DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その4):客観的な「国権」と「財富」の対立、主体的な「善」と「悪」の対立!

2024-08-06 18:53:20 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その4)(261-263頁)
《参考》「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」の2つに分かれる。(260頁)
☆「自己疎外的精神の世界」a「現実の国」は、「風」のごとくいつも「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとくいつも「自己とちがったもの」になる「財富」との2つをもって要素としており、これら2つの相反したもの(「国権」と「財富」)が、「火」にあたる「精神」Geistによって活気づけられ、相互に他に転換する。(260頁)
☆だから「国権」と「財富」とは、いずれも「あれどなきがごときもの」だ。a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり「空の空」だ。(260頁)
☆しかしこのことは「地上」(「地」・「水」・「火」・「風」の4元素)と別に「天上」のあることを暗示している。そこに「此岸」(「地」)に対する「彼岸」(「天」)として「信仰の世界」((BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」)がある。(260頁)
☆そこでa「現実」の世界のほかにさらにb「信仰」の世界があり、したがってa「現実の国」において「国権」(「風」)と「財富」(「水」)とが互いに他に転換し疎外するばかりでなく、「此岸」(a「現実の国」)と「彼岸」(b「信仰」)も互いに疎外するが、この対立、すなわち「此岸」(「地」)と「彼岸」(「天」)との対立を克服しようとするのがb「純粋透見」だ。(260頁)

(60)-3 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」すなわち「教養の世界」は、客観的には「国権」と「財富」の対立、主体的には「善」と「悪」との対立という2種の対立を含む!
★ a「現実の国」(「地上」)において、差し当って意義を持つのは「風」(「国権」)と「水」(「財富」)だ。(261頁)
☆元素「風」について:①規定は「普遍」あるいは「即自」、②「現実意識」は「国権」、③「純粋意識」は「善」、④「現実意識と純粋意識との結合」は「高貴なる意識」だ。(261頁)
☆元素「水」について:①規定は「個別」あるいは「対他」・「対自」、②「現実意識」は「財富」、③「純粋意識」は「悪」、④「現実意識と純粋意識との結合」は「下賤なる意識」だ。(261頁)

☆②「現実意識」について、「国権」と「財富」との対立は、「『国権』がじつは『財富』」、「『財富』がじつは『国権』」というように転換がある。(261頁)
☆③「純粋意識」について、「善」と「悪」との対立は、「『善』がじつは『悪』」、「『悪』がじつは『善』」というように転換がある。(261頁)
☆④「現実意識と純粋意識との結合」について、「高貴なる意識」と「下賤なる意識」との対立は、「『高貴なる意識』がじつは『下賤なる意識』」、「『下賤なる意識』がじつは『高貴なる意識』」というように転換がある。(261頁)

★「実体」(「地上」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素、さらに別に「天上」がある)には当然、その「普遍的」な面(「風」)と「個別的」な面(「水」)、あるいは「即自的」な面(「風」)と「対他的」・「対自的」な面(「水」)があり、それぞれが「風」(いつも「自己同一」を保つ)と「水」(いつも「自己とちがったもの」になる)によって象徴される。(261頁)

(60)-3-2「普遍」と「個別」、あるいは「即自」と「対他」・「対自」という「実体自身」における区別について、受け入れる意識:①「現実意識」の場合は「国権」(「風」;「普遍」あるいは「即自」)と「財富」(「水」;「個別」あるいは「対他」・「対自」)、②「純粋意識」の場合は「善」(「風」)と「悪」(「水」)!
★「普遍」と「個別」、あるいは「即自」と「対他」・「対自」は、「実体自身」における区別だ。ヘーゲルはここでさらに、この区別を受け入れる「意識」を問題にする。しかし「意識」にもすでに「不幸なる意識」(クリスト教)の場合もそうであったように、「現実意識」と「純粋意識」との区別がある。(261頁)

★まず①「現実意識」からいうと「風」(「普遍」あるいは「即自」;いつも「自己同一」を保つ)は「国権」にあたり、「水」(「個別」あるいは「対他」・「対自」;いつも「自己とちがったもの」になる)は「財富」にあたる。①「現実意識」において「教養の世界」(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)で基本的に対立しているのは「国権」と「財富」である。(261頁)

☆「国権」(「風」)と「財富」(「水」)は、A「真実なる精神、人倫」の「人倫的な世界」(「ポリス」)における「国家」と「家族」にあたる。(261頁)
☆「国家」(古代ギリシャの「ポリス」)と「国権」(B「自己疎外的精神、教養」a「教養と現実の国」;「フランスの封建国家と君主国家」)はどう違うか?ギリシャの「ポリス」の場合の「国家」もむろん「権力」をもって働くが、しかし「ポリス」は「自然的な親睦」によって支えられているものなので格別「権力」の必要が際立っていなかった。しかし「近代社会」になると「個人の独立」が徹底しているために、どうしてもその統合には「権力」による強制の度が強くなる。これが単に「国家」(「ポリス」)であったものが「国権」(「フランスの封建国家と君主国家」)に転化する理由だ。(261-262頁)
☆「ポリス」においても「国家における公共的な生活」のほかに「私的な生活」つまり「衣食住の生活」もむろんある。しかし「個別性」に徹底しない「ポリス」では「営利的」意欲はそれほど顕著でなかった。かくて「国家」に対立するものは単に「家族」(Cf. 「財富」ではない)と呼ばれるだけで十分だった。(262頁)
☆だが「近代」となると、そうはゆかない。「営利」をあからさまに肯定するいわゆる「市民社会」(「資本主義社会」)が発達してくる。「国家」(「国権」)に対するものは、わざわざ「財富」と呼ばれざるをえなくなった。

★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」すなわち「教養の世界」は、①「現実意識」においては、つまり客観的には「国権」と「財富」の対立、②「純粋意識」においては、つまり主体的には「善」と「悪」との対立という2種の対立を含む。(261-263頁)

★すなわち「教養の世界」(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は②「純粋意識」からいうと「風」(「普遍」あるいは「即自」;いつも「自己同一」を保つ)にあたるのは「善」であり、「水」(「個別」あるいは「対他」・「対自」;いつも「自己とちがったもの」になる)にあたるのは「悪」である。(262頁)
☆「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。(262頁)
☆さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

★かくて「教養の世界」には、①「現実意識」に映じたさいの対立である「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、また②「純粋意識」における対立である「善」(「風」)と「悪」(「水」)との対立という2つの対立がある。(262頁)
☆このように「教養の世界」(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は「客観的」には(①「現実意識」においては)「国権」と「財富」の対立、「主体的」には(②「純粋意識」においては)「善」と「悪」との対立という2種の対立を含む。(262-263頁)

