どこにも居場所はなかった。1960年6月から1971年1月までの1年8ヶ月。名曲喫茶、無伴奏で一人の男と出会った女子高生。高校3年の夏から始まる怒濤の時代の記憶。学生運動の時代。東京から遠く離れた仙台の町で生まれ、育った。女子校で制服粉砕運動を指揮して、彼女なりに権力と闘おうとした。
17,8から20歳前までの疾風怒濤の時代。愛とか、革命とか。でも、ほんとうはそんなこと信じてなかった。別に政治闘争なんかしたかったわけではない。
ひとりの人を好きになり、そして、彼を失うまで。苦しみながら、必死に生きた日々。タバコを吸うという行為が、生きる上での、ポーズだった。ずっとタバコが手放せない。60年代から70年代って、みんなそんなふうにして、タバコを手にしていた。(今はみんなタバコなんか吸わない)あれって、なんだったのだろうか。この映画の登場人物たちはみんなタバコをスパスパと吸う。なんだか懐かしい風景だ。映画を見ながら、まるで、何かに似ていると思った。そうだ、スマホを弄っている風景だ。映画とはまるで関係ないけど、この時代のタバコって、今の時代のスマホじゃないか、と気付く。必要ないのに手放せない。別にそんなものなくてもよかった。なのに、手放せない。
この時代、彼女が熱病のように学生運動にのめり込んだことも同じ。それは恋愛もそう。これは唯の恋愛映画だ。誰かにすがることでしか生きられない。でも、そんなものにすがっていても何の意味もない。わかっていたのに、やめられない。
成海璃子がすばらしい。アンニュイとした雰囲気なのに、実はまっすぐで、(それが彼女のキャラクターなのだが)池松壮亮を見つめる視線が映画を作る。さらには彼の視線が斎藤工に向けられる。これはそんな3人の三角関係を描く捻れたラブストーリーなのだが、それはこの時代とリンクすることで生まれたものだ。普遍的なものではない。だから、映画は69年という時代にこだわる。69年の風景を再現することは困難を極めたはずだが、それが不可能ならこの映画はない。たまたまそんな特別な時代に生き、でも、時代と大きく関わることなく、時代の片隅で生きた男女の物語が、こんなにも心に沁みるのが不思議だ。