供すると伝えた。(下46-50頁)
B-2  だが私は「詐欺」はしていない。「佐藤工業」から「ヤクザにいちゃもんをつけられて困っている。なんとかならないか」と話をもちかけられた。私は1200万円を受け取り、全額を丸岡鉄太郎組長(会津小鉄系二代目寺村組組長)に渡し揉め事の解決を依頼した。佐藤工業は「相場からして安い金ですみました。有難うございました」と喜んでいた。(下57頁)
B-3  ところが警察が佐藤工業に「被害届を出さなければ、公共工事の指名を停止するぞ」と圧力をかけたので、佐藤工業は詐欺の被害届を出した。(Cf. 詐欺罪は親告罪。)だが私自身はカネを1円も受け取っていない。つまり金を詐取していない。(下57-58頁)
B-3-2  かくて京都府警は出頭・逮捕から16日目に私を釈放した。(兄貴も同時に釈放された。)(下73頁)
B-3-3 京都府警は「専売公社の新工場(伏見工場)建設」に絡む竹中工務店など大手ゼネコン7000万円恐喝事件(「伏見工場恐喝事件」)(下48-49頁)の「参謀」役が私と兄貴だと見なし「詐欺罪」容疑で無理に逮捕したのだった。(下55-56頁)
B-4  専売公社「伏見工場恐喝事件」解明の突破口にしようとした私ら兄弟の「詐欺事件」がこうした結果に終わり、警察の捜査は空転した。他方で「新聞」が捜査と同時進行で事件を報道した。かくて警察の威信は失墜した。(下74頁)
B-5  この企業恐喝事件で「寺村土建」(宮崎学)、「寺村建産」(兄貴)はますます「市民の敵」と見られるようになった。しかし滋賀県の土建屋内田組の社長は「おのれのいい分を通して警察と渡り合い、いい分を通し切ったのだから、大したもんや」と言ってくれた。内田組の社長の価値基準は「ものごとの筋目」だ。(下76-77頁)
B-5-2  ここには今の市民社会で薄れてしまった「筋目や情、それに侠(オトコギ)」がある。(下78頁)
B-5-3  ヤクザの世界は「3つの言葉」を知っていれば渡れる。①「イモを引くな」:切所(セッショ;難所)でびびるな。②「クンロクを入れる」:相手の動揺する心にとどめを刺す(「お前も男やろ。しゃきっとせんかい!」Ex. ヒットマンを説得する)。③「往生する」:苦境に立った時、自らにふんぎりをつける、自分を捨てる。(下79頁)

《感想1》「生きていく」のに重要なのは、「芸」つまり専門的技能である。(Cf. 「芸は身を助ける」。)つまり「他者たちにとって役立ち買ってもらえる」そして「簡単に誰でもできるのでない」専門的技能だ。「芸」を身につけることが「生きる力」の根本だ。
《感想1-2》宮崎学氏にとって「芸」とは「鳶」であり「土方」である。「芸」としての「ヤクザ」についてはあまり語られない。
《感想2》「ヤクザ」の世界は「3つの言葉」を知っていれば渡れると宮崎氏は言うが、この「3つの言葉」は「戦場の兵士」に向けての言葉でもある。
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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996)「1 金地獄に踊る」(1977-1979年、32-34歳):兄貴の会社「寺村建産」の資金繰りはますます逼迫の度を強めていた!

2023-07-22 15:40:37 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996年、51歳)
「1 金地獄に踊る」(1977-1979年、32-34歳)
(1)兄貴の会社「寺村建産」の経営危機は続き、資金繰りはますます逼迫の度を強めていた!
A 1977年(宮崎氏32歳)大阪で全国初の「サラ金被害者の会」が結成され、当時「サラ金地獄」がマスコミで喧伝されていた。(下9頁)
A-2  兄貴の会社「寺村建産」の経営危機は続いていた。資金繰りはますます逼迫の度を強めていた。(下15頁)
A-2-2  だが手形の処理をいかに取り繕っても何の解決にもならない。事態を改善するには仕事を取らなければならない。私の会社「寺村土建」は「談合破り」など荒っぽいことを強引にやり続けた。かくて業界から冷たい目で見られるようになる。その感情に「ヤクザ系の会社は排除すべし」という社会正義が加味され、「談合」から締め出されることが多くなっていった。(下17頁)
A-2-3 かくて「筋の悪い仕事」が増えた。「抵当権が付いた建物」の解体(下18-20頁)、またスクラップの「二度売り」(下22-25頁)、他人の山の「砂利」の無断採取(下24-28頁)、大阪の「スクラップ屋」のおっちゃんを騙す(下28-32頁)。だが手に入れた金は兄貴の会社「寺村建産」に全部ぶち込み、瞬く間に費消した。(下28頁)
A-3  1978年(33歳)の後半に入ると手形を「期日当日」に決済することすら難しくなった。決済日の翌朝の9時半まで銀行に待ってもらった。(「朝ズリ」!)(下38頁)
A-4 1979年(34歳)頃、追い詰められた私が最後にやった現金調達法は「賭場で金をくすねる」ことだった。(下43-45頁)
A-5  当時(1977-1979年)、日本の政治は1976年に発覚したロッキード事件で揺れていた。また日本経済は1973年の第1次オイルショクで起こった不況を克服したところで、それもつかの間、1979年に第2次オイルショックに見舞われた。(下45頁)
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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996)「7 掟破りの日々」(1975-1976、30-31歳):「談合破り」で仕事(公共事業)を取る!「突破」(「突破者」)!

