墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

主観(奥様は魔女の感想文)

2005-05-11 20:57:45 | テレビ番組
 主観とはなにか?

  主観とはそれぞれの個人にとって「あたりまえ」の感受性のこと。存在する人間の数だけ「主観」がある。
 
 では、客観とはなにか?他人に自分の主観をちゃんと理解が出来るように説明できるという事だ。

 たとえば、ここにデザイナーの小橋さんがいたとする。
 そして彼は、たまたまクライアントのホームページを、「赤」を主体にデザインした。
 彼はクライアントから何故、赤を主体にデザインしたのか尋ねられたらスラスラとその理由を答えられるだろう。
 彼は職業柄そういう訓練も受けているし、そういう質問に答えることも彼の職の責であるからである。

 では主婦の洋子(うちのおふくろの名前だ)さんの場合はどうだろう。
 彼女には、己の主観に説明をつけることはできない。そういう訓練も受けていないし義務も無い。
 彼女は部屋の窓に真っ赤なカーテンをかざった。夫になんでと尋ねられる。
 「うーん、なんとなく。赤ってきれいじゃない。」
 彼女には自分の主観のゴリ押ししか出来ない。主観のおしつけはできるが、なんでそれがいいのかを説明できない。

 自分の主観を言葉で説明出来ること。他人に理解させられること。これが、客観であると俺は考える。

 基本は、誰でも主観なのだ。あらゆる感想や発想は、すべて主観にすぎない。
 主観をゴリ押しでなく、言葉や論理で説明出来ることこそが客観なんだと俺は思う。


作品鑑賞(奥様は魔女の感想文)

2005-05-11 20:08:54 | テレビ番組
 まず。前提として。

 作品鑑賞の感想は、あくまで私見だ。
 作品を客観的に観るなんて事は人間にはできない。どうしたって、その人の立場や年齢でまるっきり見方が変わってくる。
 同じ人間が同じ作品を見ても。体調や心の動きなどににゆらゆらと感想は左右されてしまう。

 同じ劇場で同じ空気を吸い、同じ作品を観たとしても観客みんなが同じ感想を抱くはずはない。
 観客は当然、年も性別も職業もバラバラなのだ。みんながみんな同じ感想になるはずはない。
 ここまでは認めていただけるであろうか?

 わかり易く書くと。

 宇宙戦艦ヤマト。

 例えば「さらば宇宙戦艦ヤマト」を半日デモに参加する中国人と、北朝鮮のエリート軍人、夫を太平洋で無くしたアメリカの未亡人老婆、あと、そこらへんにいる近所の子供の四人に見せたとして、みんながみんな同じ感想を抱くであろうか?
 ありえないはずだ。あまりに立場が違いすぎる。

 感想とは立場の数だけ個人の数だけ存在するはずである。

 感想とはその人独自の主観にすぎない。


店長からの電話(奥様は魔女の感想文)

2005-05-10 21:38:23 | テレビ番組
 八王子の店長から電話が来た。
 すごくビビる。

 内容は返してないエプロンと作業着を早く返せというもの。今週中に宅急便でクロネコヤマトだ。


 サマンサが男に媚びているか?いないか?
 たぶん。媚びてない。
 はず。
 でなきゃ。あんなにキラキラと輝くもんか。
 彼女は魔女らしく、悪魔のはしくれとして人間界の契約に従っているだけなのだ。「結婚」という不自由な契約に。

 俺が観たサマンサの印象と、俺の勘違い訂正のため書いておくと。
 1960年代のサマンサは、あの時代ではアメリカにおいてさえ、かなり自由な主婦だった。あの時代ではという事だ。

 だから追記に書かれた、サマンサが男に媚びた女として描かれているかもという意見は俺には受け入れられない。
 性描写を裏のテーマと言ったのは、時代を考えての事だ。事実、子供が一緒に観ていても危険はない程度に性が描かれているが、それは子どもと一緒に番組を観ている主婦への配慮だとも考えられる。

