墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

それだけ

2005-10-06 20:23:06 | 徒然草
 書店に行っても、ネットを開いても、「徒然草」はあふれている。
 徒然草は現代まで読みつがれているベストセラーだ。
 ところが、「徒然草」の口語訳って、非常にわかりにくいモノが多い。
 他人の徒然草の現代語訳とか見ると、「僕が一番、徒然草をうまく訳せるんだぁ!」とかアムロになってしまう。そのくらいわけわからない訳が多い。でも真面目で謙虚な先達の方々は、あくまで自分の意味を生み出さないように努力して「徒然草」を口語に訳している。
 俺がやっている事は、俺はこう読んだというだけの「意訳」だ。学習の役には立たない。
 先達の方々の徒然草の現代語訳がわかりにくのは、訳者のせいじゃない。はなっから「徒然草」はわかんないように書かれているのだ。というか、兼好はわかってもらおうとは思っていない。
 ただ筆の流れを楽しんでいるだけなのだ。
 マジで兼好は単なる暇つぶしで「徒然草」を著した。そうとしか思えない。
 暇でやる事もないから、書きたい事を書いたのだ。それだけだ。
 ちゃんとはじめに兼好自身がそう言っている。
 兼好の望んでいた物は「歌」と「仏道」だけ。
 「徒然草」など、あふれる才能の欠片にすぎない。ついでなのである。マジどうでもよかったのだ。
 だがよ。
 皮肉な事に、兼好のあふれる才能において、一番適していたのが「徒然草」だったのだ。
 「歌」も「仏道」も兼好は二流で終わってしまっている。
 そういう人の文章だ。わかってもらおうとなんか思っていない。わかりにくいのは当然だ。兼好は本人も気づかないまま「徒然草」の為だけに生まれてきたような人だったのだ。兼好は根っからの「随筆家」だったのだ。「随筆」というジャンルもない時代に生まれてしまった根っからの「随筆家」が兼好なのだ。


徒然草 第七十六段

2005-10-06 18:55:05 | 徒然草
 世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交じりて、言ひ入れ、たたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
 さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。

<口語約>
 世の覚え華やかなるあたりに、嘆きも喜びもあって、人多く行き訪れる中に、聖法師が交じって、言い入れ、たたずんでいるのこそ、そうまでしなくともと見える。
 然るべき故あっても、法師は人に疎くてありなん(じゃないの?)。

<意訳>
 権力者の家の葬式や結婚式には多くの人が訪れる。
 その中に法師が交じって、受付すませて並んでいるのを見ると、なんでと思う。どんな理由あろうと、できるだけ法師は世間とは疎遠でありたい。

原作 兼好法師