北野武監督最新作。『アウトレイジ』2部作(たまたま2部作になっただけだけど)の後、北野武が何をするのか、興味津々だったのだが、ようやくその全貌が明らかになった。公開2日目にさっそく行く。
がっかりだった。そんな気もしたけど、残念だ。もちろん、期待しすぎ、というわけではない。だから結構冷静に見たはずだ。でも、ダメだった。それにしても彼はやっぱりコメディは苦手みたいだ。(誰もが知っていることだが、自分がもともとは漫才師でコメディアンだったのにね)笑わせるのは難しい。チャップリンだって、シリアスの映画のほうが簡単に作れていたし。
「ばかばかしいお笑い」というとんでもなく高いハードルを用意した。しかも、前2作と同じようにエンタメ映画として作られた。アート系の映画からキャリアをスタートさせた北野武は、誰もが知っているように『HANA―BI』で世界のキタノになった。初期の作品は世界を震撼させた。だが、『座頭市』以降のエンタメ作品に転じた後、以前の輝きを失った。セルフリメイクもどきも含めて、傑作はない。もうキタノはダメになったのか、と誰もが思っている。だが、本人にはそんな自覚はないし、そんなことをいうヤツなんか、きっと、「なんだバカやろう」と軽くいなす、はず。たけしはダメになんかならない。
それではこの失敗作はどうなのか、そこを少し考えてみよう。
藤竜也におならをさせて笑わせる。しかも、本人すら知らないで、である。これは、子供のいたずらでしかない。プゥ、という擬音を挿入した。撮影時に本人には言わない。こんな小学生以下にレベルの行為を嬉々として行う。もちろん、それがダメだ、なんて言わない。でも、残念だが、つまらない。そんなことで、映画は成立しない。そうなのだ。この映画は映画である以前のTVレベルのお笑いに堕している。もちろん、そんなこと計算の上である。天才監督北野武には確信がある。それでも、大丈夫だ、という。もちろん、大丈夫だった。だが、そこには何の意味もない。
今回、彼は重要な脇役として、登場する。主役ではない。しかし、その役は刑事だ。やくざたちもチンピラも彼を恐れる。わけがわからない。しかし、北野映画を見なれた観客はわかる。あれは北野武のデビュー作『その男、凶暴につき』のセルフリメイクなのだ。あの映画が見せた衝撃的な刑事像。誰もの頭の中にこびりついたあのキャラクターの再現なのだ。穏やかな顔をして、何もせずに、登場しても、誰もがそうだと、わかる。しかし、この映画は、そういう設定を弄した瞬間から、失敗している。
笑わせる映画がダメだというのではない。これが映画である意味を失していることのほうが遥かに大きな問題なのだ。特に後半、老人やくざが戦う意味がまるで見えない。暴走族上がりのチンピラ集団なんかと、彼らが戦う必要はない。彼らが戦う相手は国家権力くらいのスケールでなくては、意味をなすまい。問題はそこだ。敵が明確にならないことにある。結果的にこれは、映画としてのダイナミズムに欠く。そこを、クライマックスとして用意された暴走するバスによるカーチェイスなんかで補えるわけもない。