墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

おじさんはね

2006-03-19 19:52:16 | 徒然草
リンク: 徒然草.

 今日から、この『日記』とは別に新しいブログを立ち上げた。
 タイトルは『徒然草』。
 タイトルに偽りなく『徒然草』専用のつれづれサイトである。

 ターゲットは、あんた達なんかではなく、若い果実の高校生。
 若い感性を、このやや古びれて、いささか醗酵しかかっている中年男の感性でウイリアム・テル並みに射落とそうという魂胆である。

 というか、やっちゃた以上は、『徒然草』の訳はぜひキチンと書き直したいのだ。そうしないと、俺自身が納得出来ないし、兼好にも申し訳ない。

 そんなで、この『日記』はしばらく閉鎖して、『徒然草』に集中しようとも考えたが、まぁ、別に、たいした労働じゃないし、『徒然草』と同時進行で続けてみてもいいかなというかんじだ。どうせ、この『日記』のモットーは、いい加減のやりっぱなし。『徒然草』の練習帳代わりにジャポニカと続けてみよう。

 ちなみに、上の記事は、ブログ『徒然草』に初投稿した記事だ。
 ずっと、どういう出だしにするか迷っていたが、結局は、こうしてみた。いかにも、俺お得意の、読者をほったらかした俺よがりな記事だ。
 ま、俺らしくていいだろう。

 たぶん、『徒然草』の方は、最後まで手直しに明け暮れる事になるだろうが、この『日記』は、今まで通りの書きっぱなしだ。


オジさん

2006-03-19 13:00:05 | 徒然草

 はじめまして、protozoa というオジさんです。

 今日から、このブログで、有名な古典作品『徒然草』を、一段づつ出来るだけ分かりやすい現代文に置き換えて、全段を訳して行こうと思います。

 もともとオジさんは、こことは別のブログで、ずっと『徒然草』を取り扱ってきました。「つれづれ3級」の国家資格も持っています。もちろんウソですけど。その別のブログで、生半可で間違いだらけな現代語訳とは言いつつも、一応とりあえず『徒然草』を一度は完訳しました。
 でも、完訳を果たしたはずのオジさんに対しての、読者からのリアクションは全くのゼロ。「完訳おめでとう!」のコメントの一つもありゃしません。オジさんの苦労はまったく「読者」に相手にされていません。ほぼ完璧な シカト です。なんて情けのない「読者」なのでしょう! てゆーか読者なんて、そもそもいたのか? 誰も読んでいなかった可能性は大です。

 まぁ、誰も読んでいないんじゃ仕方もないので、新たにブログを立ち上げる事にしました。ソレがコレです。このブログは、『徒然草』の完訳と鑑賞が目的で、全ての段を訳し終わったら、終了します。
 前のブログでのメインターゲットな読者は、20代後半から40才くらいまででした。
 しかし、このブログでは、もっと若いベヤングな層をターゲットにいたします。具体的に言うと授業で古典を習いだした「高校生」などです。
 高校生が読んでも安心で、横漏れも縦漏れもしない、文部省推薦の水洗トイレみたいにサラサラと流れる、人畜無害で当たり障りのないブログをオジさんは目指します。
 
 さて、ここで、オジさんの過去の業績を誇らしげに発表致します。前のブログで書いた『徒然草』の過去ログです。
 長いので、ぜひ、まともに読まずに思いっきりスクロールして読み飛ばして、あーいっぱい書いてあるなと感心して下さい。

「『日記』
  protozoa 日記

2005年7月24日 (日)

徒然草を買う

 昼前にブックセンターいとうに行き、徒然草を買う。訳注付きの参考本。句読点つきだが本文がそのままのっている。筒井康隆の「言語姦覚」も見つけたので購入。二冊で880円。
 昼寝後、錦町の図書館へ行き本を借りてくる。
「絵本徒然草」橋本治
「源氏供養」橋本治 上下巻
「日本語とテンの打ち方」岡崎洋三
「日本語相談」井上ひさし、大野晋、他

 「絵本徒然草」は徒然草を読み解く良い材料となりそうだ。

2005年7月24日 (日) 20時09分 徒然草 | リンク用URL | コメント (2) | トラックバック (0)

徒然草 序段

 つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆく よしなしことを、そこはかとなく 書きつくれば、あやしうこそ ものぐるほしけれ。