《参考1》「現実意識」と「純粋意識」!
☆ヘーゲルは(B)「自己意識」における「中世カトリック教の意識」(「不幸なる意識」)を(1)「純粋意識」と(2)「現実意識」と(3)「現実意識の自己否定」という3つの段階に分けて展開する。(151頁)
Cf. 「不幸なる意識」における《「普遍性」と「個別性」》の《「結合」と「分離」》の問題!「不幸なる意識」(クリスト教的意識)は「普遍的」なものと「個別的」のものとの矛盾を「統一」づけようとする!(148-151頁) 

《参考1-2》(1)「純粋意識」の段階としての「中世カトリック教の意識」(「不幸なる意識」)は、「帰依・信仰」の段階だ。まだ「概念」の立場に至っていない。「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、それは「ボンヤリとわかっている」にすぎず、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える。それは「概念あるいは思惟Denken」と「感覚」との中間にとどまった「帰依An-dacht」という態度だ。すなわち「思惟そのもの」には到達せず、「思惟にむかっているにすぎぬ段階」だ。(151頁)
☆「音楽を奏しミサの儀式を行じて、クリストを憧憬する」という中世人の宗教意識!(151頁)
☆ここでは「普遍的なもの」(※神)はけっきょく「個別的のもの」(※人間)としてとらえられているから、おのずと「聖墓を恢復しようとする運動」も生じる。すなわち「クリストの聖墓がトルコ人に占領されているから、ぜひ恢復しようという十字軍の運動」がおこる。(151頁)

《参考1-3》「中世カトリック教」の意識(「不幸なる意識」)の(2)「現実意識」の段階!「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」!だが「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない!(152-153頁)
☆「『神』を『精神』として内面的にとらえよう」とする努力によって、(a)「『人間』も罪を負う『人の子』であるとともに『神の子』である」という自覚がえられ、(b)「『神』も『人間の形態 Gestalt』をもったもの」であり、いな(c)「『人間』にかぎらず『形態をもつもの』はすべて『神』の現れである」ところから、(d)「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」ことになる。(152頁)
☆そうなると「欲望し享楽するというような現実的活動」も「決してけがれたものでない」とされる。(152頁)
☆「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はすでに解決されているといってもよいかのように思われる。(152頁)
☆だが「中世カトリック教」のこの(2)「現実意識」の段階においては、「分裂」はすでに解決されているわけではない。①なるほど「人間」はいろいろと「享楽することができる。しかしこれは(「人間」の)「自分の力」によることではない。「日々のパン」も「野原の羊」も「それからとった着物」などはすべて、「神」から与えられたものだ。①-2だから「彼岸的なもの」(「神」)が別にあり、「人間」である自分自身には十分な「現実性」はなく、十分の「力」もないということになる。(152頁)
☆また②「労働」していろいろの「欲望」を充足するには「才能や努力」がいるが、これらも「神」によって与えられたものである。(152-153頁)(Cf.  神の「gift」=「才能」!)
☆かくて「永遠の聖なる神」と「みにくき個別的自己」(「人間」)との「分裂」はまだ十分に克服されていない。(153頁)
☆もっとも、日々のパンも神が賜うたものであるから「人間」は神に感謝し、そうして「神」は食物や才能をも人間に与えるというように、「『神』と『人』との間に『相互承認即ち完全なやわらぎ』が成り立つ」ように思われる。しかし「人間」には(ア)「『神』に感謝しているから、これぐらいなことはやってもよいだろう」というように、「神への感謝」を「誇り」・「功徳」にするという「私」(※私情)(※「個別性」)があり、また(イ)「人間」の「欲望や享楽の意志」には「個別性」が残っていることは明らかである。しかも他方「神」は「個別性」を超えた、したがって「普遍的絶対的」のものだから、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない。(153頁)

《参考1-4》「中世カトリック教」(「不幸なる意識」)における(3)「現実意識の自己否定」の段階!(153-154頁)
☆「中世カトリック教」の(2)「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)
☆ここでヘーゲルは「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」を生かそうとする。(153頁)
☆ヘーゲルは「アセティスィズム」が「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」ことについて述べる。(153頁)
☆「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」は(a)「労働」によって獲得した所有物を投げすて「喜捨」し「寄進」する(※「個別性の否定」)のみならず、(b)なにごとについても「教会」に相談し(※「普遍性の定立」)、その指示を仰ぎ、(b)-2 「自分では決定せず」、即ち「自分の意志を放棄」し、したがって「自己のすべてを放棄する」が(※「個別性の否定」)、(c)これは「単なる否定」にとどまるのではなく、「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」。(※これこそ「中世カトリック教」の意識のの段階の(3)「現実意識の自己否定」の段階だ!)(153頁)
☆「中世カトリック教」において、「絶対者とのやわらぎ」が「免罪」Ablassというかたちであらわれてくる。(153頁)
☆「免罪」はがんらい「懺悔」contritio および「告白」confessio と結びついたものだ。なにか「罪」を犯したときには、悔恨し「懺悔」しなくてはならないが、これをさらに「僧侶」に告白することが要求される。このとき「僧侶」はそれぞれの「罪」に応じて「祈り」とか「喜捨」とか「巡礼」とか(「※「禁欲主義」の「禁欲」の諸内容に相当する)を課す。これらを果たすことによって「免罪」absolutio が宣告される。ヘーゲルはこの「免罪」ということを生かして一般に、「禁欲」を通じて「罪」が赦され「神とのやわらぎ」が成立するという意味に用いる。(153-154頁)
☆むろん「免罪」を行うものは「教会」・「神」である。「免罪」は、「天」からくるものであって「自分」でうるものではない。したがって充実した権能をもつのは「教会」や「神」であって、「信者」ではない。(154頁)
☆しかし「教会」や「神」が充実した権能をもつのは、「個別者」が「帰依」するからだ。例えば「信者」が「喜捨」するからこそ立派な「寺院」(「教会」)も建つ。(154頁)
☆かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する。すなわち「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(154頁)
☆この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(154頁)
☆このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた。(154頁)

《参考2》(C)「理性」(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のところでa「教養と現実の国」とあるが、「現実の国」を構成するものは「国権」と「財富」だ。(143頁)
☆ヘーゲルは「意識」を「普遍的」と「個別的」とにわける。「普遍的」意識は「国権」に服従する。「個別的」意識は「財富」に執着する。(144頁)
☆「普遍的」意識を実現するのは「高貴なる意識」であり、「個別的」意識を実現するのは「下賤なる意識」だ。(144頁)
☆ここへさきほどの「主と奴の関係」(《「ヘーゲルのやり口」1》)をもってくると、「高貴」と「下賤」との間にも同じことが成立する。最初は「本質的」なものは「高貴」であり、「非本質的」なものは「下賤」であるのに、後には「両方」共に「本質的」であるとともに「非本質的」であるということになり、価値において「両者」が同じことになる。(144頁)

《参考2-2》「普遍性」(※「本質的」)の方面の「善いもの」である「批判的良心」と、「個別性」(「非本質的」)の方面の「悪いもの」である「実行的良心」が、後に価値において「両者」(善い「批判的良心」と悪い「実行的良心」)とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!

