大竹野の狂気が影を潜め、とてもクールなタッチの作品に仕上がっている。演出の土橋淳志のアプローチは間違いではない。ただ、役者の芝居にばらつきがあり、演出の伝えたい微妙なニュアンスが伝わりきらない恨みが残る。感情的になることなく、描かれる現実を冷静に丁寧に見せていく。兄と弟を演じた関川佑一と柴埼辰治のパートは素晴らしいのだけど、全体のアンサンブルはうまくいってない。
台本にも問題がある。ここには大竹野の迷いがあり、作品自体のバランスが悪い。それをオリジナルの舞台では、勢いで乗り切ってしまったのだが、土橋さんはそうはしない。その結果台本の不備が際立つ。これは穴だらけの作品なのだ。色川武大をモデルにした主人公とその父親との関係が前面に出る。大竹野自身と彼の父親がモデルだ。それならストレートに自分の話として書けばよかったのに、そうはできなかった。色川原作に頼りすぎて、自分のオリジナルを示せない。テレがあるのか。
父と男の関係だけに話を絞り切れず、男と妻、そして、弟とのことも盛り込む。だが、本当は父親との確執こそが描くべきことだ。95歳ボケ老人。お話は彼による母への暴力からスタートして、関川演じる男が、自分の置かれた現実と向き合い、さらには昭和の終わりへと、思いをはせる。父親世代にとっての昭和は戦争の歴史と戦後の混乱期にあるとしたなら、男にとってのそれは何にあたるのか。大竹野自身の想いがそこにつまっていたはずなのだが、そこが曖昧になっている。もっと強引に自分に引き寄せて描けたならよかったのに、と改めて思った。
もちろん、これを今、再演する土橋さんと関川さんはそのへんにもちゃんと言及する。今、平成が終わろうとしているとき、ひとつの時代の終わりにむけて、この作品を放つのだが、
色川の昭和の終わりと我々の平成の終わりを重ねることで、そこに何を見せようとしたのか。色川武大の想いと、大竹野正典自身の想いを重ねた台本を通して、その先に何を見いだそうとしたのか。演出を担当した土橋さんと主演をした関川さんの想いがもっと伝わったなら凄い芝居になったかもしれない。キーマンである父親を演じた上村宏也はとても頑張ってはいるのだが、難しい役をこなし切れていない。それが結果的にはこの台本自身が持つ可能性を広げたのだから、何がどう影響するかはわからない。父親と息子の確執にポイントが絞り込めないことが作品の意図を明確にしたのだ。父と息子ではなく、家族との関係性が前面に出ることになった。