DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

[笑い話] 犬は字が読めない!つまり、犬は《形の差異(字)》としての記号を理解しない!

2018-04-16 19:56:40 | 日記
A: 犬がいなくなっちゃったんだ。My dog has gone somewhere.
B: 新聞に広告を出したら?Do you advertise for the dog on a newspaper?
A: 犬は字が読めないよ。But dogs can't read.

《感想1》
犬は字が読めない。広告を出しても、犬たちが、いなくなった犬を探してくれない。困ったものだ。
《感想2》
なぜ犬は字が読めないのか。例えば、字によって異なる匂いがすれば、字の差異を犬は識別するだろう。
《感想3》
その場合、字が識別できても、それらの字は、《匂いのある一定の形》であって、その形が、《別の対象を指し示す記号》ではない。つまりその形は、字でない。
《感想3ー4》
つまり犬は、記号を理解しない。これについて、以下、もう少し、見てみよう。(実は、犬は記号を全く理解しないのでなく、犬が理解する記号もある。犬は、《形の差異としての記号》を理解しない)
《感想4》
条件反射の場合、犬にとって、ベルの音は、餌の記号になる。だが例えば、《「犬」の字》が《現実の犬》の記号になることはない。
《感想4ー2》
犬の関心を引く対象(Ex.餌、Ex.飼い主)については、犬は、記号(記号関係)を理解する。
《感想4ー2ー2》
なお、飼い主の匂いは、飼い主の記号のように見えるが、飼い主の匂いは、飼い主そのものの一部で、記号でない。もちろん、遠く離れた飼い主の匂いは、飼い主を指示するから、記号であるともいえる。ただし、ここでは、記号と記号が指示する対象との因果的or部分全体的or類似的or機能的or目的(意図)結果連関がある場合は、記号と定義しない。(Ex. 煙と火、Ex. 飼い主の匂いと飼い主、Ex. 木の絵と木、Ex. 蛇口と水、Ex. 設計図と建物)
《感想4ー3》
《形の差異(字)》が、《それと全く無縁で、一部をなすこともない別の対象》を指し示す場合(Ex. 《「餌」いう線で描かれた一定の形である字》と《餌そのもの》)、犬が、《形の差異(字)》を《対象》の記号として理解することはない。
《感想5》
一方で《音》(《形の差異(字)》は犬には無理だ)、他方で《犬が関心を持つ対象》については、記号関係が成立する。一方で《ブザーの音》、他方で《餌》(あるいはEx. 《飼い主》)なら記号関係が成立する。(条件反射)
《感想5ー2》
なお記号関係は、どちらが記号で、どちらが指示される対象かは、入れ替わる。ベルは餌の記号とされるが、餌はベルの記号である。関心を持たれる側が、普通、対象と呼ばれる。例えば餌に関心が持たれるので、餌が対象となり、ベルは記号となる。逆なら、ベルが対象となり、餌が記号となる。
《感想6》
ここまでの議論では、対象と意味を区別していない。「対象」は、普通、「対象意味」として現れるので、これまでの「対象」の語は、「対象意味」のことである。(対象と意味の差異については、別論が必要だが、今は、論じない。)
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黒田三郎(1919-1980)「死のなかに」『時代の囚人』(1965年):死を「仲のよい友人」にするしかなかった戦争、平時なのに「金のかかる」死!戦時と平時、どちらの場合も、死に対し不機嫌になる!

2018-04-16 11:31:57 | 日記
 死のなかに 

死のなかにいると
僕等は数でしかなかった
臭いであり
場所ふさぎであった
死はどこにでもいた
死があちこちにいるなかで
僕等は水を飲み
カードをめくり
えりの汚れたシャツを着て
笑い声を立てたりしていた
死は異様なお客ではなく
仲のよい友人のように
無遠慮に食堂や寝室にやって来た
床には
ときに
食べ散らした魚の骨の散っていることがあった
月の夜に
あしびの花の匂いのすることもあった

戦争が終ったとき
パパイアの木の上には
白い小さい雲が浮いていた
戦いに負けた人間であるという点で
僕等はお互いを軽蔑しきっていた
それでも
戦いに負けた人間であるという点で
僕等はちょっぴりお互いを哀れんでいた
酔漢やペテン師
百姓や錠前屋
偽善者や銀行員
大食いや楽天家
いたわりあったり
いがみあったりして
僕等は故国へ送り返される運命をともにした
引揚船が着いたところで
僕等は
めいめいに切り放された運命を
帽子のようにかるがると振って別れた
あいつはペテン師
あいつは百姓
あいつは銀行員

