五月五日、賀茂の競べ馬を身侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
___________________________________
<口語訳>
五月五日、賀茂の競べ馬を見ましたら、車の前に雑人立ち隔てて見えなければ、おのおの下りて、柵のきわに寄ったけれど、ことに人が多く立ち込んで、分け入れない入りようもない。
こんな折に、向いにある楝の木に、法師が、登って、木の股にしゃがんで、物見している。取りつきながら、ひどく眠って、落ちるべき時に目をさます事、度々である。これを見る人、あざけりあきれて、「世の痴れ者かな。あんな危い枝の上で、安心して眠ってるよ」と言うのに、我が心にふと思ったままに、「我等が生死の到来、ただ今にもあろうか。それを忘れて、物見して日を暮す、愚かな事はなお勝ってるものを」と言ったらば、前にいる人ども、「まことにそれでこそ御座いました。もっとも愚かに御座います」と言って、皆、後を見返って、「ここへ入られ給え」と言って、所を去って、呼び入れ下さった。
これほどの理屈、誰かは思いつこうけれども、折からの、思いがけない心地して、胸に当たったのか。人、木石でなければ、時によって、物に感ずる事ないわけでない。
___________________________________
<意訳>
五月五日、賀茂神社の競馬見物に行ったところ、牛車の前に庶民が立ちふさがり人だかりでなにも見えない。各自、車を降りて柵のそばまで寄ってみるが、柵の前はとくに人が多く立ちこんでいて分け入る隙もない。
そんな状況の中、向かいの楝の木に法師が登って、枝に座り込んで見物している。法師は木にしがみつきながら居眠りして、何度も落ちそうになるがその度に目を覚まして枝にしがみつく。
その様子を見る人々は、あざけりあきれて、
「なんて馬鹿だ。あんな危ない木の上で、安心して寝ているよ」
などと言っているで、ふと心に思いついた事を口にしてみた。
「我等の死の訪れだって今すぐかもしれない。それを忘れ、祭り見物をして日を暮らすのなら愚かさで彼に負けていない」
すると、前にいた人達は、
「なるほど確かにごもっとも。私らも愚かでございます」
そう言って後ろをふり返り「ここへ入られなさい」と場所を空け呼び入れて下さった。
こんな理屈は誰だって思いつくようなものだけど、ああいう祭の時に言われると思いがけない気がしてありがたくも聞こえるのだろう。
人は、木でも石でもないから、時によって感動する事もある。
___________________________________
<感想1>
まずは、この41段の内容を整理してみよう。
5月5日は、賀茂の競べ馬の日であった。
賀茂の競べ馬は、京都「上賀茂神社」の神前で行われた競馬だ。
直線コースを二頭の馬が競う。
神社主催のお祭りなので「馬券」は販売されない。
さて、我らが兼好法師。知りあいの貴族の牛車に便乗して、賀茂の競べ馬の見物に向かった。
だが、競馬コースの前はすごい人だかりで牛車から何も見えない。
仕方ないので、各自くるまを降り、せめて馬の鼻面だけでも見ようと前へ前へと全身するが、雑人立ち込め前には進めない。
ただ見えるのは、競馬コース対面の木によじ登って競馬を見物している法師だけ。
しかし、この法師、せっかくの特等席の木の上で、コクリコクリと居眠りしている。今にも木から落ちて然るべきとなるその瞬間になると、法師ハッと気がつきハッシと幹にしがみついて落下をまのがれ、安心してまた居眠り。
これを見ていた祭りの見物人達は法師の様子にあきれてあざけり笑う。
「なんて馬鹿だ。いつ落っこちるとも分かんねぇ木の上で安心して居眠りしてやがる」
それを聞いた兼好法師は人々に語る。
「いや いや いや! 馬鹿なのはお互い様。私らだって今すぐ死んでも別におかしくないのに、こうやって祭りなんか見物している。馬鹿さかげんじゃ彼に負けちゃいない」
ふと思いついたセリフがきっかけで、兼好は前に招き寄せてもらえた。
というのが、この段の大筋である。では、次にこの段を簡単に検証してみよう。
