借金まみれの国。 構造改革。 抵抗勢力。 どこかの国のあの首相の顔が浮かびますね。
モーツアルトやベートーベンの生きた時代(18世紀末~19世紀初)フランス革命時もそんな状況だったようです。
抵抗勢力を破るには、民主主義の国では世論が後押ししますが、当時のフランスは絶対王政の時代。
まず国王の権力を削ぐことから始めなければならない。 ルイ16世はアメリカ独立戦争への参戦で経済が衰退していた。
増税を決めたが、特権身分(聖職者・貴族)にまで課税しようとしたことに貴族が反発。
当時のフランスは聖職者・貴族・市民の三階層で、聖職者と貴族が全人口の2%で国土の三分の一を所有していたという。
そこを市民が巧みに利用。教会・貴族にまでその矛先を向け、革命にまでに至ったというのが真相のようです。
ルイ16世・オーストリアから嫁いだマリーアントワネットと共に断頭台に、、希望の革命も一転血なまぐさくなっていった。
そこに乗じ彗星の如く登場したのが軍にいたナポレオン(1769年~1821年)。
【余の辞書に不可能という文字はない】 【私の名誉は戦勝よりも法典である】
と語ったという、、 あのナポレオンです。
ご存じのように軍事独裁政権を樹立し、イギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置き皇帝にまで登りつめた。
しかしナポレオンも人の子。 フランスを取り巻く情勢も厳しくなる。
欧州諸国(ロシア・プロイセン・オーストリア・スペイン・イギリス・スエーデン等)は、こぞってナポレオンを欧州の平和にとって唯一の妨害者であると宣言。 ナポレオンがフランス・イタリアにおける全ての権力と権威の放棄を要求した。
1812年モスクワ遠征に失敗し失脚、その権威も地に落ちエルバ島に流されることに。
ナポレオンはエルバ島に流されるを余儀なくされたが、実質は隠遁、、毎年二百万フランを受け取るという(まあ年金だね)協定に調印したというではないか。
権力に反抗・反骨者でもある、あの作曲家・ベートーベンにこんな逸話が残っております。
当初ナポレオンをヨーロッパの解放者として賛美していた。 ナポレオンの為に献呈しようと『英雄』を作曲したが、1804年ナポレオンが皇帝の座についたと知った時、憤慨、献呈をやめたとのこと。
【それほどまでに独裁者の名誉が欲しいのか。かれはもうただの人間。やつは暴君になるだろう】、、、と。
ナポレオンの名が書かれていた原稿のページを引き裂き、我慢のならない彼は、持っていたペンを表紙に突き刺したという。
ベートーベンという人は短気でもあったようですが、政治にも熱意があったのですね。
歴史の真意はわかりませんが、そんな人が今の世にもたくさん出現してほしいものです。
ちなみに、ナポレオンはベートーベンが当時住んでいたオーストリア・ウイーンに二度も侵攻していて、ベートーベンはジャコバン派(フランス革命でも市民、民衆の立場にたつ派~ナポレオンも同派という)のリストに名をみせ、警察でも彼に関し情報を探っていたとも言われている。
歴史って不思議ですよね。 同じようなことを何度も繰り返す。
つかの間の平和はあるにせよ、戦争・戦争・殺戮・殺戮の繰り返し、その殆どが大国、そう人間のエゴがらみ。
フランス革命でも、王妃の法廷に立ち会ったもの、裁く立場にあったもの(裁判官・訴追官・証人・陪審員等)、、彼らのその後は、立場が逆転したその時、その殆どが断頭台、謎の死、流刑、にて命を落としたり謎の行方不明になったりしたとのことです。
いつの世も価値観は変動する。 その時の『正義』が次の時代では『正義』ではなくなる。
これが歴史というならあまりにも悲しい。
左)パリ凱旋門は勝利を記念して1806年ナポレオンの命によって建設が始まった。完成前に死去したという。
凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。
右)イタリアへの遠征時。有名なアルプス越えのナポレオン。馬でアルプス越えは無理と思うのですが、、いやはや天才は
