※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書
(44)「ポストモダン文学はどこへ行く」:進化しすぎて、1990年代には行き場を失いかけていた!
H 進化しすぎた生物は、自分で自分の首を絞め、生活がしづらくなって絶滅の道をたどる「進化の袋小路」という説が生物学にかつてあった。これと似たことが「文学」にある。例えば、進化しすぎた「私小説」は、内側に閉じこもりすぎて、読者を失った。(157頁)
H-2 1980年代に一世を風靡した「ポストモダン文学」も、進化しすぎて、1990年代には行き場を失いかけていた。(157頁)
H-2-2 ただし女性作家のポストモダンは、ジェンダーという媒介項が投入されている分、鮮度が高かった。(157頁)
H-2-3 しかし男性作家は大変だった。(ア)いまさら知識人批判でもない。(イ)文学の権威を否定したくても、そんなものはもうどこにもない。(斎藤美奈子氏評。)(157-158頁)
(44)-2 奇妙な恋愛小説&前衛的な笑いの炸裂:三浦俊彦『M色のS景』(1993)&『これは餡パンではない』(1994)! 石黒達昌(タツアキ)『平成3年5月2日~』(1994):「ポストモダン文学」の「進化の袋小路」!Cf. 瀬名秀明『パラサイト・イヴ』(1995)! Cf. ハラルト・シュテンプケ『鼻行類』(1987)
H-3 三浦俊彦(1959-)『M色のS景』(1993)は奇妙な恋愛小説だ。(158頁)
《紹介文》SMの美学をおしたわめ、抱腹絶倒、喜怒愛痛大振幅の光景を大活写。言葉遊びあり、ナンセンス問答あり、あらゆる文章の遊びありのアヴァン・ポップ・ノベル。
《書評》「マーケティング調査の結果、うけるだろうと予想したらこんなのできました」という感じの本。
《参考》三浦俊彦(1959-):1983東大文学美学芸術学科卒業。同大学院へ進学、1989博士課程満期退学。2015より東大 大学院教授。虚構世界論等、美学・哲学の研究者。
H-3-2 三浦俊彦『これは餡パンではない』(1994)では、前衛的な笑いが炸裂する。前衛美術の公募展「アンデパンダン展」に訪れた画学生の男女が、あまりの下劣さやガラクタぶりに絶句し、やがて自我が崩壊する・・・・という作品。(158頁)
《書評》読みものとして楽しむ前衛美術。何が何やら意味不明な前衛アートも、小説というフォーマットを通して、コンセプトから読めばそれなりに楽しめる。とはいえ、ちょっと悪趣味に走り過ぎている。
H-3-3 石黒達昌(タツアキ)(1961-)『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』(1994、33歳)は横書きで書かれ、実はタイトルもない。『平成3年5月2日~』は仮タイトルで「小説の書きだし」を写しただけだ。(158頁)
H-3-3-2 『平成3年5月2日~』は、絶滅が危惧される架空の動物「ハネネズミ」の繁殖をめぐるレポートいう体裁をとる。
《書評1》この物語は「ハネネズミ」という架空の生き物の生態を調査した人たちの証言をもとに、図などを交えて論文調に仕立て上げた珍しいものだ。最初は「ハネネズミ」の生態を追っていくが、その奇妙な生態を追っていくうちに「生物とはなにか」という哲学的な問題に突き当たる。面白かった。
《書評2》題名が奇をてらったもののようですが、内容は重厚です。「ハネネズミ」への好奇心が止まりません。これほど魅力のある作品をこれまで見過ごしていたとは!石黒達昌は日本が誇るSF作家です。
《参考》石黒達昌(タツアキ)(1961-):1987東大医学部卒業。1995 同大学院卒業、医学博士。1999 東大医科学研究所講師。2005テキサス大学MDAnderson癌センター助教授。2008年 日比谷内幸町クリニック医師。
