キム・ギドクの映画を見て、初めて違和感を覚えた。もちろん作品の出来、不出来は、今までだってあった。しかし、その方向性に関しては揺るぎはない。彼が行こうとするところは、しっかり伝わってきた。
その過激な描写は人を驚かそうとしてするのではなく、彼が人間というものを描く上で必要なことなのだ、と了解してきたから嫌ではなかった。
なのに、今回初めて彼に対して不信感を抱く。まず、どうしてここまで全てを言葉によって説明しなくてはならなかったのか、それがよくわからない。泣く、叫ぶことに対しては、とりあえず納得することにした。しかし、ここまで自分の気持ちをはっきり言葉してみて、なんのためらいも感じないなんて、今までの彼にはなかったことだ。
だいたいこんなにも科白の多いキム・ギドクも初めてではないか。彼の主人公たちはいつも寡黙だ。言いたい事の3分に1も口にしない。それは時にはもどかしいくらいだ。そのくせ、突然想像を絶する行為に及ぶ。そこに彼の映画の凄さがあり、過激さなのである。順を追って行動しない。衝動的に行為に及ぶ。それが、時には観客に不快感を抱かせることも多い。
初めてキム・ギドクが日本に上陸したのは『魚と寝る女』である。あれを見た時の不愉快さは忘れることは出来ない。生理的に受け付けない不快さで、過激な性描写と直接的な残酷描写に、気分が悪くなったほどだ。しかし、あんなにもインパクトを受けた映画も、またない。そして、決定的だったのは『悪い男』。この暴力的な愛の前で、僕は言葉を失う。怖くて怖くてしかたなかった。言葉もなく(彼は喋れないのだが、そんなこと関係ない。彼は、たとえ喋れても何も言わないはずだ。)その鋭い眼光を女にむける。暴力で、彼女を奪い去り、ここまで純粋に相手を求める。動物の本能と恐れ。それが、至高の愛に到る。
あの作品以降、キム・ギドクというだけで無条件に見に行くようになった。そして、『うつせみ』(僕の中では今だこの日本語タイトルは生理的に受け入れられない。あの映画は『空き家』である。)この映画についてはもう語るまでもない。キム・ギドクの到達した極限の表現であり、世界映画史上に燦然と輝く大傑作である。そして、これに続く『サマリア』までが彼のキャリアの頂点といえよう。
これだけの映画を作ってしまった人間が更にそれ以上の高みを描くことは困難を極める。それでも彼は愛のファンタジー『弓』を作る。かっての過激さは幾分影を潜めたが、それでも随所に彼らしさが散りばめられた佳作だった。
『絶対の愛』が描く、整形してでも彼の愛を繋ぎとめようとする一方的な女は実に彼らしいキャラクター設定だ。相手の気持ちなんかお構いなしに、自分の思いだけで突っ走り、人を翻弄して自分の感情すら制御できなくなり、破滅に至る。
舞台とした彫刻公園というロケーションもまた彼らしい。内面が激しい形となり具象となり表に現れる。そんな空間で、むき出しの男女の感情が静かにぶつかりあう。こういう閉じた空間での物語というのもいつものパターンだ。しかし、今回はそこに止まり、ドラマが進むのではない。二人はフェリーに乗り、一緒に、あるいは別々に、ここにやって来て、そこで短い時間を過ごした後、去っていく。そこは舞台にはなっても、この映画のすべてがそこで起きるのではない。基本はソウルの町中での描写となる。そこも従来の彼の映画とは違う。
彼らは常にひとりひとりとして、分断される。自分自身ですら本当の姿から分断され、自分を見失う。そんな中で、相手を求める。
こんなストーリー展開も今までにはなかったことだ。しかし、そこから「新しいキム・ギドクの世界」が始まる、というわけではない。これは明らかに失敗作である。
ラストで、ひとりぼっちになった女が雑踏の中で男を求めて叫ぶ。お互いの顔を整形手術で失い、相手の姿も、もう確認できないまま、女は深い絶望の淵に立たされ狂乱する。
整形手術なんていう題材を取り上げたことをとやかく言うつもりはない。ただ、この素材をもとにもっと妄想の翼を広げて、過激な映画を作らなくては彼らしくない。既成の概念に縛られることなく、破壊し尽すような映画を求める。別に守りに入ったなんてわけではあるまい。観客をあ然とさせ、恐怖のどん底に叩き落して平気で、その先に行ってしまう、それでなくてはキム・ギドクではない。