<口語訳>
 徒然なるままに、一日暮らした。硯にむかって心の中で移りゆく良くも悪くもないことを、そこはかもなく書いていると、怪しいほどに物狂わしくなる。

<感想>
 徒然なるままには、ようするにヒマだねと言う事らしい。でもタイトルにまでなってる徒然をヒマと現代語訳にすると徒然草がなんなんだかわかんなくなりそうだ。つれづれは徒然で良いと思う。昔の人は今の人が言う暇を、徒然と言ってたんだで良い。このヒマはどういうヒマなのかはこれからじっくり読み解いていけばよろしい。
 ものぐるほしけれは、気が狂いそうだとかいうコトらしい。
 ようするに、この作者は、「ヒマだったので一日中硯の前に座っていました。そんでもって、なんとなくになんか文字なんかを書いているうちにすごく気持ち悪くなりました」 というコトを書きたかったらしい。

原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書

2005年7月24日 (日) 20時40分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月25日 (月)

徒然草 第一段(1)

 いでや、この世にうまれては、願はしかるべき事こそ多かめれ。
 御門の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など賜はるきは、ゆゆしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれどなおなまめかし。それより下つかたは、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちおし。

<口語訳>
 いでや。この世に生まれては、願い事ばかりが多い。
 御門の御位はいとも尊く。竹の園生の血筋まで、人間の血統ではあらぬぞ、畏れ多い。一の人の有様もそれなりだ。ただの貴族でも、舎人など賜る身分なら、ゆゆしき事と思う。その子供、子孫までは、落ちぶれていても、なお、輝いている。
 それより下のほうは、程度によって、良い時もある。したり顔にもなる。自分が偉いと思ってる。まったく口惜しい。

<感想>
 この徒然草の作者である兼好法師は文の出だしがうまい。下手に現代語訳なんかできない。だから、今夜も出だしはそのまんまにした。
 訳がわかりにくいので、兼好法師が言いたい事を、あえて俺の言葉に直すとこうなる。

<意訳>
 やーこの世に生まれちまった以上は願い事ばかりが多いよね。
 天皇なんかすごく偉くて、竹の園生に住んでる皇族すら普通の血筋じゃないんだ。
 一番偉い位の、摂政とか関白もそれなりにすごいよ。ただの貴族だって、朝廷からボディーガードの舎人とかつけてもらえる身分は、そりゃすごいさ。そういった連中の子供や孫までは落ちぶれてても、それなりの気品があるよね。
 でも、それより下の貴族連中は、身分に応じて出世とかして、得意顔の時とかもあるけどさ、それってかっこ悪いよ。

<感想>
 テキストによれば、兼好法師の生きた時代は鎌倉時代末期。元寇のあとで、世の中が乱れはじめる直前だ。こんな時代に下級貴族が偉そうにしてるのはみっともないだけだよと兼好法師は言いたいらしい。しかも、さらにテキストによれば、兼好法師自体が、坊主になる前は、朝廷から官位をいただく身分であったらしい。どうやら彼にもいろいろと言いたい事があるらしい。じっくりと耳を貸そうじゃないか。
 ちなみに、第一段は本当はもっと長い文章なんだが、テキストに従い三分割させていただく。

2005年7月25日 (月) 20時22分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月26日 (火)

徒然草 第一段(2)

 法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。
 「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。いきほひまうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀ひじりのいひけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御をしえに違ふらんとぞおぼゆる。ひたふるの世捨て人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

<口語訳>
 法師ばかりは、うらやましくおもう者はいまい。
 「人には木の端みたいに思われてるのよ」と清少納言が書いたのも、まことにそのとうりだ。勢いさかんに、大騒ぎしても、偉くは見えない。増賀聖がおっしゃったように、名声は見苦しく仏の教えと違うものだろうとおもう。ひたすら世捨て人なら、なかなかうらやしいところもあるな。

<感想>
 この文章は、昨日の「いでやこの世に生まれては」の続きである。テキストの著者が「徒然草」第一段の本文は長いと感じたらしく三分割していたので、俺もそれにならってみた。
 今日の兼好法師のお言葉を、俺の言葉で意訳するとこうなる。

<意訳>
 (いやー。この世に生まれちまった以上は望む事ばかりが多いよね。でもさ、皇族でもない下級貴族が威張るのはかっこ悪いよ)
 坊主はあんまりうらやましくはないな。「(坊主なんか)人に木の端みたいに思われてんのよ」なんて清少納言が書きつづっちゃたりするのも当然だよね。大騒ぎして鐘と木魚叩いてみたりしてても、あんまりありがたくは見えないしな。増賀上人の言うように、坊主の名声は見苦しい上に、仏の教えに背いてる。まだ、乞食坊主のほうがなんぼかましだな。

<予告>
 兼好法師は 「この世に生まれた以上は望みばかりが多いよな」 と書きはじめてから、貴族と坊主の悪口しか書いていない。どういうことなのだろう? なにが言いたい兼好法師! 
 「徒然草」一の段は、三回めの明日で終わる。明日は誰の悪口が飛び出すのだろうか? 兼好法師は出だしの望みごとばかり多いよなを、どう結論とつなげるつもりなのだ? 深まる謎! 新たなる展開! 待て明日! シーユーアゲインまたあしたなのだ。

