(与謝蕪村が描いた芭蕉像)拡大クリックして下さい。
芭蕉って、忍者・隠密なの? 一体何者?
ん~どうかな~! 忍者の里、伊賀上野で生まれてるからそうかもね~!?
それに同行の曽良っていう人が、幕府から日光の内密調査を命じられていたとか、、。
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、
日々旅をすみかとす。、、、、
あの有名な『奥の細道』の冒頭文です。
芭蕉は俳聖とも言われ、神聖化されておりますが、真実はどんな人だったのでしょうね。
芥川龍之介は著書『続・芭蕉雑記』で、芭蕉は大山師だ、、、って言っていた。
また、西行ほどの精神的エネルギーがない、、、とも。
あの正岡子規も批判していたようですが、、、(芭蕉批判で俳壇に登場)。
いつでしたか嵐山光三郎 『悪党芭蕉』っていう本を読んだことがあります。
芭蕉批判の本かなって、、期待して読んだのですが、、、残念ながら。
「この一冊を書き終えて、知れば知るほど芭蕉の凄味が見えて、
どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは身に染みてわかった」と記しているのです。
だったら悪党芭蕉なんてタイトルつけるな!って思ったのは私だけでしょうか?
なかなか批判できないほどの人物だったのかもしれません。
芭蕉は、桃青って名乗っていた頃、東京の神田上水工事の仕事を請け負いしていた事もあるようです。
その時の居住跡・関口庵(東京都文京区)。そしてその後の住まい深川・芭蕉庵など、、
今でも残されております。
《古池や蛙飛びこむ水の音》の句碑がありました。
、、、その他いたる所に芭蕉の足跡が、、、。
大正6年に津波があり、石造りの蛙(カエル)が発見され旧跡に指定されたとのこと。
そんなの、、あり、、ですか~! (クリック拡大)
上記の庵、そして深川にある芭蕉が座禅修業で足しげく通ったという、仏頂和尚の臨川庵(庵寺跡)なども現存します。
モノ好きにも、芭蕉の追っかけをしていた時期があり、それが高じて
千住から日光までのその足跡をたどり、140キロ(36里)程の道のりを5日間かけ歩いたこともありました。
(芭蕉が5日間、、よし自分も5日間で、、なんて意地を張って)
奥の細道、、全長2400キロ(6000里)。今では夢となっておりますが、歩いてみたいものです。
(ちなみに嵐山光三郎さんは若い頃、自転車で走破したそうです)
奥の細道 行程図クリック
(更科紀行などの行程図もみられます)
芭蕉・曽良は、深川から小舟で千住へ、大垣迄約3ヶ月。(芭蕉46歳での旅)
(芭蕉は旅の最後数日残すのみで曽良と別れる)
出羽の国の峠で用心棒を雇ったり、、、当時は命がけの旅だったのでしょうね。
この(奥の細道)~かなり手の込んだ創作のようです。
1.『その日ようよう草加といふ宿に着きにけり』
~千住から草加に着くには、早過ぎで事実は粕壁(現春日部)ではないか?
とのことが、今や定説のようです。
事実私も、、あれつ!随分早く草加に、、と感じたものでした。
粕壁では、語呂合わせが悪い、、だったのかも知れませんね。
2.那須野で馬を借りたのですが、、、
『小さき者ふたり、馬の跡慕いて走る
ひとりは小姫にて、名を「かさね」といふ』
~当時の戸籍からは、「かさね」といった名前の子はでてこない?、、、。
「かさね」って素敵な名前ですよね。
たね、、よし、、とかではまずかったのでしょうか?(その方には失礼!)
3.『荒海や佐渡に横たふ天の河』
~どう考えても芭蕉の旅の視点からは、天の河は佐渡のそばには見えない?、、等々。
芭蕉は、人間の視点よりもっと大きな、宇宙的な発想の持ち主だったのかも。
そんな疑問が、、奥の細道にはいくつも存在するのだそうです。
事後、曽良の日記等からも検証されており、『奥の細道』は紀行文と併せて、創作本としての
面がかなりあるとのこと。
いづれにせよ推敲を重ね、、世に出た『奥の細道』。
挿入された俳句をいくつか列記します。どれも深く、心に響きます。
○行く春や鳥啼き魚の目は涙
○夏草や兵どもが夢の跡
○閉かさや岩にしみ入る蝉の声
○五月雨を集めて早し最上川
○雲の峰いくつ崩れて月の山
○暑き日を海に入れたり最上川
○荒海や佐渡に横たふ天の河
○一つ家に遊女と寝たり萩と月
○塚も動け我が泣く声は秋の風
○むざんやな甲の下のきりぎりす
○蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
あと『奥の細道』の他に『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文』『更科紀行』『鹿島紀行』
などがあり、、、すべて”凄い”の一語に尽きます。
『知れば知るほど、おもしろくて、偉大で、そして食えないジジイなのだ、芭蕉という人は』
~ 俵万智 著書(新・おくのほそ道)より
『釈迦を慕い、道元・西行を慕う禅者芭蕉の旅は、諸法実相に向かっていると私は思える。
芭蕉の俳句は、諸法実相を求めるための方法なのである。』
~ 立松和平 著書(芭蕉)より~禅僧・道元の眼からみた芭蕉論。
立松さんらしい評論です。
《此道や行人なしに秋の暮》
芭蕉亡くなる(51歳)一カ月前の句だったそうです。
そして、病中吟として、、、《旅に病んで夢は枯野をかけ廻る》
を最後に、、、永遠の旅に出たと言われます。
芭蕉の凄まじい程の覚悟に思うことは、風流のみに身を置くような人々とは、
一線を画していた、、、そんな気がします。
皆さんも、、さあ、、旅に出るとしますか!
でも、永遠の旅は、、もう少し後でよろしいのですが、、、!!