H-3-3-3 石黒達昌『平成3年5月2日~』は、ハラルト・シュテンプケ『鼻行類』(1987)を彷彿させる。(158頁)
《参考》『鼻行類』の著者ハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke)は架空の人物。実際の著者はドイツの動物学者、ゲロルフ・シュタイナー(Gerolf Steiner)(1908 - 2009)である。
《書評》ハラルト・シュテンプケ『鼻行類』:「鼻行類」(ハナアルキ)は想像上の生物。しかしこの本は「本当にハナアルキは存在するのではないか?」と思わせる力がある。そのくらい微に入り細に入り、鼻行類の分類と生態が詳述されている。鼻行類の系統樹、解剖図、胎児の成長過程、各グループの詳細な生態、たくさんの引用文献、また添えられた美しい挿入図。鼻でジャンプするトビハナアルキ、子連れの多鼻類・ナゾベーム、花に擬態するハナモドキ・・・。
H-3-3-4 1990年代、2000年代には、瀬名秀明(セナヒデアキ)(1968-)『パラサイト・イヴ』(1995、27歳)がベストセラーになるなど理科系の小説が話題になる。石黒達昌(タツアキ)『平成3年5月2日~』はいわばその純文学版だ。(158頁)
《参考》『パラサイト・イヴ』(1995):事故で亡くなった愛妻の肝細胞を密かに培養する生化学者・利明。Eve1と名付けられたその細胞は、恐るべき未知の生命体へ変貌し、暴走をはじめる。バイオ・ホラー小説。
H-3-3-4 「変態の文学マニア」は石黒達昌『平成3年5月2日~』のような作品を好む。(「私も嫌いじゃない」と斎藤美奈子氏。)しかしそれは「自閉的」とも言える。つまり「ポストモダン文学」の「進化の袋小路」に陥っていると言える!(158頁)
(44)-3 「自意識」が半端でなく「袋小路」な小説:阿部和重『アメリカの夜』(1994)!
H-4 阿部和重(カズシゲ)(1968-)『アメリカの夜』(1994、26歳)もかなり「袋小路」な小説だった。「自意識」が半端でなく、脱線につぐ脱線、逸脱につぐ逸脱。自分を語るのに、こんなに込み入った手続きが必要なのかと、そのこと自体が驚きだった。(斎藤美奈子氏評。)(Cf. これは1980年代の「現代思想系の論文」のパロディでもある。)(158-159頁)
H-4-2 内容は「特別なひと」になりたいと妄想する「頭でっかちな映画青年」の読書と思索と失敗の記録のようなものだ。(158-159頁)
《参考》「アメリカの夜」とは映画撮影用語で、晴天をフィルターで暗く撮ってつくるフェイクの夜のシーン。
《書評》バイト生活をしながら「特別な存在」になるために、読書しまくり思索にふける若者……。青春小説!
(44)-4 「すでに死んでいるものと積極的に戯れる」:平野啓一郎『日蝕』(1998)!
H-5 平野啓一郎(1975-)『日蝕』(1998、23歳)(芥川賞受賞)は「現役京大生のデビュー作」として話題を呼んだが、「相当変態な袋小路系の小説」(斎藤美奈子氏評)だった。内容は「15世紀フランスの神学生がフィレンツェに旅する奇譚」だ。(159頁)
H-5-2 四方田犬彦(ヨモタイヌヒコ)は、平野はこの小説で示したのは「すでに死んでいるものと積極的に戯れることだ」と述べた。(159-160頁)
H-5-3 『日蝕』は要するに「大昔に死んだ物語」の擬態orコスプレだ。(斎藤美奈子氏評。)(160頁)
《書評》擬古文を模したらしい独特な文体は、古い異国の神秘的物語を描くには雰囲気づくりとして一定の効果を果たしている。ただ「単なる難解さだけの自己満足なナルシズム」と捉える事もできる。ここら辺が「評価のわかれる所」ではないかと思う。
(44)-5 前衛志向の作家が長く書き続けるには、小説に厚みを加える「燃料」(or「資材」)が必要だ:「歴史」(近代史)あるいは「近代文学」!
