墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

ソーシャル・ネットワーキングサイト mixi

2005-10-23 19:30:06 | 駄目
ソーシャル・ネットワーキングサイト mixi に参加した。現実の知り合いから参加要請のメールがきたので、ほぼなにも考えずに義理で参加した。しかし現実、ソーシャル・ネットワーキングサイト mixi なんか知らなかったし、興味もなかった。
 「参加する事に意義がある」というオリンピック精神である。
 しかし参加してみて思うのは、一応は日記などをつけられるが、個性の押し売りはブログやホームページに及ばない。コメントの匿名性イコール自由度は掲示板にはるかに劣る。コレって楽しいか? 欲求不満になりはしないか?
 ブログの方が性に合うなーと思いつつも続けてみる。


徒然草 第九十八段

2005-10-23 18:34:09 | 徒然草
 尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。

 一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほようは、せぬはよきなり。

 一、 後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり。持経・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。

 一、 遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。

 一、 上臈は下臈に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。

 一、 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。

 この外もありし事ども、覚えず。

<口語訳>
 尊い聖(ひじり)の言い置いた事を書き付けて、「一言芳談」とかや名づけた草紙を見ましたに、心に合って覚えた事。

 一、 するかしまいか、しないがありかしらと思う事は、大様は、しないが良いのだ。

 一、 後世を思う者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまいことだ。持つ経や本尊に至るまで、良い物を持つ、由なき事だ。

 一、 遁世者は、無いに事欠かない様を計らって過ごす、最上の様であるのだ。

 一、 上位は下位に成り、智者は愚者に成り、長者は貧者に成り、能ある人は無能に成るべきだ。

 一、 仏道を願うというのは、別の事ない。暇ある身になって、世の事を心にかけぬのを、第一の道とする。

 この外もあった事柄、覚えない。

<意訳>
 尊いお坊様方が残した言葉を集めた「一言芳談」とかゆう本を見つけましたので、読んでみて心に残った言葉を書きとめておく。

 一、するかしないか、しないのもありかなと思う事ならしなくて良い。

 二、 後世を考えるなら、ヌカミソがめの一つすら持ってはいけない。経や仏像に至るまで良いものを持っている理由は無い。

 三、遁世者は、無い事を欠かさないように過ごす。無いのが最上である。

 四、 貴族は下郎になれ。賢者は愚者となり、長者は貧者になれ。能ある人は無能になれ。

 五、 仏の道は特別ではない。暇人になって、世間をかえりみなければ、それで良い。

 その他にもいろいろと書いてあったが、あとは覚えなかった。 

<感想>
 「一言芳談」とはテキストによると、浄土宗の法師達が言い残した、ありがたい言葉を160余話としてまとめた本であるそうだ。編集者、成立年代は不明。
 「意訳」の番号を参照して欲しい。
 一は、明禅法印の言葉。
 二は、俊乗房。
 三は、解脱上人。
 四は、聖光上人、もしくは敬仏房の言葉。
 五は、松蔭の顕性房。
 そんな事まで調べがついているんだから、学者というのは本当にすごい。
 それはともかく。
 俺は、最初のうちかなり「徒然草」をなめてかかっていた。
 兼好などしょせんは昔の人、現代人の俺の知性にかなうはずがないとすら考えていた。しかし、徒然草を読み進めるに従い、確実に兼好が成長して行くのが読み取れるのだ。どんどん兼好の知性は深くなっていく。このままじゃ底なし沼だ。
 兼好は、別に誰かに読ませる為に「徒然草」を書いたわけではないのだろう。自分自身の考えをまとめて再構築する為に書いたのだろう。
 「徒然草」は兼好の知性の成長物語である。
 最初の頃の兼好の文章は、単なる世間への嫌悪感だった。それが、いつの間にか書物から影響を受けたと思われる知への探求に変わり、その果てに、しょせん全ては無駄なんだよ。みんな死ぬんだという深い絶望感にたどりつく。
 しかし、それを乗り越えた今の兼好の主題は「リラックス」である。
 心を閑かにして、とりあえず自分の頭で考えてみようというノンキな態度が今の兼好にはある。
 兼好は、自分の記憶力を自慢にしていた様子があるが、現在では、覚えられない事は覚えなくてもいいんだ。という境地にまで達している。
 兼好は俺なんかが及びもつかない深い精神世界にいたのではなかろうか。