2005年7月26日 (火) 20時05分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月27日 (水)

徒然草 第一段(3)

 人は、かたち有様のすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うちいひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉おほからぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるる本性みえんこそ、口惜しかるべけれ。
 品・かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なく成りぬれば、品くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意なきわざなれ。

<口語訳>
 人は、形有様の優れていていることこそ、本当に望ましいのだ。物言い、なんとなく聞きにくくなく、愛敬あって、言葉多くないなら、飽きずにつき合っていける。立派と思う人の、がっかりさせられる本性見てしまうと口惜しくもなる。
 家柄や容姿は生まれつきだが、心は違う、賢きより賢きに移せば移らないだろうか。容姿や品性良い人も学問なければ、家柄もない醜い連中に入り交じられ、わけもなく蹴落とされ不本意な状態となる。

<意訳>
 人間、美しいのが望みだよね。話し方も聞きにくくなくって、愛敬あって、無駄愚痴言わない奴は友達に最高だね。でも、そんな奴のがっかりするほどの馬鹿さかげんを見ると嫌になるね。
 親の財産や容姿なんかは変えようもないけど、頭は変えられるだろ。賢くなろーよ。すごい美人がつまんないおばさん連中に取り囲まれてヘコヘコしてんのは見てて嫌になる。

<感想>
 今日の兼好法師はいつにもまして言いたい事を言っている。自分には学問があってイケてる奴という自信がなけりゃ、ここまでは言い切れない。
 だが、これは一昨日からの文章の続きなのだ。そして、今日の文章で第一段は、とりあえず終わる。
 一日めで、兼好法師は「この世に生まれた以上は望みごとばかりが多いよな」で文章をはじめた。とうぜんに、今日の文章もそれにかかって終わる。
 一日めで、現世の出世への嫌悪。二日めで、坊主への嫌悪。三日めで容姿や口ばかりで内容のない奴への嫌悪で閉めた。
 ようするに、兼好法師は第一段で、「この世に望む事は多いが、天皇でもない奴が多少の出世でいばるのは馬鹿丸出し。坊主が現世で出世しようと思うのは仏の教えにすら背いた大馬鹿野郎。見た目が良くても、内容がない奴は死んで良い馬鹿。馬鹿呼ばわりされたくなけりゃ内面を磨け。勉強しようよ」と言いたかったらしい。お前は何様だとも思うが、いっそ清々しく好ましい。

2005年7月27日 (水) 19時27分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月28日 (木)

すいません、ごめんなさい。

 すいません、ごめんなさい。
 またやらかしてそぼろいました。
「徒然草」の第一段はまだ終わっていなかったのです!
 てっきり勝手にこれでもう「徒然草」の一段めは終わっちゃったんだなと昨日は思っちゃったりなんかしちゃったりして、そんでもって結論めいたまとめまで書いちゃったりまでなんかしちゃったりしたんですが、まだ終わってはいません。
 初日で勘違いしてました。「徒然草」の第一段は三分割でなく、四分割されていたのです。
 俺はケアレスミスの男。
 俺のいく先々にはミスの影が常につきまとうのです。オールドミスならぬ、ほとんどミスです。俺の言う事なんて半分は勘違いで半分はウソ。要するに100%信じるなと言う事です。常に俺のやる事なす事、書く事の全てに疑いのマナコで立ち向かって下さい。切に希望します。

 そんなで「徒然草」第一段の(4)。今夜が第一段の最終回。さて、どんな話しが飛び出しますやら、乞うご期待!

2005年7月28日 (木) 19時57分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

徒然草 第一段(4)

 ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、菅絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかくして拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、をのこはよけれ。

<口語訳>
 身につけたい事は、本格的な文の道、作文、和歌、菅絃の道。また有職に公事の方、人の鏡になる事こそすばらしいであろう。筆跡は下手ではない走りがき、声良く拍子をとり、遠慮なんかしてても下戸ではないのが、男として良い。

<意訳>
 身につけておきたい事は、本格的な学問、漢詩、和歌、楽器の演奏。それに朝廷の諸儀式の知識、そういうもので人の鏡になれたら素敵だよね。字なんか下手じゃなくて流れるような文字でさ、声が良くて拍子もうまくとれて、遠慮なんかしつつも下戸じゃない。なんてのが男としていいよな。