一年はどのようにたったであろうか
そして
二年
ひとりは
昔の仲間を欺いて金を儲けたあげく
酔っぱらって
運河に落ちて
死んだ
ひとりは
乏しいサラリーで妻子を養いながら
五年前の他愛もない傷がもとで
死にかかっている
ひとりは

その
ひとりである僕は
東京の町に生きていて
電車のつり皮にぶら下っている
すべてのつり皮に
僕の知らない男や女がぶら下っている
僕のお袋である元大佐夫人は
故郷で
栄養失調で死にかかっていて
死をなだめすかすためには
僕の二九二〇円では
どうにも足りぬのである
死 死 死
死は金のかかる出来事である
僕の知らない男や女がつり皮にぶら下っているなかで
僕もつり皮にぶら下り
魚の骨の散っている床や
あしびの花の匂いのする夜を思い出すのである
そして
さらに不機嫌になってつり皮にぶら下っているのを
だれも知りはしないのである

《感想1》
これは、1946年(27歳)から1948年(29歳)に書かれた詩の一つ。詩人は戦争中、ジャワ島で3年余、前線での生活をした。そして引き揚げ。
《感想2》
人は、見かけで分からない。君が、この詩人のとなりに、つり革にぶら下がっていたとして、この詩人についてなにも分からない。分かるのは、身なりから相手を「会社員」だと思うくらいだ。人がいかなるものかを、外見から推量するのは極めて困難だ。「だれも知りはしない」のだ。
《感想3》
君にとって、最大の問題は死だ。だが死の運命が向こうから襲ってきたら、君は受け入れるしかない。戦争の時代には死が、向こうから襲ってくる。君は「時代の囚人」だ。
《感想3-2》
だが、その時、死は「友人」になる。死は「どこにでも」いるし、君が、「死のなかにいる」(死に取り巻かれている)からと言って、死は君をすぐ餌食にしない。君は、死を「仲のよい友人」にするしかなかい。
《感想3-3》
死はいつもそばにいる限りで、一見「仲のよい友人」だ。死は、突然訪れる「異様なお客」でない。しかも死は、「無遠慮」に、どこにでもやってくる。
《感想3-4》
君は死をどうにもできないから、一方で死を「友人」とし、他方で生者たちと「カード」をし、「笑い声を立てたり」する。
《感想4》
当時は、民主主義・国民主権でなかった。軍が、テロやクーデターを起こした。言論の自由、思想良心の自由が制限された。政府への批判は処罰された。こうした政治・法制度のもとで、君は「時代の囚人」となる。戦争が突然、出現し、君は死を「仲のよい友人」とするほかない。
《感想5》
兵士にとって、敗戦は、「お互いを軽蔑」させ、「お互いを哀れ」むに十分だ。(兵士は大部分が20代であり、多くが一途だった。)
《感想6》
敗戦が、軍を解体した。そして兵士たちの運命は、「めいめいに切り放された」。酔漢、ペテン師、百姓、錠前屋、偽善者、銀行員、大食い、楽天家など。(彼らは、詩人が記憶する印象深い人々だ。)
《感想6-2》
敗戦後、一年がたち、二年がたって、「ひとりは、昔の仲間を欺いて金を儲けたあげく、酔っぱらって、運河に落ちて、死んだ」。個人の運命は、散文的だ。国軍や皇軍の光輝の歴史と無縁だ。また「ひとりは、乏しいサラリーで妻子を養いながら、五年前の他愛もない傷がもとで、死にかかっている」。(戦争での負傷に由来する死だ。)
《感想7》
また「そのひとりである僕は、東京の町に生きていて、電車のつり皮にぶら下っている」。詩人は、会社員だ。月給2920円。しがない20歳後半の会社員が故郷の母に仕送りする。大変である。「死は金のかかる出来事」、つまり《死なないために生き続ける》のは、金がかかる。
《感想8》
死を「仲のよい友人」にするしかなかった戦争、平時で安楽なはずなのに「金のかかる」死! 詩人は、戦時と平時、どちらの場合も、死に対し不機嫌になる。
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