その過激な描写は人を驚かそうとしてするのではなく、彼が人間というものを描く上で必要なことなのだ、と了解してきたから嫌ではなかった。
なのに、今回初めて彼に対して不信感を抱く。まず、どうしてここまで全てを言葉によって説明しなくてはならなかったのか、それがよくわからない。泣く、叫ぶことに対しては、とりあえず納得することにした。しかし、ここまで自分の気持ちをはっきり言葉してみて、なんのためらいも感じないなんて、今までの彼にはなかったことだ。
だいたいこんなにも科白の多いキム・ギドクも初めてではないか。彼の主人公たちはいつも寡黙だ。言いたい事の3分に1も口にしない。それは時にはもどかしいくらいだ。そのくせ、突然想像を絶する行為に及ぶ。そこに彼の映画の凄さがあり、過激さなのである。順を追って行動しない。衝動的に行為に及ぶ。それが、時には観客に不快感を抱かせることも多い。
初めてキム・ギドクが日本に上陸したのは『魚と寝る女』である。あれを見た時の不愉快さは忘れることは出来ない。生理的に受け付けない不快さで、過激な性描写と直接的な残酷描写に、気分が悪くなったほどだ。しかし、あんなにもインパクトを受けた映画も、またない。そして、決定的だったのは『悪い男』。この暴力的な愛の前で、僕は言葉を失う。怖くて怖くてしかたなかった。言葉もなく(彼は喋れないのだが、そんなこと関係ない。彼は、たとえ喋れても何も言わないはずだ。)その鋭い眼光を女にむける。暴力で、彼女を奪い去り、ここまで純粋に相手を求める。動物の本能と恐れ。それが、至高の愛に到る。
あの作品以降、キム・ギドクというだけで無条件に見に行くようになった。そして、『うつせみ』(僕の中では今だこの日本語タイトルは生理的に受け入れられない。あの映画は『空き家』である。)この映画についてはもう語るまでもない。キム・ギドクの到達した極限の表現であり、世界映画史上に燦然と輝く大傑作である。そして、これに続く『サマリア』までが彼のキャリアの頂点といえよう。
これだけの映画を作ってしまった人間が更にそれ以上の高みを描くことは困難を極める。それでも彼は愛のファンタジー『弓』を作る。かっての過激さは幾分影を潜めたが、それでも随所に彼らしさが散りばめられた佳作だった。
『絶対の愛』が描く、整形してでも彼の愛を繋ぎとめようとする一方的な女は実に彼らしいキャラクター設定だ。相手の気持ちなんかお構いなしに、自分の思いだけで突っ走り、人を翻弄して自分の感情すら制御できなくなり、破滅に至る。
舞台とした彫刻公園というロケーションもまた彼らしい。内面が激しい形となり具象となり表に現れる。そんな空間で、むき出しの男女の感情が静かにぶつかりあう。こういう閉じた空間での物語というのもいつものパターンだ。しかし、今回はそこに止まり、ドラマが進むのではない。二人はフェリーに乗り、一緒に、あるいは別々に、ここにやって来て、そこで短い時間を過ごした後、去っていく。そこは舞台にはなっても、この映画のすべてがそこで起きるのではない。基本はソウルの町中での描写となる。そこも従来の彼の映画とは違う。
彼らは常にひとりひとりとして、分断される。自分自身ですら本当の姿から分断され、自分を見失う。そんな中で、相手を求める。
こんなストーリー展開も今までにはなかったことだ。しかし、そこから「新しいキム・ギドクの世界」が始まる、というわけではない。これは明らかに失敗作である。
ラストで、ひとりぼっちになった女が雑踏の中で男を求めて叫ぶ。お互いの顔を整形手術で失い、相手の姿も、もう確認できないまま、女は深い絶望の淵に立たされ狂乱する。
整形手術なんていう題材を取り上げたことをとやかく言うつもりはない。ただ、この素材をもとにもっと妄想の翼を広げて、過激な映画を作らなくては彼らしくない。既成の概念に縛られることなく、破壊し尽すような映画を求める。別に守りに入ったなんてわけではあるまい。観客をあ然とさせ、恐怖のどん底に叩き落して平気で、その先に行ってしまう、それでなくてはキム・ギドクではない。