H-6 その後の阿部和重(1968-)は、メタフィクショナルな仕掛けにエンターテインメント性を加味した『インディヴィジュアル・プロジェクション』(1997、29歳)あたりから、時代の先端をゆく作家と認定された。(160頁)
《内容》渋谷・公園通り。風俗最先端の街に通う映写技師オヌマには、5年間のスパイ私塾訓練生の過去があった。一人暮しのオヌマは、暴力沙汰にかかわるうち、圧縮爆破加工を施されたプルトニウムをめぐるトラブルに巻き込まれていく。ヤクザや旧同志との苛烈な心理戦。映画フィルムに仕掛けられた暗号。騙しあいと錯乱。ハードな文体。
《書評1》阿部作品に頻出の暴力、のっぴきならない状況、苦境からの脱出劇といったものが好きな方には楽しめると思う。主人公の自我がゆらいでいく過程の描き方が、やはり阿部らしくて良い。
《書評2》「この世界は暴力と不条理に満ちている。だからお前は強くなれ」という主題が、ちゃんとこちらにも伝わってきます。
H-6-2 平野啓一郎(1975-)は、19世紀のショパンとドラクロワを主役にした長編『葬送』(2002、27歳)(※ジョルジュ・サンドと不和となり、パリに戻ってきたショパンが、39歳の生涯を閉じるまでを、画家ドラクロワとの友情を縦糸に、緻密な考証にもとづき語る)の頃から実力派作家の底力を見せはじめる。(160頁)
H-6-3 対照的に、その後の三浦俊彦(哲学系の大学教授)や石原達昌(タツアキ)(医学系の大学教授)は何度も芥川賞や三島賞の候補になりながら、受賞は逃した。(160頁)
H-6-4 一方で阿部和重・平野啓一郎、他方で三浦俊彦・石黒達昌(タツアキ)、この差は何か?前衛志向の作家が長く書き続けるには、小説に厚みを加える「燃料」(or「資材」)が必要だ。考えられる「燃料」の一つは「歴史」(近代史)、そしてもう一つは「近代文学」だ。(次節)Cf. 三浦は哲学系の、石黒は医学系の大学教授なので、文学関係の賞は取れなくていいのかもしれない。(斎藤美奈子氏評。)(160頁)
(44)「ポストモダン文学はどこへ行く」:進化しすぎて、1990年代には行き場を失いかけていた!
H 進化しすぎた生物は、自分で自分の首を絞め、生活がしづらくなって絶滅の道をたどる「進化の袋小路」という説が生物学にかつてあった。これと似たことが「文学」にある。例えば、進化しすぎた「私小説」は、内側に閉じこもりすぎて、読者を失った。(157頁)
H-2 1980年代に一世を風靡した「ポストモダン文学」も、進化しすぎて、1990年代には行き場を失いかけていた。(157頁)
H-2-2 ただし女性作家のポストモダンは、ジェンダーという媒介項が投入されている分、鮮度が高かった。(157頁)
H-2-3 しかし男性作家は大変だった。(ア)いまさら知識人批判でもない。(イ)文学の権威を否定したくても、そんなものはもうどこにもない。(斎藤美奈子氏評。)(157-158頁)
(44)-2 奇妙な恋愛小説&前衛的な笑いの炸裂:三浦俊彦『M色のS景』(1993)&『これは餡パンではない』(1994)! 石黒達昌(タツアキ)『平成3年5月2日~』(1994):「ポストモダン文学」の「進化の袋小路」!Cf. 瀬名秀明『パラサイト・イヴ』(1995)! Cf. ハラルト・シュテンプケ『鼻行類』(1987)
H-3 三浦俊彦(1959-)『M色のS景』(1993)は奇妙な恋愛小説だ。(158頁)
《紹介文》SMの美学をおしたわめ、抱腹絶倒、喜怒愛痛大振幅の光景を大活写。言葉遊びあり、ナンセンス問答あり、あらゆる文章の遊びありのアヴァン・ポップ・ノベル。
《書評》「マーケティング調査の結果、うけるだろうと予想したらこんなのできました」という感じの本。