2023-07-22 14:04:20 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996年、51歳)
「7 掟破りの日々」(1975-1976、30-31歳)
(1)1975年(30歳)、兄貴の経営する「寺村建産」の経営危機に私は立ち向かうことになった!
A 1975年(30歳)京都の実家から「ピンチや、こっちに戻ってくれんか」との依頼があり、私は兄貴の経営する「寺村建産」(社員百数十人)の経営危機に立ち向かうことになった。(上302頁)
A-2  寺村建産の経営危機はまず「資金繰り」だった。自転車操業で、毎日まわってくる手形を借金したり手形を割ったりしてなんとか辛うじて決裁していた。(上304-305頁)
A-2-2 「寺村建産」は関西では名の通った解体屋だったが、近代化しつつある土木建設業界のなかで時代の波から取り残されようとしていた。かつては大きな公共事業を軒並み取っていたが、仕事の量が徐々に減っている。寺村建産は思ったより深刻な危機にあるようだった。(上306頁)
A-2-3  いかなる無理を通してでも「寺村建産」を守るぞと私は腹をくくった。その第一歩として「寺村土建」なる新会社を設立し私が社長に就任した。社員は7~8人で気性の荒い荒くればかりを集めた。無理を通せば喧嘩になる。喧嘩になった時戦力になる事を人選のポイントとした。(上307頁)

(2)「談合破り」で仕事(公共事業)を取る!「突破」(「突破者」)!
B 無茶の手始めは「談合破り」だった。「談合」とは公共事業の入札の際のカルテル行為であり、①受注を希望する業者が入札価格を協定管理したり、②業者間で受注順序や落札業者をあらかじめ取り決めたりする。(上311頁)
B-2  私は「談合がなんぼのもんじゃい」と最初から喧嘩腰でのぞみ、最後まで絶対に「下りる」と言わない。籤引きで指名業者を決める場合はインチキの籤引きを仕組む。(中立業者の見届け人が持つ籤を「外れ籤」のみにして相手に先に籤を引かせる。)(上314頁)
B-2-2  さらに「談合」で落札を決めた業者が役所に提出する最低入札価格よりも、低い金額を書き仕事を奪う「談合破り」もする。(上315-316頁)
B-2-3  私(宮崎学氏)こんなことを京都や滋賀県でやった。会社は一息ついたが、業界の慣行や付き合い方を足蹴にする非道が問題になった。(上316-317頁)
B-2-4  資金繰りに追われてこのように無茶をやったので、私は「突破」(「突破者」)と言われた。「突破」(「突破者」)とは無茶者、突っ張り者、とりわけ家父長的原理に基づいて無茶をやる者だ。(Ex. 親方としてヤクザと渡り合い職人を守る。)(上323-325頁)

(3)土建屋の二大大敵:「ヤクザ」と「住民運動」!「寺村は何が出てきてもめげない」という評価が生まれ、大手ゼネコンからの工事依頼が増えた!
C 土建屋には二大大敵がある。「ヤクザ」と「住民運動」だ。だから土建屋は「近隣対策費」をバラマキ工事のストップないし取り止めに追い込まれないようにする。(上325頁)
C-2  「住民運動」といってもただの「住民エゴ」にすぎないこともある。京都のホワイトカラー層が住む住宅街の「住民エゴ」の住民運動に対して、私は「突破」をやった。「住民」側は共産党を頼みにしたり、「警察」を呼んだりしたが私はブルドーザー3台で強引に建物を解体させた。(上326-329頁)
C-3  私には「市民の敵」という烙印が押されたが、「寺村は何が出てきてもめげない」という評価が生まれ、大手ゼネコンからの工事依頼が増えた。ゼネコンからの依頼が増えるや、会社の資金繰りが楽になった。(上329頁)
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