別格なのか。(パリ・ルーブル美術館所蔵)
モーツアルトやベートーベンの生きた時代(18世紀末~19世紀初)フランス革命時もそんな状況だったようです。
抵抗勢力を破るには、民主主義の国では世論が後押ししますが、当時のフランスは絶対王政の時代。
まず国王の権力を削ぐことから始めなければならない。 ルイ16世はアメリカ独立戦争への参戦で経済が衰退していた。
増税を決めたが、特権身分(聖職者・貴族)にまで課税しようとしたことに貴族が反発。
当時のフランスは聖職者・貴族・市民の三階層で、聖職者と貴族が全人口の2%で国土の三分の一を所有していたという。
そこを市民が巧みに利用。教会・貴族にまでその矛先を向け、革命にまでに至ったというのが真相のようです。
ルイ16世・オーストリアから嫁いだマリーアントワネットと共に断頭台に、、希望の革命も一転血なまぐさくなっていった。
そこに乗じ彗星の如く登場したのが軍にいたナポレオン(1769年~1821年)。
【余の辞書に不可能という文字はない】 【私の名誉は戦勝よりも法典である】
と語ったという、、 あのナポレオンです。
ご存じのように軍事独裁政権を樹立し、イギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置き皇帝にまで登りつめた。
しかしナポレオンも人の子。 フランスを取り巻く情勢も厳しくなる。
欧州諸国(ロシア・プロイセン・オーストリア・スペイン・イギリス・スエーデン等)は、こぞってナポレオンを欧州の平和にとって唯一の妨害者であると宣言。 ナポレオンがフランス・イタリアにおける全ての権力と権威の放棄を要求した。
1812年モスクワ遠征に失敗し失脚、その権威も地に落ちエルバ島に流されることに。
ナポレオンはエルバ島に流されるを余儀なくされたが、実質は隠遁、、毎年二百万フランを受け取るという(まあ年金だね)協定に調印したというではないか。
権力に反抗・反骨者でもある、あの作曲家・ベートーベンにこんな逸話が残っております。
当初ナポレオンをヨーロッパの解放者として賛美していた。 ナポレオンの為に献呈しようと『英雄』を作曲したが、1804年ナポレオンが皇帝の座についたと知った時、憤慨、献呈をやめたとのこと。
【それほどまでに独裁者の名誉が欲しいのか。かれはもうただの人間。やつは暴君になるだろう】、、、と。
ナポレオンの名が書かれていた原稿のページを引き裂き、我慢のならない彼は、持っていたペンを表紙に突き刺したという。
ベートーベンという人は短気でもあったようですが、政治にも熱意があったのですね。
歴史の真意はわかりませんが、そんな人が今の世にもたくさん出現してほしいものです。
ちなみに、ナポレオンはベートーベンが当時住んでいたオーストリア・ウイーンに二度も侵攻していて、ベートーベンはジャコバン派(フランス革命でも市民、民衆の立場にたつ派~ナポレオンも同派という)のリストに名をみせ、警察でも彼に関し情報を探っていたとも言われている。
歴史って不思議ですよね。 同じようなことを何度も繰り返す。
つかの間の平和はあるにせよ、戦争・戦争・殺戮・殺戮の繰り返し、その殆どが大国、そう人間のエゴがらみ。
フランス革命でも、王妃の法廷に立ち会ったもの、裁く立場にあったもの(裁判官・訴追官・証人・陪審員等)、、彼らのその後は、立場が逆転したその時、その殆どが断頭台、謎の死、流刑、にて命を落としたり謎の行方不明になったりしたとのことです。
いつの世も価値観は変動する。 その時の『正義』が次の時代では『正義』ではなくなる。
これが歴史というならあまりにも悲しい。
左)パリ凱旋門は勝利を記念して1806年ナポレオンの命によって建設が始まった。完成前に死去したという。
凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。
右)イタリアへの遠征時。有名なアルプス越えのナポレオン。馬でアルプス越えは無理と思うのですが、、いやはや天才は
別格なのか。(パリ・ルーブル美術館所蔵)