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映画・演劇のレビュー

『かぐや姫の物語』

2013-11-26 21:50:30 | 映画
 見るのが少し怖かった。予告編を見ていると、あのタッチで2時間17分はきついのではないか、と思った。ジブリの映画とはいっても、高畑勲は、前作『ホーホケキョ となりの山田くん』で興行的に失敗している。あの水彩画のようなタッチは大衆受けしない。今回も同じだ。いかにもマンガ映画という他のジブリ作品とは異質だ。しかも、題材があまりに渋すぎる。

 もちろん、僕が興行成績に心配なんかする必要はないのだが、できることなら、ちゃんとヒットしてもらいたい。もちろん、そんなことより、作品自体に出来だ。そっちが気になった。そちらも、なんだかとても微妙なものに思えるからだ。14年振りとなる新作だ。期待しないわけではない。でも、やはりいろんな意味での不安のほうが大きかった。だから、誰よりもまず先に見たい、と思った。ようやく、今日、時間が取れたので何をさておき、劇場に向かった。梅田のTOHOシネマズの一番大きな劇場で上映されていたのだが、客は30人ほどしかいなかった。そんな気がした。

 前半はよかった。導入部なんか驚かされる。宮本信子のナレーションで原文がそのまま朗読される。かぐやの登場シーンも素晴らしい。そして、幼年時代のエピソードが、微笑ましい。野山を駆け抜け、近隣の子供たちと混じってぐんぐん成長する。その過程が心地よい。だが、都の行ってからは予想はしたけど、やはりきつくなってきた。翁の彼女のため、という行ないが彼女を苦しめる。5人の貴公子たちのお決まりのエピソードの部分になると、退屈する。こんな話はいらない。僕には不要だ。でも、原作を重視する以上、ここを飛ばすわけにはいかない。

 だが、ここまで原作を踏襲しなくてはならなかったのか。もちろん、市川崑のSF映画『竹取物語』のような荒唐無稽は困るけど、アレンジしてもよかった気がする。帝との部分は、けっこう大胆だったのに。ほんとうは、こここそ、ちゃんと原作通りに見せて欲しかったところだ。天皇にさえ逆らう彼女の意志って何なのか。彼女が月とのコンタクトを取ってしまったのは帝の強引なモーションから逃れるため、というきっかけは気になる。そうではないはずなのだ。

 地球の文明なんか到底及ばないむこうの世界。夢の楽園であるそこからなぜ逃れて、地球に流されてきたのか。かぐやの罪とは何なのか、という核心部分には、少しはぐらかされた。あれでは納得いかない。豊かさとか、富と権力というものから逃れてほんとうの幸福を求めること。なのに、ここでも、結局はそういうものに囚われて、また、ここから逃れなくてはならなくなる。竹山での日々の記憶。そこでの幸福な時間。貧しくても豊かな暮らし。でも、それは幻想でしかないのかもしれない。貧困の中で生きていくことは困難だ。理想と現実は違う。

 幸せになりたくて、再び山の生活に戻ろうとした彼女が突き当たる現実。ここにはもう自分の場所はない。一瞬、幸せを夢に見る。だが、叶わない夢だ。オリジナルキャラクターである捨丸とのエピソードは、悪くはないけど、話をわかりやすくしすぎ。原作通り、帝との恋を中心にして終盤を作ってもらいたかった。

 まだまだ、言い足りないけど、とりあえず、見れてよかった。ほっとしたし。確かに期待通りの傑作ではあった。だけど、物足りないことも事実で、あまりにオーソドックスで、そこがなんだかなぁ、なのだ。難しい。

 今でも『アルプスの少女ハイジ』の感動が忘れられない。あの頃の高畑勲ではないことは重々承知している。だが、あの世界をどこかで期待していた。ユートピア幻想をここに見ようとするのは、やはりちょっとお門違いなのか。

 でも、作品の構造はこの両者はとてもよく似ているのだ。映画の後半、竹の子(かぐやのこと)の都での生活を描く部分は、ハイジが、クララの屋敷で暮らすことになった部分に対応する。アルプスの山、おじいさんのところにに戻りたい、という気持ちは捨丸たちと過ごした山里での日々に戻りたいという部分に呼応する。ということは捨丸はペーターだ。

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