《参考2-3》また(C)「理性」(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のc「良心、美魂、悪とその赦し」では、「批判的良心」が「普遍性」(※本質的)の方面、「実行的良心」が「個別性」の方面であり、「批判的良心」は「善いもの」、「実行的良心」は「悪いもの」というように一応考えられる。しかし実際には「批判的良心」も「個別的」であり、「実行的良心」も「普遍的」であるとういうことになって、「二つの良心」は同価値になり、「本質」と「非本質」の区別がなくなる。(144頁)

《参考2-4》「本質的」(※「普遍的」)である「善」と「非本質的」(※「個別的」)である「悪」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!(144頁)
☆(C)「理性」(CC)「宗教」のC「啓示宗教」(クリスト教)のところでは、「善」は「本質的」、「悪」は「非本質的」だとされる。しかしやがて「善」・「悪」ともに「普遍的」(※「本質的」)であるとともに「個別的」(※「非本質的」)であることになり、「本質的」と「非本質的」との表面的な区別はなくなってしまう。(144頁)

《参考2-5》「ヘーゲルのやり口」まとめ!(143-145頁)
☆「主」と「奴」との「相互転換」という「やり方」(「へーゲルのやり口」)は『精神現象学』全体に通ずるものだということがわかる。「主」「奴」いずれの「自己意識」も「普遍的」と同時に「個別的」であり、そこにはじめて「相互承認」の関係が実現する。即ち「自己意識」は「無限性」に到達する。これによって「自己以外になにものもない」ということから、「自己意識の自由」の段階となる。(144-145頁)
《参考2-5-2》《「ヘーゲルのやり口」0》「知覚」における「本質的性質」と「非本質的性質」という区別がなりたたない!
《「ヘーゲルのやり口」1》「主人」の意識は「本質的」、「奴隷」の意識は「非本質的」だという区別がなりたたない、すなわち「両者」は価値において同等だ!
《「ヘーゲルのやり口」2》[(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のa「教養と現実の国」]「本質的」な「高貴なる意識」と「非本質的」な「下賤なる意識」が、後に価値において「両者」が同じことになってしまう!
《「ヘーゲルのやり口」3》[(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のc「良心、美魂、悪とその赦し」]「普遍性」(※「本質的」)の方面の「善いもの」である「批判的良心」と、「個別性」(「非本質的」)の方面の「悪いもの」である「実行的良心」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!
《「ヘーゲルのやり口」4》[(CC)「宗教」のC「啓示宗教」(クリスト教)]「本質的」(※「普遍的」)である「善」と「非本質的」(※「個別的」)である「悪」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その3):「地・水・火・風」の4元素からなる「実体」!「地上」と「天上」!

2024-08-05 14:19:47 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その3)(259-260頁)
(60) 「実体」(※「反省」以前の全体)の構造が、「意識の運動」を導く!「実体」は「自然的直接的」である!ヘーゲルは「地」・「水」・「火」・「風」の「自然」の4元素になぞらえて、「実体」の構造を説明する!さらに「地」に対する「天」のあることが暗示される!
★さて(BB)「精神」B「教養」のⅠ「自己疎外的精神の世界」はどういう構造をもつのか?(259頁)
★そもそもこの「世界」が形成されるのは、知らず知らずのうちに「実体」(※「反省」以前の全体)が「人間の意識」を強制することにある。(259頁)
☆むろん当面の「意識」自身は「実体」がどのようなものであるか、どのような「構造」のものであるかを、まだ知らないし、知ってしまえば「実体」はもはや「主体」となるのだが、「実体」の構造が「意識の運動」を導くのだから、ヘーゲルはあらかじめこの「実体」(※「反省」以前の全体)の構造について説明を与える。(259頁)

★ヘーゲルは、「実体」(※「反省」以前の全体)が「自然的直接的」であるという理由で、「自然界」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素になぞらえて「実体」の構造を説明する。(259頁)
☆「風」は、「いかなるところへも浸透」し、「どこでも自己同一性を保っている」ので、「風」の特徴は「普遍性」に、「即自存在」にある。(259頁)
☆これに対して「水」は「いかようにも形成」され、いつも「自分自身とちがった他のものになる」ので、「水」の特徴は「個別性」に、「対他存在」にある。(259頁)
☆「風」と「水」との2つが「相反する」元素であって、「相互に他に転換する」ところに「自然界」は成立する。(259頁)
☆しかし「相反したものを互いに他に転換する」には、「それぞれを活気づけるもの」が必要だが、これが「火」という元素だ。「水」を熱せれば「風」となり、風を冷やせば「水」となるというわけだ。(259頁)
☆そうして「風」・「水」・「火」の3つを結合し、それらの相互に作用する出来事の「場面」の役割を担当するのが「地」だ。(259頁)

★かくて「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)は「地」・「水」・「火」・「風」の四元素によってなっている。が「自然界」がなににおいて成立しているかというと、けっきょくは「地」においてというほかない。この「地」において、「風」と「水」とが「火」に媒介されて、互いに他に転換し去る。その点からすれば、いずれもあれども無きがごときものだ。「地上」のものはすべて「空の空」だ。ここに「地」に対する「天」のあることが暗示されている。(259-260頁)

(60)-2 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)!a「現実の国」は、「風」のごとく「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとく「自己とちがったもの」になる「財富」との2つの要素からなる!「火」にあたる「精神」Geistによって、「国権」と「財富」は相互に他に転換する!a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり、「天上」or「彼岸」として「信仰の世界」がある! 
★(BB)「精神」B「教養」のⅠ「自己疎外的精神の世界」はどういう構造をしているか、「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)が「地」・「水」・「火」・「風」の4元素からなっている点から、ヘーゲルは説明する。(260頁)
★さて「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」の2つに分かれる。(260頁)