《参考》三浦俊彦(1959-):1983東大文学美学芸術学科卒業。同大学院へ進学、1989博士課程満期退学。2015より東大 大学院教授。虚構世界論等、美学・哲学の研究者。
H-3-2 三浦俊彦『これは餡パンではない』(1994)では、前衛的な笑いが炸裂する。前衛美術の公募展「アンデパンダン展」に訪れた画学生の男女が、あまりの下劣さやガラクタぶりに絶句し、やがて自我が崩壊する・・・・という作品。(158頁)
《書評》読みものとして楽しむ前衛美術。何が何やら意味不明な前衛アートも、小説というフォーマットを通して、コンセプトから読めばそれなりに楽しめる。とはいえ、ちょっと悪趣味に走り過ぎている。
H-3-3 石黒達昌(タツアキ)(1961-)『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』(1994、33歳)は横書きで書かれ、実はタイトルもない。『平成3年5月2日~』は仮タイトルで「小説の書きだし」を写しただけだ。(158頁)
H-3-3-2 『平成3年5月2日~』は、絶滅が危惧される架空の動物「ハネネズミ」の繁殖をめぐるレポートいう体裁をとる。
《書評1》この物語は「ハネネズミ」という架空の生き物の生態を調査した人たちの証言をもとに、図などを交えて論文調に仕立て上げた珍しいものだ。最初は「ハネネズミ」の生態を追っていくが、その奇妙な生態を追っていくうちに「生物とはなにか」という哲学的な問題に突き当たる。面白かった。
《書評2》題名が奇をてらったもののようですが、内容は重厚です。「ハネネズミ」への好奇心が止まりません。これほど魅力のある作品をこれまで見過ごしていたとは!石黒達昌は日本が誇るSF作家です。
《参考》石黒達昌(タツアキ)(1961-):1987東大医学部卒業。1995 同大学院卒業、医学博士。1999 東大医科学研究所講師。2005テキサス大学MDAnderson癌センター助教授。2008年 日比谷内幸町クリニック医師。
H-3-3-3 石黒達昌『平成3年5月2日~』は、ハラルト・シュテンプケ『鼻行類』(1987)を彷彿させる。(158頁)
《参考》『鼻行類』の著者ハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke)は架空の人物。実際の著者はドイツの動物学者、ゲロルフ・シュタイナー(Gerolf Steiner)(1908 - 2009)である。
《書評》ハラルト・シュテンプケ『鼻行類』:「鼻行類」(ハナアルキ)は想像上の生物。しかしこの本は「本当にハナアルキは存在するのではないか?」と思わせる力がある。そのくらい微に入り細に入り、鼻行類の分類と生態が詳述されている。鼻行類の系統樹、解剖図、胎児の成長過程、各グループの詳細な生態、たくさんの引用文献、また添えられた美しい挿入図。鼻でジャンプするトビハナアルキ、子連れの多鼻類・ナゾベーム、花に擬態するハナモドキ・・・。
H-3-3-4 1990年代、2000年代には、瀬名秀明(セナヒデアキ)(1968-)『パラサイト・イヴ』(1995、27歳)がベストセラーになるなど理科系の小説が話題になる。石黒達昌(タツアキ)『平成3年5月2日~』はいわばその純文学版だ。(158頁)
《参考》『パラサイト・イヴ』(1995):事故で亡くなった愛妻の肝細胞を密かに培養する生化学者・利明。Eve1と名付けられたその細胞は、恐るべき未知の生命体へ変貌し、暴走をはじめる。バイオ・ホラー小説。
H-3-3-4 「変態の文学マニア」は石黒達昌『平成3年5月2日~』のような作品を好む。(「私も嫌いじゃない」と斎藤美奈子氏。)しかしそれは「自閉的」とも言える。つまり「ポストモダン文学」の「進化の袋小路」に陥っていると言える!(158頁)
(44)-3 「自意識」が半端でなく「袋小路」な小説:阿部和重『アメリカの夜』(1994)!