原作 兼好法師


徒然草 第九十七段

2005-10-23 11:39:22 | 徒然草
その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

<口語訳>
その物に付いて、その物を費やし損う物、数を知らずある。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

<意訳>
 その物に付き、その物を食らって損なわせるもの、数しれずある。
 身体にシラミあり。家にネズミあり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に仏法がある。

<感想>
 べつに訳す必要もないような文章だ。しかし内容には解説が必要だ。
 なにかに寄生して、宿主を弱らせるものは数限りなくある。と兼好は言う。まず、人間の身体には血を吸うシラミがつき、家には米を食うネズミがつく。国には、国を食い物にして国力を弱める賊がわく。ここまでは、当たり前の例え話か。
 「小人に財あり」は、人が、金に振り回される愚かさを語っているのだろう。
 「君子に仁義あり」は良い事なのだが。なぜか、君子の仁義を兼好はシラミだと書いている。ここで語られる「君子」が、賢人の意味の君子なのか、政治を行う君子の事なのか、どちらの意味なのだか実はわからない。しかし、仮に「君子」を政治家の事としてとらえるなら、政治家は、仁義によって政治の大局を見失う事もありえる。わかりやすく言うなら「候補者に支援者」みたいなかんじか。支援者によって国政の場へ出してもらった以上は支援者への仁義はかかせない。しかし、仁義に気をとられていると政治家として国政の判断を誤る事もある。「君子に仁義あり」は、このような意味であろうかと想像する。
 「僧に法あり」は、なんだろ。「法」は「仏法」の事と、テキストにあるので、それに従えば、「僧に仏法」があるのは当たり前の事である。なぜ、仏の教えがシラミとなるのか。このへんは、兼好が法師だからサラリと書けたんで、法師じゃない俺には良くわからない。想像するに、兼好は法師の目標の最終地点である「悟り」を念頭においてこの段を書いているのではなかろうか。悟りをゴールとした時。初期の段階では仏法は手助けとなる。だが、いつまでも仏法にしがみついていたら悟りは開けない。なんてことを兼好は言いたいのではなかろうか。良くわからないんだけどさ。

<兼好の真似っこ>
 兼好の真似っこをしてみた。
>その物に付きその物を費やし損う物、数知れずある。
 人に携帯あり。家にしろありあり。国に借金あり。小市民にマイホーム。君子にスキャンダル。教師には教科書がある。
 ちなみにうちの親のすねにはパラサイトシングルが二匹あり。

原作 兼好法師


朝の散歩

2005-10-23 09:10:39 | 日常
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 今朝は晴れた。朝の六時頃、矢川緑地へ散歩に行く事にした。


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 久しぶりにデジカメを持って出かける。


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 朝日はくっきりと影を刻む。ちなみに、画像をクリックすると拡大する。




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しかし安全第一だ。
確認を怠ってはいけない。


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 曲がり角の植木でさえ、朝日に輝く。


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 植木鉢が嘘みたいに赤い。


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 朝日を浴び、花は自ずから発光するかのよう。


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 道端のゴミさえ朝日を浴びると新鮮に見える。


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 矢川緑地のシンボルとも言える柳の木。


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 これは近所の造園。


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再び、矢川緑地に戻ると猫がそっぽを向いていた。


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 枯れ草。


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 矢川緑地の歩道。


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 逆光で見る矢川緑地の柳の木。家に帰るとしよう。


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 帰宅の前にローソンによって買い物。プリキュアだ。


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 近所の農家のかきねで見つけたつぼみ。寒かろうが、花は咲く。


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 そして、自分の部屋に戻ると、この有様。マウスすら自由に動かせない。朝の散歩は終了である。