★「自己疎外的精神の世界」a「現実の国」は、「風」のごとくいつも「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとくいつも「自己とちがったもの」になる「財富」との2つをもって要素としており、これら2つの相反したもの(「国権」と「財富」)が、「火」にあたる「精神」Geistによって活気づけられ、相互に他に転換する。(260頁)
☆だから「国権」と「財富」とは、いずれも「あれどなきがごときもの」だ。a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり「空の空」だ。(260頁)
☆しかしこのことは「地上」(「地」・「水」・「火」・「風」の4元素)と別に「天上」のあることを暗示している。そこに「此岸」(「地」)に対する「彼岸」(「天」)として「信仰の世界」((BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」)がある。(260頁)
☆そこでa「現実」の世界のほかにさらにb「信仰」の世界があり、したがってa「現実の国」において「国権」(「風」)と「財富」(「水」)とが互いに他に転換し疎外するばかりでなく、「此岸」(a「現実の国」)と「彼岸」(b「信仰」)も互いに疎外するが、この対立、すなわち「此岸」(「地」)と「彼岸」(「天」)との対立を克服しようとするのがb「純粋透見」だ。(260頁)

《参考1》((C)「理性」)(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のところでa「教養と現実の国」とあるが、「現実の国」を構成するものは「国権」と「財富」だ。(143頁)
☆ヘーゲルは「意識」を「普遍的」と「個別的」とにわける。「普遍的」意識は「国権」に服従する。「個別的」意識は「財富」に執着する。(144頁)
☆「普遍的」意識を実現するのは「高貴なる意識」であり、「個別的」意識を実現するのは「下賤なる意識」だ。(144頁)
☆ここへさきほどの「主と奴の関係」(《「ヘーゲルのやり口」1》)をもってくると、「高貴」と「下賤」との間にも同じことが成立する。最初は「本質的」なものは「高貴」であり、「非本質的」なものは「下賤」であるのに、後には「両方」共に「本質的」であるとともに「非本質的」であるということになり、価値において「両者」が同じことになる。(144頁)

《参考2》「普遍的な自由な自己意識」にはいろいろな「形態」(「社会段階」)がありうる。ヘーゲルは「自己意識の自由」における「社会生活の問題」or《「社会段階」との関係の問題》について、上記のように(ア) 「快楽ケラクと必然性サダメ」と「家族」、(イ) 「人倫的世界」と「ギリシアのポリス的生活」、(ウ) 「法的状態」と「ローマの法的世界」、(エ) 「国家と財富」との立場から「中世よりフランス革命にいたる社会関係」をとく、(オ) 「フランス革命」の問題、(カ) 「道徳的世界秩序」などについて論じている。(146頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その2):「個的自己」である人間の「自己疎外」は結局、「教養」Bildungに至る!

2024-08-04 14:41:26 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その2)(257-258 頁)
(59)-6 人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる!「自己疎外」は結局、「教養」に至る!
★ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では
人間は「個的自己」として存在するが、人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』Bildungの努力」を引き受けなくてはならぬということになる。かくて(BB)「精神」A「人倫」(古代ギリシャのポリス)に続くBという段階は、「自己疎外的精神、教養」と題される。(256-257頁)

★さてギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」)とは違い、人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる。「Entfremdung」とは、「自分にfremdなもの」、「自分に疎遠で外的であるもの」になることだ。つまり「自分から離れて、自分に疎遠なものになる」というのが「疎外」だ。(257頁)
☆「疎外」は苦しいことだが、その苦行を通じてのみ人間は「真の人間」にまで自分を高め形成することができるのだから、「自己疎外」は結局、「教養」Bildungに至り、それで(BB)「精神」A「人倫」c「法的状態」から以後(※つまり「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は、ギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」)とはちがって、「人間はただ『教養』をうることによってのみ人間として存在したとみなすことができる」というように時代が変わっていると、ヘーゲルは解している。(257頁)
☆「近代社会」は、「古代社会」とちがって、「個的自己」への徹底が行われているから、「社会」と結びつくには人間は「自然性」を剥脱し否定しなければならず、そういう意味の「教養」Bildungをそなえたものでなくては「近代社会」、「近代国家」の一員たりえないと、ヘーゲルは言う。(257頁)
☆フランシス・ベーコン(1561-1626)は「知は力なり」と言ったが、この語はベーコン自身では「自然征服」のことに関するが、ヘーゲルはこの語を転用して、「近代社会」の特徴(「教養」Bildungをそなえたものでなくては人間は「近代社会」の一員たりえない)を示すものと解している。(257頁)

(59)-7 「自覚されていない」また「まだ主体となっていない」ところの「実体」(※「反省」以前の全体)!「疎外」と「教養」とは、「『実体』を身をもって体験すること」、「『実体』を『主体』化する」ことにほかならない!
★「乱暴狼藉を働くものは自滅する」というとき、そこには「実体」(※「反省」以前の全体)が働いている。「疎外」も「教養」もこの「実体」にうながされて生ずるものだ。(257頁)

《参考》「ローマ帝国」((BB)「精神」Ac「法的状態」)はやがて蛮族の侵入(4世紀後半から6世紀末にかけて起こったゲルマン諸部族の大移動)を招いて滅亡し(西ローマ帝国滅亡476)、社会の秩序は滅茶苦茶になって「中世」の暗黒時代が到来する。(255頁)
☆しかし「乱暴狼藉をほしいままにすると、人間は自分自身をも滅ぼしてしまう」。だから「『自然』のままに放任」され、「直接的な欲望のとりこ」になっているわけにはゆかない。かくて「服従すべきなにものかの厳としてあること」の必要をいまさらながら実感せざるをえない。(255頁)(※ ホッブス問題、『リヴァイアサン』1651を思い出させる。)(※「疎外」という苦行を通じてえる「教養」こそが「服従すべきなにものか」だ!)

