ドリーム 2(セカンド)

長坂徳久が語る夢教育(ときどき日常)

ドリーム601号

2007年10月01日 22時57分04秒 | 少林寺拳法(ライフワーク)
少林寺拳法  橋本西支部 道場(どうじょう)通信
ドリーム No.601
《きみたちへ 8》
発行日 2007年10月1日(月)   発行・文責 長坂 徳久










《きみたちへ》は子どもに向けた通信です。
【さむ(作務)】
   
やあ、きみたち! 元気ですか?! 
  この「きみたちへ」はひさしぶりです。
今日は、【作務(さむ)】について、書(か)くよ。 
作(さ)務(む)は禅宗(ぜんしゅう)の言葉(ことば)。少林寺拳法も金剛(こんごう)禅(ぜん)という禅宗(ぜんしゅう)のひとつです。
作(さ)務(む)には、雑巾(ぞうきん)がけだけでなく、道場(どうじょう)のすべての掃除(そうじ)、草引き、水まき、食事(しょくじ)の支度(したく)、洗濯(せんたく)、など、いろいろあります。
作(さ)務(む)は、「作(さ)業(ぎょう)勤務(きんむ)」を短くした言葉(ことば)で、労働(ろうどう)を意味します。でも、生活(せいかつ)のためのものではありません。すべての作(さ)務(む)が修行(しゅぎょう)なのです。
 だから、少林寺拳法でも「自分の心を磨(みが)くつもりで」床(ゆか)の雑巾(ぞうきん)がけをします。感謝(かんしゃ)の意味(いみ)をこめて、掃除(そうじ)や後片付(あとかたづ)けもすすんでします。作(さ)務(む)は雑用(ざつよう)ではないのです。立派(りっぱ)な修行(しゅぎょう)なのです。「やらなくてはいけない」のではなく、「やらされている」のでもありません。自分の修行(しゅぎょう)のために感謝(かんしゃ)の気持ちでいつも作(さ)務(む)をすることが大切(たいせつ)です。

少しむずかしい言葉(ことば)に、
「一日不作一日不食」(一日作さざれば一日食らわず)があります。
中国(ちゅうごく)の唐(とう)の時代(じだい)の有名(ゆうめい)な禅僧(ぜんそう)・百丈(ひゃくじょう)懐(かい)海(え)の言葉(ことば)です。
「働(はたら)かざる者食うべからず」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
 百丈(ひゃくじょう)が八十歳(さい)の時です。この歳(とし)になっても百丈(ひゃくじょう)は日々(ひび)の作(さ)務(む)をしていました。弟子(でし)たちはからだを心配して、師匠(ししょう)に、「作(さ)務(む)をやめてください」といいました。
 それでも聞き入れてもらえなかったので、弟子(でし)たちは作(さ)務(む)ができないように、作(さ)務(む)に必要(ひつよう)な道具(どうぐ)をかくしてしまいます。そうなると、百丈(ひゃくじょう)は作(さ)務(む)をしようにもできません。すると、その日、百丈(ひゃくじょう)は食事(しょくじ)をとらなかったのです。次の日も、その次の日も。それが三日も続(つづ)いたので、弟子(でし)たちは師匠(ししょう)に、「なぜ食事(しょくじ)を召し上がって(めしあがって)いただけないのですか?」と尋(たず)ねました。
 そのときに百丈(ひゃくじょう)が答(こた)えた言葉(ことば)が、「一日作さざれば一日食らわず」であったのです。
 そこで、弟子(でし)たちは師匠(ししょう)にあやまり道具(どうぐ)を返しました。すると百丈(ひゃくじょう)はすぐに作(さ)務(む)に出かけ、いつものように食事(しょくじ)をしたということです。

さて、「働かざる者食うべからず」と「一日作さざれば一日食らわず」
はいったいなにが違(ちが)うのでしょうか? 実(じつ)はこの違(ちが)いこそに「修行(しゅぎょう)」の意味(いみ)があるのです。おうちの人と話し合ってみてください。

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