墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

平成マシンガンズを読んで 272 拉致

2007-02-28 19:43:54 | 

 中央線に乗ったら目の前の席がちょうど1人分だけ空いている。

「レディーファーストです。どうぞ、お姫様」

 死神がそう言う。

 そう言うなら仕方ないか、お姫様扱いだしぃー。

 シートに腰を下ろすと、死神は真ん前に立った。
 左右には中年の親父が座り込んでいて、ギチギチで前以外には動けそうもない。

 おやっ?
 これってゆるやかな拉致かな?
 逃げ場を塞がれている。

 私って拉致られてる?


弱者と発言の自由

2007-02-28 18:08:36 | 駄目

リンク: 発言の自由.

『とあるところに『protozoa 村』という村があったとする。
 その村の住人はそろいもそろって、みんな protozoa 。
 この村に住む protozoa は、どいつもこいつもビールッ腹のイタい親父で口臭はニンニク臭く、人生は既に生まれながらにして終わっていて、低賃金労働者で国家への寄生虫。2次元オタクでアル中の一歩手前。
 さらに、早漏で短小で低能なくせに哲学の入門者なんか読んで自分に学があると勘違いしているような、救いようもなく許し難いほどの大馬鹿野郎である。
 そんな protozoa であるので、当然に『弱者』である。
 弱者であるので、自分が protozoa だと申請すれば、国から『 protozoa 年金』を支給される。

 その protozoa について、とある政治家が問題発言した。

「protozoa など、卵を産むメンドリ以下だ。彼らに生きていて良い根拠など1ミリもない!」

 ただちに、政治家の発言に対して『動物愛護団体』から抗議が上がった。

「protozoa とメンドリを同列に扱うなど許せない!
 メンドリさんに対して失礼だ。メンドリさんに謝れっ!」

 抗議の声の激しさに政治家は辞任した。』

 さて、この国のルールは『民主主義』である。
 日本は民主主義国家である。
 この国においては、民主主義のルールこそ『弱者』を守る盾である。
 民主主義というルールだけが、弱者を守る根拠となる。
 民主主義というルールには矛盾も多いが、そのシステムを根本としている国家において、民主主義の弱体化は、すぐに弱者へはねかえる。根が腐れば弱いところから枯れて行くのは当然のこと。
 弱者を守る為には、ルールを尊重しなければならない。

 ところで、民主主義には『言論の自由』という『自由』がある。
 それに従えば、何を言っても良いのだ。
 発言に罪はないというのがルールだ。
 この世には『言ってはいけない事がある』という感情は、そのルールを犯している。誰が何を言っても問題ないのだ。発言は自由である!
 それが民主主義のルールだ。

 だが、民主主義には裏のルールもある。『声のでかい奴の勝ち』!
 しかし、これはあくまで裏のルールであり、多用するのは感心しない。
 多用すれば、民主主義は根本から根腐れして、いずれ弱者は切り捨てられる事となるだろう。
 弱者を本当に守りたいと思うならば、ルールを厳守しなければならない。
 ルールとは『環境』のようなもの。
 全体を冷静に見渡し、己を捨て厳守しない限り、すぐに破壊され無かったことにされる。

 弱者を本気で守りたいと望むなら、下らない感情など捨て理性のみで生きる事だ。先の先まで見据えた計算高い理性がなければ弱者は救えない。

 超えろ、超人になれ。スーパーマンにならなきゃ弱者は守れない。弱者のためなら自分の感情なんか捨ててしまえ!


意味と記号の羅列

2007-02-27 20:15:24 | 駄目

 デジタル写真のデータは『言葉』に似ている。

 銀塩写真とデジタル写真の決定的な違いは、オリジナルが存在するかしないかだろう。

 銀塩写真においてはフィルムがオリジナルとされる。写真家が自分で現像した紙焼き写真があるならばそれもオリジナルとされる。

 だが、デジタルにおいてはオリジナルという概念じたいが成り立たない。
 なぜなら、撮影した映像はデジタルカメラの内部で、ただちにコンピュータだけが読み取れる記号の羅列に変換されてしまう。銀塩と違い、映像そのものはどこにもない。その暗号のような記号の羅列を読み取る器械がないかぎり、人間の目に見える映像として姿をあらわす事はない。

 デジタルカメラの最大の利点は、コピーの容易さと劣化がないことである。
 デジカメの映像データはただの記号の羅列なので、情報を劣化させずにコピー出来る。
 コピーするには、ただ間違わないように写し取れば良いだけで、そういうのはコンピュータの得意技だ。
 その点フィルムは、リアセチルセルロースを素材としたフィルムの表面に銀の感光材を何層にも塗布した、、、ようするにペラペラの『物』なのである。『物』であるから当然にして劣化もする。また、現像にはそれなりの設備や手間。熟練なども要する。

 デジカメのデータはただの記号の羅列である。ただの命令文だ。
 人間が使う言葉じたいも、ただの記号である。
 ところで、記号じたいには意味は無い。

 デジカメのデータは、それを読み取る器械があってはじめて意味のある映像となる。
 また、言葉も聞き取る人がいてこそ意味を生じる。誰も聞いていない独り言など自身の内省の役には立つかもしれないが、言葉としては意味を生まない。

 己が発する言葉はただのデータである。
 データとは記号の羅列だ。
 聞き手がいないかぎり、データはただの記号の羅列にすぎない。
 データに意味を与えるものは他人である。
 言葉を聞く人間が『意味』を生むのだ。

 独り言に意味は無い。
 意味は受け手が創造する。
 意味は世間や他人が創造するものであり、自分の言葉や生き様はただのデータのようなものである。
 自分の生き様や言葉に意味は無い。意味を生み出すのは他人や世間だ。

 ただ、デジカメのデータならだいたい同一規格で、ほぼ同じ意味の映像をデータから読み込んでくれるが、人間は人それぞれで全く同一規格ではない。
同じデータからでも人によって違う意味を生む。

 自分をこう思って欲しいのにという望みを、そう思うまま他人に理解される事が人から理解される事ではないだろうと思う。
 自分にとって、それは誤解だという理解のされ方さえ理解である。
 自分の言葉や生き様などただのデータであり、データを解析するのは他人である。
 同じ国籍で同じ言語を話していたとしても、相手は生身の人間なので、規格はすごく不統一である。その人なりにしか、自分は理解されない。
 自分が思う自分など、記号の羅列だ。解読する他者がいなければ意味など生まれない。