墨汁日記

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グー

2005-10-20 21:39:32 | 駄目
 グーグルって知ってる?
 そう、あのインタ-ネットのグーグルだ。
 検索ワードを入力してポチッとなで、その語を含むホームページがだいたい表示される。
 グーグルで「センズリ」と入力して、そのトップの検索結果がついにこの「日記」となった。
 ものすごいような情けないような事態である。


徒然草 第九十三段

2005-10-20 21:14:30 | 徒然草
 「牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんという人に利あり。売らんとする人に損あり」と語る人あり。
 これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵞羽よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。
 また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

<口訳>
 「牛を売る者いる。買ふ人、明日、その値をやって、牛を取ろうと言う。夜の間に牛死ぬ。買おうという人に利ある。売らんとする人に損ある」と語る人いる。
 これを聞いて、そばにいる者の言う事、「牛の主、まことに損ありといえども、また、大きな利ある。その故は、生あるもの、死の近き事を知らない事、牛、既に当然だ。人、また同じ。はからざるに牛は死に、はからざるに主は生きている。一日の命、万金よりも重い。牛の値、鵞羽よりも軽い。万金を得て一銭を失う人、損ありと言えない」と言うと、皆人嘲って、「その理は、牛の主に限らない」と言う。
 また言う事、「されば、人、死を憎めば、生を愛すべき。存命の喜び、日々に楽しまないのか。愚かな人、この楽しみを忘れて、労して外の楽しみを求め、このたからを忘れて、あぶなく他のたからを貪るには、こころ満つる事ない。生ける間生を楽しまないで、死に臨んで死を恐れれば、この理あるべきでない。人皆生を楽しまないのは、死を恐れない故だ。死を恐れないのではない、死の近い事を忘れるのだ。もしまた、生死の相にあずからないと言えば、まことの理を得たと言うべき」と言うので、人、いよいよ嘲る。

<意訳>
 牛を売ろうとしていた者がいた。
 牛に買い手がつき、では明日、代金を支払って牛を引き取ろうと話はまとまったが、その日の夜に牛が死んでしまった。
「これは、牛を買おうとしていた人間に利があるな。牛もちょうど寿命だったんだろ。もっと早くに売れてれば売ろうとしていた人間も損せずにすんだだろうに」
 などと語る人がいた。それを聞いたかたわらの人が口を開く。
「確かに、牛を売ろうとした者は損をしたとも言えるよな。でも、得をしたとも言えないかな。だってさ、命あるものは死の訪れを予期できない。死んじゃった牛はすでに当然だよな。人間だって似たようなもんだ。たまたま牛は死んで、たまたま牛の飼い主は生きている。人の命は地球より重いんだよ。それにくらべりゃ牛を売った代金なんか羽毛よりも軽い。なにより重い命が残って、牛の代金程度を失っただけだ。損したとは言えないんじゃないかな」
 すると、まわりの人達は嘲り笑って言った。
「そんな理屈は、生きている人間すべてにあてはまることで、牛の飼い主だけの話じゃないだろう」
 さらにかたわらの人は熱を込めて語る。
「人は当然に死を憎む。が、それ以上に生を愛するべきだ。生命の喜びをなぜ素直に喜ばないのか。愚かな人は生きる喜びを忘れて、わざわざ苦労して外に楽しみを求める。生きている喜びを忘れ、危険を犯してまで他に楽しみを求める。望みが果てる事などない。生きる事を楽しまないで、死をまじかにしてから死を怖れる。生きている事を楽しめないのは死を怖れないからだ。いや、死を怖れないのではない。常に死と隣り合わせでいる事を忘れているだけなのだ。もし、それでも。自分の生き死になんか関係ないと言いきれるなら、悟りでも開けるだろう」
 それを聞くと、皆はさらに嘲り笑った。

<感想>
 兼好は教訓として「徒然草」を書いてはいない。徒然草を読み教訓を得るのは読者の勝手だが、兼行には兼好の勝手もある。
 徒然草は単なる教訓書などではない。兼好は自分自身を発掘する為に徒然草を書いた。自分の考えを掘り起こし、自己の確認のために、つれづれ~と書いた書物が徒然草なのだ。それから教訓を読み取るのは読者の勝手だが、兼好自身は徒然草を教訓書とは全く思っていない。
 だから、常に、他者を批判する時にでも、どこかに自己批判の影がある。兼好はとても謙虚で真面目な人だ。真面目すぎてつきあっていて疲れるときもあるけれど、そんな兼好が俺はわりと好きだ。
 この段も、別に教訓として書いているわけではない。良い事を書いてるけど、それはつい手がすべってみたいなかんじで、つれづれのなせる技だ。兼好が本当に書きたかったのは、コミュニケーションの難しさだ。もしかしたら、コメディのつもりで書いたのかもしれない。
 もし、この段から教訓を読み取ろうとするなら得る教訓はたったひとつ。どんなに立派な意見でも、時と場所を選ばないなら人に笑われる。
 みんなで経済の話をしている時に、自分の生死感など語っても笑われるだけだ。場の空気が読めない奴は、いかに立派な思想を持っていようが、どこにいっても笑われる。
 単なる宗教の「聖書」なら、愚かな人たちの前で聖人がせっかくすごい事を語ったのに、まわりがみんな馬鹿なので理解されませんでしたという話だろうが、兼好は違う。どんなにすごい事を語ろうとも、場の空気の読めない奴は笑われて当然かもと語っている。

原作 兼好法師


2005-10-20 06:08:40 | 携帯から
雲が残るが今朝は晴れた。白く明けかけた空に、青い雲が浮かぶ。弱いが冷たい風が吹き、手先がわずかに寒く感じる。中央線の車内に蛾が一匹紛れ込んで、床の近くを力なくゴミのようにあちこちへと舞っている。隣りの座席に座っているおばさんの目は、さっきからずっと蛾を追っている。