<感想>
 一日めで、兼好法師はこの第一段の文章を「この世に生まれた以上は望みごとばかりが多いよな」ではじめた。とうぜんに、今日の文章もそれにかかって終わるはずだ。
 一日めは貴族として、現世での出世への嫌悪。
 二日めで坊主が出世する事への嫌悪。
 三日めに容姿や口ばかりで内容のない奴への嫌悪。
 さて、四日めは。身につけたい事はではじまる。
 ここではじめて、実は兼好法師は世間への嫌悪をただ書いてきたわけでなく、自戒の念をこめて第一段を書き進めてきた事が理解できる。
 兼好法師が第一段で言いたい事を要約してみよう。
「俺もさ、この世に生まれた以上は望みごとが多いわけさ。でも、天皇でも皇族でもない、ただの貴族が多少の出世で喜んでるのもどうかと思うぜ。
 ましてや、坊主が出世しようなんて、そう思う事自体が仏の教えにそむいてるよな。
 カッコイイのは理想だけどさ、頭が空っぽじゃ、いくらイケてても情けないよな。
 結局、他人の手本になるぐらいの知識がなきゃ駄目だよね。そんでもって大酒飲みならなおさらいい」
 とゆー事です。
 ありたき人の姿を最後は、下戸じゃないのが男らしいと締めてんのが、兼好流というやつでしょうか。昨日より兼好法師が少し好きになりました。
 てゆーか。勘違いしててごめんね、兼好法師。

2005年7月28日 (木) 19時58分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

徒然草 第一段(全)

 いでや、この世にうまれては、願はしかるべき事こそ多かめれ。
 御門の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など賜はるきは、ゆゆしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれどなおなまめかし。それより下つかたは、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちおし。
 法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。
 「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。いきほひまうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀ひじりのいひけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御をしえに違ふらんとぞおぼゆる。ひたふるの世捨て人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
 人は、かたち有様のすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うちいひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉おほからぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるる本性みえんこそ、口惜しかるべけれ。
 品・かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なく成りぬれば、品くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意なきわざなれ。
 ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、菅絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかくして拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、をのこはよけれ。

<意訳> 
 やー。なんかこの世に生まれちまった以上は無駄に願い事ばかりが多いよね。
 天皇はすごく偉くて、竹の園生に住んでる皇族すら普通の血筋じゃないんだよ。
 摂政とか関白もそれなりにすごいよ。ただの貴族だって、朝廷からボディーガードの舎人とかつけてもらえる身分なら、そりゃすごいさ。そういった連中の子供や孫まであたりは落ちぶれても、それなりに気品があるよね。それより下の連中が身分に応じて出世とかして得意満面なんて場面もあるけどさ。それってやっぱかっこ悪いよ。
 坊主はあんまりうらやましくはないな。
「(坊主なんか)人に木の端みたいに思われてんのよ」なんて清少納言に書きつづられちゃたりするのも当然だよね。大騒ぎして鐘と木魚叩いてみたりしてても、あんまりありがたくは見えないしな。増賀上人の言うように、坊主の名声は見苦しい上に、仏の教えに背いてる。まだ、乞食坊主のほうがなんぼかましなんだよ。
 人間、美しいのが望みだよね。話し方も聞きにくくなくって、愛敬があってさ、無駄に愚痴を言わない奴なんかは友達に最高だね。でも、そんな奴であっても、たまにがっかりするほどの本性をあらわにしたりするんだよね、嫌になる。
 親の財産や容姿なんかは変えようもないけど、頭の中身は変えられるだろ。賢くなろうよ。すげー美人がつまんないおばさん連中に取り囲まれてヘコヘコしてんのは見てて辛くなる。
 せめて身につけておきたい事は、本格的な学問、漢詩、和歌、楽器の演奏。それに朝廷の諸儀式の知識、そういうもので人の手本になれたら素敵だよね。字なんか下手じゃなくて流れるような文字でさ、声が良くて拍子もうまくとれて、遠慮なんかしつつも下戸じゃない。なんてのが男としていいよな。

原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書

2005年7月28日 (木) 20時00分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

ニート

 テキストによれば兼好法師は、京都出身の下級貴族。本名は卜部兼好。吉田神社の神主一族の出身なので、後の世の人に吉田兼好と呼ばれるようになる。
 出家後の名前はただの兼好。だから、正しくは「徒然草」の作者は兼好法師なのである。もしくは出家前の卜部兼好が正解である。吉田兼好はたんなる京都のご近所でのあだ名である。あだ名を答案用紙に書いて、はい正解の現在の国語教育は間違いっぽいらしい。

 兼好は、当時の鎌倉時代末期の貴族社会のあまりのアホらしさに戦線離脱した、いわゆるニートである。当時はニートにもちゃんと受け皿があった。それが出家である。これ以上、この世にはつきあいきれません。という人々にも、ちゃんと逃げ道が用意されてたんである。
 だが、明治政府の戸籍を国が管理したいが為の政策で、仏教は精力をそがれた。そのおかげで、無駄な出家を受け入れる余地がなくなったのだ。
 ホームレスもニートも、昔なら坊主にさえなれば、それなりに格好がついたのだ。

