生きる

一度しかない大切な人生!
自然の中に身をゆだねて、めぐり合ったもの達と、毎日を静かに、楽しく過ごしたい!

未生  ミセン 

2021-11-26 11:46:22 | あの空に太陽を 68

さて次長は、専務から中国との取引のある某外国との仕事をするよう頼まれます。明らかにうまく行かないことを知りつつ、この仕事に成功すれば高校中退の青年チャン・グレを正職員に出来るとの期待から承知したのです。しかしやはりこの仕事は会社に損失を与えることになり、本社から監査が入ります。専務は非上場の会社に左遷され、営業3課のォ次長も他の課から損失が大きいとクレームが入り、ついに辞表を提出する羽目になったのです。高校中退のチャン・グレは事の始まりは軽率な契約社員の俺が原因だ。次長は俺を正社員にするために危ないとわかっていながら、この仕事を引き受けた。泣いて詫びるチャン・グレに、うまく行かなくても、耐えろ!かたをつけろ!生きてたら、結末を知っていても、やるしかない時だってある。最後まで見守ってやれなくてすまない!

ソ次長は同僚の女性ソン次長に、チャン・グレのことを頼んで、会社を去っていきます。チャン・グレと同期の他の仲間達も泣いて別れを惜しみました。他の同僚たちにも惜しまれながら去って行ったのでした。

このドラマは短く、毎週月曜から木曜の4日間。今月一杯で終わります。次回は「私の名はキム・サムソン」です。


未生 ミセン

2021-11-18 16:03:06 | あの空に太陽を 68

主人公チャン・グレは碁師を目指していたのですが、父の死で、生活費を稼がなくてはならなくなり、高校を中退、今の商事会社に仮職員として雇われていました。碁の才能を生かして、会社で何かとよいアイディアを出し、上司に認められていたのですが、上司、次長がグレに任せた仕事も、中卒の仮職員には任せられないとの上からの命令に、心を痛めます。

パンツと靴下を電車の中で売りますが、買い手なく、自分が通っていた碁の学院へ。そこへついて行った独文卒の男は、そこで学院たちがグレのことを話している後輩たちの話を耳にします。グレが将来性のある碁師であったが、父の死で辞めざるを得なかったこと。非常に将来性があった事を。

さて、靴下とパンツはサウナ前で売り大儲けをしたのです。

会社でカザフスタンでの仕事を上司次長はグレに任せますが、上からの命令で、中卒の仮職員には任すな!の命令に抵抗する次長ですが、駄目、悩む次長たちの話を立聞きしたグレは、自ら上司に、自分には出来ないと申しでたのです。

 


韓国ドラマ 未生(ミセン)

2021-11-14 18:21:03 | あの空に太陽を 68

途中から見始め、大して面白くないと思っていたのですが、段々面白くなってきました。(4人の男女、女性は1人)このうち男性1人は母子家庭で、高卒で仮入社です。この青年が主人公です。周りから何かと高卒の臨時職員とさげすまされながら、頑張って仕事を真面目にやっている子です。彼は碁をやっていたのですが、挫折して会社に入ったのです。所が囲碁のセンスから、一流会社(商事会社)で、船底に穴が開いて積み荷が危ないと騒いでいる社員に、溶接は?とヒントを出して危機を救い、兎に角素晴しいヒントを出し、上役たちから認められ始めます。仲間のうちの一人、ドイツ語科を卒業したとプライドの高い4人組の一人、いつも上役からさげすまされているのですが、ある日この高卒の子と、上役から10万円(日本円で約1万円)もらい何か買って、倍にして帰って来こいと言われます。自分は大卒だからと喫茶店でお茶して待ち、高卒にすべてやらせます。高卒はパンツと靴下を買い、売り歩き始めたのです。


BRUSE LIUさんの演奏に聞きほれて

2021-11-08 22:23:08 | あの空に太陽を 68

第18回ショパンコンクールの優勝者です。毎晩YouTubeで聞きほれています。兎に角素晴しい演奏です。ショパンのピアノ協奏曲第1番。これは最後にオーケストラ付きで演奏したものです。この演奏に出られる資格を得るまでに3回、ショパンの他の曲をピアノ演奏しています。それも聞きましたが素晴しかったです。是非お聞き下さい!

両親は多分中國人だと思いますが、フランスに移住し、彼はフランスで生まれています。今はカナダで、同じく以前このコンクールで優勝した師の下で、指導を受けているようですが。11月11日に日本で演奏するとのことで、切符を買おうと思ったら、即完売!買えなかった!


要支援1

2021-11-05 11:06:43 | あの空に太陽を 68

先日区役所から審査に見え、私の体調等聞かれ、多分受答えの様子などからでしょう。1か月近く経ってやっと返事が来ました。要支援1です。

先日地域包括支援センターから係りの方見えて、先日連れて行ってくださった所とは違う所へ連れて行って下さるようです。今日担当者が午後見えて説明して下さいます。個人的に指導して下さるようで、何だかこちらの方がよい気がします。又様子お知らせしますね。

亡くなった母の頃はこんな組織もなく、孤独だったと思います。何度も電話が来て、来て頂戴!と言っていました。寂しかったのでしょう。ですから最後はボケて可哀そうでした。兄夫婦と一緒に暮らしていましたが、言いたくないけど、兄たちは二階に住んでいて、食事は義姉が下へ運び、母は一人で食べていたのです。しかも近所に話が出来る友人もなく、テレビを見る位しか楽しみもなかったでしょう。もっと頻繁に行ってあげればよかった!と今頃になって思います。

戦争中の母の苦労は並々ならなかったです。終戦直後の食糧難の時代、5人の食べ盛りの子を抱え、一人着物を持って農家に行き、サツマイモや野菜と交換してもらって来ていました。

孝行したいときに親はなし!本当にそうですね!