墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

なんか書きたいんだけどさ

2005-09-30 21:01:50 | 駄目
 なんか書きたいんだけどさ。もうなんだか全てを言い尽くしてしまったような気もするし、そもそも発言権すら持ってなかったような気もするし、俺の特殊な考えを発表すれば、みんなが感心してくれるかもとか思ってたけど、以外に俺って特殊じゃない上に、当たり前でフツーだし。マジであたり前の普通な事なんかをぶっちゃけて発言することじたいが、本来の俺のプライドがゆるさないし。書けば書くほどに、人に触れれば触れるほどに、自分が当たり前で普通だと確信する。
 己が並だと確信したからこそ、親父っぽく愚痴りたい事もでて来たが、所詮は並の独り言。
 とにかく疲れた。貝になりたい。言葉はいらない。
 それでも、明日も発言する。


徒然草 第七十段

2005-09-30 20:24:56 | 徒然草
元応の清暑堂の御遊に、玄上は失せにし比、菊亭大臣、牧場を弾じ給ひけるに、座に著きて、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供の参る程によく干て、事故なかりけり。
 いかなる意趣かありけん。物見ける衣被の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。

<口語訳>
 (『元応』とは『元応天皇』の事だと思う。たぶん現代人が裕仁天皇を昭和天皇と言うのと同じノリ。元応という年号に在位していた天皇陛下の事を指していると思われる。だから『元応』とは後醍醐天皇のことで、その即位のお祝い会の席での出来事が、この段のメインなお話なのだ)
 元応の清暑堂での御遊会で、玄上(琵琶の名器)は失せた頃、菊亭大臣(きくていのおとど)、牧馬(琵琶の名器)を弾かれますので、座に着いて、まず柱(琵琶の弦の支柱)を探られたりしますれば、一つ(柱が)落ちました。ふところにノリを持っていらっしゃったので付けらましたらば、神への供え物が参る間によく乾いて、事故なかった。
 いかなる意趣があったか。見物していた衣を被った者、(琵琶に)寄って、(柱を)
放して、もとのように置いたりしたんだと。

<意訳>
 後醍醐天皇即位の前祝いの席上で、菊亭大臣が琵琶を弾く事となりました。
 琵琶の名器と名高い「玄上」はこの時には盗難にあっていましたので、同じく名器と名高い「牧場」が演奏会で使用される事となりました。
 さて当日。少しばかり早く演奏の座についた菊亭大臣は、まず、琵琶の確認をしてみました。するとどういうわけか触れただけで琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまいました。しかし、ふところにノリを用意していましたので、それでつけられ、儀式の進行を待つ間にすっかりノリは乾いたので、事故には至りませんでした。
 いかなる恨みがあっあたのか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄り、支柱をひきちぎり、もとのように戻しておいたんだという噂も聞きました。

<感想>
 並の名人の話しだ。
 今で言うなら、例えば小泉さんが、すげー琵琶の名手だったとして、天皇の即位の席で、自慢の琵琶の腕を、国宝級の琵琶で、披露するになった。というかんじだろうか。
 どんなに腕に自身があっても、国宝級の琵琶の演奏ともなれば緊張する。まして、一度も触った事がない楽器だ。どんな音が出るのかすらわからない。
 当然、ふところの中は、ノリだけでなく、琵琶の調整用具で満載だ。そんでもって、少しばかり早く演奏の座につき、琵琶を確認してみたら、案の定に不都合がある。あわてて楽器を直して、難なく収める。これって、以外と二流のふるまいなのである。
 真の名人なら、開演三分前に自前の楽器をかついで、ノコノコ地下鉄で現れる。そして開演前の数分で、楽器の不都合を発見。腕でカバーできる不都合なら、腕でカバーし、無理なら主催者に「無理」と言う。
 「この楽器は腕でごまかせないほど壊れている。俺が普段に使っちょる楽器なら、今日も背負って来た。こいつでいいなら演奏するが、どうしても予定の楽器じゃなきゃ駄目なら、俺にゃ無理だ。他の人をあたってくれ」
 と、開演三分前にダダをこねる。これが、すごい迷惑だが、真の名人ってもんだ。たぶんだけどね。

原作 兼好法師


晴れ

2005-09-30 06:08:40 | 携帯から
今朝は晴れた。空が青い。最近はますます日の出が遅くなり、5時半くらいまで真っ暗だ。起きた時にはこんなに良く晴れるとは思わなかった。日の出が遅くなるのにともないだんだんと寒くなる。


