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映画・演劇のレビュー

A級MissingLink「限定解除、今は何も語れない」

2011-06-27 21:56:10 | 演劇
3年連続、3度目のトライアウトである。A級MissingLinkが、このスタイルを取り始めてから、今まで以上に彼らの作品を見る楽しみが増してきた。それはただ単純に同じ作品が期間を開けて2回見られるということだけではない。試演会で提示されたものが、どんな形で進化を遂げ、どれくらい別の作品に仕上がっていくのかが、赤裸々に目撃できるからである。そのことが、こんなにもうれしい。2作品はいつも全く別の顔を持つ双生児でさえある。それは劇場のサイズの問題でも、キャストや上演時間のスケールの違いでもない。アプローチの違いが一番大きい。1度作品化することによって、明確になった問題ととことん向き合うことで、作品は開かれたものとなっていく。その過程をつぶさに見られることが、こんなにも心地よいことなのだ。

以前よくあったリーディングと本公演というスタイルともこれは全く違う。ひとつの作品を2度別の形で上演することを通して、1本の作品の持つあらゆる可能性がそこに示されることになるのである。今回はさらに上演スケールが同じような場合という条件が付与される。50分で作品化されたトライアウトヴァージョンを60分前後というそのままの長さの作品として、リニューアルさせる。どんな形で、深化発展させていくこととなるのかは、4ヶ月後のお楽しみなのだが、それより何より、今はこの肩の力が抜けたコメディーのようにさえ見えるこの作品の完成度の高さのことをまずは語っておきたい。

もうこれ以上の改変は不可能ではないか、と思われるくらいにこの作品はよく出来ている。ここには試演会にありがちなラフスケッチ的な作り方もない。これはこれで既に完全版である。3・11以降、土橋さんが感じたこと、思ったことをベースにした作品なのだが、そんなことはおくびにも出さない。ただ笑いながら見ているだけでもいい。表面的な面白さのみを見て、楽しい笑える作品としてこれを素直に受け止めても何の支障もない。こんなわかりやすくて、軽やかなA級の芝居を見るのは、初めての事だ。だが、当然のことだが、この底に流れる傷み、苦しみは無視する事は出来ない。冒頭で描かれる無力感が、この作品全体のベースとなる。直接には語られないここに描かれる死が、この作品の基調低音として、全編を支配する。

引きこもって無気力になった兄が、夕食のときに、2人になっている。目の錯覚ではない。昨日までは1人だったのに、今は確かに2人いる。しかも同じ顔で、同じ姿で。妹は自分の頭がおかしくなったと思う。精神科の病院に行くが、医者はなんだか頼りにならない。さらには、翌日の夕食時、兄はなんと3人に増えている。このバカバカしい設定を手始めに、まるでドタバタ劇のようなドラマが展開する。

 鹿の兄妹であるシカオとシカコが交通事故に遭い、妹が死ぬ。彼女の見た夢としてこの芝居全体は形作られる。もうここにはいなくなる彼女がいなくなる直前に見た夢の中で、彼女は人間となり、失われていた兄たちと再会する。兄はひとりではなく、もともとは三つ子だったらしい。もちろんここで描かれるすべては嘘であり、夢の出来事なのだろう。ならば、本当はどこにあるのか。その答えはこのタイトルにある。そして、その沈黙の封印は次の本公演で破られるのだろう。どう解除されるのか、期待する。


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