 家族みんなが楽しめる云々。
 そもそも「奥様は魔女」は奥様本位。
 たぶん家族みぃんんなが楽しめるようには、制作されていないという事でご理解いただきたい。
 
 子供が観ても本当の面白さは理解出来ない。

 何度もいうが、「奥様は魔女」は主婦を対象に造られているのだと思う。少なくても、所帯をもった人間でなければ真の面白さは理解できない。だから小橋さんが大人になって観てからも面白いと思うのは当然な事だ。

 逆に、独身男性にはパンチが足りない。平凡パンチだ。

 サマンサの額のしわ。
 当時の俺のまわりには、あんな表情豊かな女性は存在しなかった。うちにためる事が当然だったのかもしれない。
 額にしわをよせ、笑い怒るサマンサ。
 彼女は自由だったと思うのだが。 


「奥様は魔女」に現在つけられているカテゴリはおかしいかもしれない!

2005-05-10 20:59:34 | テレビ番組
 ありがたき幸せ。俺の記事に反論が来た。

 反論の反論の前に。
 俺がいつも酒を飲んでここの作文を書いている事を詫びておこう。

 ここは、簡易居酒屋。俺の意見は酔っぱらいの戯言。
 わかりにくい文章であり、俺が本来、言いたいと思っている事をきちんと伝えきれていない事を謝ろう。
 言うなりゃ酔った口がヌラリヒョンみたいなもんだ。
 真剣に相手すると疲れる。と、だけ警告しておく。

 ただ、俺が勘違いを訂正している事に小橋さんはあまりふれていないように見える。
 俺が訂正した勘違いは「奥様は魔女」の価値観を根本から変える大事な事に思えるのだが。どうだろうか?

 駄目かな?

 でも。俺はその勘違いの訂正により、現在「奥様は魔女」は正当に評価されていないと再評価しだしている。
 まさしく猫まっさかりだ。

 「奥様は魔女」は綿密にターゲティングされ、受け手の評価を計算した上で制作された可能性が高い。
 せめて、当時のスタッフのコメントでも見つけられれば証明できるのだが。

 とにかく、少し深くつっこんでみよう。俺は暇だし。

 小橋さんの意見はコメントじゃもったいないので、ここに抜粋しておく。



>>>
 まず上司との関係ですが、上司とフレンドリーな態度で接する関係は向こうでは普通の事として様々なドラマで書かれてますよね。「ER」だろうが「24」だろうが、みんな上司をファーストネームで呼ぶ。友人と認めなければ「私はボスだ。名前で呼ぶな」とハッキリ言います。だからその事に違和感を感じるのは「日本人のメンタリティ」がそう感じさせているだけだと思います。

また「ベッドでキス」というラストシーンがどれほど多いかは統計を取ったわけではないので何とも言えませんが、仮にあったとしてもベッドが一日の終わりの場所であり、キスが夫婦の日常の挨拶として定着している以上、とくに不自然とも思えません。まして「新婚」という設定ですし。
なのでそれがSEXを暗示する描写、と感じたとしてもそれを「裏のテーマ」とまで言い切ってしまうのはムリがあるのではないでしょーか。


>1960年代のおばあちゃんは誰もが戦争経験者だ。

これは……戦争を経験するとみんな意地悪になる、という意味なら断じて同調できません。

エンドラ(サマンサの母)に関しては日本では嫁姑の確執が描かれる事が多いのですが、アメリカではこれが婿と義母の確執に置き換わる事が多いようで、これも単なる文化の差かと思います。
ただ彼女の言動を見ると人類至上主義に対する警句、と受け取れなくもない。たかが人間ごときが、という。


> 既存の何ものにもとらわれない魔女のサマンサは1960年代の主婦にとり理想の主婦だったのだ。

んー、どうかなあ。まあ、それは当たらずと言えども遠からず、かもしれません。
当時のアメリカは世相的にはウーマンズ・リブの時代ですから、あるべき女性の姿、としてサマンサが描かれた、という見方はあるでしょう。
ただ、そうとらえるにはサマンサはあまりにも貞淑な妻として描かれすぎていますよね。むしろ奔放なセリーナ(サマンサのいとこでエリザベス・モンゴメリーの一人二役)の方が時代を反映した女性像と言えるでしょう。もちろんドラマがその時代の世相に影響を受ける事は不思議でもなんでもありません。
したがって「奥様だまし」という部分も結論ありきで鑑賞すればそうとれなくもない、というレベルかと。

