瀬々敬久監督の『雷魚』を見た時の感動は生涯忘れられない。映画というものがこんなにも凄いものなのだということを今更ながら認識させられた。しかもそれがピンク映画の枠内で作られたものだったという事実もその衝撃をさらに大きいものにした。あまりのことに、その後何度もビデオでも見た。その度にこれが傑作であるという事実を再認識させられることになった。これほど繰り返し見た映画はない。きっと10回近く見たはずだ。続く『汚れた女』も素晴らしかった。これだけ省略を施して1本の映画を組み立てていくなんて、他の作家には出来ない。最小のパーツを示すことで最大の成果を挙げることが出来る。ギリギリにまで切り詰めた75分である。(従来のピンク映画の尺数は60分と決まっていたので75分は異例の長さなのである。)
その後、彼のピンク映画は出来る限り見た。遡って見れるものは見た。もちろんこれがピンク映画なのか、と思わせるようなとてつもない実験的な作品がそこには並ぶ。だが、『雷魚』を超える作品はもちろんない。それにしてもあの頃の日本のピンク映画は凄かった。瀬々さんたちがピンク四天王なんて呼ばれていた時代だ。あの頃の日本映画界を大きくリードしていたのが、彼ら4人であったことは疑う余地のない事実だ。そんな中でも瀬々さんとサトウトシキさんは群を抜いていた。
あれからもう10年以上の日々が過ぎた。その後、瀬々さんは一般映画を撮るようになり残念ながら一般映画の世界では、彼は以前のような自由は与えられていない。ピンク映画以上の制約の中で、彼の才能は磨耗していく。『HYSTERIC 』の頃はまだよかったが、その後才気の感じられない商業映画を量産している。小規模の一般映画の中で、以前の輝きを失っている。(時々ピンク映画に戻り息を吹き返しているが、なんだか痛々しい)
そんな現状の中で、それでも僕は彼のすべての作品を見続ける。円谷プロでエロチックな小品を作っている今も、彼の映画を劇場に追いかけていく。最新作『泪壺』は渡辺淳一原作の恋愛映画である。森田芳光(『失楽園』)や鶴橋康夫(『愛の流刑地』)のような大作は彼にはまわってこない。こういうどうでもいいような(ごめんなさい、言いすぎです)短編の映画化がまわってきて、でも、だからこそそれを彼がどんな風に自分の世界へと換骨奪胎してくれるのかを期待する。
これは男女3人の物語だ。中学生の頃、夏休みに天体観察のため田舎の村にやってきた少年が、そこで自分と同年代の2人の美少女に出逢う。彼女たちの美しさと伸びやかさに憧れる。川でビニールボートに乗りまどろむ姿を目撃したときの驚き。それが始まりだ。
偶然から彼女たち(ふたりは姉妹だ)の家に1泊することになる。(川に入り腹痛になったため医者であるふたりの父の元に担ぎ込まれたのだ)
あの夏。夢のような美しい記憶。姉妹の母の遺骨で作った泪壺を落として割ってしまったこと。その瞬間から2人の時間は止まってしまう。その時、彼と姉妹の姉である朋代の間に通い合ったもの。それが20年の長い時間の中、生き続けることになる。
時間はバラバラになり、あちらこちらに縦横無尽に飛び散らかされて描かれる。それを時間軸に沿って簡単に纏めるとこうなる。大学生になった妹の愁子(佐藤藍子)は、彼(いしだ壱成)を連れてこの村にやってくる。彼は雑誌の編集者になっている。2人は結婚する。姉(小島可奈子)は老いた父の介護をしながらこの村に留まっている。中学校の音楽教師をしていたが、やがて辞める。愁子は乳がんで死んでしまう。彼は妹のことが忘れられない。姉はずっと想いを秘めたままその後の人生を生きる。やがて父も死ぬ。ひとりになった彼女は、彼の小説を手伝う。それは3人が出逢った頃の思い出を綴った作品だ。その作業を通して彼は自分が好きだったのは、妹の方ではなく、姉である彼女であったことに気付く。2人は結ばれる。その直後、彼女は事故を起こして死んでしまう。
別にこのストーリー自体には何の意味もない。このメロドラマを使って瀬々さんが何を作ろうとしたのか、そこが問題なのだ。時間軸をバラバラにして、コラージュされていく映画は、何度も何度も同じところを前に後ろに行き来する。この映画にははっきりした方向性が見えない。もちろんわざとそんな風に乱雑に見えるようなつくり方をしている。止まってしまった時間の中で、一歩も前に進まないで、じっと苦しい時間を生きるヒロインの姿を軸にして、映画は停滞していく。