徒然草 第六十九段

2005-09-29 21:26:57 | 徒然草
 書写の上人は、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞こえる。

<口語訳>
 書写山円教寺の性空上人は、法華読誦(現在でも読まれているありがたいお経、法華経 の完全理解)の功が積って、六根浄かなえる人(とりあえず悟りを開いた人とでも解釈して下さい)でした。旅の仮屋に立ち入られましたら、豆のカラを炊いて豆を煮ている音がつぶつぶと鳴るのを聞かれましたらば、「疎くないおのれらすらも、恨めしくも、我を煮て、辛き目を見せるものなのか」と言いました。炊かれる豆ガラのばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかよ。焼かれるのはこればかりも堪え難いけれども、力ない事で。ぞんなに恨み給うな」とか聞こえました。

<意訳>
 書写の上人という、すごい僧は、すごそうなだけでなくホントにすごかった。
 法華経を隅から隅まで読みつくし、ついには六根浄の悟りを開いて第六感までピカピカであった。
 そんな人だから、並の人間には見えないものや、人には聞こえないモノまで聞こえるのは、ごく普通で当たり前な事であったのである。
 ある日、旅の宿で食事を振る舞われた。豆の煮たのだ。
 宿の主人は、豆をむいたカラを火にくべて、豆をいろりで煮てくれた。
 鍋の中では、豆がつぶつぶと煮えている。
「おいおい。同じ豆だったはずの、お前ら豆のカスが、俺ら豆を煮るのかい。あんまりじゃないか」
 鍋の下でばらばらと燃やされる豆カスが答える。
「俺らが、マジでそんな事をするものか。焼かれる事などたいした事もないが、俺らカスだからたいした力もないんだ。火に焼かれているだけなんだよ」
 上人にはそう聞こえたらしい。

<感想>
 「六根浄(ろくこんじょう)」とはなにか? まず「六根」とはなんだろう。「六根」は第六感まで含めた、人間の感受性の事である。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚。プラス心の感性が「六根」である。
 しかしだ。人の感覚器など、折れたアンテナ。あるいは指紋と手あかにまみれたレンズなのである。
 その程度に人の「六根」は感度が悪い。空を見上げれば、視界のハシにミジンコのごとき目ん玉のゴミが浮遊し、道を少し歩けば鼻の穴は煤塵で真っ黒。耳の中は耳あかでびっしりで、触覚など鍛える気がなけりゃ不確かなままで、舌には苔が生えている。心はフジテレビに占拠され、サンマでスマップだ。
 そんなモノを、浄化しましょうというのが「六根浄」なのだ。
 常に、自分の感覚を疑い、正しい情報を集めようという心が「六根浄」なのであると俺は想像する。たぶん正解ではない。ただ、「六根浄」は、「第六感まで浄化」とほぼ同義であると理解して頂いても、ほぼ間違いないと推奨する。ちなみに「六根浄」は「どっこいしょ」の語源であると言われている。
 で、そこまで感覚を浄化すると、見えないものや聞こえないはずのモノまで知覚できるようになる。
 ちなみに、俺の勤めるパン屋の店長は、イースト菌のささやきや、パン生地のナイショ話が聞こえる。俺ですら、飲めば小人さん達とお話が出来し、ピンクの象も、大名行列も見える。極めれば、豆の悲鳴ぐらいは即座に聞こえるはずだ。
 ただ、自分への悪口が聞こえるようなら病院へ行った方がいいな。誰も、あんたなんんか気にもとめてないし、まして酒がまずくなるような悪口など好き好んでは言わない。
 リンク: ♪おみそしるパーティー♪:「徒然草」 第六十九段 豆殻で豆を煮る. 
 この方の徒然草の解釈は面白い。なぜ「おいしんぼ」。とツッコミ心をさそう出だしや、流れが見事で、俺としても見習う所が多々にある。というか、ぜひ見習いなさい。なにが「俺としても」だ。読み物として完成している、こういうのを見ると真似したくなるが、無理だからやんない。でも楽しい。


予知夢

2005-09-29 18:42:15 | 駄目
 バイト先の更衣室で、なんとなく気になって鏡をマジマジと覗いてみたら、左の鼻の穴から、長い鼻毛がビロ~ンと顔を出していた。あわてて、親指と人差し指でつまんで引き抜く。
 今朝の夢は、この事の「予知夢」であったらしい。世の中には不思議な事もあるものである。ちなみに、抜いた鼻毛は更衣室の床に捨てた。店長ごめんなさい。