まず5月5日というだけで、何年の出来事なのかは書いていない。ために、この時の兼好の年齢は推定できないのだが、この段は出家した後の兼好法師の経験談と理解するのが妥当であると思われる。何故なら出家前の貴族であった兼好が、庶民あいてに説教めいたことを語るとは考えにくいからだ。
兼好法師が牛車を所有していたという事はなさそうだ。
法師である兼好の足は徒歩か馬であったろう。馬は借りるのか飼っていたのかは知らないが、遠出の時の足であったはずだ。近場なら徒歩ですましたと思われる。
牛車のない兼好が牛車で出かけることはないはずなのだが、兼好はただの坊主ではない。歌人として、貴族とつながりがある。
そのつながりで一緒に競馬見物に出かけましょうよと、どっかの貴族に誘われその人の牛車に便乗して祭に出かけたのではないだろうか。
この段で面白いのは「雑人」と書かれている一般庶民達が貴族を特に優遇していないという点だ。
貴族が来ようと庶民は無視して競馬見物を続けている。
公共の場においては庶民と貴族はお互いに自分たちとは別世界に住む人間として、無視しあい生活していたものと思われる。なんだかとても中世とは思えないほどに都会的だ。
だけど、法師はそれとは違う種類の人間だったのではなかろうか。
教えを与える人間として、貴族・庶民を問わずに、当時の教養の頂点であった。だがもちろん、乞食坊主なんかの言葉にいちいち耳をかしていたら聞く方だって馬鹿を見る。一応、相手を見てから話しを聞く。
だから、庶民は後ろを振り返り、兼好を確認した。
そして、牛車で貴族と一緒に来た事から察して、兼好をそれなりの坊主であると判断した。
なので、兼好の言葉を庶民はすんなり受け入れたのではないだろうか。
兼好は坊主であるが、布教に精をだすタイプの坊主ではなかった。
ただ自分自身の心の安定の為だけに出家したような人間だ。だから、庶民に説教などしたこともないだろうし、しようとも思わなかっただろう。
たまたま、その日は思いついた事を口にしただけで、それがきっかけで兼好は祭り見物の前列に招き寄せてもらえた。
ところで、兼好は何故この段を書いたのだろう?
次にそれを考えてみたい。
___________________________________
<感想2>
この第41段は重要な段である。
兼好の考え方がこれまでとは違ってきている事を、兼好は自覚して意識的に書き示している。
序段から38段までの『徒然草』の文章からは、兼好の悩みや悲しみなどが読み取れる。
だが、39段以降の『徒然草』からは、心の動揺はほとんど読み見れなくなる。兼好は書く事に徹していて、彼の心の動揺を文面から察する事はできない。
その理由は兼好が「心の安定」を手に入れたからではないかと俺は考える。逆に言うなら序段から38段までの兼好はスゲー不安定であったとも言える。
その不安定さの例をあげるなら、第19段なんか良い例で、四季の話をしているのかと思ったらいきなり自己嫌悪に落ち入って自分が書いた文章なんて「人の見るべきにもあらず」とか言い出し、いいもん破り捨てちゃうからと勝手にヤケクソになっている。はじめて読んだときは、これで古典なのかよと驚いたほどだ。こんな古典もあんまり他に例がないだろう。
他にも29段あたりじゃ、亡くした人を思い出してなんだかセンチメンタルだし。
まぁ、『徒然草』初期の兼好が情緒不安定な例なんて他にいくらでもあげられるんだけど、可哀想だからもうやめておこう。
兼好は何を悟って、安定して執筆できる境地に達したのだろう。それは必ずしも1つではないと思う。
だが、兼好が変わった理由のその1つと思われるものがこの段から読み取れる。それを探る為に41段の原文から気になる言葉を選び出し、ちょいとチョイスしてみる。
『雑人』
『我等が生死の到来』
『人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず』
この3つが気になる、少し調べてみよう。
>
『雑人』
「主として鎌倉時代に行われた身分上の総称。侍の身分に属さない一般庶民をいう。(岩波古語辞典)」
「身分の低い者。庶民。(三省堂全訳解読古語辞典)」
「雑人」とは身分の高い人間から一般庶民を見たときの呼び方であると理解すれば良さそうだ。兼好は祭り見物に来た一般庶民連中を「雑人」呼ばわりしているが、これは他に適切な呼び方がなかった為だと思われる。
『我等が生死の到来』
