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映画・演劇のレビュー

『光』

2017-12-13 22:57:36 | 映画

 

三浦しをん原作の映画化だ。今年は同じタイトルの映画が2本並んだ。偶然僕は同じ日にその2本を見ている。河瀬直美の『光』がDVDになったので、この映画を見た後、帰りに借りてきて今日見たからだ。とてもいい映画だったけど、まずは、こちらから。

 

というか、このなんともワイルドな映画をどう受け止めたならいいのか、困惑している。何をどう書けばいいんだろうか。見終えて瞬間、頭を抱えた。何がしたいのか、わからん、と思った。2時間17分の大作だ。凄まじい物語で、圧倒される。しかし、でも、なんで? と首をひねらざるを得ない。彼らの気持ちがわからないまま映画は終わる。説明なら出来るし、それで納得しても構わない。でも、それは違うだろ、と心が言う。これは単純な理解の範囲内には収まらない映画なのだ。

 

井浦新演じる男が、なぜ、瑛太を殺すのか。殺されることで、彼は微笑みすら浮かべる。殺されることを望んだわけではあるまい。だが、殺されることを受け入れる。殺す方も同じだ。殺さなくてはならないわけではない。最初の強請るところもそうだ。強請る必要はない。井浦の妻と不倫することも、必要ではない。瑛太は父親の虐待に耐えた過去を引き摺ることもない。今なら執拗な父の関与をいくらでも拒否できる。なのに、父親に手を上げることをしない。ただただ耐える。怯える。刃向かうことが殺すことに直結する。いろんなことが極端なのだ。

 

冒頭の子供時代のエピソードが強烈で、その後、25年後の東京での再会からの話がどんな展開になろうとも驚かないだけの免疫が出来る。井浦新が受けの芝居に徹する。瑛太が攻めの芝居になる。この主人公ふたりのぶつかり合うだけで、映画は突き進む。そこに井浦の妻橋本マナミの気怠い肉体が介したとき、理屈ではないものがこの映画を貫く。本当ならそこに井浦のミューズである長谷川京子が絡んでくるのだが、彼女の出番が少ないだけでなく、彼女にカリスマ性がないから、そこで映画が嘘くさくなる。バランスが悪いのだ。4人が強固な関係性を作り得たなら、この映画は最強になったかもしれない。だが、そうならなかったので、なんだかよくわからないものになる。

 

とてつもない暴力が彼らを導く。僕たちは、ただそれを見守るしかない。野生の本能のようなものに誘われ、破滅へと突き進む。狂気の果てにたどり着いたとき、そこには何があるのか。自分の目で見て、確かめて欲しい。

 

 

 


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