脚本・演出、ゴン駄々吉。とんでもない奴だ。普通じゃない。こんなわけのわからない芝居を誠実に作る。ふざけた芝居ではなく、真面目な芝居。めちゃくちゃするし、いささか観念的だけど、理屈っぽい芝居ではなく荒唐無稽。ラストの膨大な量のピンポン球が降ってくるシーンから、さらには舞台一面に紙吹雪が舞い散るシーンへと、これでもかの大盤振る舞い。
彼の作品を初めて見るのではない。6年くらい前にも一度見ている。トリイホールで見たあの作品も変だった。彼は決して気を衒っているわけではない。普通に、自分が好きなように作ったらこんなふうになってしまう。空間が大きくなってより自由自在になった。可動式の舞台装置を動かして背景に置いてあった月が全体を表し、そこに向けて階段を登っていくシーンはちょっとしたスペクタクルだ。だが、これは壮大なスケールのお話ではない。自分を捨てた母を求める少年の母恋物語。
14歳のタローの母親探しの旅が描かれる。死体となった友人とふたりで。死体は警官からピストルを奪い、彼を撃つ。警官も同じ死体になる。ここから始まる。タローと死体。ふたりはひとりだ。
彼の愛犬ぺちやが、お話のナビゲートをする。繰り返される帰宅のシーン。警官と中学の先生。彼らのエピソードが日常として挿入されていく。
ピストルを失った警官は仕方ないから日本刀を差して勤務に就く。毎日仕事の後には入院した母親の見舞いに行く。妻は(まだ籍入れてないけど)疲れている彼を心配している。やがて母は死ぬ。
母親たちはキングオブマザーのもとに集う。この雑然とした、まとまりのない話の軸にあるのは母恋の物語。短いシーンの連鎖。一貫したストーリーはない。それはつながりのないイメージの連鎖だ。
これは虐待の話でもある。母親に捨てられた彼はそれでも母の帰りを待つ。母を探すビラを配っていく。
ここにはさまざまなイメージが散りばめられる。彼はもう死んでいるのだろう。死体はもうひとりの彼自身だ。
たった80分の芝居は豊穣なイメージを混沌としたまま提起する。旅するといいながら、彼はただ遊んでいるだけ。移動ではなく、停滞する。夏休みの毎日を消費する。
何が描きたかったのか、よくわからないけど、なんだか凄いものを見た気がする。こういう体験こそが演劇の魅力だと、改めて思う。
さらに終演後、まだ客席には観客も残っている中、黙々と舞台から撒き散らかされたピン球を拾い集めるゴン駄々吉の姿が。