ラース・フォン・トリアーによるSF映画。その取り合わせの妙。それって、タルコフスキーのSF映画と同じような感触だ。もちろん、これを『ソラリス』と並べようというのではない。まるで別の映画だし、アプローチも違う。だが、従来のSFとはまるで違う、という意味では似ているかもしれない。
前半は妹(キルスティン・ダンスト)の結婚式のシーンが延々と続く。1時間以上、ただそれだけ。これは『ディア・ハンター』かい、と突っ込みを入れたくなるほどだ。だが、この延々続く披露宴を通して、彼ら家族の在り方が、くっきりと、垣間見える。(母親のシャーロット・ランプリングが凄い!)だが、描きたかったのは、このいびつな家族の話ではない。そこから心が壊れていく花嫁の話でもない。では、何なのか。
そういうささやかな話が、後半、姉(シャルロット・ゲンズブール)の話、さらには世界の終りへむけてのドラマへと、ダイレクトにつながる。うつ病の話です、と言われたらそれはそれでがっかりするけど、ひとりの内面の葛藤が地球の終りにつながる、という壮大なドラマであることは否定できない。それをどう受け止めるかは人それぞれだ。
2時間15分の長尺だが、とてもシンプルな映画だ。しかも、各シーンがとても長いし、一見無駄な場面ばかりが続くから、この内容なら、普通に描くと1時間でも十分見せれる範囲だ。ストーリーとして語れる情報量は圧倒的に少ない。だいたい冒頭の5分以上が、これは何かのイメージビデオかい、と思うようなシーンだし。でも、それが監督意図だし。
特別何かを語ろうとするのではない。世界の終りの時、人は何をすべきなのか、だなんてラース・フォン・トリアーには興味はない。だいたいそんなもの、一律に語れるものじゃないし。ここに描かれる特殊な家族の姿はひとつのプロトタイプだ。ある風景を丁寧に描くこと。それがある種の普遍性につながる(かも、しれない)。幸福なはずの結婚式が、一瞬ののちには自らの行動で、破局につながり、精神を病んだ彼女が、やがて、地球の終りと遭遇する。もちろん、地球の終りは彼女だけの問題ではなく、すべての人にとっての問題なのだが、当然、彼女の問題でもある。誰でもよかった。何でもよかった。とりあえず、取り上げたのは、彼女たちだった。
映画としては、意図はわかるけど、つまらない、という人の気持ちもわかる。いい映画だとは思うけど、正直言うと、なんだか、微妙な映画なのだ。
前半は妹(キルスティン・ダンスト)の結婚式のシーンが延々と続く。1時間以上、ただそれだけ。これは『ディア・ハンター』かい、と突っ込みを入れたくなるほどだ。だが、この延々続く披露宴を通して、彼ら家族の在り方が、くっきりと、垣間見える。(母親のシャーロット・ランプリングが凄い!)だが、描きたかったのは、このいびつな家族の話ではない。そこから心が壊れていく花嫁の話でもない。では、何なのか。
そういうささやかな話が、後半、姉(シャルロット・ゲンズブール)の話、さらには世界の終りへむけてのドラマへと、ダイレクトにつながる。うつ病の話です、と言われたらそれはそれでがっかりするけど、ひとりの内面の葛藤が地球の終りにつながる、という壮大なドラマであることは否定できない。それをどう受け止めるかは人それぞれだ。
2時間15分の長尺だが、とてもシンプルな映画だ。しかも、各シーンがとても長いし、一見無駄な場面ばかりが続くから、この内容なら、普通に描くと1時間でも十分見せれる範囲だ。ストーリーとして語れる情報量は圧倒的に少ない。だいたい冒頭の5分以上が、これは何かのイメージビデオかい、と思うようなシーンだし。でも、それが監督意図だし。
特別何かを語ろうとするのではない。世界の終りの時、人は何をすべきなのか、だなんてラース・フォン・トリアーには興味はない。だいたいそんなもの、一律に語れるものじゃないし。ここに描かれる特殊な家族の姿はひとつのプロトタイプだ。ある風景を丁寧に描くこと。それがある種の普遍性につながる(かも、しれない)。幸福なはずの結婚式が、一瞬ののちには自らの行動で、破局につながり、精神を病んだ彼女が、やがて、地球の終りと遭遇する。もちろん、地球の終りは彼女だけの問題ではなく、すべての人にとっての問題なのだが、当然、彼女の問題でもある。誰でもよかった。何でもよかった。とりあえず、取り上げたのは、彼女たちだった。
映画としては、意図はわかるけど、つまらない、という人の気持ちもわかる。いい映画だとは思うけど、正直言うと、なんだか、微妙な映画なのだ。