墨汁日記

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徒然草 第百四段

2005-10-29 21:45:28 | 徒然草
 荒れたる宿の、人目なきに、女の、憚る事ある比にて、つれづれと籠り居たるを、或人、とぶらひ給はんとて、夕月夜のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことことしくとがむれば、下衆女の、出でて、「いづくよりぞ」と言ふに、やがて案内せさせて、入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に暫し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭げなる遣戸よりぞ入り給ひぬる。
 内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言えば、「今宵ぞ安き寝は寝べかめる」とうちささめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ。
 さて、このほどの事ども細やかに聞え給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来し方・行末かけてまめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるるにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙白くなれば、忘れ難き事など言ひて立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青み渡りたる卯月ばかりの曙、艶にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るるまで、今も見送り給ふとぞ。

<口語訳>
 荒れた宿の、人目なきに、女の、はばかる事ある頃にて、つれづれと籠り居るのを、或人、とむらわれんとて、夕月夜のおぼつかない程に、忍んで尋ねられるに、犬がことごとしくとがめれば、下女が、出て、「いづこよりか」と言うに、やがて案内せさせて、入いられた。心ぼそげなる有様、いかに過ごすのかと、とても心ぐるしい。貧しい板敷にしばし立たれ、もち静めたる気配の、若やかなるして、「どなた」と言う人あれば、立て付け狭げな遣戸よりから入られた。
 内の様子は、甚くすさまじくない。心にくく、火は彼方にほのかなれど、物のキラなど見えて、わずかにしない匂いとてもなつかしく住みなしている。「門よくさしてよ。雨も降るぞ、御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言えば、「今宵は安らか寝で寝られる」とうちささやくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞える。
 さて、このほどの事ども細やかに聞かますに、夜深き鳥も鳴いて。来た方・行末かけてまめやかな御物語に、この度は鳥も華やかな声にうちしきれば、明けられるのかと聞きますが、夜深く急ぐべき所の様子にもあらねば、少したゆみますに、隙白くなれば、忘れ難き事など言って立ち出でますに、梢も庭も珍しく青み渡りたる卯月ばかりの曙、艶におかしかりしを思い出して、桂の木の大きなのが隠れるまで、今も見送られるのだと。

<意訳>
田舎の荒れた家に、はばかる事があり隠れ住んでいた女がいた。
 ある人が女のお見舞いにと、月がたよりなさげに浮かんでいる夕方。こっそり女の屋敷を訪ねられる。犬がおおげさに吠えるものだから屋敷より下女が飛び出して来て「どちらから?」と聞く。その下女に案内をしてもらい屋敷に入る。
 屋敷のさびしい様子に「どうやって生活しているのだろう?」と切なくなりながらも、床が傷んだ廊下で、しばらく待つと、やがて落ち着いた若々しい声で、「こちらへ」と呼ぶ人がいる。
 小さな引き戸を開け部屋の中へ入ると、部屋の中の様子は、そんなに荒れ果てているわけではない。安らかな明かりがほのかにあたりを照らし、物もきらめいて見え、わずかにいま焚いたばかりでもない香の薫りが懐かしく空気と溶けあっている。
「門を良く閉じよ。雨が降る。牛車は門の下に。供の人はそこそこへ」
 女が、家人に命令する。
「御主人様も、今夜は安眠なされそうですね」
 忍びやかに下女らがささやく。さほど大きな家ではないので、ほのかに聞こえる。
 さて。
 細々と最近の話などしているうちに一番鶏が鳴いた。
 やがて。
 過ぎた過去や、これからの行く末について女が話しているうち、鶏たちが騒ぎ始める。
 「夜明けがちかいのですね?」
 暗いうちに人目を忍んで急ぎ帰らなくてはいけない場所でもない。もうしばらくと別れを惜しんでいるうち、扉の隙間から光が差し込んできた。忘れずに女に伝えたかった事などを話して部屋を出ると、木々の梢も庭も青く染まっいている。
 その日の四月の明け方。
 あまりに豊かな色をたたえていた。
 桂の木の大きさが視界から消えてしまうまで、今でも振り返って見送るのだという。

原作 兼好法師