2005年7月28日 (木) 21時14分 徒然草 | リンク用URL | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年7月29日 (金)

徒然草 第二段

 いにしえのひじりの御代の政をも忘れ、民の愁、国のそこなはるるも知らず、よろづに清らを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ九条殿の逝誡にも侍る。順徳院の禁中の事ども書かせた給へるにも、「公の奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。

<口語訳>
 古の聖の御代の政(まつりごと)をも忘れ、民の憂い、国の損なわれるのも知らず、全てに華美を尽くして立派だと思い、せまいところにいる人は、情けなく、考えが足りないように見える。「衣や冠、馬、牛車にいたるまで、あるもので間に合わせよ。美麗を求めてはいけない」と九条殿の書き残した書にもございます。順徳院の禁中の書においても 「天皇のお召し物は簡素なものが良い」 とございます。

<感想>
 実は、この文章で、徒然草の著者である兼好法師のキャラがつかめなくなった。この第二段の文章は、たんなる坊主の説教に思える。出だしだけは、あいかわらず切れが良いんだが、内容は他人の著作によりそった坊主の説教だ。とりあえず意訳してみよう。

<意訳>
 昔の天皇の善政を忘れて、人心や国のいく末にも知らんぷりで、自分の身の回りだけが優雅なら良いと思い、御所に閉じこもる天皇は、情けなくて駄目だと思う。「 衣や冠、馬、牛車にいたるまで、あるもので間に合わせよ。美麗を求めてはいけない」と九条殿の書き残した書にもある。順徳院も禁中の書で 「天皇のお召し物は簡素なものが良い」 と書いていたよ。

<また感想>
 ようするに、贅沢はするな。周囲にも目をむけろと言ってる。いかにも坊主が言いそうな事だ。
 でも、言ってる相手は畏れ多くももったいなくも、天皇陛下なんである。
 テキストによれば、兼好法師は元下級貴族で朝廷から蔵人という身分を与えられていた。だから兼好法師は元の雇用主に意見しているわけだ。さすがに直に意見するのは畏れ多いので他人のセリフを借りて意見したのであろう。この文章は言いにくい事を、あえて言っちゃったのがすごいんだと解釈するべきなんだろうか。

原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書

2005年7月29日 (金) 20時21分 徒然草 | リンク用URL | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年7月30日 (土)

徒然草 第三段

 よろずにいみじくとも、色好まざらん男はいとさうざうしく、玉の巵の当なきここちぞすべき。
 露霜にしほたれて、所さだめずまどひ歩き、親のいさめ世の謗りをつつむに心のいとまなく、あふさきるさに思ひみだれ、さるは、独り寝がちにまどろむ夜なきこそをかしけれ。
 さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

<口語訳>
 すべてにすばらしくても恋なき男はひどくさびしい、玉のさかずきの底がないかのように感じられる。
 露霜にしたたれて、所さだめず迷い歩き、親の戒め世のそしりで気後れして心安らかになれない、何とも言えない思いに乱れて、それで、独り寝ばかりでまどろむ夜しかない事のおかしさ。
 しかし、ひたすらたわむれるだけの男ではなく、女に並大抵の者ではないと思われてこそ、あぁ望みの技である。

<意訳>
 いかに完璧な男でも、失恋経験の一つもないような奴はいささか寂しい。高価な宝石を削って、せっかく杯を造ったのに、最後に手元が狂って底が抜けちゃったみたいなかんじだ。
 夜露に濡れ、行き先も定まらぬまま一晩中ほっつき歩く。好きでそんな事をしているはずなのに親の小言や世間の評判を心配して何とも言えない思いに心がかき乱れる、そんな事を繰り返していながら、独り寝で悶々とするばかりの毎日に自分で自分がおかしくなる。
 しかしだ。こんな男でも、女に並大抵の男ではなさそうだと一瞬でも思われたなら、まぁ最高だよね。

