不幸に愁へに沈める人の、頭おろしなどふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮らしたる、さるかたにあらまほし。
顕基中納言の言ひけん、配所の月罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。
<口語訳>
不幸や憂いに沈んでいる人は、頭を丸めるなどとふつつかに思い立ったりしないで、いるかいないかほどに門を閉じて、待つこともなく毎日を暮らす、そういうふうにある事が望ましい。
顕基中納言は言った、配所の月を罪なき身で見れたら、そうとも思えるな」
<感想>
うえー。またも、中途半端な口語訳。原文の3倍は意味わかんないでしょう。もとのより3倍すごいのがシャー専用、もとのより3倍ひどいのがこの俺なのだ。そう俺なのだ!
まずは、受け売りの解説。顕基中納言(あきもとちゅうなごん。顕基は名前で中納言は位)は無実の罪で島流しにあった悲劇の人であったらしい。だから、配所の月は、島流しにされた先の流刑の地で見るお月様。こいつを罪なき身で見れたらどんなに良いかと中納言は言っている。どういう意味で、どんな気持ちで言ったのかは知らん。でも、兼好法師は自分の文章に参照するほど、このセリフがお気に入りだったらしい。
そしてだ。兼好法師は一気に「徒然草」全部をまとめて書いたわけでなく、若い頃から書きためていた作文を晩年に「徒然草」として、まとめたらしいのだ。そのため序段から第三十段までの文章は若い頃、30才前後にお使えしていた後二条天皇が崩御されてすぐの、兼好法師が出家したかしないかの頃に書かれたものであると現在では推測されているらしい。
まだ、出家したてか、出家以前の兼好法師が書いたのがこの第五段なのだ。まだこの頃の兼好法師には出家に迷いがあったのだろうと橋本治は推測している。
その推測をバックボーンの背骨にすると、第五段の文章はなんとなくわかってくる。
出家を考えてはいるが、まだ出家してない。あるいは出家したてで、やや出家を後悔している30才前後の兼好法師。
では、意訳してみよう。
<意訳>
不幸で悩んでてて、頭丸めて坊主にでもなろうかと考えてる皆さん。もう自分なんか、いるのかいないのかわからないほどに引きこもって、まったくなんの期待もせずに生きていくのもアリですよ。
島流しにあった顕基中納言も言ってました。「この流された島で見る月を無実な身で見れたら、、、」 そうでしょうとも。
原作 兼好法師
現代語訳 protozoa
参考図書
「徒然草」吉澤貞人 中道館
「絵本徒然草」橋本治 河出書房新書