墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

徒然草 第九十七段

2005-10-23 11:39:22 | 徒然草
その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

<口語訳>
その物に付いて、その物を費やし損う物、数を知らずある。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

<意訳>
 その物に付き、その物を食らって損なわせるもの、数しれずある。
 身体にシラミあり。家にネズミあり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に仏法がある。

<感想>
 べつに訳す必要もないような文章だ。しかし内容には解説が必要だ。
 なにかに寄生して、宿主を弱らせるものは数限りなくある。と兼好は言う。まず、人間の身体には血を吸うシラミがつき、家には米を食うネズミがつく。国には、国を食い物にして国力を弱める賊がわく。ここまでは、当たり前の例え話か。
 「小人に財あり」は、人が、金に振り回される愚かさを語っているのだろう。
 「君子に仁義あり」は良い事なのだが。なぜか、君子の仁義を兼好はシラミだと書いている。ここで語られる「君子」が、賢人の意味の君子なのか、政治を行う君子の事なのか、どちらの意味なのだか実はわからない。しかし、仮に「君子」を政治家の事としてとらえるなら、政治家は、仁義によって政治の大局を見失う事もありえる。わかりやすく言うなら「候補者に支援者」みたいなかんじか。支援者によって国政の場へ出してもらった以上は支援者への仁義はかかせない。しかし、仁義に気をとられていると政治家として国政の判断を誤る事もある。「君子に仁義あり」は、このような意味であろうかと想像する。
 「僧に法あり」は、なんだろ。「法」は「仏法」の事と、テキストにあるので、それに従えば、「僧に仏法」があるのは当たり前の事である。なぜ、仏の教えがシラミとなるのか。このへんは、兼好が法師だからサラリと書けたんで、法師じゃない俺には良くわからない。想像するに、兼好は法師の目標の最終地点である「悟り」を念頭においてこの段を書いているのではなかろうか。悟りをゴールとした時。初期の段階では仏法は手助けとなる。だが、いつまでも仏法にしがみついていたら悟りは開けない。なんてことを兼好は言いたいのではなかろうか。良くわからないんだけどさ。

<兼好の真似っこ>
 兼好の真似っこをしてみた。
>その物に付きその物を費やし損う物、数知れずある。
 人に携帯あり。家にしろありあり。国に借金あり。小市民にマイホーム。君子にスキャンダル。教師には教科書がある。
 ちなみにうちの親のすねにはパラサイトシングルが二匹あり。

原作 兼好法師


最新の画像もっと見る

コメントを投稿