大納言法印の召使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷りて候ふ」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて。袖掻きあわせて、「いかが候ふらん。頭をば見候はず」と答え申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。
<口語訳>
大納言法印の召使いし乙鶴丸、やすら殿という者を知って、常に行き通いしに、或時出て帰って来たのを、法印、「何処へ行ったか」と問われれば、「やすら殿のところ参っておりました」と言う。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問われて。袖掻きあわせて、「いかがでしょうか。頭は見えませんでした」と答え申した。
なぜ、頭ばかりが見えませんのか。
<意訳>
大納言法印が召し抱えていた、稚児の乙鶴丸。やすら殿という男を知って、いっつも通っておりました。
ある日。法印は、乙鶴丸がいつの間にか出て行き、コッソリ戻ってきたのを捕まえて問いただしました。
「何処へ行っておった?」
「やすら殿のところへ参りました」
「やすら殿とは何者か? 男か、法師か?」
すると、乙鶴丸は袖をかきあわせモジモジと答えた。
「いかがでしょ。頭までは見えませんでした」
なんで、頭だけが見えないんだよっ!
<兼好突っ込む>
男色の話だ。乙鶴丸は法印の男色の相手で会ったのだろう。
「乙鶴丸。良いではないか」
「和尚様。僕こわい。ナニをなされるのです?」
「なれれば、こちらも良いものぞ」
「やめて。やめて。イタイよ和尚様」
「大丈夫だ。怖くないぞ。気持ちよくなるおまじないをしてあげよう」
「ウワーン。やめてよ。なんでおちんちんをしごくの」
「我慢せい。やがて前も後ろも心地よくなるぞ」
「和尚様。おちんちんがっ」
「だろ。そのうち白いのが吹き出すぞっ」
「和尚様っ」
「乙鶴丸っ」
そういう世界だ。
現代なら、児童虐待のレイプだ。
そういうのって、もともとからの聖職者のお家芸なので、現代の聖職者がナニをしようが、ソレは聖職者の伝統芸能なので、法には裁かれるだろうが、驚く事はナニもない。
が。兼好はそういう世界からは一歩も二歩も千歩ぐらいは引いていたのだろう。
兼好は、そういう法師達の生臭い一面も知っていたからこそ、やや、仏教から引いた視点で仏教を論じているように思える。また、兼好は決して仏教を宗教としてはとらえてはいなかったのではないだろうかとも思える。
兼好は、仏教を哲学として理解していたのではなかろうか。あきらかに仏教から一歩退いた視点で、モノを語っている様子がある。
それはともかく。この段の主役の法印にしてみると、法師でないただの男なら、乙鶴丸は本当にただ遊びに行っているだけかもと期待も持てた。
だが、法印と同じ法師なら乙鶴丸がやられちゃってる可能性が非常に高いと、法印は考えたのだろう。だから、やすら殿が法師か男か確認したのだ。その答えは、頭は見ませんでした。という答え。
ここで、兼好は、「なんで頭だけが見えなかったんだ」と突っ込んでいる。たぶん、日本文学史史上、はじめての文中へのツッコミだ。古典にはくわしくないが、この国で、自分で書いた文章に自分で突っ込んだのは、おそらく兼好が初めてではないだろうか。これはすごい事である。
原作 兼好法師