<感想>
 恋に仕事にと大成功している男は、たしかにうらやましいが、失恋だらけでセンズリが彼女みたいな男の目から見ると、どこか大切ななにかが彼には欠けているように思われる時もある。
 なんて事を兼好法師はこの文章で言いたいのではないかと想像する。
 橋本治の「絵本徒然草」の解説を参照させていただくと、この第三段は、夜ばいが失敗した時の気持ちを書いているのではないかと言う事だ。
 いくら、鎌倉時代な大昔でも、勝手にひとんちに不法侵入して、ソコの家の娘を犯したら強姦で犯罪である。夜ばいにも段取りが必要なのだ。
 恋の歌を何度もお気に入りのお屋敷の娘に送り、ついでにお屋敷の召使いとも仲良くなっておく。やがて、恋の歌にも返事が来るようになれば「脈あり!」だ。
 そこで召使いに、彼女にお目どおり願いたいんだけど、一役買ってくれないかなと根回しをはかる。召使い、おめあての彼女の下女は言う。「じゃ。気持ちだけはお嬢様に伝えときますんで」そこまで、下女から引き出せればしめたもの。
 やったー。
 おめあての彼女の生顔すら拝んだ事のない超童貞くんは天にも昇る気持ち。
 二三日して、屋敷に行き下女を呼び出すと、「お嬢様はお会いになられても良いかも。と、申しております。とりあえず、私の一存で、今夜はこの門のカギを閉めずにおいておきましょう。ただ、お嬢様にも都合がございますゆえ、あまりご期待はなさらぬ方が良いかもしれません」
 もう、チンコはこの段階でピーチクパーチク。
 浮かれ気分で、もう夜が待ち遠しくて仕方ない。
 夜になり、屋敷に行くと、門にはかんぬきがささっている。おしても引いてもビクともしない。あれー。来るのが早すぎたのかなー。
 下女が門を開けてくれるのをひたすらに待つ。街灯もない暗闇の中で口臭チェック。ふところには、最新の愛の歌。
 長い長すぎる。いくらなんでもこれはありえんだろうと思えるほど長いあいだ門の前で立ち尽くしていた。いつの間にやら空は白みはじめ、一張羅の自慢の着物は朝露に濡れている。
 そしてやっと悟る。あー。今夜は彼女は都合が悪かったんだ。そして、ありとあらゆる都合を考え、自分の惨めさをやっと知る。
 俺なんか、誰にも必要とされてない。俺はいらない。俺は不良で腐ったミカンだ。
 とりあえず、うちに帰ってセンズリでもかこう。抜けば、スッキリして眠くなる。
 足取りは重く、頭は徹夜で疲労しきっている。そして、それでも最後の最後にこう考える。こんな惨めな俺でもすごいと言って好きになってくれる女がどこかにはいるかもしれない。
 なんて思いをした兼好法師が中年になってから書いたのが、この第三段なのではなかろうか。

原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書

2005年7月30日 (土) 20時48分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月31日 (日)

徒然草 第四段

 後の世のこと心に忘れず、仏の道うとからぬ、こころにくし。

<口語訳>
後の世の事を心に忘れず、仏の道に疎い、心憎い。

<感想>
 この文章は短くて、なんとなくスラスラ意味がわかってしまうような気がする。
 兼好法師はツクツクボウシでなくお坊さんなので、彼の言う「後の世」は来世の事だ。
 素直に読めば、「来世のことをいつも心に忘れず、仏様の教えに疎くないのは、素敵なこと」 という文章になる。
 しかし、ここでテキストである「絵本徒然草」から、橋本治の現代語訳を抜き出してみよう。
「来世の事を胸に刻んで、仏の道に無関心じゃないの、いいよなァ」
 あれ、最初に思った意味と反転している。
 実は、原文の「仏の道うとからぬ」が曲者なのだ。
 「うとからぬ」の最後の「ぬ」が打ち消しの意味なのか、それとも状態が実現している事を意味する助動詞終止形の「ぬ」なのかで、文章自体の意味がまったく変わってしまう。
 打ち消しなら「仏の道にうとくない」だが、終止形なら「仏の道にうといからね」となる。困った事に、もう一冊のテキストには第四段の文章自体が収録されてないので、比較見当ができない。
 仕方なく、ネットで「徒然草」の現代語訳を調べてみると、第四段は素直に「仏の道に疎くない」と訳している人が多い。
 だが。とりあえず、今回は橋本治を信用して「仏の道に疎いからね」と言っているのだとして、意訳してみよう。

<意訳>
 来世の事ばかりで、仏の道にうとい、心憎いね。

<追記>
 なにが言いたいのか、兼好法師。
 橋本治の解説とは違ってしまうが、「『来世、来世』と来世のことばかり口にして、肝心の仏の教えに無関心な奴が多いよな。いいよね、お気楽で」 と言いたいんではなかろうかと想像する。
 短い原文ではあるのだが、ここまで想像するのにやたらとてこずった。あなどりがたし徒然草。

原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書

2005年7月31日 (日) 05時52分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

徒然草 第五段

 不幸に愁へに沈める人の、頭おろしなどふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮らしたる、さるかたにあらまほし。
 顕基中納言の言ひけん、配所の月罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

<口語訳>
 不幸や憂いに沈んでいる人は、頭を丸めるなどとふつつかに思い立ったりしないで、いるかいないかほどに門を閉じて、待つこともなく毎日を暮らす、そういうふうにある事が望ましい。
 顕基中納言は言った、配所の月を罪なき身で見れたら、そうとも思えるな」