適切な呼び方がなかったと思った理由は、「雑人」よばわりした連中に対して兼好は「我等が」と呼びかけているからだ。本来の身分の差も考えずに「我等が」と呼びかけられるのは兼好が世間も身分も捨てた法師だからであるが、それだけでもないだろうと思う。
『人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず』
「人は木でも石でもないんだから、時によって感動する事もあったりなかったり」というようなことを兼好は言っている。すなわち、人は誰だって感動するのだと兼好は言いたいらしい。
>
出家する前の、仏教に触れる前の若い兼好の心には苦しみしかなかった。
常に満たされない苦しさだけが心にあった。
苦しみから逃れたい一心で兼好は苦しみの原因を考えた。
その答えは「願はしかるべき事」(欲望)が叶えられない事による絶望だと兼好はとりあえず結論した。そして、欲望さえ抱かなければ絶望もしないから楽になれると直感したけれど、無欲になる方法が分からない。
兼好は仏教に欲望から逃れられる知恵があるに違いないと確信し、仏門に入る事を決意した。
決意はしたけど、でもこれは正しい選択だったのかなと少し迷いながら兼好は出家している。
仏の教えにより、誰もが平等に生まれて死ぬものだと教えられる。
だが、それは単なる教えであり、貴族社会に生まれた兼好には「誰もが平等である」という「実感」はすぐに得られなかっただろう。
出家した兼好法師は仏の教えを自分なりに理解して心の安定を得るまでに、10年以上の月日をかけたようだ。『徒然草』の文章がそれを語っている。
ところが、この41段に登場する兼好は「死」の前での「平等」をたしかに「実感」している。だから、この段の文章を書いたのだろう。
身分なんか関係なく、賤しい「雑人」も、元貴族の「自分」も、等しくして「我等が」と呼びかけているのは、それが法師ってものだからという見かたも出来るけど、俺はやはり違うと思う。
兼好は「平等」を「実感」していたから、「我等が」と呼びかけたのだ。
この段の最後を、兼好は「人は誰でも感動する」としめくくっている。そんな事を言うのは相手に「心」がある事を認めている証拠で、兼好はどんな人間にだって「心」があると認めているのだ。
ある日ある時、兼好は誰にでも「心」があると「実感」してしまった。それは「賀茂の競べ馬」の前の出来事であろう。
誰にでも「心」がある。
自分にも「心」がある。
自分を含めた誰にだって「心」がある。
自分にあるように誰にも「心」がある。
今その道を歩いているあの人にも「心」がある。
今座ってそれを見ている自分にも「心」はある。
心とは何だ?
感じる事だ!
誰もが感じる。
自分も感じる。
苦しみ、悲しみ、醜さ故の葛藤。
楽しみ、よろこび、人に恋する。
誰もが自分と同じように苦しむ。
自分は他人と同じように楽しむ。
なぜ感じるのか?
心があるからだ!
感じるのは誰だ?
感じるのは人だ!
人はなんだ?
自分も人だ!
誰もが感じる。
自分も感じる。
ならば、誰もが人であり自分も人である。
そして、自分は誰もと同じくただの人だ。
ある日ふと兼好は実感した。
自分はただの人でしかない。
そういう実感を抱いた兼好は賀茂の比べ馬の日に、その実感を証明する場面にめぐりあわせた。もう一度、原文にもどろう。
『皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき』
この時、みんなから呼び入れられた兼好はどんなに嬉しかったことか。
自分は1人孤独な「心」などではない。たくさんの苦しむ「心」の中のその1つの「心」に過ぎない。
兼好は人々に呼び入れてもらえたのが、よほど嬉しかったのか照れながら最後に語る。
『かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず』
___________________________________
<受け売り>
『五月五日、賀茂の競べ馬』
毎年5月初旬に、京都の上賀茂神社で競馬が行われた。一の鳥居から二の鳥居までの直線コースを、2頭の馬を競わせて走らせる。
『埒』
馬場のまわりの柵。
『楝の木』(あふちのき)
栴檀(センダン)という木の古名。「あふち」は現在「おうち」と発音する。