それで一番期待していた

> 家族みんなが楽しめる作品として鑑賞するなら二流だが、

という部分の説明が端折られています。
そこちゃんと解説してくれないと(笑)。



追記。

やはりサマンサに関しては主婦にとっての理想、というより、男性の願望を具体化した女性、かと思います(詳細は割愛)。


ターゲットは奥様

2005-05-09 20:24:41 | テレビ番組
 ビデオ「奥様は魔女」を観る。

 大人になってから「奥様は魔女」を見直すのは、これで二回目。

 25か26才だったか?
 とにかく二十代後半にテレビ放送で当時としては珍しく「奥様は魔女」の再放送なんぞをしていたので、録画予約して何作品か観たんだが、とにかくつまんなかった。

 その時は、俺は時代のせいだと思った。

 古いんだよ、仕方がないと思った。

 脚本もなってない。と生意気にも思った。

 だが、昨日。

 35才の俺は「奥様は魔女」を観なおして、実は重大な勘違いをしていた事に気がついた。

 「奥様は魔女」を、作品として分類すると。いわゆる「ホームコメディ」だ。
 子供から老人まで家族みんなで楽しめる作品がホームコメディ。
 だが、「奥様は魔女」の場合。それは隠れ蓑で、実は1960年代のテレビ番組とは思えない程に綿密なターゲッテイングがなされていることに気がついた。

 さすがは、ダーリンが広告代理店なだけある。
  
 ターゲットは奥様。しかも20代から30代の奥様に的を絞って「奥様は魔女」は制作されている。だから、若い独身男性が「奥様は魔女」を観ても面白さを理解出来るはずがないのだ。
 男性なら。少なくても、所帯をもった人間でなければ、「奥様は魔女」の本当の面白さを理解出来ないはずだ。

 俺はこのあいだ、このブログで「奥様は魔女」を奥様だましと書いたが、その予想は当たっていた。
 奥様をだますために、この作品は存在するのだ。
 そして、下手をするとこの作品はあらゆる奥様だましの中で一番の最高傑作作品なんではないかと思う。
 家族みんなが楽しめる作品として鑑賞するなら二流だが、奥様にとっては一流に面白い。
 奥様が選ぶ奥様の最高傑作が、間違いなく「奥様は魔女」なのだ。
 俺はそう評価し直す。
 たぶん。ほとんど間違いなく。
 現代の若い主婦が観ても「奥様は魔女」は面白いはずだ。何度でもリバイバルする事だろう。

 なんで、ダーリンはあんなに上司にたいしてフレンドリーなのか?
 それは、世の奥様が上司ごときに頭を下げる旦那なんか見たくないと思っているからだ。

 なんで、サマンサの母親はあんなに意地悪なのか?
 それは時代。1960年代のおばあちゃんは誰もが戦争経験者だ。

 なんで、サマンサはあんなに輝いて美しかったのか?
 それこそがターゲティング。サマンサを1960年代の主婦のスターにのしあげたかったのだ。
 だからこそ彼女はキラキラしていた。

 そう。こんなにターゲットをしっかりしぼった作品は当時には珍しい。
 子供が見ても害がない程度の性描写。
 だがダーリンとサマンサが自宅のベットでキスというラストシーンの多さから考えても、作品的に実はかなりエロチックな作品である事は否定できないはずだ。

 性的にしばられた女性。だが、本来はもっと自由であるべきだ。と言いたかったのかもしれない。

 既存の何ものにもとらわれない魔女のサマンサは1960年代の主婦にとり理想の主婦だったのだ。

 たぶん。うちのおふくろもサマンサみたいに夫に意見出来たら素敵とか思いながらテレビを観ていたはずだ。