習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

エレベーター企画『動かないで』とその映画化作品

2007-01-25 21:30:22 | 演劇
 映画『赤いアモーレ』を見た。(それにしてもこのタイトルはいただけない)昨年僕が見た芝居で1番気に入っている作品、エレベーター企画『動かないで』の映画化作品である。正確にはマルガレート・マッツァンティーニの同名小説の映画化なのだが。

 表現手段としての映画と演劇の違いを改めて認識させられる1本だった。映画自体はすごくよく考えられており、誠実な作品なのだが、個人的にはあの芝居の印象が大きく、その仕上がりには愕然とした。

 具体的な物語として、風景も含めて現実を提示してしまう映画と、すべてを抽象化して、観念の中の物語として再構築してしまえれる演劇の差を見せ付けられることになった。お話自体はとても陳腐なものなのだ。しかし、それが、今の時間と記憶の中の時間を交錯させ、主人公の意識下のものとして組み立てられた時、その世界は圧倒的な力をもって我々の胸に迫ってくる。寒々としたブラックチェンバーの倉庫の中で、大量の水を使いながら、3人の男女が、生死の境目で、自らの痛みをその体全体で表現していくエレベーター企画の作品は、演劇という表現の持つ力を、一つの極限まで示す作品だった。

 かって愛した女を死なせてしまったこと。今、最愛の娘を事故により失いつつある中年男の胸に去来するその女への追憶。愛していたけど満たされることのなかった妻への想い。2人の間で揺れる心。土本ひろきは、彼の中にある優しさと残酷さを、見事に演じて見せた。

 しかし、映画版はこの話を、ただの不倫ものにしてしまう。その差はとても微妙なもので、映画は具象で見せることで、死んでしまった女を幻として描ききれない。そこが決定的な差となり、映画に乗れない。あのハッピーエンドのラストもこの作品が見せたかったものを裏切っている。

大切なのは娘が生きるか、死ぬかということではない。娘のバイク事故を通して、自分の中で封印していたものが、戻ってきてしまうことだ。その中で、彼自身が自分の人生を喪失して生きてきた、という事実を認めざる得なくなる、という部分である。死んだように生きてきたこの15年の歳月の意味と向き合わざる得なくなるり、その苦しみの中から、かっての女との至福のときを噛み締める。

 女が産むはずだった子供。同時期に生まれた妻が産んだ子供。女の子供は死に、妻は娘を出産する。2人の子供と女。そして、今その娘が死んでいこうとしている。そこから始まる魂の旅が描かれていく。そこにあるのは、かって死なせた女への我儘な男の追慕であり、それをそのまま見せてしまったなら一人よがりのつまらないメロドラマにしかならない。

 外輪さんはこれを、降りしきる雨と、その雨水が少しずつ広がっていく舞台の上で、消すことのできない傷みの記憶が体に沁みていくように見せていく。スライドを使い、舞台に出来た水溜りに、原作の中の言葉を投影し、それが揺らめくことで、観客にはその言葉が読み取れなくなるように描く。そこに描かれる言葉には意味がないのだ。ナレーションとのずれも記憶の曖昧さと、この物語の曖昧さを示す装置として機能している。

 映画のペネロペ・クルス演じる女は、あまりに意志が強そうで、この女の儚さをリアルに見せすぎる。もちろん、この女を聖女のように描くのは男のエゴであることはわかっている。しかし、本当以上に美しい記憶としてこの女を見せることで、主人公の愚かさも含めて、彼の痛みが明確になる。

 映画はロケーションが素晴らしい。まるで廃墟のような建設中のマンション群の中で、ひっそりと、そのくせ、しっかりと建つ彼女の住む赤い家が、男の隠れ里のように描かれるのがいい。2杯のウォッカにより女をレイプする白昼夢のようなシーンもいい。いい場面がたくさんあるのにそれが全体としては機能しないのが残念だ。

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