★しかしこの「実体」(※「反省」以前の全体)はまだ「自覚」されていない。言い換えるとまだ「主体」となっていない。(258頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』のねらいは「『実体』を『主体』化する」ことだ。「実体」の段階にとどまったのではだめであって、それを「主体」化する必要がある。(258頁)
☆「疎外」と「教養」とは、「実体」(※「反省」以前の全体状況)を身をもって体験すること、「実体」を「主体」化することにほかならない。(258頁)
☆ここに「教養」の段階((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」)がヘーゲル『精神現象学』において「根本的に重要な意義」をもつゆえんがある。(258頁)

(59)-8 「『主体』化された『実体』」は「『主体』化される以前の『実体』」と異なる:(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」の段階!「フランスの封建国家と君主国家」!
★しかし「『実体』を『主体』化する」(※(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」の段階を経る)ことは、「もとの『実体』にかえる」ことではない。「『主体』化された『実体』」は「『主体』化される以前の『実体』」とは違うからだ。(258頁)
☆だから「『実体』が『主体』化される」ことによって「時代」の要求するような「新しい、古代とはちがった国家・社会」が形成されてくる。そのさい主としてヘーゲルの念頭に置かれているのは、「フランスにおける封建国家と君主国家」だ。(258頁)
☆もう少し正確にいうと、(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」という段階は、Ⅰ「自己疎外的精神の世界」、Ⅱ「啓蒙」、Ⅲ「絶対自由と恐怖」と区別されているが、いずれもフランスの場合を中心として考えられている。そしてⅠ「自己疎外的精神の世界」は、「フランスの封建国家と君主国家」のことが念頭に置かれている。

《参考》「絶対精神」についての一般的説明:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

(59)-9 《参考》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』において「実体」について言及された主な箇所一覧!
《参考1》ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
《参考1-2》(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)
《参考1-3》『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)
《参考1-4》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
・(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
・(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する。
《参考1-5》ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:これは(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!(65頁)

《参考2》「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)
《参考2-2》この「統一づけ」は2つあるとヘーゲルは考える。一つは(悟性的な)「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」だ。(67頁)
☆もう一つは「定立」と「反定立」の区別を全然なくして「統一づける」という「神秘主義の立場」だ。だがこれは、「直接知」の立場にほかならない。これは最初の「実体性の立場」に簡単に帰ってしまうものだ。(67頁)
☆これではいけないのであって(悟性的な)「定立」と「反定立」とを統合しはするけれども、どこまでも悟性的な区別を認めた上での統一であることが必要だ。真の理性は悟性的理性だ。これが「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」だ。(67頁)
《参考2-3》このようにして、最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)
《参考2-4》このことをヘーゲルは次のように述べる。(68頁)
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」(68頁)
《参考2-5》「根源的統一」というものは「真理」でなく、「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)
《参考2-6》「悟性の反省」(※悟性的諸規定を与えること)は、たしかに「人間」を「普遍的・全体的・絶対的なもの」から「個別的・部分的・相対的なもの」に導き、したがって実生活においても個人の悦楽や幸福を求めさせることになる。(Cf. 《世間知》《専門知識》を得て実利を得ること?)(68頁)
☆「悟性の反省」は「ただ漠然と直観せられ表象せられ情感せられている《全体》」(※これが「実体」だ!)を、「明確なる《思惟規定》」、しかも「自我一般のもつところの《思惟規定》」にまで分割し分析し、最初の「直観や表象」のまぬがれえなかった「個人性や主観性」を洗い落とすところに積極的意義をもつ。(68-69頁)
《参考2-7》ただ「悟性」の欠点は、個々の「思惟規定」に執着して動きのとれないところにあるが、しかし固執も極限まで行けばかえって「反対の規定」を喚起するから、それはおのずと「理性」となって最初の「全体性」が恢復せられ(「規定」の「統一」がなされ)、しかも「悟性」の与えるものは「自我一般」の「思惟規定」であるから、その「統一」はもはや「実体」ではなくして「主体」である。(69頁)
《参考2-8》「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

《参考3》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」!(73頁)
☆「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)
☆そういうところに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは言う。(73頁)
☆ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)

《参考4》ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「対象意識」(or「意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)
《参考4-2》「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆「物」(Ex. 白墨)は「性質」(Ex. 白い・一定の重さ・一定の比重・味など)をもつ。それらいろんな性質が「属性」だ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
☆「物」は性質をもっている。(Ex. 「この牛は白い」or「この馬は黒い」。)「実体」は直接的には「物」Dingである。(88-89頁)
《参考4-3》ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

《参考5》 (A)「対象意識」(「意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A) 「対象意識」(「意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)
《参考5-2》「概念」という点からいうと(A) 「対象意識」(「意識」)Ⅲ「悟性」の段階において、「法則」というものが出てくる。「法則」は「主体としての概念」の「客観的な存在的形式」をとったものだ。(90頁)

《参考6》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
《参考6-2》「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)
《参考6-3》このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

《参考7》「人倫」の見地をいれると、「他者(※対象or他我)を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者(※対象or他我)を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる。(135頁)
☆「《自己意識》の全き自由と自立とを具えた《両項の統一》であるところの《精神》というこの《絶対的実体》」、換言すれば「『我々なる我』であり『我なる我々』であるところの《精神》」とヘーゲルが述べるように、「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である。(135頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の「精神」は根本的には「人倫的生活」と分離しえない。(135頁)
☆したがって、この「無限性」を本来の「対象意識」(天文学者が月を観測して惑星の軌道を考えるというような「対象意識」)にもってくると、それは本来的には成り立たない。(135頁)
☆「『私が机を意識する』ということは『私を意識する』ことであり、『私を意識する』ことは『机を意識する』ことである」というのは、変なものではないかという「疑惑」が残る。だが「人倫的関係」をいれると、少なくともある程度までは、この「疑惑心」は解ける。(135頁)

《参考8 》翻って考えてみると、「序論」においてヘーゲル『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだと述べた。(155頁)
《参考8-2》ところで「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ。(155頁)
☆したがって「実体性の立場」とは「信仰の立場」だ。(155頁)
☆「中世クリスト教」のもとにおける「人間」が、「日々の糧」も「能力」も「才能」も「神の与え給うところのもの」であると感じて「感謝」し、「貪らず所有を喜捨寄進」し、また「なにごとについても教会の指示を仰いで生活」していたということは「実体性の立場」にほかならない。(155頁)
《参考8-3》実をいうと「実体性の立場」が、「恢復せらるべき、また分析せらるべき全体」として『精神現象学』のかくれた前提だ。(155頁)
☆この観点からすれば「感覚」・「知覚」・「悟性」という(A)「対象意識」の諸段階も、また(B)「自己意識」の諸段階も、じつは「反省」の分析によって定立せられたものにほかならない。(155頁)
《参考8-4》(B)「自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」(クリスト教)において「実体性が恢復された」が、これはいいかえると「実体が主体となった」ことを意味する。(155頁)
☆「不幸なる意識」(中世カトリック教orクリスト教)を通ずることによって、「理性という絶対知」が到達せられた。(155頁)
《参考8-5》「反省の媒介」にはまだ不十分なところがある。その不十分を補うのが、今後の叙述((C)(AA)「理性」・(BB)「精神」・(CC)「宗教」・(DD)「絶対知」)の目的だ。(155頁)