<感想>
 うえー。またも、中途半端な口語訳。原文の3倍は意味わかんないでしょう。もとのより3倍すごいのがシャー専用、もとのより3倍ひどいのがこの俺なのだ。そう俺なのだ!
 まずは、受け売りの解説。顕基中納言(あきもとちゅうなごん。顕基は名前で中納言は位)は無実の罪で島流しにあった悲劇の人であったらしい。だから、配所の月は、島流しにされた先の流刑の地で見るお月様。こいつを罪なき身で見れたらどんなに良いかと中納言は言っている。どういう意味で、どんな気持ちで言ったのかは知らん。でも、兼好法師は自分の文章に参照するほど、このセリフがお気に入りだったらしい。
 そしてだ。兼好法師は一気に「徒然草」全部をまとめて書いたわけでなく、若い頃から書きためていた作文を晩年に「徒然草」として、まとめたらしいのだ。そのため序段から第三十段までの文章は若い頃、30才前後にお使えしていた後二条天皇が崩御されてすぐの、兼好法師が出家したかしないかの頃に書かれたものであると現在では推測されているらしい。
 まだ、出家したてか、出家以前の兼好法師が書いたのがこの第五段なのだ。まだこの頃の兼好法師には出家に迷いがあったのだろうと橋本治は推測している。
 その推測をバックボーンの背骨にすると、第五段の文章はなんとなくわかってくる。
 出家を考えてはいるが、まだ出家してない。あるいは出家したてで、やや出家を後悔している30才前後の兼好法師。
 では、意訳してみよう。

<意訳>
 不幸で悩んでてて、頭丸めて坊主にでもなろうかと考えてる皆さん。もう自分なんか、いるのかいないのかわからないほどに引きこもって、まったくなんの期待もせずに生きていくのもアリですよ。
 島流しにあった顕基中納言も言ってました。「この流された島で見る月を無実な身で見れたら、、、」 そうでしょうとも。

原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書

2005年7月31日 (日) 20時53分 徒然草 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 1日 (月)

購入

 給料が振り込まれていたので、本を買う。
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫

 実は、今まで「徒然草」の解読に使ってきた資料には「徒然草」本文の全文が載っていなかったのだ。思いつきではじめた事なので、良く知りもせず資料を買った。すると、どういうわけかところどころ段が欠けている。あれー。徒然草は昔の本だから、抜け落ちている段もあるのかなーとのんきに思っていたら、二冊用意した資料の二冊とも抜け落ちている段が違う。それに気がつき、やっと、この二冊とも徒然草を完全に全て紹介しているわけではないんだと気がついた。
 一冊は大学生とかが使う学習用の参考書、もう一冊は橋本治の桃尻的意訳による文学作品。どちらも自分の意にかなう、おいしいとこどりの「徒然草」なので、好きな段を好きなように解説、意訳してる。
 昨日までは、たまたま、こちらになければこちらにあるで、やってこれたが、じきにどちらにも紹介されてない本文が登場するのは時間の問題で時は金なりタイムイズアマネーである。
 早く、完全版の徒然草を入手せねばと考えていたが、昨日までは金がないので手の打ちようがなかった。手は打てないが、手がなる方へと、ネットで検索なんかしてみたら、岩波文庫に完全版の良い「徒然草」があるらしい。
 さっそく今日、振り込まれたてホヤホヤの給料をおろして立川のオリオン書房サザン店で岩波文庫「徒然草」を購入する。税込み903円。高い。
 高いが仕方ない。これでしばらくブログのネタはつきない。あー良かった。

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近いうちに

2006-03-12 21:49:06 | 徒然草
 まー。徒然草は終わっちゃったんだけど、近いうちに、<口語訳>と<意訳>をやり直した、『protozoa版 完全版 徒然草』をお送りする予定。つれづれリローテッドみたいなかんじで、リメンバーパールハーバーとつれづれなのだ。

 まぁ、実際、あまりに訳が拙すぎて、自分で嫌なんで書き直したいというのが本音だ。本から吸収したウンチクの数々もご披露したいし。

 ま、そんなで、近いうちに、もしかしたら場所を変えて『徒然草』に再挑戦するかもしれない。


徒然草 第二百四十三段

2006-03-12 21:12:50 | 徒然草

 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教え候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

<口語訳>
 八つになった年、父に問いて言う事、「仏は如何なるものでございますか」と言う。父が言う事、「仏には、人が成ったのである」と。また問う、「人は何として仏には成りましたのか」と。父また、「仏の教によって成るのである」と答えた。また問う、「教えましたその仏を、何が教えました」と。また答える、「それもまた、先の仏の教えによって成られたのである」と。また問う、「その教え始めました、第一の仏は、如何なる仏にございますか」と言う時、父、「空より降ったか。土より湧いたか」と言って笑う。「問い詰められて、答え得なくなりました」と、諸人に語って興じた。