永遠に続くのではないかと思われる時間の先に光明が見えてくる。そんな一瞬の幸福が描かれる。ここを描ききれたならこの映画は成功する。だが、残念ながら伝わらない。
今回瀬々さんは1時間50分という長さを持て余している。もし、これが70分ほどのピンク映画として作られていたならもう少し彼本来の映画に出来たのではないか。中途半端な一般映画の枠が彼本来の持ち味を見失わせている。
その後、彼のピンク映画は出来る限り見た。遡って見れるものは見た。もちろんこれがピンク映画なのか、と思わせるようなとてつもない実験的な作品がそこには並ぶ。だが、『雷魚』を超える作品はもちろんない。それにしてもあの頃の日本のピンク映画は凄かった。瀬々さんたちがピンク四天王なんて呼ばれていた時代だ。あの頃の日本映画界を大きくリードしていたのが、彼ら4人であったことは疑う余地のない事実だ。そんな中でも瀬々さんとサトウトシキさんは群を抜いていた。
あれからもう10年以上の日々が過ぎた。その後、瀬々さんは一般映画を撮るようになり残念ながら一般映画の世界では、彼は以前のような自由は与えられていない。ピンク映画以上の制約の中で、彼の才能は磨耗していく。『HYSTERIC 』の頃はまだよかったが、その後才気の感じられない商業映画を量産している。小規模の一般映画の中で、以前の輝きを失っている。(時々ピンク映画に戻り息を吹き返しているが、なんだか痛々しい)
そんな現状の中で、それでも僕は彼のすべての作品を見続ける。円谷プロでエロチックな小品を作っている今も、彼の映画を劇場に追いかけていく。最新作『泪壺』は渡辺淳一原作の恋愛映画である。森田芳光(『失楽園』)や鶴橋康夫(『愛の流刑地』)のような大作は彼にはまわってこない。こういうどうでもいいような(ごめんなさい、言いすぎです)短編の映画化がまわってきて、でも、だからこそそれを彼がどんな風に自分の世界へと換骨奪胎してくれるのかを期待する。
これは男女3人の物語だ。中学生の頃、夏休みに天体観察のため田舎の村にやってきた少年が、そこで自分と同年代の2人の美少女に出逢う。彼女たちの美しさと伸びやかさに憧れる。川でビニールボートに乗りまどろむ姿を目撃したときの驚き。それが始まりだ。
偶然から彼女たち(ふたりは姉妹だ)の家に1泊することになる。(川に入り腹痛になったため医者であるふたりの父の元に担ぎ込まれたのだ)
あの夏。夢のような美しい記憶。姉妹の母の遺骨で作った泪壺を落として割ってしまったこと。その瞬間から2人の時間は止まってしまう。その時、彼と姉妹の姉である朋代の間に通い合ったもの。それが20年の長い時間の中、生き続けることになる。
時間はバラバラになり、あちらこちらに縦横無尽に飛び散らかされて描かれる。それを時間軸に沿って簡単に纏めるとこうなる。大学生になった妹の愁子(佐藤藍子)は、彼(いしだ壱成)を連れてこの村にやってくる。彼は雑誌の編集者になっている。2人は結婚する。姉(小島可奈子)は老いた父の介護をしながらこの村に留まっている。中学校の音楽教師をしていたが、やがて辞める。愁子は乳がんで死んでしまう。彼は妹のことが忘れられない。姉はずっと想いを秘めたままその後の人生を生きる。やがて父も死ぬ。ひとりになった彼女は、彼の小説を手伝う。それは3人が出逢った頃の思い出を綴った作品だ。その作業を通して彼は自分が好きだったのは、妹の方ではなく、姉である彼女であったことに気付く。2人は結ばれる。その直後、彼女は事故を起こして死んでしまう。
別にこのストーリー自体には何の意味もない。このメロドラマを使って瀬々さんが何を作ろうとしたのか、そこが問題なのだ。時間軸をバラバラにして、コラージュされていく映画は、何度も何度も同じところを前に後ろに行き来する。この映画にははっきりした方向性が見えない。もちろんわざとそんな風に乱雑に見えるようなつくり方をしている。止まってしまった時間の中で、一歩も前に進まないで、じっと苦しい時間を生きるヒロインの姿を軸にして、映画は停滞していく。
永遠に続くのではないかと思われる時間の先に光明が見えてくる。そんな一瞬の幸福が描かれる。ここを描ききれたならこの映画は成功する。だが、残念ながら伝わらない。
今回瀬々さんは1時間50分という長さを持て余している。もし、これが70分ほどのピンク映画として作られていたならもう少し彼本来の映画に出来たのではないか。中途半端な一般映画の枠が彼本来の持ち味を見失わせている。