H-4 阿部和重(カズシゲ)(1968-)『アメリカの夜』(1994、26歳)もかなり「袋小路」な小説だった。「自意識」が半端でなく、脱線につぐ脱線、逸脱につぐ逸脱。自分を語るのに、こんなに込み入った手続きが必要なのかと、そのこと自体が驚きだった。(斎藤美奈子氏評。)(Cf. これは1980年代の「現代思想系の論文」のパロディでもある。)(158-159頁)
H-4-2 内容は「特別なひと」になりたいと妄想する「頭でっかちな映画青年」の読書と思索と失敗の記録のようなものだ。(158-159頁)
《参考》「アメリカの夜」とは映画撮影用語で、晴天をフィルターで暗く撮ってつくるフェイクの夜のシーン。
《書評》バイト生活をしながら「特別な存在」になるために、読書しまくり思索にふける若者……。青春小説!
(44)-4 「すでに死んでいるものと積極的に戯れる」:平野啓一郎『日蝕』(1998)!
H-5 平野啓一郎(1975-)『日蝕』(1998、23歳)(芥川賞受賞)は「現役京大生のデビュー作」として話題を呼んだが、「相当変態な袋小路系の小説」(斎藤美奈子氏評)だった。内容は「15世紀フランスの神学生がフィレンツェに旅する奇譚」だ。(159頁)
H-5-2 四方田犬彦(ヨモタイヌヒコ)は、平野はこの小説で示したのは「すでに死んでいるものと積極的に戯れることだ」と述べた。(159-160頁)
H-5-3 『日蝕』は要するに「大昔に死んだ物語」の擬態orコスプレだ。(斎藤美奈子氏評。)(160頁)
《書評》擬古文を模したらしい独特な文体は、古い異国の神秘的物語を描くには雰囲気づくりとして一定の効果を果たしている。ただ「単なる難解さだけの自己満足なナルシズム」と捉える事もできる。ここら辺が「評価のわかれる所」ではないかと思う。
(44)-5 前衛志向の作家が長く書き続けるには、小説に厚みを加える「燃料」(or「資材」)が必要だ:「歴史」(近代史)あるいは「近代文学」!
H-6 その後の阿部和重(1968-)は、メタフィクショナルな仕掛けにエンターテインメント性を加味した『インディヴィジュアル・プロジェクション』(1997、29歳)あたりから、時代の先端をゆく作家と認定された。(160頁)
《内容》渋谷・公園通り。風俗最先端の街に通う映写技師オヌマには、5年間のスパイ私塾訓練生の過去があった。一人暮しのオヌマは、暴力沙汰にかかわるうち、圧縮爆破加工を施されたプルトニウムをめぐるトラブルに巻き込まれていく。ヤクザや旧同志との苛烈な心理戦。映画フィルムに仕掛けられた暗号。騙しあいと錯乱。ハードな文体。
《書評1》阿部作品に頻出の暴力、のっぴきならない状況、苦境からの脱出劇といったものが好きな方には楽しめると思う。主人公の自我がゆらいでいく過程の描き方が、やはり阿部らしくて良い。
《書評2》「この世界は暴力と不条理に満ちている。だからお前は強くなれ」という主題が、ちゃんとこちらにも伝わってきます。
H-6-2 平野啓一郎(1975-)は、19世紀のショパンとドラクロワを主役にした長編『葬送』(2002、27歳)(※ジョルジュ・サンドと不和となり、パリに戻ってきたショパンが、39歳の生涯を閉じるまでを、画家ドラクロワとの友情を縦糸に、緻密な考証にもとづき語る)の頃から実力派作家の底力を見せはじめる。(160頁)
H-6-3 対照的に、その後の三浦俊彦(哲学系の大学教授)や石原達昌(タツアキ)(医学系の大学教授)は何度も芥川賞や三島賞の候補になりながら、受賞は逃した。(160頁)
H-6-4 一方で阿部和重・平野啓一郎、他方で三浦俊彦・石黒達昌(タツアキ)、この差は何か?前衛志向の作家が長く書き続けるには、小説に厚みを加える「燃料」(or「資材」)が必要だ。考えられる「燃料」の一つは「歴史」(近代史)、そしてもう一つは「近代文学」だ。(次節)Cf. 三浦は哲学系の、石黒は医学系の大学教授なので、文学関係の賞は取れなくていいのかもしれない。(斎藤美奈子氏評。)(160頁)