<意訳>
 八つになった年に、父に質問した。

「仏は、いかなるものでございますか?」

 と聞くと、父が言う事には、「仏とは、人が悟りをひらいて成ったものだ」と。

 また問う、

「人はどうして仏に成れたのですか?」

 父また、「仏の教によって成るのである」と答えた。

 また問う、

「その教えた仏を、なにが教えました?」

 また父は答える、「その仏もまた、前の仏の教えによって成られたのだ」と。

 また問う、

「その教えをはじめました第一の仏は、いかなる仏にございますか?」

 と聞けば、父は、「空より降ったか。土より湧いたか」と言って笑った。

「問い詰められて、答えられなくなりましたよ」と、父はみんなに語って面白がっていた。

<感想>
 まず、父は、8才の兼好がした最初の質問にちゃんと答えていない。
 兼好は「仏とは、如何なるものなのですか?」と聞いているのに、父の答えは「仏は、人が(悟りをひらいて)なるものだ」という答え。
 8才の兼好が父に聞いているのは、「仏とはなんなのか?」というもっと根本的な質問なのであるが、父は、仏の前身は人であるとしか答えていない。
 言い換えれば、子供に「ニワトリってなんなの?」と聞かれて、「ニワトリさんは卵から産まれたんだよ」と答えているようなものだ。
 まー、兼好の父も8才の子供に、そんな根本的で深い質問をされるとは思わなかったのだろう。
 その為に、話題はすり替わり、会話の方向はあさってへ行くが、最終的に、父は兼好の質問に答える事が出来なくなる。だが、そんな兼好の小賢しさをも父は許容して愛している。
 この段は、そういったお話だ。

 この段を書いたときの兼好の年齢を正確に推定する事は不能だが、40才をはるかに超えていた事は間違いない。
 兼好は、何十年も昔の、遠い過去を懐かしく思い出している。

 ところで、この段で『徒然草』は終わる。
 なんで、兼好はこの話を『徒然草』の最後に書いたのだろう。

 兼好法師は、父に「仏とは如何なるものか?」なんて、小賢しい質問をするような子供だった。理屈っぽくて可愛くないガキだったのだろう。
 そして、ガキの頃には、吉田神社の一族の、その息子である自分が、異教であるはずの仏教の僧として出家するなんてことは、夢にも思わなかっただろう。だが今、確かに出家して「兼好法師」である自分がここにいる。
 今になって思い出すと、理屈っぽくて小賢しい自分には、以外と「法師」はお似合いだったのかもしれない。
 自分は出家した事を悔やんではいないよ。自分には法師はお似合いだったのさと、兼好は自分の過去を容認して『徒然草』を終わらせている。

 こうして、未完成でぶっちゃけで、適当でいいかげんの書きなぐり、思いつきの鋭さでつれづれとした『徒然草』は幕を閉じる。

原作 兼好法師


徒然草 第二百四十二段

2006-03-12 14:24:03 | 徒然草

 とこしなへに違順に使はるる事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲する所、一つには名なり。名は二種あり。行跡と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味ひなり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒の想より起りて、若干の煩ひあり。求めざらんには如かじ。

<口語訳>
 永久に違順に使われる事は、ひとえに苦楽のためである。楽と言うは、好み愛する事である。これを求めること、止む時ない。楽欲するところ、一つには名である。名は二種ある。行跡と才芸との誉である。二つには色欲、三つには味わいである。万の願い、この三つには及ばない。これ、本末転倒の想いより起こって、若干の煩いある。求めないのには及ばないだろう。

<意訳>
 人が死ぬまで、幸せ、不幸せにこだわる。
 これは、苦しみと楽しみのためだ。

 なぜ楽しいのか?
 楽しい事を、好み愛しているから楽しいのだ。
 楽しさを求める事をやめる事はできない。

 楽しさを求める心は「欲望」である。

 求める欲望は、三つある。

『誉められたい』

『ご飯食べたい』

『気持ちよくなりたい』

 ようするに、心とおなかと体が満たされると、幸せな気分になれる。

 だが、快楽を重視しすぎると、図に乗ったり、お腹をこわしたり、身の破滅だったりして本末転倒する。
 求めないでいられるなら、それがいい。

<感想>
 人間はラジオと同じく、感受装置にすぎないけど、視聴者でもある。
 出来れば楽しい放送ばかりを受信したい。

 だが、楽しいばっかりじゃ、楽 くくく苦ってなもんで、いずれ破綻してしまう。

 楽しくも苦しくもないなら、それで充分じゃん。
 他人の電波が届かないところ、アンテナの一本も立たないところが、実は安住スポットだったりするよと兼好は言っている。

原作 兼好法師