《参考9》☆さて歴史哲学的にいって『精神現象学』の全体を通じて、「実体性」の段階と「反省」の段階と「実体性恢復」という3段階の区別が重要だ。(191頁)

《参考10》歴史哲学的には、『精神現象学』のうちにはいつも「実体性の段階」と「反省の段階」と「実体性恢復の段階」とがある。「観察の段階」((C)(AA)「理性」A「観察的理性」)も背後に「実体性の段階」として「中世クリスト教」を負うている。しかしまさにここにヘーゲルの特色もまた弱点もある。(金子武蔵氏)(163頁)
《参考10-2》「近代的理性」がその誕生の背後に負うている「実体性」は「信仰」だが(「実体性の段階」)、これに「反省」が加えられ(「反省の段階」)、「分裂」が生じ、いろんな段階が定立される。(C)(AA)「理性」1「観察」も、2「行為」も、3「社会」も、またそれぞれの小区分も、かくして生じたものにほかならない。(金子武蔵氏)(192頁)
《参考10-3》「反省」(「反省の段階」)によって生じた「分裂」を通じて「恢復されるもの」は再び「実体的なもの」だが(「実体性恢復の段階」)、この「恢復せらるべき実体性」(ヘーゲルの「目標」!)は究極的には「クリスト教」だ。(C)「理性」(DD)「絶対知」のすぐ前に、(CC)「宗教」C「啓示宗教」があるのは、このためだ。(金子武蔵氏)(192頁)

《参考11》ヘーゲル『精神現象学』は、「もっとも直接的な意識」であるⅠ「感覚」から始めて、哲学知であるⅧ「絶対知」にまで到達せんとするものとして、ヘーゲル哲学の①「認識論的序説」だ。(220頁)
《参考11-2》しかしヘーゲルは、人間の「意識」がもつ「社会性と歴史性」を高調するので、「個人意識の発展」は「世界精神の史的発展」を実体として背負うことになり、その結果として『精神現象学』は②「歴史哲学」としての意義を具える。(220頁)
《参考11-3》さらに一般に、「絶対」は「相対」を離れたものでなく、「相対」における「現象」をほかにして「絶対」のなんたるかを示し得ないという理由によって、『精神現象学』はそれ自身すでに③「精神哲学」・「哲学概論」の意義を持つ。(220-221頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その1):「絶対精神」はローマ帝国・中世以降、まだ「主体」となっていない!

2024-08-03 07:38:41 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その1)(254-257頁)
(59)「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動!(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」Ⅱ「啓蒙」Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」!
★今までは「表象性」の立場、「対象意識」の立場、「即自存在」の立場において「絶対知」を成就した「古代」を、その「宗教」((CC)「宗教」A「自然宗教」B「芸術宗教」C「啓示宗教」)を中心として、述べてきた。(金子武蔵氏)(255頁)
☆これからは「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動すなわち《 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」Ⅱ「啓蒙」Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」》について述べる。(金子武蔵氏)(255頁)
☆そして最後に「2つの立場が綜合される現代」すなわち《 (DD)「絶対知」》について述べる。(金子武蔵氏)(255頁)

★「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」C「自己確信的精神、道徳性」)の出発点は、「ローマ帝国」の時代、ヘーゲルが《 (BB)「精神」A「人倫」の段階のc「法的状態」》と呼ぶものだ。そしてこれにはギリシャの「ポリス」即ち《 (BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」》が前提となっている。(255頁)

《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考1-2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考1-3》(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

《参考1-4》『ヘーゲルの精神現象学』後半:《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!
☆((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)

《参考1-4-2》☆終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)
《参考1-4-3》☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは(C)(AA)「理性」A「観察」であり、また②「対他存在」の側面は(BB) B「教養」Ⅱ「啓蒙」の有用性の立場であり、さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は(BB)C「道徳性」c「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは(CC)「宗教」C「啓示宗教」と「良心道徳」((BB)「精神」C「道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)
《参考1-4-4》一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

(59)-2 「ローマ帝国」(c「法的状態」)はやがて滅亡し、社会の秩序は滅茶苦茶になった!「自然」のままに放任され、「服従すべきなにものかの厳としてあること」の必要をいまさらながら実感せざるをえない!
★「ローマ帝国」((BB)「精神」Ac「法的状態」)はやがて蛮族の侵入(4世紀後半から6世紀末にかけて起こったゲルマン諸部族の大移動)を招いて滅亡し(西ローマ帝国滅亡476)、社会の秩序は滅茶苦茶になって「中世」の暗黒時代が到来する。(255頁)
★しかし「乱暴狼藉をほしいままにすると、人間は自分自身をも滅ぼしてしまう」。だから「『自然』のままに放任」され、「直接的な欲望のとりこ」になっているわけにはゆかない。かくて「服従すべきなにものかの厳としてあること」の必要をいまさらながら実感せざるをえない。(255頁)(Cf. ホッブス問題、『リヴァイアサン』1651を思い出させる。)

(59)-3  ギリシアの「人倫的世界」は「自然的」になり出てきたようなものだから「滅びゆくほかない」!しかもそれは「個的自己」に独立を認めなかったので「滅びゆくのが当然だ」!
★西ローマ帝国滅亡(476)後において、「人間」はもはや「自然」のままに「放任」されえぬものであることが際立って実感されるようになったことは、ギリシャのポリスが「自然的」であったことに関係する。(255頁)
☆ギリシアの「人倫的世界」((BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」)においては、人間は「自然」のままに放任されながら、それでいてただ「我利我欲ばかりを追求する」にとどまるのでなく、同時に「国家社会に献身」し、もって「全体の美しい秩序」が成り立っていた。(256頁)
☆しかしそれはおのずと「自然的」になり出てきたようなものだから、「若者や乙女の天与の美しい姿もつかの間のことで、やがて老醜に化する」のと同じで、「滅びゆくほかない」。しかもそれは「個的自己」に独立を認めなかったので、「滅びゆくのが当然だ」。(256頁)

(59)-4 「個的自己」(「ローマ帝国」の時代以降)は「自然的」な「我利我欲」をこえて「ある絶対的なもの」=「絶対精神」を体験する!
★ギリシアの「人倫的世界」が滅びて「ローマ帝国」の時代((BB)「精神」Ac「法的状態」)となると、人間は「個的自己」にめざめてくるが、「自然的」な「我利我欲」ばかりにとらわれていたのでは、人間として存在することはできず、したがうべきなにか「ある絶対的なもの」が厳として存在していることを、身をもって体験する。(256頁)
☆すなわちやがて展開せらるべき「信仰の世界」((CC)「宗教」C「啓示宗教」=クリスト教)においてあらわれる「絶対精神」がここに働いてくる。(256頁)

