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映画・演劇のレビュー

新国立劇場「ことぜん」シリーズ 『タージマハルの衛兵』

2020-05-04 10:16:02 | 演劇

たまたまつけていたTVで見た。NHKの舞台中継なのだが、衝撃的な傑作で、最後まで目が離せなかった。劇場で生で見たなら、その衝撃はこの比ではなかろう。ただ、何の期待もなく、何も予備知識もなく、この作品と出会えたのは幸運だった。演出の小川絵梨子さんは国立の芸術監督で、本公演もこの空間の特徴を知り尽くした彼女の大胆な演出が光る。

闇の中にたたずむふたりの衛兵(成河、亀田佳明)。彼らの背後には壮大なタージマハルがそびえている(はずだ)。もちろん、舞台には何もない。ふたりの役者だけ。彼らの会話だけでお話は展開していく。振り向いてはならないというお達しがあるから彼らはずっと前を向いたままだ。僕たちは彼らと同時に彼らの背後の闇をずっと見たままだ。そこには純白の壮麗な宮殿がある(はずだ)。そうして芝居は軽妙な彼らの掛け合いで進行していく。だが、当然約束は反故される。それが芝居の(そして、お話の)お約束だろう。もちろんそこで暗転。

そこからが凄まじい。地獄だ。2万人の切り落された腕。血まみれの舞台。ふたりはそこで床の掃除を始める。すべてが終わった後、彼らは自分たちがした行為を反芻する。ここで行われた悪夢がことばで再現されていく。

何が起きたのか。何を求められたのか。これが描くものは、ここにはいない権力者の横暴を描くことではない。目の前の彼らの妄想でもない。もっと深遠で、人間の愚かでとんでもないものが、そこには確かにある。美と権力へのあこがれ、皇帝の求めたもの。名もない庶民の望むもの。彼らに象徴させるものは、そのどれでもあり、どれでもない。「大丈夫だよ」という声は、「大丈夫なんかじゃないじゃないか」と聞こえる。

想像力と、実際に提示されるとんでもないイメージの連鎖。その競合が芝居を作る。しかし、実際にはふたりの役者がすべてを作り演じている。それは演劇でしか成しえないものだ。それが確かにそこにはある(はずだ)。ライブで見れていないから、断言できないのがもどかしい。でも、この記録映像からでも、それは十分に想像できる。


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