雨の日用を着ました! ぼた雪が降ってる東京にいるのは何年ぶりかな。
山ん中で毎日見ている雪、飽きずにまた眺める、でも山の雪は汚れないが
東京の雪を歩くと薄汚れた犬になっちまうのである。
オイラは楽しい雪ん中、どこでもいっしょなんだが。
肉体の不都合はこれからどんどん起きる。若いなんてことがありがたく
思えたりするようになるわけで、(いやーやっぱ思わないかなあ)。
持病があるので肉体系、体育会系とは縁遠くてナヨナヨとしながら
歳取っていくのであるが、いいこともあるんで。
苦海浄土の第三部には、水俣病患者川本輝夫氏につきそった石牟礼さんが
東京チッソ本社内で座り込み行動中に体験した一部始終が細密に描かれ、
自主交渉(実地交渉と彼らは言った)の苦難がこれでもかこれでもかと
綴られている。嗚咽なしには読めない。そしていつも最下層の民は持てる
者どもに踏みつけにされ、いや持てる者はその足の下に必ず踏み殺傷した
人が累々といるのだという世の悪習が証明されている。
腰が悪いくらいのことでなんか悩ましいことを言ったりしたらアホらし。
腰は、背骨は、身体の中心線であるから重要である。そこを17歳の時から
悪くして完治などしないものを抱えてきたのは、あるときは自分は罰当たり
なのだと思ったりもしたが、肉体のなんたるかをよく考え知るには必要な
ことであった。自在に走ったり飛んだりできないことが卑屈な、負の感情を
誘うこともあったが、なにせ慣れるしかなく、諦めるしかなく、そこから
始めるのである。
肉体を超えた先を思うのに、十全に働く機能を備えた身体とはどういう役に
立つだろうか。驕りという魔物からどうやって逃げ切れるのだろうか。
患者の苦悩を我がものとして歩み続けた石牟礼さんは視力を失ない隻眼と
なられ、そのことをむしろ良きことと何度も書かれたりしゃべったりされていて、
決してきれいごとや偽善ではないことがよくわかる。
深奥を見通している者に肉の眼は不要で、むしろ忌まわしい世なら映らない方が
いいと思われるのであった。悲しみなんてもんじゃない、絶句するしかない苦海
ならば。内に浄土を抱く者に辛いのは不完全な肉体ではない、非情と厚顔の
悪がのさばり歩く現世にいつづけ、眼をそらすことができぬことである。
息が苦しい。
わたしはよく想像する。
眼は近眼くらいで済んでいる。耳は外耳炎の癖くらいで済んでいる。
口はきけるから黙っとくように注意が必要。皮膚はアレルギーがあるが
世間にいくらでもある程度の弱さだから注意すれば済む。
鼻はすごくよく効き誰もにおわぬ匂いを嗅ぎ分けたりするし病を発見する
特技があるわけだが金になるわけでなし、おまけにやや低め。
それはいいとしてこの中のどれかを失しなうことになれば、どうやって
感じるのだろうか、どうやって考えるのだろうか、生きる現世を。
そんなことを思い試したくなる。自分の弱さを。
そして、強さを。
眼を閉じ、闇のなかで眼を開ける。
耳を塞ぎ、一点へ集中し、そしてそれを忘れ果てる。
仰向けになって養生するしかない時間、自分はなんと恵まれていることかと
思って、寝ていることが申し訳なくなる。
たいしたことはできない人生かもしれないが、申し訳が立つほどには
はたらきたいものだと、悔いたりする。
されど腰の重みと、歩けばギッチンギッチンと歪む足の運び。
誰にともなく、空に向かって、詫びる時を過ごすしかないがそれでも
足らないのである。
山ん中で毎日見ている雪、飽きずにまた眺める、でも山の雪は汚れないが
東京の雪を歩くと薄汚れた犬になっちまうのである。
オイラは楽しい雪ん中、どこでもいっしょなんだが。
肉体の不都合はこれからどんどん起きる。若いなんてことがありがたく
思えたりするようになるわけで、(いやーやっぱ思わないかなあ)。
持病があるので肉体系、体育会系とは縁遠くてナヨナヨとしながら
歳取っていくのであるが、いいこともあるんで。
苦海浄土の第三部には、水俣病患者川本輝夫氏につきそった石牟礼さんが
東京チッソ本社内で座り込み行動中に体験した一部始終が細密に描かれ、
自主交渉(実地交渉と彼らは言った)の苦難がこれでもかこれでもかと
綴られている。嗚咽なしには読めない。そしていつも最下層の民は持てる
者どもに踏みつけにされ、いや持てる者はその足の下に必ず踏み殺傷した
人が累々といるのだという世の悪習が証明されている。
腰が悪いくらいのことでなんか悩ましいことを言ったりしたらアホらし。
腰は、背骨は、身体の中心線であるから重要である。そこを17歳の時から
悪くして完治などしないものを抱えてきたのは、あるときは自分は罰当たり
なのだと思ったりもしたが、肉体のなんたるかをよく考え知るには必要な
ことであった。自在に走ったり飛んだりできないことが卑屈な、負の感情を
誘うこともあったが、なにせ慣れるしかなく、諦めるしかなく、そこから
始めるのである。
肉体を超えた先を思うのに、十全に働く機能を備えた身体とはどういう役に
立つだろうか。驕りという魔物からどうやって逃げ切れるのだろうか。
患者の苦悩を我がものとして歩み続けた石牟礼さんは視力を失ない隻眼と
なられ、そのことをむしろ良きことと何度も書かれたりしゃべったりされていて、
決してきれいごとや偽善ではないことがよくわかる。
深奥を見通している者に肉の眼は不要で、むしろ忌まわしい世なら映らない方が
いいと思われるのであった。悲しみなんてもんじゃない、絶句するしかない苦海
ならば。内に浄土を抱く者に辛いのは不完全な肉体ではない、非情と厚顔の
悪がのさばり歩く現世にいつづけ、眼をそらすことができぬことである。
息が苦しい。
わたしはよく想像する。
眼は近眼くらいで済んでいる。耳は外耳炎の癖くらいで済んでいる。
口はきけるから黙っとくように注意が必要。皮膚はアレルギーがあるが
世間にいくらでもある程度の弱さだから注意すれば済む。
鼻はすごくよく効き誰もにおわぬ匂いを嗅ぎ分けたりするし病を発見する
特技があるわけだが金になるわけでなし、おまけにやや低め。
それはいいとしてこの中のどれかを失しなうことになれば、どうやって
感じるのだろうか、どうやって考えるのだろうか、生きる現世を。
そんなことを思い試したくなる。自分の弱さを。
そして、強さを。
眼を閉じ、闇のなかで眼を開ける。
耳を塞ぎ、一点へ集中し、そしてそれを忘れ果てる。
仰向けになって養生するしかない時間、自分はなんと恵まれていることかと
思って、寝ていることが申し訳なくなる。
たいしたことはできない人生かもしれないが、申し訳が立つほどには
はたらきたいものだと、悔いたりする。
されど腰の重みと、歩けばギッチンギッチンと歪む足の運び。
誰にともなく、空に向かって、詫びる時を過ごすしかないがそれでも
足らないのである。