《参考2》「宗教」(クリスト教)は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――である。(228頁)

Cf. 「絶対精神」についての一般的説明:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。

《参考3》「ローマ帝国」の時代は、一方で(あ)「法的状態」として「不幸」なる時代だが(「絶対実在が自己である」)、他方で「個的自己が自然に対しても、国家や家族のおきてに対しても自由になった喜劇の時代」(ヘレニズム時代以降)としては「幸福」な時代でもある(「自己が絶対実在である」)!(251-252頁)
《参考3-2》「ローマ帝国」の時代は、一方で「法的状態」として(あ)「不幸」なる時代(③「不幸なる意識」)だが、他方ではすでに「ポリスの崩壊期」から始まった「喜劇」即ち「個的自己が自然に対しても、国家や家族のおきてに対しても自由になった喜劇」の時代(ヘレニズム時代以降)としては(い)「幸福」な時代でもある。(251頁)
☆ヘーゲルはそれぞれ(い)「自己が絶対実在である」という命題(「幸福」な時代)と(あ)「絶対実在が自己である」という命題(「不幸」なる時代)によって表現している。(251頁)
☆すなわち(い)「自己があらゆるものを属性とする主語であり、主体である」(「自己が絶対実在である」)としてはこの「ローマ」の時代は「幸福」の時代だ。(251頁)
☆逆に(あ)「自己が、絶対実在の述語であり属性であるにすぎぬものとして、絶対実在のうちに消えゆき解消する」(「絶対実在が自己である」)かぎりこの「ローマ」の時代は「不幸」の時代だ。(251頁)
《参考3-3》しかし(い)「絶対実在を自己のうちに解消する」(「自己が絶対実在である」=「幸福」)だけでは、そこに生ずる「絶対精神」も「主観的」にすぎないという憂いがあるから、逆に(あ)「自己が絶対実在のうちに解消する」(「絶対実在が自己である」=「不幸」)ことも必要であるという見地から、ヘーゲルは(い)「幸福」(「自己が絶対実在である」)と(あ)「不幸」(「絶対実在が自己である」)とが「交錯」することに深い意義を認める。(251頁)
☆すなわちこの「ローマ」の時代は、一方で(い)「幸福」から言えば「絶対実在が否定されて自己になった」時代(「自己が絶対実在である」)であり、他方で(あ)「不幸」から言えば「自己が否定されて絶対実在のうちに解消する」時代(「絶対実在が自己である」)であり、かくてこの「ローマ」の時代は、「こういう相反した運動が行われた時代」だとヘーゲルは言う。(251頁)
《参考3-4》かくてこの「ローマ」の時代は、(い)「客体が主体化される」(「自己が絶対実在である」)と同時に、(あ)「主体が客体化される」(「絶対実在が自己である」)。かくて(い)「個別が普遍化される」(「自己が絶対実在である」)と同時に(あ)「普遍が個別化される」(「絶対実在が自己である」)ことによって、この「ローマ」の時代は、まさに「絶対精神」(※真に「自己」として意識された「絶対実在」)が顕現し、したがってまた「絶対実在が真に自己として意識されようとする時代」だとヘーゲルは考える。(251-252頁)
《参考3-5》かかる「ローマ」の時代の「時代精神」(※「絶対精神」が顕現し、したがってまた「絶対実在が真に自己として意識されようとする時代」)を地盤として「クリスト教」は誕生したのだから、「クリスト教」は(BB)「精神」 A「人倫」c「法的状態」の「現実精神」からして当然生まれるべくして生まれてきたものであり、この時代の(い)「幸福」と表裏一体をなす(あ)「不幸」も、「クリスト教が誕生するに際しての生みの苦しみであった」とヘーゲルは見ている。(252頁)

(59)-5 人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』の努力」を引き受けなくてはならぬということになる!
★もっとも「絶対精神」はここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、まだ「現実化」しておらず、すなわち「主体」とはなっておらず、「実体」として働くだけだ。(256頁)
☆しかし「実体」にうながされて、ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「国家社会にはやはり秩序があるべきだ」と感じ、したがって「権力が必要である」と感じる。(256頁)
☆またギリシア時代とは異なり、ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「個的自己」として存在するのだから((BB)「精神」Ac「法的状態」)、「財富の必要であること」も感じる。(256頁)

★そこで人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』の努力」を引き受けなくてはならぬということになる。(256-257頁)
☆これが(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(古代ギリシャのポリス)に続く、Bという段階が「自己疎外的精神、教養」と題されるゆえんだ。(257頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ニ「原始キリスト教」:「受肉」!「絶対実在」は「自己」にほかならない!神性は人性、人性は神性!

2024-08-01 19:09:16 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ニ「原始キリスト教」(252 -254頁)
(58)「不幸なる意識」(クリスト教的意識):「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識!
★「クリスト教」はすでにしばしば言ったように、『精神現象学』においても、またヘーゲル哲学全体にとっても、極めて重要だ。それがいかに考えられているかは、(B)「自己意識」B「不幸なる意識」においてすでに述べたし、また後に(BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」の場合にも述べる。(後述!)(252頁)

《参考》「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

(58)-2 クリスト教における「受肉」:「『絶対実在』は『自己』にほかならない」!「神性は人性であり、人性は神性である」!「自我」は「個別者と普遍者との不可分の結合」である!
★クリスト教では、「世界の創造者」であり「摂理」である「神」が「賤しい大工の子」として生まれたということ、つまり「受肉」が根本であり、ここに「『絶対実在』が『自己』にほかならない」ことが「啓示」されているとヘーゲルは見る。(252頁)
☆すなわち「神性は人性であり、人性は神性であって」、端的に言うと「だれでも人間には神的意義が宿る」のだ。(252頁)
☆ヘーゲルはイエナ時代(1801-1807)(Cf. 『精神現象学』1807)の遺稿で次のように述べる。「哲学においては『絶対精神の知』であるところのものは『自我』そのものである。・・・・・・ここでは、これ以外のものがあるのではない。享受と定在とが『彼岸』で『未来』であるような和らぎがあるのでなく、和らぎは『ここ』にある。ここで『自我』は『絶対者』を認識する。自我とは『この』自我である。『自我』は『個別者と普遍者とのこのような不可分の結合』である。」こういうことが「受肉」の教義のうちに含意されているとヘーゲルは言う。(252-253頁)
★もっとも「クリスト教」は「ただイエス・クリストだけが神である」という「表象」の立場にとどまっているけれど、それはそれとして、「時代精神」の要求するところとして、「受肉」の教義が出てきたというのがヘーゲルの解釈だ。(253頁)

(58)-3 イエスのみを「神の子」とし、弟子の自分たちは「人の子」として罪のうちにある!イエスの「死」後、弟子たちはイエスを「精神的」につかむようになる、すなわちイエスが「神の子」であると同じく、「肉に死し霊に生きる」なら弟子の自分たちもまた「神の子」であると自覚する!
★「受肉」によって「神」は「『この』人間」として「見られ聞かれ触れられるもの」となった。しかしイエスが活きている間、弟子たちはただイエスのみを「神の子」とし、自分たちは「人の子」として罪のうちにあるものと思っている。(253頁) 
★やがてイエスが「死ぬ」。そうなるとイエスは弟子たちの「追憶」のうちにのみ生きているので、おのずと「理想化」される。「理想化」するにしたがい次第に、弟子たちはイエスを「精神的」につかむようになる。(253頁)
☆つまりイエスが「神の子」であると同じく、「肉に死し霊に生きる」ならば弟子の自分たちもまた「神の子」であると自覚するようになる。(253頁)

(58)-4 「抽象的な善」( (BB) Cc「美魂」にあたる)あるいは「抽象的普遍」は成立しえない!かくて「受肉」とは「肉の『個別性』に霊の『普遍性』を現実化する」ことだ!
★しかもヘーゲルの解釈では、「イエスの死刑」は、「悪」に対立するにすぎない「抽象的な善」(後の(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「美魂」にあたる)あるいは「抽象的普遍」の成立しえないこと意味するので、「霊」にとって「受肉」は不可避となり、(※「受肉」は)「肉の『個別性』にも霊の『普遍性』を現実化する」という意義が認められる。(25-254頁)

(58)-5 「普」と「個」、「客」と「主」とは、相互に他に転換し、「絶対精神」が顕現する!クリスト教は「絶対実在が自己である」という意識を与える!
★ここに「普」と「個」、「客」と「主」とは、相互に他に転換し、「絶対精神」が顕現する。(254頁)
☆このことを具体的に体験させるものがヘーゲルによると「教団」(「教会」)にほかならない。「祈り」や「聖餐(セイサン)の儀式」が行われる「教団」(「教会」)においては、「精神(霊)は日々に死するとともによみがえる」。
★とにかくこういうわけで、クリスト教は「絶対実在が自己である」という意識を与える。(254頁)

《参考》「教会」(「教団」)とはクリスト教の信仰共同体(エクレシアor集会)だ。「教会」は「キリストの体」(エフェソ 1章23節)、「キリストの花嫁」、「真理の柱」(テモテ一 3章15節)、「聖霊の神殿」(エフェソ 2章20-22節)などと呼ばれる。
《参考(続)》「聖餐式」(ミサ)イエス・キリストが、十字架にかけられる前夜の最後の食事を記念して行なう教会の儀式。キリストが最後の晩餐でパンと葡萄酒をとり「これわがからだなり、わが血なり」と言ったことに基づいて、パンと葡萄酒を会衆に分かつ儀式で、洗礼式とともに、キリスト教でもっとも重要視される。聖体拝領。

(58)-6 「神が人であり、人が神である」といってもクリスト教は「宗教」として「表象性」をまぬがれえない!リスト教は「宗教」として「概念的自覚」(「いま―ここにいる自分に神性が宿っている」)を欠く!
★しかしクリスト教はどこまでも「宗教」たるをまぬがれないから、「表象性」を離れえない。「神が人であり、人が神である」といっても、「遠い昔のパレスチナでイエスがそうだった」というような「表象性」、あるいはわかりやすく言えば「神話性」をまぬがれえない。(254頁)
☆ヘーゲルのイエナ時代の文章のように「いま―ここにいる自分に神性が宿っている」ということははっきりしていない。つまりクリスト教は「宗教」として「概念的自覚」を欠く。(254頁)

★そこにさらに「近世」の「主体的」方向が「媒介」として要求されることになる。この点でとくに重要なのは、(BB)「精神」の最後の段階である「良心的自己」の立場((BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心」)だ。(254頁)
★しかしまずその「良心的自己」の立場に至るまでの「近代」の歴史を回顧する必要がある。(254頁)
※すなわち《 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)、Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)、Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)》という「近世」・「近代」の歴史を回顧する!

《参考》「歴史哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」であり、そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ!(75-76頁)
☆へーゲル哲学の根本概念である「主体」、「精神」、「理性」などの概念は、精神の「現在」の立場から規定されている。つまりヘーゲルにおいて「認識」とか「理性」とか「精神」といわれるものは、つねに「歴史性」を離れえない。ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、彼の立場からいうと、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」だということだ。そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ。(75頁)
☆『精神現象学』は元来、ヘーゲルの哲学体系への「認識論的」序説にほかならないが、それが次第に大きなものになって、それ自身、体系の第1部となったということの一つの大きな原因は、彼の「精神」という概念がつねに「歴史」を離れえず、『精神現象学』のなかへ「歴史哲学」がはいっているということにある。(75頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の目次を見ると、(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」のBに「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」というのがある。これらは「歴史を離れて成立する意識形態」として論ぜられるが、「ストア主義」、「スケプシス主義」の名が示すように、実際には歴史を離れえない。また「不幸なる意識」はキリスト教を材料としている。(75-76頁)
☆さらに(C)「理性」(BB)「精神」のA「真実なる精神」も、ギリシア時代を離れては理解できない。(76頁)
・またB「自己疎外的精神」は中世から近世にかけてのものであり、その中の特にⅡ「啓蒙」という段階は啓蒙時代を離れてはとうてい理解しえない。次のⅢ「絶対自由と恐怖」もフランス革命を離れては理解できない。(76頁)
・C「自己確信的精神、道徳性」の段階は、ドイツのロマンティスィズムの時代を離れては理解できない。(76頁)
☆(C)「理性」(CC)「宗教」あるいはⅦ「宗教」のA「自然宗教」は東方宗教を、B「芸術宗教」はギリシア宗教を、C「啓示宗教」はキリスト教を、それぞれ離れては理解できない。(76頁)
☆かくて(C)「理性」(DD)「絶対知」あるいはⅧ「絶対知」も、啓蒙からロマンティスィズムへと進んできた時代というものを離れては、とうてい成りたちえない。そういう意味で、「精神」の概念は「歴史」を離れえない。(76頁)
☆したがってヘーゲルの『精神現象学』は、実に雄大な「歴史哲学」である。(76頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする